「21世紀日本の構想」懇談会
「21世紀日本の構想」懇談会
第5分科会「日本人の未来」第1回会合議事概要
- 1.日時:1999年5月31日(月)18:29〜20:21
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- 2.場所:内閣総理大臣官邸大食堂
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- 3.出席者
(メンバー、敬称略)
- 山崎正和、池内了、落合恵美子、高島肇久、筒井清忠、御厨貴、宮崎裕子、三善晃、向井千秋、鷲田清一、河合隼雄、山本正、船橋洋一
- (政府)
- 小渕内閣総理大臣、鈴木内閣官房副長官、上杉内閣官房副長官
- 4.議題等
- (1)開会
- (2)小渕総理挨拶
- (3)山崎分科会座長挨拶
- (4)討議
- (5)今後の分科会会合について
5.会議の模様
(1)山本幹事が開会を宣した後、小渕総理より挨拶があった。
(2)これを受けて、山崎分科会座長より概要下記の挨拶があった。
- 総理自らが分科会に出席されており、この分科会に対する期待を感じる。我々も熱心に論議してまいりたい。分科会の論議を深める観点から河合座長をはじめ、三善、向井、船橋の各懇談会メンバーの参加は非常に有り難い。また、今回から参加の分科会メンバーにおかれても、忌憚のない意見をお願いしたい。
- 21世紀を考える際に確実に言えることは、人材の問題を考える必要があるということである。今、人材の問題について考えなければ、間違いなく21世紀に支障をきたすことになる。このことを踏まえて、本分科会を、未来の日本人、日本人の未来を語り合う会にしたい。
(3)続けて、山崎分科会座長より、分科会のとり進め方について概要下記の説明があった。
- 本分科会の主要テーマの第一の「世界的人材の育成」については、産業が知的・情緒的な面に移りつつあることを踏まえ、世界標準で仕事のできる日本人をどう育てるか、あるいはそのような人物をどのように処遇しようとするのかといった点について、狭い意味での日本人にとどまらず、これから「日本人」として日本で活躍しようとする外国の人も含めて検討する必要がある。
- 第二の「教育の基礎の再定義」については、社会全体の人的な力、パワーを底上げするという観点から検討する必要があると思う。かつての大平総理の政策研究会においては、初等中等教育の問題は課題としてあまり大きくは取り上げられていない。これは、当時(昭和55年)において、我が国の初等中等教育が十分機能しているとの暗黙の了解があったからだと思う。しかしながら、現在においては、高等教育とともに、初等中等教育においても問題点があると思う。それは、文部省が所管している狭い意味での教育にとどまらず、社会全体の若者の育成能力が落ちているのではないか。例えば、今日の小学生は90秒以上一つの物事に集中できず、新しい話題を常に提供していないと、興味を持てなくなるということが言われているが、このような問題の背景には、様々な原因があるものと考えられ、幅広い観点から考えることが必要になっているのではないか。
- 第三の「社会の品格」については、社会全体を通じての広い意味での文化の核心になる、イマジネーションの力、想像力について検討を行うことが必要ではないか。現代の社会では学校では理性と知性を教え、社会の風俗の中で感性を研ぎ澄ますようにしているが、理性と感性をつなぐ想像力の部分、イマジネーションの部分が不足しているのではないか。この部分は、政府や企業その他の社会の諸団体が支援していくことのできる分野でもあるので、そのことも含め話をしていただきたいと思う。
- 以上は、従来から私が考えているものであるが、これにこだわることなく様々な問題について本分科会で議論してまいりたい。例えば、人材の育成に関して言えば、優れた人材に対する処遇、報酬の問題や少年の法律上の取り扱いの問題、都市の構造やジャーナリズムの問題など、幅広い観点から具体的な対応方策を念頭に置いた論議をお願いする。
(4)以上を踏まえて、メンバーから活発な発言が行われた。主な発言は下記の通り。
【世界的人材の育成】
- 「世界的人材」についてもう少し幅を広げて、いわゆる国際人ということを念頭において言えば、偏見や優越感、劣等感がなく、相互に理解を深めることが出来るということが重要であるが、そのためには外国に行くことは必ずしも必要ではなく、読書や自分の知らないことの探求などにより、人間としての視野を広げることが不可欠である。
- 世界的人材の育成に関しては、50年ぐらいの期間を振り返り、そこに何があって、何が欠けているかをよく見て、その上で必要な施策を構想することが大切。過去に欠けていたと思われるものの一つは、他の分科会の問題かもしれないが、日本が戦後補償を十分行っておらず、ドイツに比べて非常に甘いということである。20世紀に起こった問題は20世紀にある程度片をつけるべきではないかと思う。次に、教育の分野について言うと、日本の教育が基本的に文部省にがんじがらめにされ、教師も我々大人も自分で考えようとしなくなった。これからの教育はこの点を踏まえて、理性と想像力を身につけることにより、自然を理解し、自己以外のものを理解する力を養う教育を目指すことが必要ではないか。また、科学技術分野においては、高度成長の中で短期的な視点に立った効率主義、儲け主義が強くなり、長持ちする技術が変化し、物や施設がすぐ壊れるようになるなど、技術水準が落ちてきている。これからは、50年先の科学や技術を構想した職業人を養成することが重要であり、そういう技術を大切にする社会を作ることが必要である。
- 大学浪人の人たちを見ていると、受験勉強の中で知的なものに飢えている感じがするが、同じ人物と4年後に会うと、見るも無残に知的緊張感がなくなっている。どのようにして意欲を持続させ、大学での勉強につなげていくかが大きな課題である。その一方で、既に卒業した人間が、社会人としての経験を積んだ後でもう一度勉強したいと希望するケースが多くなってきている。このようなことを踏まえて、大学における知育の在り方を考え直す必要があるのではないか。
- 「世界的人材の育成」に関連して言うならば、現代の日本や日本人には国内外の諸状況に主体的に対応するための理念や哲学、それに基づく手段が存在せず、状況に情緒的反応しているだけであり、いわば消費者となっている。今後はこのような状況を改め、日本という観客席から世界という舞台へ登壇することが必要になるが、このためには、世界の状況を自らの現実として読み取り、自らの位置づけ(役割)と言動(台詞)を自己決定(自分で用意)しなければならない。国内の状況に関して言えば、人々は政治や文化などをウインドーショッピングする、イメージの消費者のような立場になっている。例えば、経済の分野についていえば、実体のない電子マネーが万能になり、実体のあるたんす預金が逆に万能でなくなってしまうように、市場原理と庶民的な現実感が分裂してしまっているのではないか。これは、政治や文化、教育についても同様であり、このため価値観がエントロピー状態となって、すべての価値のベクトルが低くなっており、我々の中でモラトリアムが一般化していく。これは、ある種のあいまいな消費態度ではあるが、現代という最大の地殻変動期に自己保存するための自衛の姿とも思う。また、現在ボランティアとか市民参加などがNPOやNGOで、あるいは町おこし運動や福祉・介護活動などで言われおり、そこに参加する人も増えているが、これはこれまでは現象であって、社会構造化されていない。こうした行動を一つの経験とするところまでは行っているが、自己決定の契機とはなっていない。そうなれば、あいまいになっている「市民」や「地域」という言葉の意味が再生産されるのではないか。
- 富国有徳という考え方を人材育成の面で考えると、教養ある人間を日本人として形成していくということであると思う。そしてそのことにより、日本が教養ある国家になると思う。教養には3つのカテゴリーがあるが、第一はある学問の基礎としての教養であり、例えばドイツ史におけるドイツ語、医学における生物学のようなもの。第二は、自分の専門分野以外に幅広く様々なことに精通していることであり、例えば、経済学を勉強している人間が医学や理学を知っているということである。第三は、人文的な教養のことであり、歴史や文学、思想などを身につけることにより、人間性を陶冶していくものである。これら3つのカテゴリーはいずれも重要であるが、例えば、理工系の人間が臓器の移植や宇宙の研究を行う場合に人間に関する深い理解が求められていることなどを踏まえた場合、特に第三のカテゴリーを重視すべきである。このため、若者が古典に親しめる環境を作るとともに、キャンパスに映画・演劇・音楽に親しめる環境を整えることなどにより大学がリベラルアーツを重視することが重要である。また、ビジュアルなメディアの活用により、教養を身につけることが出来るように工夫すべきである。
- 法曹分野について言えば、例えば日米の弁護士の力量は、平均点は日本の弁護士の方が高いかもしれないが、トップのレベルはアメリカの方が上ではないか。日本においては、法曹を志す学生は法学部の教育に余り期待しておらず、○○大学卒業という資格だけを得ることを考えており、大学の授業には出席せずに司法試験の予備校に熱心に通っている者も多い。すなわち、日本の学生は在学中の4年間で大学教育により自らの価値を高めることに希望を持っていなのではないか。これに対してアメリカの場合、ロースクールにアメリカ人以外の学生も多く、また、既に様々な経験を積んだ多様な学生が集まっており、その中で幅の広い考え方にさらされる。また、教授の方も学生に対して真摯に対応しており、カリキュラムも時代性の状況に応じて見直しが図られており、こうした状況の中で、法学教育の向上が図られていると思う。またアメリカでは、ロースクールを優秀な成績で卒業した学生を最高裁判事の下に配置して経験を積ませたり、ホワイトハウスで政策立案に参画させたりしており、若くてもしっかりした、人間的にも尊敬に値する弁護士がいる。以上のことを踏まえ、日本の法学教育、大学教育は早く変わることが必要である。
【教育の基礎の再定義】
- 教育の問題では、幼少時の教育が重要である。人にやられていやなことはしない、ううれしいことはやる、など親による基本的しつけが大切。家庭教育の役割を重視するとともに、学校教育、家庭教育を結び付けることが必要である。
- バーチャルリアリティという言葉に代表されるように、子どもが自然に触れ、様々な体験をする機会が少なくなっているが、このような現状を改めることが必要である。
- 今の子どもはお互い同士、目線を見て話をするのが苦手で、横並びで話をしている。向かい合って議論をするという経験がほとんどないのではないか。
- 今の子どもの親の世代は、こちらからの問いかけにはそつなくうまく答えられるが、皆と同じ結論に達したいという感じが強いのではないか。子育ての問題についても同様で、自分の子どもを見る目も父親と母親が同じだと思っている人が多い。しかしこれでは子どもは息苦しくなるのではないか。
- 子どもが90秒以上集中できないという状況の背景には、映画やテレビが観客・視聴者の関心を引き付ける観点から10秒に1回程度の短時間で次々と場面転換が行われるようになり、これが子どもに刷り込まれ、長時間集中できない原因になっていると思われる。このような新しい環境に子どもがおかれていることを踏まえて、子どもに考える力をどう与えてゆくかを国全体で考えることが必要。また、英語についての基礎的学力、表現力がどれだけあるかをみるTOEFLの成績は、日本の学生がアジアで最低になっているが、このことは日本の大学に入ってくる子どものレベルが低下していることを表している。理解力をつける教育を小学校より下の段階から考えるべきである。
- 大学生より下の段階での相対的な学力の低下とともに、大学4年生は就職活動に追われ、3年生はその準備で勉強どころではなく、大学での教育の意味が希薄になってきている。このため、大学生の就職活動の問題も含めて、幅広い検討が必要である。そのほか、社会のルールを子どもにどう教えるか、新しいふれあいをどう確保するか、検討すべきことは多い。
- 今日の学校は子どもに何でも禁止し、良いことをやってもほめられず、マイナス点が強調されるようになっており、人間としての誇りを持てない状況にあると思う。今の中学校や高校の教育では、子どもの自主性は育たない。この際思い切って、様々な事柄の判断を若い世代に委ねるという態度が必要ではないか。変化の激しい時代の中で、大人自身が未来の方向性を示せなくなっているのだから、若い世代の自主性に委ねて、彼らに試行錯誤させてはどうか。中学や高校は社会に対してはシェルターとなっているのだから、社会に出る前にその中で試行錯誤する経験が重要だと思う。
- 現在は色々な少年事件に見られるように、大人と子どもの境があいまいになっている。近代以前には、今のような子どもというジャンルはなく、子どもも大人と同じように働いていた。近代において学校制度が出来てから、大人と子どもの境界が引かれるようになったが、その境界年齢が徐々に高くなってきて、今や大学生も子どもになっている。ティーンエイジャーは体は大人なのに子ども扱いにしているからフラストレーションが溜まるのであり、子どもの年齢をもっと引き下げることが必要ではないか。また、子どもが働きたいといったら、もっと小さいうちから働かせたらどうだ。義務教育がいやだったら働いてみて、また学校に戻りたければ学校に戻るなどの工夫が必要ではないか。併せて、子どもが先生を選べるような仕組みを考える必要があるのではないか。
- 「教育の基礎の再定義」に関連して、学校、家庭、社会について、坂道ではなく螺旋階段状のぐるぐる回りながら、横から見ると何時の間にか少しずつ上に上がっているようにすることが重要であり、このような観点から学校を再編成すべき。団塊の世代の時は、大人と若者の2項対立で解けた問題が、70年代の中頃からサブカルチャーが細分化したことから、互いに隣の人がやっていることがわからなくなり、それが無関心や引きこもりの蔓延を招いている。現代ではインターネットによる匿名のコミュニケーションチャンスが生まれているが、それによっても真剣な議論とか合意が生まれてこない。従って、人作りの教育という観点からは、自分が存在していることの価値を保証する基本的な承認を家庭、学校、社会が、幼少時に連携して子どもに与えることが必要ではないか。すなわち、出来る、出来ないの教育ではなく、そこにいることの価値を認めるところから何かを発展させる教育が必要ではないか。このような観点から、学制の問題や教職員の裁量の問題、子どもと近い世代による教育、学習指導要領の大綱化、教科書の在り方、教育内容の問題なども考えることが必要ではないか。
- 学級崩壊が言われているが、徳育の問題を解決するためには、教えるものと教えられるものとの間に信頼を回復することが必要。また、教育の現場における言語の在り方も問題であり、子どもが物を知っているかどうかを試すような聞き方は不信を前提としている。「わからないから聞く」、「教えるのはそれを伝えたいからである」という考え方で教育の言語を変える必要があるのではないか。
- 現代社会は家族が極小まで縮小しており、職住分離が進行する中で中間サイズのコミュニティの成立が困難になっている。このため、親と子の関係が閉じたものになっているが、親子だけではなく、祖父母、曾祖父母、赤ちゃんなど複数の世代がそれぞれの考え方や感じ方を触れさせるような場が必要ではないか。イマジネーションというのは、想像力ということとともに、社会生活を構想する力とも考えられる。世代間の社会がバラバラになる中で、もう一度トータルな社会の色々な領域を相互に接触させるような力を養うことが必要。
- 心の教育ということに関して、心の教育とともに体の教育が必要になっている。今の子どもは、生命を維持する根本能力である身体の使用能力が非常に弱くなっていると思う。かつての日本人は身のこなし、身のさばきが非常に器用で、それを芸術や精密な物作りに活かし、文明を支えるような能力にまで鍛え上げてきたが、それが基礎的部分で弱くなっているのではないか。
【社会の品格】
- 日本は日本の方法をクリエーティブに考え出すことが必要である。それを根気よく実践することによって、自信ができるし、その自信が謙虚さを生むのではないか。そしてそれを合わせたものをdignityと考えてよいのではないか。
(5)最後に、山崎分科会座長より、次回以降、具体的な角度を決めて議論を進めて行きたい旨の発言があった。
(文責:「21世紀日本の構想」懇談会担当室。なお、速報のため事後修正の可能性があります。)