−速報のため事後修正の可能性あり−
2 場所 千代田区公会堂
3 出席者
○ コーディネーター
5 議事概要
「21世紀の日本〜ここを変える、ここを守る〜」についての公開討論が行われた。
その主な内容は以下のとおり。
(西村規制改革委員会委員)本日は、「21世紀の日本〜ここを変える、ここを守る〜」をテーマに、我が国の規制改革のあり方を中心に議論していきたい。まず、規制改革委員会の宮内委員長より、あいさつ及びプレゼンテーションをお願いする。
(宮内規制改革委員会委員長)我が国は、第二次臨調以来、20年間、経済社会を活性化するため、規制緩和を進めてきたが、実際上、ある程度動き出したのは、94年末にできた行政改革委員会からである。その下部機構に、規制緩和小委員会ができ、その後、変遷して、規制緩和委員会、そして、現在の規制改革委員会となっている。その流れの中で、一定の前向きの歩みがみられる。その主なものは、お手元の「規制緩和・規制改革推進の流れ」を御参照いただきたい。規制改革委員会が、この流れの中でやってきたことは、日本の規制というもののあり方について、あるべき姿を国民の皆様方に示すということではない。私達の委員会は、現在、規制社会と言われている中で、最も重要で、かつ、変えていかなければならないものを取り上げ、それを変えていくことを実現するということを目標にやってきている。したがって、当委員会は、あるテーマを取り上げると、関係省庁、関係業界と具体的に折衝し、どこまで変えていけるかというのを探り、それをどう変えていくかという文章まで作り上げ、政府の規制緩和推進3か年計画に落とし込んでもらうという作業を行っている。つまり、実現できるところまでぎりぎりの折衝をし、実行していくという仕事を行ってきた。したがって、規制改革委員会は、できるものしか取り上げないのではないかという御批判もあるが、そのような批判をあえて受けながら今日に至っている。成果としては、例えば、経済企画庁の試算では、通信、航空等主な8つの分野だけでも、消費者余剰が8兆6千億円となっている。規制改革の成果は、歩みの速さには問題があるが、動き始めている。私達の認識としては、一つ一つの規制、一つ一つの許認可を個別具体的に変えていくということに努めることができたと考えている。その後ろに控えている大きな壁、制度、構造の変革というところまでにはまだまだ力は及んでおらず、今後、そのようなところにまで検討を広げていく必要があると考えている。規制改革は何のために行うのかということであるが、いろいろな表現はあるが、私なりに言うと、極めて統制色の強い日本の経済を、世界に追いつくというか、これ以上遅れないように、世界の流れである市場経済、あるいは経済のグローバル化というものに対して、同じ土俵で経済活動ができる、同じ経済原理で経済全体のパイを大きくできる、市場経済化していくということだと思われる。それに対して、日本の経済には、市場で堂々とやっていける部分と、統制色が強くて、非常にコストが高く、イノベーションを欠く部分がある。そのため、そのようなマイナス面を全てユーザーが被っているということが、日本の高コスト経済の基になっている。そういう2つの部分が並存しているのが日本経済である。高コスト構造の部分を、より市場経済に近づけていこうというのが、規制改革の目的であると考えている。市場経済における競争の結果、消費者が最も利益を受けるという構造が望ましい。統制経済によって、業界が潤うけれども、その不便さは、消費者・ユーザーが全部被るという世界よりも、市場経済化の方が良いのではないか。もちろん、場合によっては、一つ一つ社会的な検討を加える必要があるのは言うまでもないが、大きな流れとしては、市場経済化することにより、経済のパイを大きくする、即ち、構造改革をすることによって、自然に経済のパイが大きくなる中で、より良い社会というものが生まれるのではないかというのが、私の考えている規制改革の本当の意味合いである。したがって、アメリカ型の社会にしたいのかとか、アメリカのような弱肉強食の経済にしたいのかとか、多々御批判があることは承知しているが、社会の作り方は、経済のパイが大きくなる中で、日本国民の英知でより良い社会を作れば良く、経済構造については、より効率が高く、経済のパイが大きくなるシステムを持っている方が良いと考えている。今日は、以上のような私の考えに対する御批判を頂戴し、その中で、より良い改革、規制改革委員会のより良い活動を模索していくという立場で、パネリストの方々の御意見を拝聴したいと考えている。
(浜田日本経営者団体連盟副会長)私の本業は、株式会社リコーの会長であり、このような場で規制改革について述べる資格がないかも知れない。というのは、私共の業種は、なんらかの規制を受けて不自由な思いをした覚えはほとんどないからである。逆に、規制により保護され、ありがたい思いをした記憶もない。私の本業の分野では、世界的な厳しい競争の中で、わがまま気ままで、向上要求の強い、いわゆる「お客様」の絶えざる要求に対応し続け、その結果、日本がなんとか世界の供給国という地位を確保している状況にある。しかし、中国、東南アジアなどで、“供給国”の地位が移りつつある。これは、経済原則にのっとって、コストという観点からそういう経過をたどっているものである。一般的に、規制の是非、あるいは規制緩和の是非といった場合、経済活性化と消費者利益という双方から見ていく必要がある。規制緩和が評価に値する例としては、多々あるように思われる。よく取り上げられている例が、宅配便、コンビニエンスストア、携帯電話等である。いずれも、運輸、流通、通信分野での何らかの規制緩和を契機としているものである。その他にも多々ある。逆に、規制緩和を進めた結果、失敗した例があるのかと思って、私なりに探してみたが、なかなか見つからない。失敗ということがどういうことかというと、経済活性化、消費者利益双方においてマイナスになった例である。あるいは、一方で小さな効果があったけれども、他方で大きな犠牲があったような例である。このようなものは成功とは言えず、失敗である。私は探しているが、お気づきのものがあれば是非教えて欲しい。ただ、どのような改革でもそうであるが、効果があるとみられた例であっても、いわゆる日なたと日陰というのがあり、その恩恵に浴するところと、そのために苦労を強いられるところがあるように思う。コンビニエンスストアが増加をし、その結果、専門店で構成されている街の商店街が寂れてしまったような例とか、携帯電話が大変な勢いで普及していく中で、カラオケが衰退したり、学校裏の文具店の文房具とかCDの売り上げが激減した等の例を良く聞くところである。これらが失敗であるかというと、失敗とは言えないのではないかと考えている。それなりの新しい企業努力で新しいものを生み出し、再生を図っていかなければならないからである。次は、規制緩和が遅々として進まない例が、結構あるように思う。レジュメの4番にもあるように、特殊法人、公益法人等の保護存続である。現在の具体的法人名をここで挙げるのは支障があると思うが、過去の例としては、カメラ、双眼鏡等の輸出品の品質検査を行う精密機器輸出検査協会という組織があった。初期の頃、大きな役割を果たし、日本のこれらの商品の品質が、世界中から評価され、輸出がどんどん増えていった。そして、精密機器が、日本の代表的な輸出品の一分野となり、日本が世界の供給国となった後でも、輸出品検査はずっと続けられた。もうここまできたのであるから、出荷の段階でいちいち検査しなくても良いであろうという声に対して、いやいや、まだまだ、日本の企業には良い品質の製品を作る力はないという逆宣伝の説明をされながら存続が続いたという記憶がある。さすがに、輸出検査という実務そのものはなくなったが、現在でも、団体の役割が終わった、あるいは終わりかけているにもかかわらず、民営化等がなされず、存続している例がある。一度始めたものは、なかなか止められない、止めるきっかけがつかめない、不要なものは削り、必要な分野に変換するというイノベーション機能、自発的リストラ機能というのが行政の世界ではなかなか難しいのかと感じている。したがって、諸外国あるいは規制改革委員会等の外部からの強い働きかけがなければ、この国は自己変革力が弱いのではないかと感じている。全く市場主義に委ねて、民間企業に任せるべきであるという意見に対して、それはだめだという主張がある。その中に、いわゆる営利企業性悪説というのがある。企業は、所詮もうけ主義、効率第一主義なのであるから、過疎地は置いていかれるであろうし、また、コストを下げるために、厳しくなったら、手を抜くであろうというような見方である。時折、その考えを肯定せざるを得ないような不祥事が起こるが、産業界の一員として誠に残念である。しかし、多くの企業は、信用第一で、国民の期待に応えるべくきちんとやっている。民間企業は、信用を失ったらおしまいである。信用を失ったところが、市場から消えていくというのが市場主義であということが、数々の例で証明されているのではないかと思う。それから、私達自ら活動している分野ではないが、教育と農業の分野についてちょっと一言述べさせていただきたい。教育分野については、いわゆる大学を中心とした高等教育分野においては、規制改革委員会もずいぶん細かい掘り下げ、検討を行っており、実際に、徐々に大学運営の自由化は進んでいる。しかし、小・中・高校、特に義務教育の課程は、ほとんど手付かずである。いわゆる全国統一の平等な事前規制を敷き詰めて、教育を今日まで進めた結果が現在の惨憺たる学校の状態を招いている。私の提案の第一は、いわゆる教育方針を出す主体の分散化である。教育改革国民会議で提案されているコミュニティスクールの構想がその一つの例示である。それは、地域ごとに信頼される教育者が校長に就任するという構想である。いままで 、生徒の方には個性の尊重といいながら、先生の方は一律平等主義で個性が埋没し、“教師”はいるが“教育者”と呼べる人はほとんどいない状況にある。その“教育者”たる校長先生の個性ある方針が明確に打ち出されて、その方針に共鳴する先生及び生徒が集まるという内容である。もちろん、全国統一の教科書検定も、分散すべきではないかと考える。昔の寺子屋、何々塾の大型・現代版というのを考えている。第2は、契約社会の推進という提案をしたいと考えている。事前規制から事後チェックへということが言われているが、なかなか一気にはいけないケースが多い。私は、その中間に契約関係の推進・導入という形態があるのではないかと考えている。どうぞ自由にやってください、自己責任原則でしっかり自己確認でやってください、ただ、もし結果として懸念される事態が生じたら、このような制裁を受けますというような契約を交わすというようなやり方である。学校崩壊、学級崩壊の現状を解決するためには、親や子供と学校間の契約という手法を取り入れたらどうかという提案が、現場の高校教師から出されている。同じく、社会的規制、経済的規制の世界でも契約的手法を取り入れたらどうかと考えている。最後に、農業問題についてであるが、本日のシンポジウムのテーマである「21世紀の日本」について、何が心配であるかというと、その1番は将来の食料不足のおそれである。特に、穀物、日本は米の自給率は100%近くありながら、米を含む穀物全体の自給率が27〜28%であり、米以外の穀物に関してはほとんど0%に近い状況にある。世界的な食料不足が将来懸念されているが、もし、気配が出ただけでも、穀物は2倍近くに跳ね上がる。5%不足しただけで、3〜5倍に跳ね上がる性格の重要な食料品である。小麦、大麦、とうもろこし、大豆等国内生産を復活するような競争力強化を伴う保護育成策を20年計画くらいで強く進めなければならないのではないかと考えている。発展途上国において、国の命運を決める産業は自由放任ではなく、明確な保護育成策が必要ではないかというふうに思っている。日本における穀物は、今それに相当するものである。
(榊原慶応義塾大学教授)先程、宮内会長から94年行政改革委員会が一つの大きなきっかけになって規制緩和が進んだというお話を伺った。現在、このグループの名前は規制の改革委員会となっているが、緩和ではなく改革になったことは大変望ましいことであると思う。規制の緩和について、半分冗談であるが、私は良く「規制の緩和については、総論反対、各論賛成である」と言っている。なぜかというと、従来からの規制の緩和の概念がどうも業界の陳情的な色彩を非常に強く帯びているからである。特定の企業なり、業界なり、ここのところがどうも不便だから、何とかしてくれという感じのものが非常に多かった。これは、従来の規制の枠内の微調整ということであるから、実際の規制の改革ということには、必ずしもつながらない場合が多い。さらに、規制というものをいくつかの種類に分けたときに、官の規制と、業界そのものの規制があり、後者がかなり幅広く日本社会では行き渡っている。業界又は協会を通じての陳情型の規制の緩和というのは、必ずしも望ましい結果を生まない場合がある。もう一つは、すべてを官から民に移せば良い、すべてを市場に任せれば良いという一種の市場原理主義の哲学がその背景になっていると思われる点である。私は、相当のものを市場に移すというのは、時代の流れでもあり、市場も本当に大事な機能を持っていることから、官の規制の大部分を市場に移すということについてはまったく異議はないが、それと市場原理主義とは大きく違うというふうに感じている。規制の制度改革が行われた一つの例示として、金融がある。金融は、遅きに失したのではないかという批判があるが、業界として規制の体系が大きく変わった例としては、外国でも日本でも金融である。金融の許認可、事前行政指導等の規制関係が全面的に放棄され、他方では、金融監督庁などによる監督あるいはディスクロージャーのような規制が強化されている。規制の改革というのは、一方での規制の大幅な緩和と、他方での規制の見直しがセットである。国際的にみても、97年から99年までアジア金融危機というのが起こるが、どうも、その一つの原因として、資本の大量の流入があるといわれており、規制緩和のシークエンスの間違いによりそのようなことが起こったと言われている。つまり、国内の銀行監督、国内の銀行のガバナンスの強化、透明性の強化をしないでおいて、国際資本取引の自由化、そこだけの規制緩和を行った結果、国際金融危機がもたらされたというのがだいたいのコンセンサスになっている。少なくとも、97年以前は、国際金融については、できるだけ自由化したら良い、とにかく自由化することが第一であるということがアメリカを中心にして言われていたが、このごろは、そのような議論がだいぶ変わって来ている。シークエンシング、特に、途上国において、どういう順序、プロセスで規制緩和を行うのか、どういう規制の改革をしなければならないのか、そういう議論になってきており、これは非常に健全な流れであると考えている。こういう言い方をすると、私は、規制の改革について非常に保守的な考え方を持っていると誤解をされるが、私は、実は、この点については非常にラジカルな意見を持っており、日本の規制の体系そのものは、実は、日本の行政の体系そのものであり、強いベースを持っているというように感じている。それぞれの省庁の持つ行政法という法律で、担当の業界を役所が規制をし、モニターをし、あるいは育てていくという発想がまだ日本の中にある。日本の個別の行政法について、比較分析している法学者は比較的少ない。このような行政法の体系を変えて、つまり、官と民のあり方、日本の規制、日本のルールのあり方そのものを抜本的に変えていかなければならないというのが私の基本的な意見である。例えば、大蔵省でいうと、財政法とか会計法という非常に古い法律があり、それらの法律を変えないで、予算編成の仕組みを本当に抜本的に変えられるのかという疑問がある。それから、教育基本法が問題になっているが、教育基本法は憲法の前文のように精神的規定であり、基本になるのは学校教育法である。学校教育法に含まれている規制の理念を変えていかないと本当の意味での規制の改革はできない。同じようなことが、電気事業法とか、建築基準法とか、それぞれの官庁が持っている法律の中に組み込まれている。今度の行政改革というのは、かなりの省庁の看板を架け替えたりしているが、それぞれの省庁が持っている法律の基本に踏み込む必要がある。そうでなければ、日本の国のあり方、規制のあり方が変わっていかない。少なくとも、現在の日本の行政法の体系は、諸外国に比べて相当に遅れている。ちょうど我々が、戦後、憲法以下の法律を全面的に見直したように、我々が法体系そのものを、おそらく商法とか民法を含んでということになるのであろうが、その中で、行政法というものの役割が非常に大きいと私は考えている。そういう形で、日本の行政、官と民のあり方を抜本的に見直すという作業に規制改革委員会が踏み込んでいく必要がある。もちろん、宮内会長がおっしゃるように、やれるものからやるというのも、ある意味では非常に良い戦略ではあるが、もう一つやはり規制改革をやって、いったいどういう社会を作るのか、いったいどういう目的で規制の改革を行うのかということについて考える必要がある。即ち、規制の改革というのは、日本の国のあり方について、いったいどういうふうに変えていくのか、日本のガバナンスのあり方をどういうふうに変えていくのかということに関わってくると思う。哲学として、市場に大きな部分を委ねるという選択は、私は、それはそれで間違っていないと思う。そういう方向に歩むのも良いが、規制のあり方を考える際、例えば、○○協会というようなものが実際に存在すること自体が良いことなのか、業界団体が存在すること自体が良いことなのか、そういうところまで踏み込んで、議論をしていかないと、なかなか本格的な制度改革、規制改革は進んでいかないと思う。戦後50年以上経って、憲法を始めとして、日本をガバンしているいろいろな形の制度、日本は法治国家であるから、制度の根幹には法律があり、その法律をどういうふうに変えていくのかという議論をしなければならない。規制の改革の議論をそういう形で突き詰めていくと、結局のところ行政改革ということになる。今後の規制のあり方を考えていく際、おそらく、省庁別の規制のあり方というのはあまり適切ではないということを自覚する必要がある。日本が、1930年代からある種の規制国家、ある種の官僚国家を作り、それはそれでうまくいったのだろうと思う。官民が一体となって高度成長を推進し、その中に業界団体があって、民と官の間のミディエーション、仲介をやってきたというシステムをそろそろ変えていかなければならない。そういう時期に入ってきている。そうなってくると、各省庁がそれぞれの業界、それぞれの分野に関して、法律をもってモニターする、あるいは規制するという仕組みそのものを変えていかなければならない。そうなってくると、何らかの形の横断的なルールが必要となる。各省庁横断するような仕組みを作らなければならないであろう。業界団体ではなく、例えば、NGOのようなものと結びついて、制度改革というのを考えていく。そのような新しいパラダイムを考えていかなければならない時期に来ていると考えている。今まで、規制改革委員会が行ってきたことについて、私は、敬意を表するが、これからは、もう少し大きな枠組みで日本の制度、特に法律を含めた制度そのものを変えていくことが必要である。今までは、行政指導で役人が恣意的にやっているんだということをおっしゃる方がしばしばいるが、私の考えでは、やはり法律に基づいて行政を行っていると思う。法律のベースの上に通達とか行政指導があるわけで、その根幹には法律がある。法律そのものを変えなければ役所の仕事そのものは変わらない。金融制度が大きく変わったのは、外為法とか銀行法とか金融に関わる法律をほとんど全部変えたからである。それで大きな制度改革ができたのであるから、それと同じことを、それぞれの分野でやっていくことが、制度改革、規制改革ということになる。規制改革については、大いにサポートしたいと考えている。どうぞ宮内会長のもとで、日本の国の形を考えていただきたいと考えている。
(石黒東京大学大学院法学政治学研究科教授)総論のシンポジウムであるが、具体的な例から始めたい。確かに、おかしな規制を改革するというのが規制改革委員会であるが、では、今問題となっている件について、どういうスタンスをとられているのか。問題は、がん保険等の第3分野の件である。もともと、大手生損保が第3分野であるガン保険を取り扱えなかった理由は、昭和40年における大蔵省の口頭による行政指導があったということのみである。なぜそうなったかと言えば、アメリカが参入したいと考えており、ガン保険など大したことないであろうということで、行われたものである。それで、テレビのコマーシャルにあるように、アメリカの保険会社がその領域で圧倒的なシェアを占めている。圧倒的なシェアを占めたアメリカが、今度はその既得権益を保護しようとやっきとなる。そこで、アメリカと日本の間で交渉が行われ、ずっと長引いてきた。ところが、今年、アメリカが急に折れた。そうすると、現在、我が国では、大手生損保がガン保険を売ることに何の規制もなく、問題はないはずであるが、今度は、日本の政府が、大手生損保が親会社で参入することができないと言い出した。おかしいのではないか。法的根拠はどこにもない。日本の大手生損保が、高齢化社会となった日本に適切なサービスを提供するというのがあるべき姿である。これが、変えなければならないおかしな規制である。私は、20数年国際金融に携わってきたが、日本の金融行政はなっていないと痛感している。これについては、また、別の機会に議論したい。また、おかしな規制はあるが、だからといってすべての規制を緩和するというような話は間違っている。そのような経済学の理論はない。新古典派経済学では、様々な仮定の下でそのようなことが起こる場合があるとしているが、その仮定と現実が区別されていない。また、規制緩和委員会が規制改革委員会に変更になったとのことであるが、レジュメの2にもあるように、3年前にOECDで規制改革が言われ、とにかく競争促進的な規制は良い規制だとしているが、経済学者は、OECDの規制改革、MAI(多数国間投資協定)において、どのような議論が行われたのかきちんと細かくフォローする必要がある。OECDの報告書には、非常に初歩的な計算ミスなどもみられ、とても信頼に足るものではない。そして、OECDの規制改革と連動して進められたMAIも挫折している。橋本政権下の行革・規制緩和は、ニュージーランドを模範としているが、そこで妥当したことがなぜ日本でも妥当するのかという反省もないまま、ニュージーランドの後を追いかけるようにすべての改革を行う、すべてを市場に委ねるということをやったわけである。ニュージーランドは、膨大な財政赤字に悩み、一番短絡的なことをやった国である。即ち、国の全国民的資産を切り売りして、財政赤字を埋め、後は、経営や会計をやっている人間だけを尊重して、すべてを新古典派経済学の論理で推進して、その結果、失敗している。最近は、ニュージーランドの政権が変わり、二度とそういうことはしないということになっている。このような状況の下で、日本はどのように考えるべきかという大問題がある。もう一つの具体的な例としては、大学のあり方である。ニュージーランドでもそうなってしまったが、社会的ニーズのある学問だけ教えれば良いということになると、結果として、大企業のニーズに沿った学問しか行われなくなる。国立大学の独立行政法人化の問題でも、3年前、郵政3事業の民営化でなされた議論と同じ議論が行われている。いきなり、文部省が、大学への予算は、今年から3割カットだ、来年は更にその4割カットだとやり、国立大学は、兵糧攻めにあっている。学問は、経済界のニーズのある学問だけやっていれば良いのか。すぐ役にたつ、すぐ製品になるような学問だけで良いのか。そんなはずはない。ところが、そのような現象が現実に生じつつある。そこで、資料を御覧いただきたい。3年前に何が起こったのか。中央の方で、郵貯、簡保は民間を圧迫するし、郵便事業についても競争を導入すべきであるとして、民営化の議論が起こっていたとき、実に3千市町村のほとんどから郵政三事業国営維持を訴える要望書が出されている。ところが、この声が全然中央では反映されていなかった。一方で、地方分権と言いながら、このようなことをやっていたのはおかしいのではないか。また、沖縄IT憲章にあるように、どういう基本的スタンスでIT化を進めていくかということも問題である。沖縄IT憲章が、非常にバランスがとれたものになっているということに日本全体の注意がいっていない。それから、レジュメにもあるように、沖縄IT憲章前に、WTO向けに日本政府が、「電子商取引に関するeQuality Paper」を出している。電子商取引におけるサービス品質のことを指すのと同時に、イコールティ、即ち、平等ということもだぶらせている。大企業、大都市に住む人だけがeコマースができるようでは、うまくいかないということを示しており、評価できる。このように基本的な流れが変わってきていることを、規制改革委員会でももっと深刻に受け止めて欲しい。その中で、私が言いたいのは、例えばIT化でも、大阪や東京に重複して無駄な光ファイバーを引くのが流行しているが、そうではなく、例えば奄美大島のようなところにも引き、早く全国展開すべきであるということである。
(神野東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授)日本で改革を進める場合、ものごとの位置を見失ってしまうというところがある。規制改革のほか、地方分権の改革も進められているが、いずれの改革の目的も、人間の生活の豊かさ、ウエルフェアを高めることではないかと思っている。財政学の立場でお話をさせていただくが、現在と全く同じような不況が19世紀末に起きている。世界的に物価が下がり続けたグレートディプレッションという時代である。この1870年代から始まる大不況の中で、2つの経済学のパラダイムが発生している。一つは、新古典派と言われている立場であり、もう一つは、ドイツで財政学という学問が生まれている。これは、新古典派と全く対立する立場である。新古典派も、良く読んでみると、必ずしも市場万能主義を言っているものではないが、新古典派と違い、財政学の方では、市場というのは、適切な政治システムによる制御が必要であるというふうに考える立場である。お手元のレジュメの3枚目に、社会を構成する三つのサブ・システムという図がある。私達の社会は、社会システム、即ち家族とかコミュニティとか自発的な協力に基づいて形成される人間の関係、共同体があり、もう一つは、政治システム、つまり、人間の強制的な協力関係を背景とした関係である。もう一つは、経済システムであり、市場経済、競争の領域がある。左下の部分が、競争原理で行わなければならない部分であり、それを除く右の領域は、強制的にしろ、自発的にしろ、競争ではなく協力原理で行わなければならない領域である。私の考えでは、日本が間違えているのは、競争原理でやらなければならないところと、そして、良く護送船団方式と呼ばれているが協力原理でやらなければならないところとあるが、競争原理でやらなければならないところに協力原理を導入し、協力原理でやらなければならない公共部門などに、競争原理を持ち込んでいるというところである。ここに、社会を崩壊させるような大きな原因が潜んでいるのではないかと考えている。協力も競争も、別に人間が利他的であるとか、利己的であるとか意味するものではなく、協力原理というのは、自分が失敗すれば他者も失敗する、他者が成功すれば自分も成功するという原則をインプットしておくということである。家族をみれば分かるように、誰かが失敗すれば自分も失敗する。競争の原理というのは逆で、誰かが成功すれば自分は失敗する、誰かが失敗すれば自分は成功するという関係を社会のシステムの中にインプットしておくということである。その2つのシステムが適切にバランスをとってインプットされなければ社会というのはうまく機能しない。逆に、協力の領域がきちんと機能していないと、競争の領域というのも機能しないというのが財政学の考え方である。そして、一番重要なのは、共同体の中で人間生活が営まれ、その人間の生活のウエルフェアを高めるために政治があり、そして経済が機能しているということである。政治も、経済も、その手段に過ぎないというふうに考えている。レジュメの1ページを御覧いただきたい。現在起きている規制緩和あるいは民営化という動きは何かというと、市場の領域を拡大することであって、市場の領域をグローバル化、ボーダレス化させていくことであり、私は、このことについて特に反対するつもりはない。現在の規制緩和の本質は、国民国家が加えている規制の緩和であり、国民国家の所有している国営企業の民営化を意味している。市場経済をボーダレス化し、グローバル化し、ひと回り大きなところで動かそうということであろうと考えている。規制緩和とか民営化というのは、今回が初めてではなく、19世紀の初めに市場社会を作り上げるときにも規制緩和と民営化の嵐というのは起きている。規制緩和や民営化により市場を作り出していくというのは人為的な行為である。したがって、経済システムのボーダレス化というのは人為的に作り出していくものであると考えている。一方で、日本は規制が多いと言われているが、この規制というものは、市場の領域を限定し、他方で、市場原理というのは人間の共同体のきずなを壊していくものであるから、壊された社会システムを強制的な協力による政治システムが補完しなければならない。それが、ソーシャルプロテクションであり、その手法としては、所有と規制がある。日本は、非常に規制が多いと言われているが、所有は少ない。レジュメの4ページを御覧いただきたい。これは、民営化と規制緩和の嵐が世界的に巻き起こる前の資料であるが、日本の場合は、非常に“所有”、即ち国営でやっているところが少ない。オーストリアは、ほとんど国営で全部やっていたといって言い過ぎではない。これは、どこで違いが出てくるのかというと、第2次世界大戦時に出てくるのである。第2次世界大戦という社会的な危機を克服するために経済動員する必要があったが、この経済動員をするときに、企業を国営化して経済動員しようとしたのがヨーロッパであった。日本の場合は、電力の国家所有化に失敗しており、民営化したまま残しておくが、しかし、統制経済でやるという手法を採っていることから、規制が多いのである。したがって、規制が多いのか、所有なのかということから考えると、日本は、ヨーロッパに比べて規制が多いからといって、必ずしも日本が規制が多いということにはならないということを考えておく必要がある。現在、私達が生きているのは、大きな転換期であり、同様に19世紀末も軽工業から重工業に転換する変革期で、大不況が起こっている。現在起きている大不況は、重化学工業の時代が終わりを告げて、情報とか知識とかいうような産業構造の変化の時代に起きているものである。そのような時代にやるべきことは何かと言えば、2つある。まず、政治システムは、社会システムが行っている家族とか、隣人とか、友人とかの助け合い、つまり、相互扶助の代わりを行うということが必要である。新しい産業構造を創出するために、チャレンジして、失敗をしても、生きていくことのできる社会的な安全ネット、セーフティネットを作ることが第1である。19世紀末で言うと、ビスマルクが社会保険制度を作って、ネットを張り続けた。もう一つは、新たな産業構造を作るために必要な市場経済の前提条件を整備しておくことである。19世紀末では、全国的な鉄道網、道路網のような社会的なインフラストラクチャであったわけであるが、知識、情報の時代になると、重要なのは、ソフトウエアであり、ヒューマンウエアである。そういう社会的なインフラストラクチャの張り替えは、従来、社会システムの共同作業で行っていたものであるが、その共同作業でやっていた生産あるいは経済の前提条件を整備してあげるということである。そのためにやるべきことは、規制緩和よりも、むしろ、戦略的規制によるイノベーション、つまり、新しい産業を興すための規制の強化である。日本の自動車産業の排気ガス対策が優秀なのは、強い規制があったからである。私の結論は、きちっとした協力の領域を整備しておくということであり、その場合には、分権によって、できるだけ身近なところで何を協力でやるのか、競争でやるのかということを選択できるシステムを作るということであると考える。つまり、小さな政府でもなく、大きな政府でもなく、人々の選択によって適切な政府を作ることが重要ではないかと考えている。お手元の資料の5から8ページを御覧いただくと、私の考えに近いのがスウェーデンというのがお分かりいただけると思う。きちっとした協力の領域を作っておけば、市場経済の領域もきちんと機能するのである。
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(西村)それでは、ただいまのプレゼンテーションを踏まえて、シンポジウムに入りたい。シンポジウムには、規制改革委員会委員の八代尚宏上智大学教授にも参加していただく。先程のプレゼンテーションでは、かなり広範囲の内容が網羅されていた。ここでは、その議論を2つに集約して議論したいと思う。第一の点は、日本の現在の規制の状態をどう解釈し、どう評価するか、そして、規制改革として成し遂げたことをどう評価するのか、また、これからどうすべきかであり、第二の点は、そもそも規制改革のあるべき姿は何か、あるべき姿にもっていくために、どういうシークエンスで規制改革をしていくかである。まず、第一の点について議論したいと思う。これまでの規制緩和・改革の評価の違いが今までの議論の中にあると思う。その中で現在残っている規制と規制改革委員会が今まで変えてきた規制をどう関係付けて、評価するかという問題がある。榊原先生からは規制改革のシークエンスが重要であるとの考えの中で、現在の規制改革委員会のやり方について果たして正しいか否かという疑問が提示されており、これについて、議論したい。石黒先生からは様々な問題点の指摘があった。それについても、これから規制改革の実を挙げていくにはどういうやり方をしていくべきかという点が問題となる。神野先生からは、特に戦略的規制の議論が提起された。それについても議論したい。確かに政府は規制改革委員会を中心として、各分野について、個別に聖域を設けずに、規制改革を行ってきた。八代先生から、そういう問題についての規制改革委員会のあり方の説明と問題の取り上げ方が部分的で、現代の大きな問題に対してうまく対処できていないという批判についての御意見を伺いたいと思います。
(八代)パネラーの方の御発言について、一言ずつ、私の感想を申し上げたいと思う。浜田さんのおっしゃった農業の重要性について、私はそのとおりと考える。どうやって日本の農業をもっと強くしていくのかというと、それは結局競争を導入するということであり、今までの農政というのはとかく伸びようとする農家を抑制して、まず画一的平等にするという考えが基本にある。そういう意味でも競争原理を農業に適用することにより農業を強化することについては、私は全く賛成である。榊原先生のお考えについても、同じ意見であるが、一言シークエンスについてコメントさせていただくと、榊原先生がおっしゃったように国際化と国内の金融市場の自由化の順序を間違えていけないのはそのとおりであり、東アジアでも日本でも同じである。ただ、そのときに、なぜ国際化が先行してしまったかというと、金融市場の国際化は世界的な市場の圧力から進むのに対して、国内の金融市場の自由化は政治、行政の力によって遅々として進まなかったからである。国際化のスピードをある程度規制するのと同時に、国内の自由化のスピードをもっと早めるという形で本来のシークエンスに持っていく必要がある。その意味では、一方的な規制緩和の弊害とともに、遅すぎた国内の金融市場の自由化も、今榊原先生がおっしゃったようにシークエンスの間違いである。石黒先生の御意見については、全てを市場に委ねるというのは、今の日本の現状から見て余りにもほど遠い、そういうことをしてはいけないという批判は分かるが、むしろ今、日本においては、その心配は全く逆の状況にあると思う。もちろん、おっしゃったいくつかの点についてはもっともな点があり、がん保険、第3分野については正に規制改革委員会が同じことを言っている。例えば、12年3月31日の規制緩和推進3か年計画では、「日米保険協議の決着を踏まえ、子会社による第3分野相互参入については、遅くとも2001年までに現在の激変緩和措置を終了する」ということが、規制緩和の担当委員の努力により、ようやく閣議決定の運びとなっている。もちろん、こんなのでは遅すぎるという御意見もあるかもしれないが、我々も基本的に同じ考え方でやっている。さらに、規制改革という言葉は、OECDをまねたものではなく、もともと規制緩和にはその考えがあったわけであり、規制緩和というと一方的な自由化であるという誤解を生むことから、基本的に規制改革という言葉で、時代の流れに合わない規制を改革して、より新しい規制に変えていく、もっと具体的に言うと、新規参入規制のような事前的規制を、できるだけ事後的規制に変えていくことを明らかにしたのである。その基本は消費者主権を確保することであり、消費者のために何が必要か、企業間、供給者間の競争によって最も消費者が守られるという観点に立って、できる限り供給者間の競争を達成するということである。もちろん、それだけで守れない部分については、セーフティネット、情報公開、独占禁止法等競争政策で補完するので、政府は何もしなくてもいいということではない。政府は、そのような市場の枠を作るために、最大限の努力をしなければならない。光ファイバーについては、全くそのとおりだと思う。こういうネットワークの部分は市場には委ねられない典型的な部門である。そういうところまで市場に放置しておいて良いと言っている人を、私は知らない。そういう意味で何を市場に任せて、何を政府が責任を持ってやるべきかという役割分担が議論されている。それは、規制改革委員会でも、真剣に議論している。最後に、神野先生のおっしゃっている点であるが、私が一つ非常に違和感を持ったのは、神野先生の競争原理の定義である。神野先生は、競争原理というのは、ある人が成功すれば、別の人が失敗するというふうにおっしゃったが、それは私が習った経済学の競争原理と全然違う。例えば、学問分野で言うと、私と西村先生は同じ経済学者であるが、西村先生が成功したら、私は失敗するのか、私が成功したら西村先生が失敗するのか、あるいは企業でもそうであって、そういうゼロ・サム・ゲームの世界ももちろんあるが、例外的である。一人の成功は逆に他者のより良い次の成功を生みだすもので、相互の相乗作用がある。この相乗作用は、国内市場でも国際市場でも同じであって、そういう意味で日本を初めとする自由主義経済が戦後の国際経済の中でここまで発展を遂げてきたわけである。その結果、競争の本質は決して神野先生のおっしゃる協力原理と矛盾するものではない。戦略的規制という考え方は、私も部分的には賛成だが、自動車の排ガス規制は、別に自動車産業を強化するためにしたものではなく、それ自身は環境対策として行われたものであり、それにもかかわらず日本の自動車産業が世界一の効率的な自動車を作れたのは、自動車産業内の厳しい競争体質のためである。それが、アメリカ、ヨーロッパに比べて、はるかに好ましい結果を生んだわけである。したがって、規制すれば、産業が育つというのは逆であると思う。環境規制は重要であり、社会規制も、ものによっては重要なものもあるが、基本となるのは業界、分野での競争体質で、それが新たな産業を育成するための基本になる。
(西村)それでは、今の八代先生の御発言をきっかけとして、御意見を伺いたい。まず、石黒先生、今の八代先生の御意見についていかがか。
(石黒)細かい話であるが、生損保の第3分野参入について、私が問題にしたのは、子会社ではなく、親会社の参入である。光ファイバーについて、市場に委ねると失敗するであろうというのは、過度の一般論であり、マーケットが一所懸命やることは必要であるが、無駄な重複投資が行われることを防ぐため、何らかのレフェリーとして方針を示すこと、また、国が規制するのではなくとも、標準ないしはガイダンスを作って、どのような太さのファイバーを引くべきかを推奨するというような、エコ・ラベル方式のような取組みが必要ではないかということである。規制改革委員会の名称変更が、OECDをまねたものではないという意見については、だったら中公新書から出ている通産官僚の本の中身は、いったい何なのかということである。詳細は私の本に全て書いてある。
(神野)戦略的規制によるイノベーションという概念は西村先生から教わった概念である。ただし、西村先生に全て責任を転嫁するというわけではなく、実際にスウェーデンでのやり方を見てみると、規制を強化していくと、特に、環境保護の分野が技術革新の宝庫となっており、その結果、新たに市場の効果が生まれている。私も、リサイクルを重視しており、日本車には乗っていないが、BMW社は、現在、FOB(船積み)価格で日本に輸出するときには11%アップしている。私の知り合いの常務取締役の話によると、日本は環境を愛しているから、必ず高く売れるということで、日本に全世界の5%しか売っていないが、利益の40%を稼いでいるとのことである。つまり、規制を強化することが、必ずしもイノベーションや市場開拓には結びつかないという考え方はおかしいと私は考えている。一つ付け加えさせていただくと、規制はあくまでも人間の生活を良くするためであり、そういった規制は相互に関連している。八代先生の御説明の中にもあったが、市場を機能させるためにも規制は必要である。では、どういうものが規制なのかというのは、非常に難しく、法律が規制なのか、官僚の裁量が規制なのか良く分からないところがある。私の考えでは、あくまでも規制には戦略的規制と、もう一つ重要なのは分権的規制がある。人々が生活を守るために規制をするのであるが、日本の場合には、規制緩和のせいかどうかわからないが、街の中は駐車場だらけになっている。ヨーロッパでは、きちんとした都市計画とセットで行われ、相互に規制は連関しており、規制の目標は人々の生活を守るためであるということがはっきりしている。誰が規制を行うのかというと、人々が規制を行うのであり、民主主義は被統治者、支配される者が、支配するのであるから、人々が、人々によって規制されるのである。人々が規制するプロセスが重要である。人々が規制すれば人々のためになる、人々が規制緩和すれば、人々のためになるという議論があるが、規制については、人々が何を規制し、何を規制しないのかを選択できるシステムまで考えて欲しいということである。
(宮内)先生方のお話には神学論争的なところがあり、私のような経済人には太刀打ちできないが、基本的には、私の認識では、日本が、経済で世界に貢献できる国になりつつあったにもかかわらず、90年代以降、市場経済化した国々にどんどん追い抜かれていって、日本の経済力に陰りが出てきている。陰りがでてきたことによって、それでももっと良い社会ができてきたということであれば良いのだが、経済の陰りとともに日本の社会に疲労感がでてきている。私は、そういう認識を持っている。経済をもっと活性化して、全体で経済が伸びるという中で、社会をもっと良くしていくという余力が出てくると考えている。経済が停滞してシュリンクする中で分配を争っている社会は、良くならない。経済を活性化して伸びる経済を作るということから言うと、いろいろな手立てが必要となるが、その中で、規制改革というのは一つの大きな柱ではないかと考えている。その進め方がまだまだ小さいぞ、遅いぞという実感でやっているわけである。したがって、たくさんのお話がでましたけれども、私はやはり、一人一人が自立して、自己責任を持って自主的に生きるという社会を作っていくということが大切であると考えている。一方、その社会の中に、弱者というものが出てこざるを得ないが、その弱者には大きくなったパイの一部をもって十分な対策ができるし、その他の社会的な政策もできるわけである。シュリンクする社会からは、弱者対策もできないし、自己責任のある個性あふれる人間社会というのも生まれてこない。神学論争に経済人として付け加えると、これくらいのことしか言えないが、おそらく、規制改革というのは、その一つの鍵を握るものであろうという認識で仕事をしている。
(西村)次に、第2番目の点、実は、第1番目の点と非常に絡むわけであるが、それは規制改革のシーケンスをどうするか、そして、その中で、官と民の関係をどうするか、その中で、様々な問題が提起された。まず、法律を変えなければならない、それから行政そのものを全部変えなければならない、それから、新しいNGO等新しい血を導入しなければならない。これは先程、いろいろ御意見があったレフェリーとしての規制若しくはルールとしての規制をどのように考えていったら良いのか、現在のシステムがうまく機能していないという点では皆様方同じ御意見だと思うが、では、これからそれをどのように変えて行ったら良いのか。その点についてお話をお伺いしたい。まず、浜田さんからお願いしたい。
(浜田)規制社会と自由競争社会の論点について、いろいろ議論になっている。先程、自由競争社会では、Aが成功すれば、Bが失敗するという意見に対して、八代先生が、Aの成功がB、Cの成功を呼び起こすと反論されていたが、自由競争社会のマーケットにいる立場から行司役をさせていただくと、私の感じでは、両方とも正しい。両方ともケースとしてある。市場、マーケットの動きはそれほど単純ではない。ただし、この両方の片方について、それのみあると言ったら間違いであると思う。それから、規制改革のあるべき姿については、私には、なかなか答えが出せない。規制改革のあるべき姿の前に、規制そのもののあるべき姿が何かがしっかり描けないと改革が進まないと考えている。一言で言うと、必要な規制は必要であり、必要でない規制については、ないほうが良いというだけである。しかし、そのような状態であったとしても、世の中が変化していく中で、全ての規制、ルールというのは決まったとたん翌日から古くなっていくという言葉があるように、規制は全て条文化されるわけであるから、条文化されたものが年々古くなっていく。したがって、一度、条文化したものを1年後に必ず見直してみようという条項を入れ、それから、更に3年毎に見直していくという条項を入れて、常に規制そのものの中身をリニューアルしていくことが併せて実行されない限り、規制というのは変わっていかない、即ち、相当な時間をかけて議論しても、遅々として進まないということになると考えている。
(榊原)先程から規制というものは何かという議論において、行政指導とか、官側の恣意的なルールを指して規制といってる場合があるが、私が言いたいのは、そういうものプラス法律の体系及び協会、民間団体によるボランタリーな規制を加えたものを規制の総体として捉えるべきであるということである。そうしないと、本当の意味での規制改革ができないと申し上げたわけである。したがって、規制改革のあるべき姿は、そういう規制の総体を捉えて、それでその規制の総体が反映されているような日本の官と民の関係をどう変えていくのか、そういう話であると考えている。私が具体的に申し上げているのは、基本的な行政法の改正が必要であるということである。日本は、法律改正に時間がかかる。法制審議会では5〜6年、役所の行政法改正は最低2〜3年かかる。法律改正をあまり安直にやってはいけないという議論はあるが、時代が早いテンポで変わっているときに、法律体系の見直しを早いスピードで行う必要がある。明らかに、日本の法律体系は時代から遅れている。私が役所の中で見てきた法律もそうであったし、その他の法律もどうもそういう感じであった。私は、規制改革委員会でもう少し踏み込んで、法律の基本的精神のレビューをして、そういう法律をどう変えるのかを具体的に議論すべきであると考える。これが社会全体の大きな見直しになる。場合によっては、規制を強化する部分も必要である。神野先生がおっしゃったような都市計画とか環境とかの規制強化はコミュニティの中から出てくる。日本の場合には、やはり戦後のコミュニティは、企業がある程度その役割を果たしてきたが、その中で、どういう形で、環境等の新たな規制を構築していくのか、それはかなり難しい問題であるが、そのプロセスというものを考えなければいけない。
(西村)今、2点ほどかなり具体的な問題が出たのでお聞きしたい。まず、法律の専門家という立場から、石黒先生にお願いする。
(石黒)霞ヶ関にいらっしゃる方の不幸は、法律というと基本的に行政法しか見ないということである。しかし、今の行政法が、時代遅れと言っている人もいるが、企業とか民間の方々が法律による制度があるのに、それを使わないという大問題がある。先程の保険の第3分野問題でも行政訴訟をすべきである。届出とか認可とかいろいろあるが、日本の法制度は、それを出したり出さなかったりするようなあいまいなことを許すようなものではない。それから、日本は圧倒的に遅れているということであるが、例えば、相殺の担保的機能とか、日本が欧米より進んでいるところが山ほどある。ところが、今現在どういうことになっているかというと、日本の裁判が遅い、特許を認めるのが遅いということで、どんどんアメリカ化しろと、アメリカに留学した連中がアメリカを日本の中に植え付けることにやっきになって、鬼の首を取ったように喜んでいる。こういう珍現象が、私が奉職している法学部にも蔓延しており、そういう中で一番懸念されるのは、重要法案であるにもかかわらず、短期で国会を通してしまうことである。ストックオプションの頃から更におかしくなった。先程消費者主権という話があったが、最高裁が頑張って消費者保護をやってきた利息制限法の判例解釈を反故にするべく、貸金業法を作った頃から、日本の法制度づくりは、金融官庁も含めておかしくなっているという問題意識を強く持っている。今度臨時国会にでる国際倒産法改正もとんでもない話である。日本の税金を取れなくして、全部、外国の管財人に渡してしまうというようなおかしな話はない。そこを見切り発車した法改正である。我が国は、財政危機ではないのか。
(西村)もう一点、コミュニティと新しい規制のあり方について、神野先生からお願いする。
(神野)官民の役割分担について述べると、日本の場合、官民というのはおかしい。公は、被支配者が支配している部門で、官僚は被支配者の指示のもとで動く公僕である以上、官による公の支配というのはおかしい。公が官に支配されているのであれば、それを是正すべきである。その上、公共の領域に官のレッテルをはって、民にコミュニティなどの社会システムがあるはずなのに、それを無視して民を市場のみと考え、官から民へといわれているのはおかしい。まず、公が官に支配されているという事実が本当にあるのであれば、なぜ官から本当の公共部門を取り戻さないのか。その上で公共部門は何をすべきかということを考える必要がある。スウェーデンの教科書は、こう教えている。なぜ、映画館の料金は、プールの料金より高いのか。それは、映画館の料金は市場原理で決まるからである。プールの料金は補助料金で、料金の大部分を市町村が支払っている。一部の人々は、「補助料金など全て止めて民間に任せれば良い。そうすれば、市町村にとって安上がりとなり、プールの管理も良くなるはずだ」と主張する。他の人々は、「それは間違いだ。全て民営化すれば、不公平が拡大し、住民への影響力は減少するのだ」と主張する。私に言わせれば、官民役割分担の重要なメルクマールは、私達人間の生存に必要不可欠なものなのか、それを超える欲望なのか、即ち購買力に応じて分配して良いものなのか、それとも購買力に応じないで、必要に応じて分配すべきものなのかということである。この教科書では、映画は欲望であるとされ、プールは健康に良いものであるが、どちらともちょっと言えないところがあるので、一部市場原理を導入して一部個人負担の料金制としていると説明されている。なるべく近いところの地域社会で、決めるということが重要である。第2番目であるが、先程来石黒先生が強調されているように、それぞれの社会が持っている遺伝子があり、それを理解しないで、単純に一律に市場原理を導入しても仕方がないということは、全くそのとおりである。新たな状況が来たときに、日本の良さを生かしつつ新たな状況に対応するやり方を考えなかったことが、今日の状況を生み出したと言える。第3番目は、榊原先生のおっしゃるとおりで、日本を分権的に規制するといっても、日本の地域社会がきちんとした自立するものになっているかどうかという問題については、言い換えると、ゲゼルシャフトのゲマインシャフト化ということになる。企業が、本来地域社会でやるべきようなことまで吸収してしまっている。本来、ゲマインシャフトが持っていた地域社会でやるべきようなことまで、コミュニティを崩すことによって企業の側におんぶにだっこになっている。私は、これを切り分けて、もう一度大きな、分権の担い手となるようなゲマインシャフトを復活させるということが大切であると考えている。
(西村)以上の議論を踏まえて、八代先生、御意見をお願いしたい。
(八代)基本的に、神野先生がおっしゃっているように、規制というものは人間の生活を良くするためにあるものである点については、全く賛成である。問題は、人間の生活を悪くする規制が山のようにあるということであり、それと我々が闘っているということである。それから、なぜそうなのかというと、榊原先生のおっしゃるように、法律をうまく変えられないからであり、それがなぜかと言うと、法律改正が、国会に出る前に各省庁の中で利害調整され、骨抜きにされた法律が、更に、国会で利害調整され、二重の骨抜きになるということである。石黒先生のおっしゃった民間の人はもっと行政訴訟に訴えるべきだという点については、現行の行政訴訟のシステムでは、訴えてもほとんど国側が勝ちになるというふうに聞いている。それは、裁判官の知識、専門性が非常に欠けていることや、それから、裁判官や弁護士の量が少ない。米国は過剰訴訟と言われているが、日本は逆に泣き寝入り訴訟の社会であって、なぜそのように法務サービスが貧弱かというと、それはひとえに規制のせいである。弁護士の数が厳しく制限されている、それから今ようやく法曹改革が議論されているが、ロースクールも、そこを卒業しなければ法曹界に入れないという規制の固まりである。教育についてもそうであるが、石黒先生は、民営化すれば、社会的ニーズのあるものしか教えられなくなると言われるが、例えば、経済学、法学はなぜ国立の大学で教えなければならないのか、民間の大学ではだめなのか。米国では、ロースクールでもビジネススクールでも私学の中で一流の水準を維持している大学がある。問題は、なんでもかんでも官に任せると良いものができるという思想が日本に根強く残っていることである。本当に必要なインド哲学とか核物理学とか政府でなければできないものを国立に残し、そして、市場で競争できるものについては民間に任せる、そういう仕分けが必要ではないのかと思っている。基本は、裁量型ではなく、ルール型の規制にすることによって、あるいは、情報公開とかいろいろな形で市場の機能を強化させ、競争政策等必要な規制は強化し、必要でない規制は撤廃するという形で消費者利益をできるだけ充実していくというのが規制改革の考え方である。これについては、私は、本日の大部分のパネラーと意見の違いはないと考えている。
(西村)今、再び法律の方に戻ってきたので、石黒先生にお願いしたい。
(石黒)訴えたら負けるので訴訟を起こさないというのは、おかしい。規制緩和で、アメリカのまねをするのであれば、アメリカは、訴訟で勝ち取った企業が参入してくるというタフな規制緩和であり、そこをまねしないで、官が規制緩和するのに乗っかるのはおかしいと、私は10年前から言っている。実際、MKタクシーも訴訟を起こしている。訴えたら負けるというのは、過度の単純化である。ロースクール構想云々の議論は、私個人は嫌いである。国は、行革の一環として、国立大学に対し、財政が苦しいなら合併しろと全国の市町村に対するのと同じことを言っているに等しい。市町村が広域合併したら、地域社会に一層根ざした行政などできるわけはない。そうであるにもかかわらず、合併を繰り返している。もう一度、生活大国5か年計画の広域経済圏構想について考えていただきたい。正面から、生活圏を論ぜず、また、落ちこぼれた自治体はどこかにくっついていろ、で終わってしまったままである。
(西村)今の点について、特に民側の問題というのが提起されました。つまり、民の方は、そもそも行政訴訟もやらないし、そもそも規制改革そのものが、国の規制改革に民側が乗っかっているだけではないかという非常に強い御意見である。浜田さん、いかがか。
(浜田)最初のプレゼンテーションの中で、契約という概念を日本の経済社会の中にもう少し推進・導入すべきではないかということを提案の中に加えさせていただいた。日本の場合、契約に関する意識は欧米先進国に比べて弱い。契約社会の推進は弁護士、裁判官を増やし、訴訟社会にすることを目的とするのかという議論も出るかもしれないが、そういう短絡的なことではない。やはり、一人前の社会人同士というのは、約束をしたら守るということを社会の行動のベースに持っているという意味である。民間は約束を守るのが信用である。誰でも同じことをやっていれば、同じ結果が出るという規制ではなく、自発性、創造性を発揮できる方向にすべきである。
(西村)今のお話をお聞きしていると、問題は、根源的な教育の問題までかかってきたが、教育の問題に関して、特に契約をきちんとし、教育そのものの中に色濃く残っているかなり強い規制の概念を取るべきであるという議論が出てきている。このような中で、規制改革委員会としては、今後、いろいろな形で問題点を洗い出し、そしてそれを推進する形に持っていきたいと考えている。最後に、今日の議論を踏まえて、皆様に手短に一言ずつ御意見をお伺いしたい。まず、八代先生からお願いします。
(八代)私が本当に言いたいこととは、先程、神野先生に言っていただいたように、規制というものは、本来国民生活を良くするものであって、その原点に戻る必要があるということである。それから、市場万能主義を唱えている経済学者を私は知らない。経済学の入門書にすら政府が何をしなければならないかということは書いてある。それを無視して市場万能主義を批判するのは、良く分からない。大事なことは、規制と市場との適切な役割分担をどう考えるかということである。
(浜田)繰り返しになるが、規制改革委員会は行政改革推進本部規制改革委員会であるので、行政改革につながるような規制改革を強く推進すべきである。どういうことかというと、組織を作り、条文ができて、だからなかなか止められないことが多々あるということである。榊原さんの方から、行政は法律に基づいて、仕事をしているのだという話があったが、民間の我々も法規制の下で仕事をしている。この「基づいて」と「下で」で、徹底的に違う。行政は、法律に「基づいて」、「条文主義」で仕事をしているのかなあと思う。我々の方は、法規制の「下で」、現場・現物主義で仕事をやっている。この違いかなあというふうに感じている。したがって、条文というのが現場・現物の変化に合わせて変化できるような仕組みがない限り、延々とこういう議論を繰り返していかなければならないという感じがする。
(榊原)規制改革問題を戦略問題として捉えていくことは重要である。市場原理主義を掲げている一部を除き、大多数の人はそう考えているのではないか。また、今の規制の体系そのものについても、従来の官と民という構図のみならず、制度の中には「協会」「業界」という形で規制が行われていることがあり、これも含めて制度改革を取り組んでいくことが必要である。非常な勢いでIT革命やグローバル化が進み、情報が大きく変化する中で新しい日本型のシステムを考えていかなければならない。
(石黒)宇沢弘文、伊東光晴、岡野行秀等の名誉教授級の経済学者の間からは、今の経済学者が時流におもねていることに対する批判がでている。97年と98年で全く逆のことを言うような経済学者がテレビで勝手なことをいっているが、そういうことでいいのか。神学論争という言葉で全ての議論を片づけるのは汚いやり方である。全て私の主張はバランスのとれた行き方で規制というものを考えるべきだということである。
(神野)規制の在り方については、人々の共同の意志決定のもとに決めさせてもらうシステムの導入が必要であると考える。日本では、政治システムは社会の構成員が支配しているものであるという考え方が希薄であり、規制に対しても共同の意志決定に基づくものではないという意識が強い。共同の意志決定できる公共の空間をできるだけ多く分散して持つことが必要である。人々の生活のための規制緩和となるためには、人々の手の届くところで規制が決められていくという決定プロセスが重要である。
(宮内)失われた90年代に続いて、次の10年を失われたものとしないためには、日本経済はグローバル化した経済の中を生きていかなければならない。その意味では、経済活動については、市場原理を中心に個人の創意工夫をより活かすような経済活動をしていくということが、おそらく国民全体にとって大きな合意を作り上げるものとなると思われる。
今日の皆様からは、非常に多面的な示唆に富んだ広い範囲の意見を頂戴できたと思う。規制改革委員会としても本日の公開討論での議論を十分に踏まえ、貴重なご意見を参考に、12月に委員会としての見解を政府に提出するべく、各委員努力する。各委員は、各省庁や業界団体と十分議論していただいた上で、損得を抜きにして日本の国のためには規制改革が必要であると理解していただいていくという作業を進めております。
本日の皆様の御参加への御礼を込めて、感想を申し上げた。
(西村)本日はこれで規制改革委員会の第一回公開討論を終わらせていただく。今後引き続きまして、第4回まで公開討論を実施するので、皆様の参加をよろしくお願いしたい。
(以上)
(文責 規制改革委員会事務室)