「21世紀日本の構想」懇談会

第1章 日本のフロンティアは日本の中にある(総論)

T.日本の巨大な潜在力

 私たち日本人が日本という国の志について語らなくなってから久しい。

 国のあり方や国家像といったことを語るのが、何か気恥ずかしいことであるかのような、時代遅れであるかのような気分が社会に広がってしまった。

 シラケと無関心、そして政治不信と行政不信の時代が続いた。国会、メディアをはじめ政策批判は至る所で聞かれたが、建設的提案は少なかった。国民がそれをするに十分な情報を政府が開示してこなかったということもある。こうしたことも国民の国との距離感を広げる結果となっただろうし、国のあり方を真面目に議論することを妨げてきたかもしれない。

 私たちは今回、「21世紀日本の構想」を世に問うことで、こうした惰性をうち破りたいと念じている。

 この報告書では、日本の志を論ずる。日本はこうあってほしい、日本をこうしなければならないという希望、覚悟を表明する。「21世紀日本の構想」について正面から論じ、問題提起し、いくつかの理念と政策を提言することにする。

 私たちは、切迫した気持ちを共有している。このままでは日本は衰退していくのではないかとの不安を抱いている。それほど、日本を取り巻く環境と日本そのものの環境は厳しさを増している。

 日本の国民は、1990年代に入ってから日本の何かが大きく変わってしまったのではないかと不安を抱いている。経済バブルとその崩壊は経済だけでなく政治や社会、さらには私たちが依って立つ芯ともいえる価値体系や倫理規範を蝕んでしまったのではないかと懸念している。長い歴史の、貧しく、苦しい環境の中で、私たちは社会と組織の和を尊ぶ倫理規範を育んできた。経済社会が豊かになり国際化するにつれ、そうした規範はそのままの形では力を持つことが難しくなってきた。しかしながら私たちは、豊かな社会における倫理観の国民的合意をつくる間もなく、90年代の挫折を経験し、グローバル化の時代になだれ込んでいる。

 阪神・淡路大震災の衝撃もあった。危機に弱く、非効率的で、説明責任を欠く政府(中央、地方を問わず)は、果たして国民の人命と財産を守ることができるのかとの深刻な疑問を国民は抱いた。その後の異様な出来事――例えば、オウム真理教テロ事件や少年A神戸連続児童殺傷事件――は、それまで日本人が誇りとしてきた家族の絆、教育の質、なかでも小学校、中学校の学習作法、社会の安定と安全という根幹が、ボロボロと崩れ始める崩壊感を国民に与えている。

 もっとも、90年代の一連の事件や出来事で劇的に露呈した日本経済社会の硬直性と脆弱性は、それ以前から日本の内部に徐々に、日常的に蓄積しつつあったと見るべきであろう。

 「成功の代償」ということをここでは言おうとしている。

 戦後の日本は、奇跡の復興と驚異の成長を遂げ、瞬く間に経済先進国入りし、西側の一員へと邁進してきた。日本は、平和と安定と繁栄を手にし、維持してきた。国民は総じて、この時代を成功物語の時代として記憶している。それとともに、その間に築き上げられた政治、経済、社会システムも成功モデルとして定着した。それが政治、社会の安定に役立ったことも否定できない。

 にもかかわらず、まさにこうした戦後の日本の成功モデルが、より正確に言うと、そのモデルへの過信が、いまでは日本の活力を殺ぐ結果となっている。その間に生まれた既得権益と社会通念の多くが経済社会を硬直化させ、陳腐化させている。

 そのモデルは、一言で言うと戦後の、いや明治以後の「追いつけ追い越せ」モデルだったと言ってよい。

 それを超えるモデルを日本は探さなければならない。しかし、世界に出来合いのモデルはもはやない。正解を外に求める時代は終わった。世界の多くの社会は同じ課題に直面している。21世紀の世界を覆うであろうグローバル化は、一方で巨大な恩恵をもたらすが、その一方で多くの問題を突きつけるだろう。どの国にとってもそれは同じ挑戦を投げかける。それぞれの国で、さまざまな対応、試みが行われるだろう。高齢化社会の到来についても、似たような状況が生まれるだろう。その挑戦には日本が世界のどの国よりも速く直面する。世界中が日本の実験を見守っている。世界にすぐ役に立つモデルは存在しない。私たちは、世界の多くの例を参考にしつつ、日本の中から解決策を見出していかなければならない。

 そうした時、日本の中に潜む勝れた資質、才能、可能性に光を当て、それを十分に活かし、開花させることが、これまで以上に重要になる。そこにこそ日本の将来のカギが潜んでいる。

 もう一つ考えておかなければならないことがある。

 21世紀は、個人がこれまでとは比較にならないほど力を持ちうる世界になるだろう。インターネットにより、一般の市民が世界にいとも容易にアクセスすることができるようになった。また、NPO(非営利組織)への参加やボランティア活動を通じて、活動範囲も広がった。さまざまなネットワークを通じて、個人の力がみなぎってくる、いわゆるエンパワーメントが浸透しつつある。そうした力を最大限に伸ばすことが大切である。同時にその力を政府と社会の活性化に役立たせるべきである。ネットワークの相乗効果を小乗的な私の増幅だけでなく、大乗的な公の強化にも響かせることが大切である。

 いずれも問題は、現在の日本においては、そうした人材が種々の規制や壁、社会通念に阻まれて十分に活かされていないことである。潜在力が眠ったままに放置されていることである。この巨大なフロンティアを開拓しなければならない。

 日本のフロンティアはいま、日本の中にある。

 21世紀を拓くにあたって、日本および日本人の潜在力を引き出すことを最優先の課題としなければならない。

 どのようにそれを実現するのか。どうしたら個人の力をもっともよく活かすことができるのか。二つの変革の核心を提示したいと思う。

 一つは、国民が国家と関わる方法とシステムを変えることである。

 すなわち、国民が政府に負託し、政府が国民から負託された関係を、あくまでも国民が主体となって担う新たなガバナンス(協治)として確立することである。

 日本は戦後、民主主義を社会の中に定着させてきたが、形の上では変わったものの、中身が変わらなかった部分もある。中でも「上から下へ」、あるいは「官から民へ」という一方通行の意思伝達、権力誇示の回路と組織論は習性のように残った。これを「下」と「上」、または「民」と「官」の緊張感のある契約関係、より対等な関係へと切り替えるということである。政府は国民の代理人である、という意識を国民はもっと持たなければならない。

 もう一つは、市民社会における個と公との関係を再定義し、再構築することである。

 それにはまず、個を確立することである。自由で、自立し、責任感のあるしっかりとした個であり、同時に他者を人間的共感によって抱擁する広がりのある個を解き放つ。そうしたたくましく、しなやかな個が自らの意志で公的な場に参画し、それを押し広げることで、躍動的な公を作り上げていく。このようにして育つ公は、個に対してより多様な選択と機会を与えるだろう。そうしてこそ、より果敢にリスクを取り、先駆的な挑戦に挑み、より創造的で、想像力のある、多様で活力のある個人と社会も登場する。その土台の上にそれを促すための報酬制度や、失敗したときの安全ネットの制度を足場として構築することを考えるべきだろう。

 新たなガバナンスを築き、個を確立し、公を創出するには、これまでの日本の社会では十分に表現の場を与えられてこなかった自立と寛容という二つの精神を育てなければならない。

 自立――たくましく、しなやかな個々人が根付かない社会はもろい。自立した個人の、その一人一人の才能とやる気と決断と倫理観と美意識と知恵が、国の骨格と品格をつくる。未来を形作る。自立の精神があって、個人は潜在力を外に押し出すことができる。

 寛容――それぞれの個々人の特質と才能の違いを認め、それを伸ばし、社会全体としての適材適所をもっともよく実現する寛容の気持ちと包容力を社会は持たなければならない。そうでない社会は干からびる。寛容の精神があって、社会は潜在力を中から引き出すことができる。

U.変革強いる世界の潮流

 21世紀に向かって、世界は大きな挑戦を受けている。20世紀には経験したことのない大きな変化を強いる潮流が、地球の隅々まで押し寄せてきている。その潮流の力の強さも、流れの速さも、20世紀とは比べようもない。

 21世紀の世界の主な潮流は、「グローバル化」「グローバル・リテラシー(国際対話能力)」「情報技術革命」「科学技術の進化」「少子高齢化」である。

【グローバル化】

 グローバル化(グローバリゼーション)はもはやプロセスではない。それはれっきとした現実である。世界の市場とメディアの一体化が進んでいる。人、モノ、カネ、情報、イメージが国境を越えて自由に、大規模に、移動する。国の垣根はますます低くなり、瞬時に世界は影響しあい、地球はぐんぐんと狭くなっている。この流れは21世紀にはさらに加速されるだろう。その結果、経済・科学・学術・教育などのさまざまな面で、制度や基準の汎用性と有用性が世界標準に照らされ、問われ、評価される。いずれの国でも、それまでの制度や慣行を世界的な視点や基準から見直し、再評価し、変えざるをえなくなっていくだろう。制度と基準の大競争時代の到来である。その影響は政治と外交から経済、社会、生活にも及び、国の中だけで完結する「閉ざされたシステム」は空洞化し、疲弊していくだろう。

 グローバル化は、国内的にも、国際的にも多様化を急速に進める。それは、人々にさまざまな選択肢と可能性をもたらし、活力を高める方向へと働くと同時に、異質の物が生の形で触れ合うことで新たな軋轢や紛争の種ともなる。

 日本にとってグローバル化は、そのスピードへの対応、ルールづくりでの発言権、個人のパワーアップなどの多種多様な問題を投げかけている。日本では意思決定は稟議制によるコンセンサス方式で時間がかかり、ルールは明文化されず、以心伝心が尊ばれ、この中で責任は不明瞭となり、個人のアイデアや創造性は十分に活かされてこなかった。

 これではこれからの時代、不利になる。日本の課題は、仕組みもルールも、誰もが参入できるように明示的であり、かつ世界に通用する基準にすることである。説明責任を負い、意思決定過程を透明にしてスピードを速め、個人の知恵やアイデアをもっと大切にし、個人の権限と責任を明確にすることである。先駆的な発想や活動に対して、先例、規制、既得権などの邪魔を許さない、そして、失敗した時にはやり直しや再挑戦ができる社会を育てることである。

 グローバル化はアメリカ化に過ぎない、いや、アメリカ基準の押し付けだとの見方もある。たしかにグローバル化の中で、アメリカは現在圧倒的に有利な立場に立っている。しかし、アメリカといえども、それに伴う国内と世界での所得格差の拡大と、それに対する反発と反感の広がり、反米感情の高まりに直面せざるを得ない。内外で反グローバル化運動や保護主義の動きが高まれば、国際的ルールについての国際的な合意形成を難しくする。日本は、そうしたグローバル化の影の部分にも十分配慮しつつ、光の部分は思い切って使いこなすべきである。それに止まらず、グローバルな制度と基準形成、さらにはルールづくりに向けてより積極的に参画していくべきである。

【グローバル・リテラシー】

 グローバル化は、旧来の制度、慣習、既得権などにとらわれない時代の到来でもある。そこでは、個々人が国境を越えて新たな挑戦に挑む機会が大きく広がる。

 しかし、そのためには情報を瞬時に自在に入手し、理解し、意思を明確に表明できる「世界へアクセスする能力」「世界と対話できる能力」を備えていなければならない。個人がそうした能力、つまり「グローバル・リテラシー」(国際対話能力)を身につけているかどうかは、彼または彼女が21世紀の世界をよりよく生きるかどうかを決めるだろう。国民が「グローバル・リテラシー」をものにしているかどうかは、21世紀の国際政治における国のパワーの増減、さらには興亡をも決めるだろう。「グローバル・リテラシー」の水準の低い国には優秀な人材が寄りつかない。水準が高い国には世界中から人材が集まる、という現象が起こるに違いない。

 この能力の基本は、コンピュータやインターネットといった情報技術を使いこなせることと、国際共通語としての英語を使いこなせることである。こうした「読み書き算盤」に加えて、双方向かつ多数対多数で論議や対話を行う際の表現力、論旨の明快さ、内容の豊かさ、説得力といったコミュニケーションの能力も大切な要素となる。

 日本の現状を考えると、これらの基本能力のどれも不十分である。英語にいたっては、日本は1998年のTOEFL(英語能力試験)でアジアで最下位の成績だった。コミュニケーション能力の欠如は日本人自身が痛切に感じているところである。日本のよさや日本の真実を世界に伝えたいと念じながら、それが思うに任せない気持ちを多くの日本人が持っている。

【情報技術革命】

 情報技術(IT)革命は、第3次産業革命だと言われるほど、人々の生活から社会の制度、国際関係にまで巨大な影響を及ぼしつつある。特にインターネットの発達は、情報の流れを根本的に変え、生活の利便性を向上させ、個人や組織が自らの意思を簡単に広範に瞬時に安価に伝達しうる革命的な手段を提供した。そこでは、国籍、居住地、所属などを問わない「分散化」が急速に進行し、他方で、英語が国際共通語となり、情報と情報技術を支配したものが圧倒的優位に立つという「統合化」も同時進行している。そして、新産業の起業が既存産業を淘汰し、国家の統制が無力となり、個人の直接発言力が増大する中で、情報へのアクセスをめぐる「持てる者」と「持たざる者」の格差がむしろ拡大するという「勝ち組」と「負け組」の「再編化」も進んでいる。同時に、ネットワークが多重に築かれ、女性や社会的な弱者とされた人々の社会的な活躍の機会が広がり、個人の選択肢と自己実現の道が一気に拓ける可能性もある。

 日本の情報技術革命への対応は、米国などと比べるとはるかに遅れている。24時間インターネットに接続したままのコンピュータがどの家庭、学校、機関にも置かれ、きわめて安価に高速で情報にアクセスできるインフラ整備を急がなければならない。使い勝手のよさとコストの安さを保証することは、経済的、社会的弱者にできるだけ早く情報アクセスを保障し、アクセス格差の拡大を予防することになる。

 情報技術の開発、特にソフトの開発や社会での応用技術の開発も必須である。とりわけ日本の場合には、国民の大半が情報技術を使いこなせるように情報技術教育を格段に強化しなければならない。

 情報の流れが飛躍的に大きく、速くなると、政治や行政のあり方、さらには犯罪などの様態も大きく変化していく。情報の保護と開示、表現の自由との兼ね合いなどの新しいルールが必要で、その策定と維持やリスクの管理を中立・公正な主体が政府と分担して行う仕組みを作りあげる必要がある。

【科学技術】

 21世紀には、科学技術がさらに急進展し、さらに巨大化し、さらに人間の存在の芯の部分までを変える可能性が生まれてくるだろう。それに伴い文明的な進化も進み、人々の生活はより豊かで、便利なものとなっていくだろう。

 だが、同時に、何のための科学技術開発かという根源的な問いがこれまで以上に聞かれ、政治においても大きな課題となるだろう。

 例えば、生命科学やバイオテクノロジーは、新たな可能性とともに、倫理や価値観に関わる新たな試練を人類にもたらしている。人間の欲望を充足させる手段であったはずの科学技術が、人間の欲望そのものを作り出し、逆に欲望に振り回される事態にまでなりかねない。一歩間違うとそれは人間を切り刻んで部品を取り換えるような医療や生態系を破壊する科学と産業を生み出しかねない。

 原子力をはじめとする巨大技術の制御と安全もまた文明社会に大きな挑戦を投げかけるだろう。エネルギー消費の40%以上を原発に頼り、将来はさらにその依存度を高めるであろう日本にとって、それはエネルギーの安全保障に止まらず、人間の安全保障であり、文明の安全保障でもある。科学技術によって、人間の存在と尊厳がさらに試されることになるだろう。

 21世紀の科学技術は、自然を征服するというものではなく、人間も自然の一部との意識を持ちながら、モノだけでなく心も豊かな生活を支えていくものにしていかなければならない。

【少子高齢化】

 少子高齢化は、多くの先進諸国が直面する課題である。特に、高齢化の進展は避けがたく、経済成長の足を引っ張り、社会的コストを押し上げ、世界経済の持続的発展や富の配分にも大きな影響を及ぼすことが懸念される。少子化には政策的な対応も考えられるが、少子化が進む限り、高齢人口の相対比は上がり、高齢化に拍車がかかることは間違いない。

 少子高齢化がどこよりも速く進んでいる国が日本である。2015年頃には4人に1人、21世紀半ば頃には3人に1人が65歳以上となるとされている。日本の高齢化対策を世界が注目する所以である。総人口は2007年に約1億2800万人とピークに達した後に減少に転じ、21世紀半ば頃には1億人を切り、21世紀末には半分近くまで減少すると予測されている。

 少子高齢化が日本の社会や経済に及ぼす変化は大きい。確実に高齢者の比率が高まり若年層が減少するなかで、若年層の意見をどこまで政治に反映できるのか、コストをめぐる世代間の利害対立をどのように調整するのか、社会の活力をどのようにして維持していくのか、といった課題を突きつけられるだろう。

 その際、社会保障制度をどこまで、どのように続けていくことができるのか。高齢者の自立はいかにして確保されるのか、社会の安全ネットはどの水準まで維持可能なのか、若い世代だけが高齢者を支えるべきなのか、といった論議が避けられない。しかも、資源は有限であり、成長分野の影には衰退分野が、給付の裏には負担がある。

 現在、各方面で聞かれる日本衰退論や日本悲観論の多くは、日本の少子高齢化が社会の活力を萎えさせてしまうだろうとの推測を前提にしている。

 しかし、ここでも再び、日本の社会に眠っている潜在力を最大限引き出すことで乗り切っていくことを考えるべきだ。例えば、女性の社会と労働への大規模な参画の機会を制度的に促すことである。外国人の受け入れも一つの重要な選択肢となるだろう。

 高齢化は、それ自体がマイナスではない。高齢化社会を暗い、精気のない、お荷物だけの社会ととらえるのは間違いである。そうではなくて、世代・男女・国籍を問わずに、人生のそれぞれのライフ・ステージに応じて、誰もがその時期に適した充実した人生を営む、そうした成熟した社会を築いていく視点と発想の転換が必要である。高齢化もそのライフ・ステージの一つのあり方として位置づけるべきである。

V.何が問われているのか

 日本は、こうしたいくつかの大きな潮流がもたらす挑戦を受けて立たなければならない。それを乗り切るためには、国民一人一人の先駆性を伸ばし、潜在力を引き出さなければならない。それにはさまざまな変革が必要になる。その変革の核心は冒頭でも触れたように、国民が社会と関わる方法と仕組みを変えることであり、社会における個と公との関係を再定義し、再構築することである。

1.統治からガバナンス(協治)へ

 今までの日本社会では、社会の統治の問題が正面から問われる機会は限られていた。それは、国・官・組織を常に優先し、社会全体が一丸となって進んできたからである。その中では、「公(おおやけ)」は「官」とほぼ同義となり、「公」は「お上」が決めるものとされてきた。また、国民も、「お上」が決める「公」を受け入れ、むしろ、それに頼ってきた。

 日本では長い間、「上から下へ」、あるいは「官から民へ」という官尊民卑型の統治のイメージが横溢してきた。しかし、国民が政府に負託し、政府は国民に負託されるという両者の間のある種の契約的な緊張関係を含意とする「ガバナンス」はイメージを結びにくかった。また、自発的な個人によって担われる多元的な社会で、自己責任で行動する個人とさまざまな主体が協同して、これまでとは異なる「公」を創出していくような「ガバナンス」はイメージから遠かった。

 国民、個々人は様々な組織や機関に託して自己実現を図るが、果して、その託し、託される仕組みは十分に機能しているのか、参画の機会は公正か、平等か、ルールは明確か、託す側の権利は十分に確保されているか、自己実現は十分に達成されているか、託された側は十分に期待に応えているか、それをどう評価するのか、託す側と託された側の対話と情報伝搬は双方向に行われているのか――そういった本来のガバナンスの性格と質が根幹から問われてきたことは少なかったのである。そのことは、ガバナンスを表現するのにふさわしい日本語がこれまで生み出されてこなかったことに、象徴的に示されている。

 しかし、上記のようなさまざまな挑戦を受けて立つには、日本は、本来の、しかし日本にとっては新しいガバナンスを築き、成熟させていかなければならない。

 そこでは、政府にせよ、企業にせよ、大学にせよ、NGO(非政府組織)にせよ、個人と組織の間の新しいルールと仕組みが必要となる。ルールを明示し、一部の利害や思惑による政策の歪みを防ぎ、効率的で公平な公共サービスを提供できるように、情報の公開と共有、選択肢の提示、透明で合理的な意志決定、決定された政策の確実な実行、事後の評価と政策の見直しが必要となっている。つまりは、一方的な支配を前提とせず、ルールと責任原則にもとづき、双方向の合意形成を基礎とした協同作業を積み重ねていくことである。

 こうした新しいガバナンスは、従来の統治という言葉では捉えきれない。ガバナンスの一側面として従来の統治のすべてを否定するものではないが、ここではあえて、この新しいガバナンスを「協治」と呼んでみたい。

2.個の確立と新しい公の創出

 20世紀が「組織の世紀」だったとすれば、21世紀は「個人の世紀」となるだろう。それとともに、20世紀までの日本の歴史に常に重くのしかかってきた物質的「欠乏」から、国民は基本的に解放されるだろう。これまではごく少数の人々にしか与えられなかった個人の自由とパワーが、国民の大多数の手に入る可能性が拓けてくるに違いない。

 そうであればあるほど、各人が自分の個をしっかりと確立することが大切となる。新たな創造の花が開くには、多様な異なる個性が存在していなければならない。それらが切磋琢磨し、その中から共存のルールを築いて、社会を築いていくのである。しかし、社会と国家の望ましい将来像をどのように描くにしろ、主体はあくまで個人であり、またそうでなければならない。

 ところで、日本人は長らく「イエ(家)」を自分の存在の基礎に置いてきた。血縁を第一とするのではなく、家名の存続を第一と考えてきた。人間は、何らかの意味で永続性を持つものとつながりを持たぬ限り不安に陥るので、これもひとつの工夫ではあったが、このために個人の自由は制限されることとなった。戦後は、自由主義の強い力によって、日本の古い「イエ」は崩壊したかのごとく見えたが、日本人は知らず知らずのうちに「代理イエ」を作った。その典型が「カイシャ(会社)」である。ほかにも多くの「代理イエ」が発生し、それに所属することで満足し、忠勤を励み、その永続性を信じて安心を得るパターンが広く認められてきた。そして「代理イエ」も、いったん所属すると、その全体の和が最重要とされ、やはり個人の自由を束縛した。

 こうした、所属する場の和を第一に考える日本人の傾向は、先進国のなかでは貧富の差が少なく、比較的安全性の高い国を生み出すという利点を持った。しかし、個人の能力や創造力を存分に発揮させる場としてはむしろ足かせとなってきた。

 グローバル化や情報化の潮流の中で多様性が基本となる21世紀には、日本人が個を確立し、しっかりとした個性を持っていることが大前提となる。このとき、ここで求められている個は、まず何よりも、自由に、自己責任で行動し、自立して自らを支える個である。自分の責任でリスクを負って、自分の目指すものに先駆的に挑戦する「たくましく、しなやかな個」である。

 そうした個が自由で自発的な活動を繰り広げ、社会に参画し、より成熟したガバナンス(協治)を築きあげていくと、そこには新しい公が創出されてくる。

 ここでいう公は、「お上」や「官」に一方的に決められ、強いられてきた従来の「公共」や「公益」と称するものではない。それは、個人を基盤に力を合わせて共に生み出す新たな公である。自分の所属する場にとらわれず、自分の意思で、意識的に社会へ関わり合うことで新たに創出されてくる公である。多様な他者の存在を許し、思いやり、他者も支える公である。同時に、合意が形成された場合には、自分が従うべき公でもある。

 この新しい公は個の自発性と自由な発想や行動に支えられているので、この公の実現を通じて、個はお互いを認めあい、自らの評価を知り、個の自己実現を達成していくことができる。言葉を換えれば、個が自立し自由であってこそ、新しい公の創出が可能となり、新しい公が創出されるなかで、個は自らの存在基盤を確かめ、主体性を発揮していくことも可能となる。

 先の阪神・淡路大震災の際、多くのボランティア、特に数多くの若者が被災者の支援に駆けつけた。感動的な出来事であった。そこでは、多くの人々が自分の所属する場の外にまで関わっていったことで、日本人の新しい公の創出が起こり、個人の意思としての公の意識が発生した。

 個の確立が公を創出し、公の創出がより大きな選択と機会を個に与える共鳴効果が、社会に新しいガバナンス(協治)を生みだす。そうしたガバナンスが、個人の潜在力をよりよく引き出し、その自己実現のフロンティアを広げるのである。

W.21世紀日本のフロンティア

 それでは変革によって切り拓く、21世紀日本のフロンティアはどこにあるのだろうか。日本の中のフロンティアをどのように開拓すべきなのか。

 第2章以下に各分野別にさまざまな提言がなされているので、それらも通読していただきたいが、ここでは、分野横断的に、新しい機軸となるものを特記しておきたい。

1.先駆性を活かす

 21世紀を動かす原動力は、個人であり、個人の先駆性である。創意工夫にあふれ、リスクを恐れず未知の世界に挑戦し、使命感と情熱をもって最先端の仕事を成し遂げようとする個人の先駆性がモノを言う。

 それを育てるには、社会に先駆性を発揮させ、それを歓迎する気風と仕組みが根付いていなければならない。

 残念ながら、日本の社会には個人が先駆性を発揮するのをよしとしないきらいがある。日本人のもつ絶対的とも言える平等感と深く関わるが、「結果の平等」ばかりを問い、縦割り組織、横並び意識の中で、“出る杭”は打たれ続けてきた。「結果の平等」を求めすぎた挙句、「機会の不平等」を生んできた。

 21世紀の日本では、先駆性を持ち創造的なアイデアを持った人々をもっと正当に評価するようにしたい。そうした人たちの挑戦と活躍で未来が開けるからである。その過程では、リスクを負って先駆性を発揮した人々の努力が、十分に報われるようにすることが肝心である。「結果の平等」に別れを告げ、「新しい公平」を導入するべきである。個人の能力や才能には差異と格差があることを前提とした上で、業績や将来性を評価する「公正な格差」ともいうべき考え方である。

 そして、起業家精神と冒険魂を尊び、挑戦者に機会を与え、個人と社会がリスクを取る精神を培う、そうした創造性の原液の貯水池をつくらなければいけない。個人が自分のビジネスを立ち上げる環境をもっと整える必要がある。

 そうした機会は誰に対しても平等に保障されなくてはならない。「機会の平等」が保証されなくてはならない。同時に、「やり直しがきく」仕組みをつくることも重要である。一度の失敗でその後の人生を棒にふるようなことになっては挑戦しようと思ってもくじけてしまうかもしれない。かと言って、挑戦してもしなくても同じということでは無理して挑戦するのはやめようと降りてしまうかもしれない。このバランスが難しいところだが、継続学習・継続訓練など、失敗した個人がもう一度自分の能力を高めて再挑戦できる機会を広げることが大切だ。

(1)教育を転換する

 個人と社会の潜在力を引き出し、先駆性を育て、伸ばす教育を重視するには、教育の均質性と画一性を打破しなければならない。

 そのためには広義の教育、つまり人材育成のあり方を根本から問い直すことが不可避である。明治以降の近代化のためにつくられた今の制度の骨格をそのままにし、それに手を加えるといった発想では事足りない。

 広義の教育における国の役割は二つある。一つは、主権者や社会の構成員として生活していく上で必要な知識や能力を身につけることを義務づけるものであり、もう一つは、自由な個人が自己実現の手段を身につけることへのサービスである。つまり、「義務として強制する教育」と「サービスとして行う教育」である。

 現在の日本の教育では、この二つの教育が混同され、授業内容についていけない子どもには過大な負担を与えながら、それを消化してより広く好奇心を満たしたい子どもには足踏みを強いる結果を招いている。そこで、21世紀にあっては、これまで混同されてきた二つの教育を峻別し、「義務としての教育」は最小限のものとして厳正かつ強力に行う一方、「サービスとしての教育」は市場の役割にゆだね、国はあくまでも間接的な支援を行うことにすべきである。

 例えば、初等中等教育では、教育の内容を精選して現在の5分の3程度まで圧縮し、週3日を「義務としての教育」にあて、残りの2日は、「義務としての教育」の修得が十分でない子どもには補習をし、修得した子どもには、学術、芸術、スポーツなどの教養、専門的な職業教育などを自由に選ばせ、国が給付するクーポンで、学校でもそれ以外の民間の機関でも履修できるようにすることが考えられる。

 教育は、家庭、地域、学校の三者の共同作業である。しかし、近年、家庭と地域の教育機能が目立って低下してきた。家庭におけるしつけや訓練の重要性を改めて共通認識として持つことが必要である。子どもの教育、行動についての第一義的な責任は保護者にあることを明確にすべきである。

 高等教育では、世界標準で仕事ができる人材を輩出するために、大学などの教育機関自体の国際競争力を向上させることである。そのためには、機関の設置や運営をできるだけ自由にし、教育・研究の場の国際化を含め、競争的な環境をできるだけ取り入れていくことである。例えば、大学・学部などの設置規制の撤廃、教育・研究活動についての業績評価、授業や研究言語としての英語の使用、外国人教員の積極的採用などが考えられる。

 また、メディカル・スクールやロー・スクールなど、医師や弁護士などの専門的能力を高めるための教育機能を充実させる必要がある。

 日本への留学生は、1990年代に入って伸びが鈍化し、さらには一時的に前年に比べて減少する傾向にある。21世紀初頭に受入人数を10万人にしようとの計画は実現不可能である。これについては多くのことが言われ、またいくつかの環境改善策もとられてきているが、根底には日本の高等教育の国際競争力の低下と魅力の減退がある。そこに抜本的なメスを入れない限り、留学生政策は実らないだろう。

(2)グローバル・リテラシーを確立する

 グローバル化と情報化が急速に進行する中では、先駆性は世界に通用するレベルでなければいけない。そのためには、情報技術を使いこなすことに加え、英語の実用能力を日本人が身につけることが不可欠である。

 ここで言う英語は、単なる外国語の一つではない。それは、国際共通語としての英語である。グローバルに情報を入手し、意思を表明し、取引をし、共同作業するために必須とされる最低限の道具である。もちろん、私たちの母語である日本語は日本の文化と伝統を継承する基であるし、他の言語を学ぶことも大いに推奨されるべきである。しかし、国際共通語としての英語を身につけることは、世界を知り、世界にアクセスするもっとも基本的な能力を身につけることである。

 それには、社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするといった具体的な到達目標を設定する必要がある。その上で、学年にとらわれない修得レベル別のクラス編成、英語教員の力量の客観的な評価や研修の充実、外国人教員の思い切った拡充、英語授業の外国語学校への委託などを考えるべきである。それとともに、国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での作成を義務付けることを考えるべきだ。

 長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的論議を必要とする。まずは、英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない。

 これは単なる外国語教育問題ではない。日本の戦略課題としてとらえるべき問題である。

2.多様性を力とする

 21世紀には、情報技術革命で、情報や選択肢が大幅に増え、個人が自由に発信し、新しいネットワークが誕生し、教育、仕事、生活、居住空間、生活時間などは大きく変化していくだろう。また、少子高齢化のなかで、ニーズは多様化し、家族の姿や世代間の関係も変化していくに違いない。さらに、グローバル化の中で、人の移動が増大し、日本に在住する外国人の数は増え、異文化との接触や交流が深まるだろう。こうしたなかでは、国や企業の姿、社会、男女の役割、暮らしや文化、さらには「生き甲斐」の形なども変わり、ボランティアやNPOへの自発的な参画による個人の自己実現の場も増えていくことは確実である。

 それとともに、社会は分散ネットワーク型に移行し、個人の選択の幅は格段に広がる。多様な組織、ネットワーク、活動などいくつも複数のネットワークに所属し、自己実現をはかることになるだろう。人の一生もこれまで以上に多様化する。

 過去、日本は同質性を前提として社会の仕組みをつくってきた。しかし、多様化の時代には、違いを認め合い、それを積極的に組み込む社会の仕組みが不可欠である。つまり、選択の幅をひろげることである。社会にさまざまな選択肢が用意され、多様な国民にさまざまな選択の機会が保証されていることである。

 多様性を尊ぶことは、個人の自由を尊ぶことである。自由であるためには、責任が求められる。ここでは「自由と責任の均衡」という民主主義社会の基本原則がさらに貫かれることになるだろう。

(1)自ら生涯を設計する

 日本人の人生は、教育を受けて知識の吸収に専念する時代、仕事や育児にたずさわる時代、文字どおり後に残された生活である老後と、大きく輪切りにされている。

 しかし、元来、自己を実現していく上では、人生は一貫したものであるべきである。そして、個人が、男女の別なく、年齢を問わず、人生のその時々のステージ(ライフ・ステージ)で、自分のニーズにもっとも合ったライフ・スタイルを自由に選択ができるのが望ましい。

 それを可能にするには、教育、雇用、育児、社会での継続学習・継続訓練、医療・介護・年金といった社会保障、経済活性化策などを一体のものとした総合政策が考えられなければならない。できることなら高給付・低負担がいい、というのが自然な気持ちかもしれないが、それは持続不可能である。だから、負担と給付の関係を明示し、政策の選択肢をわかりやすく提示した上で、それぞれがどのようなステージ・プランを望むか、個人がめいめい設計できるようにする。

 必要最小限の水準の社会保障は国や公的機関によって確保されることも欠かせない。しかし、それ以上のものは個人が多様な選択肢の中から主体的に選択して、自立的に生きることを支えるようなものとすべきである。「就職」が「就社」を意味した時代は終わりつつある。職場は変わっても、生涯を通じて、能力が正当に評価され、やりがいのある仕事ができ、多様な雇用形態が選べ、能力開発や再挑戦の機会も提供されているようにならなければならない。年金は、各人が自分の生涯設計に応じて選び、人生のある時期に拠出したものを高齢期に受け取れるという考え方が重要となってくる。また、高齢者介護の選択肢とともに、病気予防や保健サービスの選択肢を増やすことなども必要となっていくだろう。

 社会から不安がなくなることはない。個人の不安も消えることはない。それをなくそうと退治するのではなく、それと共存し、それをバネとして新しい領域を開拓していこうとするくらいの心の持ち方が要る。

(2)地域は自治で自立する

 これまでの中央と地域の関係は、富を中央が地方に「あまねく公平」に分配する中央集権型であった。国土の開発や社会資本の整備は、いわば、地域に対する所得保障の機能を持ち、これが逆に、個性のない地域、脆弱な都市を生んできた。中央からの資金の移転によって財政支出と歳入の差が穴埋めされる現在の仕組みでは、地域の財政健全化はなく、自立もない。

 人々が多様な価値の実現を実感していく上で、21世紀には、暮らしの場としての地域にも多様性が満ちていることが不可欠である。そのためには、中央政府の権限を知事や市町村長に移管するという地方分権の発想ではなく、地域住民が地域の政府のあり方を自分で決められる仕組みをつくり出すことが必要である。

 それには、まず、中央と地域が水平的な関係に立つことである。地域独自の課題においては、サービスと負担の兼ね合いを地域の住民が選択できる本来の「自治」の確立が求められる。このため、地域の政府は自己責任で自立しうる規模とし、地域の財源については、中央の税源を地域に移管するという考え方をさらに進めて、地域の歳出に充てられる税や地方債は地域で独自に決めるようにすべきである。地域の政府の再建や合併のルールを整えることも必要である。そして、地域における行政は、最大限の住民参加を確保し、行政の裁量を限定し、迅速な執行を可能にする仕組とするべきである。

 一方、中央政府の役割は、ナショナル・ミニマムの確保など、真に全国的な見地から実施すべき分野に限定し、自前で実行できる体制を整えるべきである。

(3)非営利民間セクターを立ちあげる

 社会のニーズが多様になっていく21世紀には、そうしたニーズに応えていく主体も、活動も多様であることが要請される。そこで、国や地方自治体、企業が担う公益活動の範囲は限られているとの前提のもと、市民の自発的な参画による公益活動を拡充し、社会の自助の仕組みを強めていくことが不可欠である。これを担う主体が民間の非営利公益法人であり、その総体としての非営利民間セクターである。

 ここでは、特に、民法34条に基づく「公益法人」(社団法人・財団法人)と、特定非営利活動促進法にもとづく「NPO法人」に注目しておきたい。それらはともに、不特定多数の人々の利益(公益)の実現を目的としているからである。

 現行制度では、公益法人の設立には主務官庁の許可が必要で、寄付免税の優遇措置を得られる特定公益増進法人の資格取得にも主務官庁の認定が必要である。つまり、何を公益とするかの認定は行政の裁量に任されている。他方、NPO法人は、形式要件さえ満たせば設立できるようになったが、これへの寄付には免税の優遇措置がない。

 21世紀には公益の実現にはそれに関わる人々の意思が反映され、その評価は社会が行い、非営利民間セクター総体が自力で成長できる仕組みに転換すべきである。

 そのためには、まず、非営利法人の設立は一本化して登録制で十分とし、寄付免税の優遇資格は中立公正で民主的な第三者機関で統一的に審査する透明な制度の確立が不可欠である。これにより、公益の認定は行政の裁量から切り離され、非営利公益法人には、説明責任と公益と認められるにふさわしい活動への自助努力が求められることになる。同時に、寄付免税枠を大幅に拡大して、個人や企業には、自分の所得の一部を税金として払うのか、寄付金として自分の意思で使途を決めるのかといった選択肢を用意し、積極的かつ自主的な公益への参画に道を開く必要がある。

(4)移民政策へ踏み出す

 日本に居住する外国人の数は総人口の1.2%を超えた。居住外国人のうちでは、新たに目的をもって来日した外国人の割合が65%に上る。とは言え、外国人の総人口比は先進国では決して高くなく、日本では「定住外国人政策」が「出入国管理政策」の一環で考えられてきたものの、法的地位、生活環境、人権、居住支援などが総合的に勘案された外国人政策は未発達のままで来た。

 しかし、グローバル化に積極的に対応し、日本の活力を維持していくためには、21世紀には、多くの外国人が普通に、快適に日本で暮らせる総合的な環境を作ることが不可避である。一言で言えば、外国人が日本に住み、働いてみたいと思うような「移民政策」をつくることである。国内を民族的にも多様化していくことは、日本の知的創造力の幅を広げ、社会の活力と国際競争力を高めることになりうる。

 ただ、一気に門戸を開放し、自由に外国人の移住を図るのは望ましくない。日本社会の発展への寄与を期待できる外国人の移住・永住を促進する、より明示的な移住・永住制度を設けるべきである。そして、日本で学び、研究している留学生に対しては、日本の高校・大学・大学院を修了した時点で、自動的に永住権が取得できる優遇策を考えるべきである。

3.ガバナンス(協治)を築く

 グローバル化、情報化、多様化のなかでは、政策課題は多様化、複雑化し、最適の政策を見つけ出すことが難しくなっていく。また、人々の利害は対立しやすく、公をめぐる合意の形成も困難となっていく。そうした困難を乗り越え、個人の潜在力を引き出し、協同して公を創出していくには、時代にふさわしいルールと開かれた仕組みが必要とされる。新たなガバナンス(協治)が不可欠となる。

 こうしたルール、開かれた仕組み、協治の実現のためには、政治・行政・司法のすべての見直しが不可避である。

 政治の活性化がまず図られねばならない。

 それには政治家の活性化が欠かせない。個々の政治家には、構想力と表現力、そして国際的対話能力を求めたい。多彩な政策の選択肢のうち「何が可能か」を察知し、それに向けて情熱的に突破し、心に響く自分の言葉で語りかけることができるコミュニケーターとしての才能、さらに外国の指導者と十分に意志疎通を図り、信頼関係を結ぶことのできる能力がほしい。政治家に、公を担うという気概と倫理観、そして責任感が求められることは言うまでもない。政治家への信頼なしに、また政治家の努力なしに、協治は根付かない。

 選挙を祭りごと(政りごと)として活性化することも重要である。若い人を巻き込まなくてはならない。選挙権年齢を引き下げて若年層の意見が政治に反映する機会を増やし、政策の選択肢を増強して立法機能を高め、政治や政党の透明性を増して国民の政治離れを食い止めねばならない。

 行政では、政府の役割を厳選し、情報開示、説明責任、透明な政策決定と実行、政策評価などを基本原則とする方向で、行政のマネージメントの抜本的な改革が不可欠である。また、危機への対処に象徴されるように、常日頃からさまざまな主体が連携する仕組みの確立も必要である。公務員については、協治の中で本来期待されている役割をきちんと果すことが求めれられる。

 司法のもつ調停、裁定機能は格段に強化する必要がある。質量ともに司法機能を高め、処理を速め、国民に身近な開かれたサービスが求められる。

 なお、協治を築く上での基本は、民間にあっても同じである。例えば、医師、弁護士、資産管理者のような専門的な知識やサービスを提供する側には必ず説明責任が求められる。特に、個人の生命や財産に関わるようなサービスを提供する際にはそうである。第三者評価の充実など、こうした専門家の評価を適切にできる仕組みを社会が持つことが欠かせない。

 グローバリゼーション時代の情報洪水の中で、ジャーナリズムが果たす役割と責任はこれまで以上に大きく、重い。情報のふるい分けと重要度の判断、人権の擁護、政策提言、国際ネットワークの拡大、日本からの情報発信など、従来の国民に対する啓蒙、権力監視、政策批判機能に加えて、新たな役割がジャーナリズムに期待されている。記者クラブ制度依存のような閉鎖性から脱却し、自律的な評価・相互批判の仕組みを自ら確立するなど、ジャーナリズムにも協治の重要な担い手となることが求められる。

(1)政策選択を多様化し透明化する

 より多様な政策選択肢を提示するには、官庁に頼らずに政策立案ができるよう議員の立法能力を増強することが根幹である。それを支援する政策立案主体を多様化し、増強していくことが必要である。例えば、議員の政策スタッフを充実し、国会付属の調査機関を拡充し、政党のシンクタンク機能を強化し、大学・民間シンクタンク・NPOなどの政策提案機能を増強し、これらが共同作業を行うことである。日本の大学や民間非営利シンクタンクでの政策研究は弱体で、国際的にも微力であるので、抜本的な強化策が求められる。こうしたさまざまなシンクタンク、研究機関から、民間の人材を幅広く議会、内閣、官庁、国際機関に政策立案者やスタッフとして登用し、思い切った人材交流を計るべきである。

 最近、政策立案・政策決定が政治主導に転換しつつあるのは望ましい動きである。同時に、政治主導であればそれに伴う特別の説明責任を伴うことも強調しておきたい。政治主導の説明責任は、選挙の洗礼という形で国民の評価にさらされることは当然であるが、政治家による個別利益誘導を防ぐ仕組みの確立や、政党の情報開示や監査制度の確立なども必要である。政治にも、政党にも、個々の政治家にも透明性の確保は常に課題である。

 また、将来世代へ負担の先送りするような問題は、 現世代の代表者による調整では最善な結果を選びにくい。例えば、財政赤字の管理などは、専門知識を有する人材を広く求め、中長期的視点から透明なプロセスで、個別の政治的利害から中立的に企画・立案する仕組みの確立が必要である。

(2)選挙権を18歳に

 国民の政策選択結果を公平に選挙に反映させ、国民の政治離れを防ぐ工夫が必要である。あらかじめルールを明示して、常に問題となる議員定数の不平等を定期的に自動修正できるようにすることは、国民の政治への信頼を回復する第一歩だろう。首相公選制の是非なども中長期的な課題として論議を始めるべきである。

 ここでは、選挙権を現行の20歳から18歳に引き下げることを提言したい。18歳は社会的成人と見なして十分と考えるからである。

 実際、世界170ヵ国の92%にあたる156ヵ国で、選挙権はすでに18歳かそれ以下とされ、先進国で20歳を維持しているのは日本だけである。国内でも、高卒者の2割以上が就労しており、自衛隊の入隊資格も18歳以上である。

 少子高齢化の中では、高齢有権者の比率が若年有権者の比率を大きく上回っていく。また、年金問題のように、世代間の利害対立も厳しくなる。若い人たちの声をこれまで以上に謙虚に聞かなければならないし、彼らの声を政治に反映させるべく、さらに努力しなければならない。18歳以上に選挙民の層を広げることで、約350万人の新有権者を迎え入れることになる。それは、若年層に止まらず高齢層も政治的に活性化させ、国民的な政治への参画意識を高めることになるだろう。当然の事ながら、この引き下げに伴い被選挙権年齢の引下げや、民法や少年法などとの整合性も考慮されねばならない。

(3)政府の役割を絞り込む

 個人の自己責任を基本とし、その選択肢を多様化する以上、政府の役割も変わってくる。政府の役割は厳選されなければならない。それは単なるスリム化であってはならず、政府の効率を向上させ、国民へのサービスの水準と質の向上を目指すものでなければならない。ここでの大原則は、「民間ができないことのみを政府がやる」ことである。

 政府による国民へのサービスの向上のためには、情報開示、説明責任原則、政策評価などが実効性のあるものとならなければならない。この点で、見直しの根幹をなすのは、行政のマネージメントの抜本的改革である。

 政府の財政状況が明らかになるような公会計制度の確立、政策目標別の予算配分、政策評価結果を柔軟に歳出に反映する仕組みの導入により、行政が予算などの行政資源を政策目標のためにいかに効率的に使ったかを問うことに重点をおくべきである。

 また、政府の役割が厳選されるなかで、必ず最後まで残る国内的役割に、災害、事故、環境悪化から国民の生活を守ることがある。しかし、これとても、政府だけでは担えない時代に向かっている。どんなに努力をしてみても、絶対に安全ということはない。また、阪神・淡路大震災で経験したように、高度に発展した社会では、緊急時に政府が必要なサービスをあまねく提供することも不可能である。危機管理には、政府が必要な対策を立法も含めて行うことは当然であるが、危険に関する情報をあらかじめ十分に公開し、政府・自治体・企業・地域コミュニティー・NPOなどが事前対策と事後対策を共に練り、協同して危機を管理する仕組みと強固な連携(パートナーシップ)が鍵となる。

(4)ルールにもとづく

 国際的に開かれ、多様な個人の活力が十分に発揮されるには、ルールを明示し、利害対立に解答を見出していくことが重要になる。これまでのように、行政がその場その場で利害を調整したり、民間相互の閉鎖的で不透明なルールに頼るべきではない。司法の機能を国民に身近で、利用しやすいものにし、国際的にも通用するものにすることが不可欠である。グローバル化のなかでは、司法サービスの競争力が国の活力にも大きな影響を与えるようになってきている。

 求められるのは、これまでとは比較にならないほど高い水準の司法の機能とサービスである。21世紀に向けては、まず、法曹人口を大幅に増大させるべきである。あらかじめ上限の人数枠を設けるようなことはせず、規制を緩和して、弁護士間の競争を促進し、法律相談などの業務に弁護士以外の者の参入を認め、他の職種の社会人でも容易に資格が取得できるようにすべきである。また、便利に、迅速に、安価に紛争を処理できるよう、紛争処理手続きの多様化も必要である。裁定に至るまでの時間を大幅に短縮できるよう、専門家を含めた参審制の導入や裁判所の事務効率化も望まれる。

 政府の規制も、これまでのように事前に規制するのではなく、ルールを明らかにした上で民間の自由な活動に委ね、ルールに反した場合には、事後的な措置で処理していくことが重要となる。事後的な規制措置が実効的に発動できるようにするには、準司法的な機関(公正取引委員会、証券取引等監視委員会など)の行政上の機能を強化し、事後規制がどのような場合に発動されるかを国民が予測できるように明示することが求められる。透明な手続きで策定された政策が、一部の利害関係者によって歪められたり、たなざらしになることのないよう、制度的な裏打ちが必要である。

4.「開かれた国益」を求める

 21世紀、グローバル化や情報化が一気に進むにつれ、地球はさらに小さくなり、世界はもっと身近なものとなっていく。インターネットを活用した個人の国際的なコミュニケーション空間が絶え間なく広がり、それを基とした新しいネットワークが網目のように地球を覆う。人、もの、資金の移動は留まる所を知らない。国際的な相互依存はいっそう深まり、どこまでが「国際」でどこからが「国内」かも不明瞭になるほど、両者は連続的につながる。そうした中、日本で暮らしながら世界で暮らしている実感を多くの人が持つようになるだろう。

 その一方で、国際的な利害関係はより入り組み、複雑になり、国際的な合意形成や調整もより難しくなるだろう。相互依存が深まれば深まるほど、紛争も起きやすくなる。同時に、民族、宗教紛争などの紛争やそれに伴う武力行使は、その規模は限られているとしても今後とも続くだろう。それらは経済的な利害対立に比べて、はるかに厄介で、持続的な平和の土台を心の奥底から掘り崩してしまう。21世紀にはまた、グローバリゼーションの潮流に取り残された社会では、その反動がさまざまな紛争の形で噴き出す危険も強い。

 そういう状況の下では、日本が国際的に参画していくという行為、つまりエンゲージメントは、これまで以上に難しい営みとなるだろう。どのようなエンゲージメントが国益に適い、何が適わないのかを見極めるのは容易でない。従来の基準をただあてはめるのではなく、新しい状況でなかでの意味と問題点を大局のなかでただしつつ、個別に決めていかなければならない。

 確実に言えることは、貿易、金融、人口増加、貧困、食糧、環境保全――どの課題をとっても、一国や地域を超え、地球大での対応と回答を求められる時代となるということである。一国の力や国のレベルだけで取り組もうとしても不十分である。

 そのような時代には、国や官だけでなく、より広範な国民が国際関係に参画していかなければ間に合わない。民生的な貢献を軸に、民間も十分に活躍できる「民力」を発揮させなければならない。それは国際的なガバナンス(協治)を積極的に担うことであり、世界の公、つまりは公共財の創出に積極的に参画することでもある。

 もとより、外交交渉や安全保障の確保といった国が本来的に果すべき役割は、今後とも引き続き重要である。しかし、その場合でも、国民の支持がこれまで以上に必要となってくるだろう。多様な利害が内外の境界を超えて錯綜するだけに、国民そのものに、何が日本の国益であるのかに対する認識の深まりが求められるようになる。日本の国益を長期的、システム的に、日本の国造りのあり方と関連づけつつ定義し、構築するそうした「開かれた国益」の感覚を我々は磨かなければならない。自国の国益の追求が世界の公益の追求と響きあい、世界の公益の実現が自国の国益に重なるという「開かれた国益」である。

 そのためには、いい意味での現実主義に裏打ちされた国益論議を活発にしなければならない。「国益」という言葉を正面に押し出して政策の是非を議論することに臆病であってはならない。国民自体が、そうした政策議論に加わり、政策提言をし、それを世界に向けて発表し、対話する力を育てなければならない。

(1)グローバル・シビリアン・パワー

 21世紀には、軍事力をもって自国の発展を確保し、紛争を解決するやり方はますます正当性を失うだろう。万一の事態に備える安全保障を各国が免ぜられる状況はまだ予見できないが、自国の野心と発展のために軍事手段を使うことは、国際社会がさらに許容しなくなるだろう。人間の安全保障と国際的な公益を中心に考え、それを軍事的でなく、民生的な手段で、公正に維持、増進させるという課題を追求しなければならない。

 その際、日本は世界経済システム安定、貧富の差の是正、環境保全、人権保障、平和維持活動といった国際公共財の創出に向けて、軍事的手段ではなく民生的な手段によって貢献してきた。それがまた日本の開かれた国益に資してきた。戦後、日本は「非軍事経済大国」を経て、徐々にこうした「グローバル・シビリアン・パワー」の原型に向けて歩んできたと言える。21世紀は、日本の身丈にあったそうしたパワー形態をさらに意識的に目指すべきであり、国際社会の中で日本をそうしたものとして受け入れてもらうよう努力すべきであろう。

 国際経済秩序構築への参画、ODA(政府開発援助)の積極的な実施などを引き続き行うべきである。また、文化、環境、人権といった市場メカニズムでは評価されにくい価値の領域での国際的協力や、国際機関の活用にもより努力を傾けるべきである。

 シビリアン・パワーは、課題設定力、仮説提案力、情報発信力、多角的対話力、文化的魅力、メッセージ力といった知的、文化的ソフトウエアを中核とする国民的な総合力である。それを十分に発揮するには、国民の幅広い層が、日本と世界との関わりについて参画し、政策を議論し、外国と交流し、国内世論を形成していく仕組みが必要である。NGO(非政府組織)活動を強化、支援し、NGOを中心とした「トラック2外交」での多様な対話や政策協議を発展させ、国際的課題に対する国民の関心を高めることが大切である。国際的視野があり、国際的発言力がある民間人の政府高官、スタッフへの抜擢、登用も思い切って行わなければならない。

(2)総合的・重層的安全保障

 21世紀においても、国民の安全保障の確立は、国の根幹にかかわるもっとも基本的な責務である。それには、万一の事態への備えと、万一の事態を起こさない環境を整備する努力、さらに国際社会の平和を維持、回復する努力が必要である。

 万一の事態への備えの根幹は、日米同盟の安定、維持である。もとより自助努力が不可欠であるが、日本単独で安全保障を完遂させる方向へと転ずることは、大きなコストを強いる割りには日本の安全性を高めることにはならず、逆に、世界の安全保障システムを不安定にし、周辺国との無用な摩擦・緊張を生みかねない。日米同盟の威信と機能を、引き続きアジア太平洋地域の平和と安定を支える経済的・政治的、軍事的基盤として活用することを基軸とすべきである。そのために必要な法制の整備を進め、集団的自衛権の行使などについても国民的な論議を持つべきである。

 万一の事態を起こさない努力としては、友好国を増やして国際的信頼を高める外交努力、紛争防止に向けた予防外交、軍備管理・軍縮といった国際安全保障秩序の強化、信頼醸成に向けた多国間協力、国際機関への積極的な関与などを中心とするべきである。また、経済安全保障を確保する努力も重要である。資源供給や市場が撹乱され、国際経済秩序が破綻すれば、日本経済の土台と日本国民の生活は脅かされる。さらに、地球環境の保全、貧困や飢餓の撲滅、人間性と健康の維持、教育や人材開発といった「人間の安全保障」(ヒューマン・セキュリティー)の確保も大きな課題である。

 国際平和維持活動(PKO)や国際平和建設活動(PBO)のような国際社会の平和を維持し、回復する努力は、単に「国際貢献」に止まらず、「日本への貢献」そのものであるとの認識が必要である。それは結局のところ、日本の安全保障環境の改善という形で日本の安全保障の向上に役立つからである。「一国平和主義」に安住せず、積極的に国連PKO・PBOに対応するのは当然である。また、正当性のある国際安全保障上の共同行動には、原則的な支持を与えつつ、日本の参加の可否や程度について国民的な論議を伴った検討を進める必要がある。

 21世紀の安全保障は、軍事、経済、社会、環境、人権といったさまざまな要素を横断的に含む総合的な安全保障でなければならない。そして、人間、国家、地域、地球規模での安全保障を、官と民とが手を携えて協力していく重層的に積み重ねた安全保障でなければならない。

(3)隣交

 日本の対外関係は、今後とも米国との同盟関係と統合欧州を含む日米欧三極協力をもっとも硬質な土台とすることに変わりはない。冷戦が終わり、20世紀が終わっても、これまで日本の国益と安全保障に大いに役に立ってきたこれらの外交資産は維持するべきであるし、むしろ、そこに再投資し、そこからさらに平和の配当を引き出すのが望ましい。

 しかし、21世紀には、地理的な近接性を持ち、歴史的・文化的な関係も深く、今後の潜在力を秘めた東アジアにおける協力関係を一段と強化すべきである。

 特に日本と韓国・中国との関係は、単に外交という名で呼ぶには足りない。その関係は外交と呼ぶには余りにも深く、にもかかわらず、十分に深まっているとはいえない。外交的な努力だけでは掴みきれないものをすくいとり、深みのある関係を築く営みが必要である。そういう営みを「隣交」と呼ぶことにしたい。

 中国と韓国(朝鮮半島)との関係を長期的に安定させ、信頼関係を結ぶには、これまでの通常の外交努力では不十分であり、観光的、風俗的、流行的な理解では追いつかない。ある種の国民的な覚悟が必要である。そういう意味での「隣交」である。

 「隣交」に踏み出すにあたっては、日本人がこれら隣国の民族の歴史、伝統、言語、文化を十分に理解することが求められる。そのためには、学校教育において両国の歴史と日本との関係史、とりわけ現代史を教える時間を充実させるとともに、韓国語や中国語の語学教育を飛躍的に拡充するのが望ましい。日本国内の主要な案内板には英語と共に両国語が併記されるくらいに「隣交」感覚を研ぎ澄ましたいものである。

 また、両国との、あるいは三カ国間の「トラック2外交」や知的交流、文化交流、地域間交流、青少年交流といった多層的な対話や交流をもっと広げるべきである。

 日韓中協力には、経済面において大きなフロンティアが広がっている。APEC(アジア太平洋経済協力会議)を発展させつつ、その傘の下に花を開かせるような形で、日韓中の間で北東アジア自由貿易圏、エネルギー共同開発、通貨協調体制などの構想を推進するべきである。それは、やがて、ASEAN(東南アジア諸国連合)と両輪を成す形でアジア全域の共同体形成にもつながるだろう。

X.日本の志 ひとりひとりの志

 「21世紀日本の構想」は、21世紀のおける日本の長期的な国家目標とその政策理念を描くことを期した。かくも壮大なテーマである。日ごろ考えるには大きすぎる。今回、世紀の変わり目を梃子にこうしたテーマに取り組み、その成果を国民各位の前にこのような形で報告できることを幸いに思う。

 提言の中には理念的なものもあれば、具体的なものもある。個別政策にまで踏み込んだものも、問題提起に止めたものもある。しかし、これらはすべて国民に議論を起こして貰いたいとの一念において同じである。

 一世紀前の日本人はいまほど「世紀感覚」はなかったようである。西暦が日常生活でそれほど使われていなかったからである。それでも、当氏A多くの日本人が日本の20世紀像を描いた。

 岩倉具視を団長とする欧米使節団の海外派遣など、日本の新世紀を切り開くための先駆的な試みであった。その報告書『米欧回覧実記』は、日本が、世界の先進国の優劣を日本の戦略的必要性の観点から評価し、それぞれから学ぶものは学び、取り入れるものは取り入れるという主体的な姿勢を浮き彫りにしている。代表団の平均年齢は31歳、若さとエネルギーをみなぎらせる日本であった。

 今回、世紀はもとより千年紀も、国民のほとんどに抵抗なく受け入れられている。私たちはある意味では、否応なしにその感覚を持たざるを得ない。「Y2K」一つとってもそれは切実に感じたところである。世界のすべての国がコンピュータの2000年問題に取り組まなければならないという形で、世界は一つとなりつつある。

 現在の日本は豊かであり、国民の生活水準も高い。そして年齢的にも成熟した国である。大国として世界に深く関わっている。日本は世界でよく知られ、一定の敬意を得ている。日本がどこにあるかもほとんど知られず、国際社会で、生きるか死ぬかの生存競争を強いられた当時とは、ずいぶんと違う。アジアの近隣諸国が次から次へと近代化へ離陸し、この地域における共同体への足がかりも見え始めてきた。いまの日本ははるかに恵まれた環境にある。

 近代において日本はいくつかの重大な過ちを犯し、失敗もした。そのことは深く心に刻んでおかなければならない。しかし、この百年を振り返るとき、日本と日本人の成し遂げた多くの成果もまた銘記しておくことが大切である。

 その中から、21世紀にも資産として継承するものを知っておかなければならない。

 戦後について言えば、自由と民主主義はそのもっとも重要なものであろう。この報告書の中で提示したガバナンス(協治)のシステムや個の確立と公の創出といった変革の核心は、多数の国民に受け入れられ、新たな共通理念となり、生活と暮らしに根を下ろすことを私たちは信じている。戦後の自由と民主主義の十分でなかったところを補強し、それをさらに大きくし、豊かにする足場を形作ることができると、私たちは確信している。

 私たちは、これまで、歴史的転機に立つ日本の状況と、グローバル化をはじめとする世界の大潮流を前にする日本への挑戦を厳しい調子で述べてきた。

 しかし、日本の先行きを決して悲観してはいない。

 昨今の日本では、日本の先行きに対する悲観論が広がり、中には、日本の衰退をことさらに言い立てるほとんど自虐的な悲観論までが聞かれる。しかし、こうした悲観論には根拠がない。少子高齢化にしても、「数の少ない現役世代が高齢世代を支える」と固定的にとらえるのではなく、「誰もがなりうる状況に備え、そのリスク・負担を適切に分担する」とダイナミックな視点でとらえてみるべきなのだ。

 過度に固定的、運命的に物事を考えるべきではない。

 必要なのは「立ち向かう楽観主義」である。主役は個人であり、個人が社会を変え、世界を変える。そうした中から新たな社会が生まれ、日本が生まれる。日本と日本人の潜在力を思い切り引き出すことで、日本の中のフロンティアから、明るい展望を拓く。そうしたことは十分に実現可能なことである。

 20世紀への序走において、明治の先人たちもそうした「立ち向かう楽観主義」を持っていた。『米欧回覧実記』のもっとも印象的な部分は、「やればできる」という、日本の将来に対するいい意味での楽観主義である。政治、経済、社会のすべてで欧米諸国との気の遠くなるほどの格差を目の当たりにしても、それでも日本は日本のやり方で近代化を成し遂げられる、との「実務的な想像力」である。

 私たちも、この「立ち向かう楽観主義」と「実務的な想像力」をもって21世紀に臨みたい。

 そして願わくば、視野を広げて来世紀を展望してみたい。空間の視野というより、時間の視野である。

 自分一代で何かを手早く、手っ取り早く成し遂げようとすることはしない。そうではなく、子供の世代、そのまた子供の世代、あるいは子供でなくてもいい、後の世代の人々と、三代かけて何かを成し遂げる、そういう志をみんながそれぞれに持つ。

 三代、八十年。何か一つ胸に秘め、志を実現する。実現しなくてもいい。大きな志を追ってみる。未完成でもいい。そういう日本の、ひとりひとりの志。


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