資料1
疾病対策や保健活動は,「疾病頻度や問題点の把握」,「原因や危険因子の究明」,「有効な対策の確立」,「対策の実施」,「評価と次の問題点の把握」というサイクルを形成して進められる.この全ての段階で疫学が有効に活用されているし,逆に疫学を無視した疾病対策や保健活動は考えられない.
疫学はその対象を人間に限定しているので,ここから出てくる知見はそのまま予防活動などにつながる点が,実験室における研究や動物実験などと異なるところである.疫学研究では今日に至るまで,感染症,がんや循環器疾患(脳血管疾患や心疾患など)など,種々の疾患の危険因子を明らかにしてきた.そして,これらの疾患は日常の生活習慣や社会・文化・経済的な要因などが大きく関連しているため,諸外国における研究結果をそのままわが国に適用することは問題も多く,今後ともわが国独自の疫学研究が求められるところである.
疫学研究の代表的な手法にコホート研究がある.研究開始時点での危険因子への曝露状況に関する情報(例えば,喫煙の有無)を入手し,その後,それぞれの対象者が目的とする疾病(例えば,肺がん)に罹患したかどうかを追跡していき,曝露群と非曝露群の間の疾病発生頻度を比較する研究スタイルである(別紙参照).疾病の発生情報は,対象者への直接調査,医療機関を通じての調査,疾病登録の利用,死亡情報の利用など様々であるが,いずれにしても相当の期間を隔てての複数の情報の結合は不可欠である.
もうひとつの代表的な手法として,症例対照研究がある.疾病罹患者(例えば,肺がん患者)と適切な対照群を設定し,過去の危険因子への曝露状況(例えば,喫煙の有無)を比較するスタイルである(別紙参照).過去の曝露状況について対象者本人から直接情報を入手することも多いが,客観性を担保するために他の情報源を利用することもある.このような場合も複数の情報の結合が必須となる.
以上のように疫学においては個人情報を取り扱い,しかも複数の個人情報を結合する必要がある場合が多い.
前述のコホート研究においては,まず初めに危険因子への曝露状況(通常は複数の危険因子について情報収集を行っている)の情報を収集しており,研究開始時には想定できなかった疾患がその後に発生した場合でも,新たに研究の対象疾患とすることが可能である.このような場合において,新たな疾患については対象者の同意は得られていないが,だからといって現存する情報を活用しての危険因子の検討を行わないことは,社会の利益(疾病の危険因子解明を通じた対策の樹立)を損なうこととなる.改めて当該疾患について同意をとる方法もあるが,その時点以前に死亡した対象者も当然存在し,対象者全員から同意を得ることはほとんど不可能なのが現実である.また,新たな同意が得られた者のみを解析することは大きな偏り(バイアス)となるため,科学的な厳密さが要求される研究手法としては誤った方法である.危険因子への曝露情報についても,生体試料(例えば,凍結血清など)で保存されている場合もある.研究開始当初には開発されていなかった測定技術が新たに使用できるようになることも多く,このような場合には研究開始時点(情報収集時点)で詳細にわたる説明を行い,同意を得ることは不可能である.
前述のコホート研究においては,近年,対象とする集団が極めて大きなものが出てきている.これは,コホート研究において意味のある結果を出すためには,ある程度の疾病の発生数が必要であり,稀少疾患の観察や,罹患率が高い疾患でも病型別観察が必要なものが疫学の対象となってきていることによる.このような研究で新たに観察対象とする疾患や状態が後から発生してきた場合に,対象者全員から新たに同意を取り直すにしても,その経費は膨大なものとなり,現在の疫学研究に費やされる研究費に鑑みると,現実的ではない.
近年盛んになってきている介入研究は,介入群(例えば,健康教育を行った群)と非介入群(健康教育を行わなかった群)の間でその後の結果の発生(例えば,禁煙)を観察し,介入の効果判定を行う研究スタイルである.介入の方式として個人介入と集団介入がある.個人介入においては,通常は対象者1人1人に対して研究者が無作為に介入群にするか,非介入群にするかを割り付けるので,介入群・非介入群の割付以前に研究参加に関する個人の同意を得て実施するべきであることは論を待たない.しかしながら,集団介入においては地域,職域などの集団を対象として介入を行い,その集団と対照集団のその後の疾病発生や健康状態の比較を行うことになり,介入群,非介入群ともに構成員全員から同意を得ることは相当の困難を伴う.また,非介入群に対しては何も介入を行わずに,ただ,その集団を観察していくだけであるが,これに対して対照群であることを通知すること自体が偏り(バイアス)を導き,結果としてゆがんだ情報しか入手できなくなる.
以上のように,疫学研究においては,対象者全員の同意を得ることができない場合も多数存在し,また,同意した者だけを対象者とした場合には,実体を反映した正確な結果を得ることができない場合もあることを示した.また,全員から同意が得られていないことを理由として,現在進行中の多くの疫学研究を中止することは,健康への潜在的な脅威となりうる未知の要因を解明する機会を喪失することを意味する.このことによって生じる社会的損失については,関係者や国民と認識を共有する必要があると考える.要は,政府の高度情報通信社会推進本部個人情報保護検討部会中間報告「我が国における個人情報保護システムの在り方について」(1999年11月)でも触れられているとおり,保護の必要性と疫学研究の成果から得ることができる公共の利益(利用面等の有用性)とのバランスの問題であろう.
がん登録,脳卒中登録,その他学会や研究班で実施している疾病登録では,罹患率の推移や予後を明らかにしてきた.死亡の情報は厚生省の人口動態統計で把握できるが,致命率が高くない疾患の実体を正確に表しているわけではない.政策的な対応が必要な疾患の決定や,対策の評価には,死亡者の情報も必要だが,それ以上に患者自体の情報も重要であり,これらの情報を提供する疾病登録は唯一の情報源と言っても過言ではない.
また,新たな疾患が発生してきた場合にも,まずは患者数の把握や,情報集約による危険因子の検索が重要である.例えばエイズが新たな疾患として報告された1980年代前半には,患者の情報を収集し,集約することによりこの疾患が性感染症であることが疑われ,そして実際にウイルスが発見され,今日では感染経路が明らかにされている.1人1人の患者を観察するだけでは危険因子と思われる患者の背景は判明せず,ある程度の集団としての観察により,初めて背景因子の観察が可能となる.新しい疾患や稀な疾患においては,速やかに疾病登録を含めた全数調査を行い,臨機応変に対応することが肝要である.
まず,対象者のプライバシー権を充分に尊重した疫学研究とはどのようなものかを示すガイドラインを,委員会を組織して作成中である.ここでは個人情報の漏洩といった次元のプライバシー権保護から,自己情報のコントロール権まで含めて議論されており,本年中には骨子がまとまる予定である.なお,作成委員会では疫学者のみならず,法学者も含めて検討を行っている.さらに,将来的に法的な整備が行われれば,これに従って改訂することも予定している.
第2にはこのようなガイドラインが作成された場合に,実効性をいかに担保するかが課題となるため,倫理審査委員会を結成する予定である.この委員会では2つの役割が期待されている.ひとつは疫学者が実施する疫学研究について,計画の段階から審査し,倫理上の問題やプライバシー権の侵害の虞がある場合には研究計画の修正を求め,倫理的な疫学研究の推進を図ることである.この審査は研究成果報告後にも再度実施し,実際に計画通りに研究が遂行されたかの検証も併せて行う.もうひとつの役割として,倫理審査委員会に申請のない疫学研究についての監視である.疫学研究は疫学者のみが行うものではなく,臨床研究者や地域・職域などの保健従事者も現場のデータを活用して疫学研究を実施している.このようなケースで,本審査委員会の承認ではなく,他の倫理委員会の承認を得て行っている場合でも,疫学的にみて倫理上問題がある場合には,その事実について勧告や公表することにより,疫学研究の全体のレベルアップを図るものである.倫理審査委員会の構成メンバーについて,性別・専門に偏りがないように努め,幅広い人材を加える予定にしている.
なお,上述のガイドラインや倫理委員会の指導・助言に従わない研究については,日本疫学会総会での発表や,機関誌Journal of Epidemiologyでの公表は認めないことは,言うまでもないことである.
上記の通り,疫学者の学術団体である日本疫学会においては,これまで経験された事例を踏まえて疫学研究における個人情報保護に対する特段の配慮を予定しており,疫学研究の停止という公益に反する事態を避けるべく,個人情報保護基本法ならびに関連法規においては,疫学研究における個人情報取り扱いについて除外扱いとするよう要請するべく,本声明を出すものである.
以上
参考 疫学研究の流れ
A.コホート研究
B.症例対照研究