| (日時) 平成12年7月11日(火)18時〜20時 (場所) 虎ノ門パストラル新館4階松の間 |
○ 冒頭、文部省より資料1「教育基本法説明資料」について説明があり、続いて梶田委員から勝田委員執筆の「教育基本法について−さらに一言」が代読された。
(江崎座長)
文部省へお聞きしたいが、教育基本法のような法律は先進国には少ないようだが、学校教育法に類する法律はないのか。また、その法律には郷土愛に関する規定はないのか。理念はなくとも学校の運営はできると考えるが。
(文部省総務課長)
教育基本法は、学校教育、社会教育、家庭教育などを通じた教育の理念や基本原則を定めている。学校教育に関しては、それぞれの国で必要に応じてそれぞれ個別の法律をつくっている。
(曾野委員)
抽象的な言葉はどのようにも理解され得る。「抽象」や「理念」は浮き上がってしまい、空疎化する。「真理と平和」にしても、何が「真理」で何が「正義」かわからないものを出すのは恐ろしいこと。これを悪用されたようなケースはないのか。
(森主査)
悪用かどうかはわからないが、裁判で争われたケースはある。
(銭谷室長)
第10条第2項の「必要な諸条件の整備確立」という規定については、財政的・物的な整備にとどまるのか、教育の内容的な面まで「諸条件の整備」に含まれるのか否かについての解釈が長く議論されたことがある。
(文部省政策課長)
現場では、第10条第1項の「不当な支配に服することなく」との文言が拡大解釈され、例えば、正当に行政機関からいわれることや住民からの正当な要求も不当な支配であるとされるようなこともあった。
(森主査)
第7条は「社会教育」の規定だが家庭教育が社会教育の一つとして規定されている。社会教育法の規定との関係はどうか。
(文部省政策課長)
社会教育法の規定では[社会教育」を「組織的な教育活動」としているが、教育基本法の規定では家庭教育を社会教育の一部としてとらえるように読めてしまうことがある。このことは、地域と家庭との関係に誤解を与えてしまったのかもしれない。
(曾野委員)
第8条についてもいろいろ解釈がなされているのではないか。
(文部省政策課長)
第3条も解釈を誤ると形式平等主義に陥ってしまうという感じがする。
(江崎座長)
教育基本法は本当に必要なのか。どういう風にでも解釈できるというならば必要ないのでは。
(文部省政策課長)
昭和22年の教育基本法の提案理由説明においては、憲法改正の基礎の上に立って、民主的平和的国家を建設するためには、教育の根本的刷新が必要であって、その前提として、新しい教育の基本理念の確立が必要であること、従前の詔勅、勅令の形式ではなく、国民自らの法律で新憲法の精神を具体化した教育上の諸条件を明示する必要があること、教育上の諸法令の根拠法ともなる性格をもつものが必要だということが、教育基本法を制定する理由として説明されている。
(江崎座長)
これを今変えるとなるとどのようになるのか。
(森主査)
今出たような個別の問題点をなおして行く場合と、まったく新しい発想で書き換える場合が考えられる。なくてもよいというのもそれに含まれるのではないか。
(梶田委員)
教育は一人一人が学ぶ機会を整えることが目的だが、幼児期・就学前、社会人、引退後と学校教育ではカバーしきれない部分があり、これらをつなぐ揺りかごから墓場まで人間の発達を支援する仕組みが必要。教育基本法がこれにあたるので、教育基本法は必要だと考える。その際あまり美しすぎる言葉を使うとキャッチフレーズや飾り言葉になってしまう。
(江崎座長)
そのような教育の理念は、例えば、新しい日本国憲法の中に含まれるものではないのか。
(梶田委員)
憲法に含めてもいい。教育基本法を制定する際には憲法に入れるべきとの議論もあった。今、憲法を見直しているが、その中で入れられるのであれば、それも十分可能である。
(森主査)
外国では憲法の中で教育のことを決めている国もある。
(山折委員)
教育基本法は戦前の反省から非常にラディカルに作られている。戦前の教育勅語的な人間観を疑い、ひっくり返してしまうために必要な法律だった。だからもし50年間教育基本法が果たしてきた結果として現在の教育の状況がいいという判断であれば、その効果はもう十分であり、教育基本法は役割を終えているといっていい。しかし現実はそうなっていない。新しい問題が次から次に出てきている。これを改めるためには新しい法律が必要。憲法によって包摂されるような問題ではない。
(河上委員)
学校が抱えている問題をどうするのか、学校・家庭・地域社会の役割がどのようなものであるのかわかりやすく提示する時期に来ている。そういうことを提起して、役割が変わったらまた変えればいいのではないか。
(クラーク委員)
北ヨーロッパでは教育基本法はほとんどない。教育は、国ではなく州の仕事。フランスや中国のように中央集権が強い国には教育基本法がある。
(梶田委員)
ドイツなどの場合であっても教育に中心的な権限を発揮するところ、州レベルでは教育基本法に類するものがあるのではないか。国に教育基本法がないことをもって、その国で教育に関する基本法をつくることが大事にされていないということではない。もしわかるのであれば、教育に中心的な権限を発揮する機関が教育に関する基本法を持っているかどうかについての資料を出してほしい。
(文部省総務課長)
ドイツやオーストリアの州の中には教育基本法のようなものを持っている例があるようだ。
(曾野委員)
この法律は非常に抽象的。「目的」は書いてあるが、「方途」がない。アフリカでは「平和」というものを体験したことがない人がたくさんいる。そういった人に対して「真理と平和を希求する」ことを説くことは成り立たない。
(河上委員)
何がいいたいのかわからない文章。どうにでも解釈できる。もう少し具体的に書く必要があるのではないか。もっと簡潔でよい。
(森主査)
前文が長すぎる。各種の基本法のうち教育基本法だけが占領下に作られている。占領下の教育の価値転換の役割は終わっている。21世紀に向けてどういう教育を目指すのかという趣旨で考え直してはどうか。家庭教育は教育の基本だが、これが社会教育に含まれているのはおかしい。教育基本法であれば教育の基本に関することが書かれなければいけないが、必ずしも十分でない。また、生涯学習についての規定がないが、第2条に「あらゆる機会にあらゆる場所」、第3条に「すべての国民は」とあるので、その理念は読みとれないわけではないが、わかりづらい。一方で憲法26条に「すべての国民は」とあるので、その点ともリンクして考えなければいけない。
(山折委員)
60代、70代の先生には教育の現場の荒廃の根本的なところに宗教や倫理の問題があるという感覚が共通としてある。しかし公の場面では、このようにいえないねじれた状況がある。しかし日本人にはそろそろそうしたねじれた意識を変える必要がある。今やらないとチャンスはこないかもしれない。その点だけでも教育基本法を変えるのは意味がある。宗教教育の規定などを具体的にどうしろというようなことではない。
(梶田委員)
教育基本法はアメリカの占領文化の下で作られた輸入品であり、占領政策の道具として戦略的に持ち込まれた。法律の根本的な性格が問題。日本人が日本の将来を見据えた上でアイデンティティを形成していくときに、教育基本法は混乱の要因になる。
(河上委員)
「人に迷惑をかけなければいい」という理屈に反論するための根拠が必要。教育基本法もよく読めばそういう根拠もあると解釈できるのかもしれないが、はっきり打ち出すことが必要。
(山折委員)
教育刷新委員会の南原繁氏も「ルネサンスと宗教改革」が必要だと考えていた。それがGHQの意向とその後の社会情勢によって後退した。教育における宗教の問題は私的なものとされた。
(クラーク委員)
第9条は宗教の役割を相当強調している。当時の欧米人は、日本に宗教的なものが必要と考えていたようだ。欧米人は「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位」という強い表現は使わない。
(梶田委員)
GHQは、国家神道に代わるものとしてキリスト教を送り込んできた。「宗教に関する寛容」は、占領政策の一環として意図的に入れられたもの。宗教を本当に大事にしてきたどうかは疑問。
(沈委員)
学校は神社のお祭りに参加することができない。教育基本法がその根拠にされている。
第9条第2項は、拡大解釈されている。拡大解釈されないものをつくらなければいけない。
(田村委員)
当時の日本は、文化国家を建設する意図で教育基本法を作った。その後、実際は経済発展を求めたので、教育基本法の理念と行動にずれができてしまった。そのずれを本音と建て前という形で済ませてきたことが、教育基本法の改正の論議につながっている。日本をどういう国にするのか、豊かになったところで何を目指すのかを考えるべき。日本の子どもたちの行動原理は「損得」が基本になっている。社会が変わり教育基本法が現実に合わなくなった。
(曾野委員)
キリスト教は寛容を説いているが、宗教は世界的に寛容でないところで成り立っている。
(河上委員)
生徒も、親も畏れを知らない。「自分が絶対」と思っている。自らを超えるものがあるということを教えることが必要。小さいときから教えないと個の暴走を防ぐことはできない。
(クラーク委員)
日本人の道徳はつかみにくい「空気」のようなもの。落とした財布が帰ってくるのは日本ぐらい。日本人の伝統的な道徳は、「人に迷惑をかけない」というもので、宗教や法律で裁くことができないもの。問題は今の若い世代にこれが崩れてきていること。伝統的なルールや雰囲気に戻れるかどうかは難しいのではないか。
(山折委員)
宗教の中身や倫理の中身を議論しても得るところは少ない。我が国の教育のこれまでの基本は「科学技術」と「社会科学」。芸術・文化は周辺に追いやられてきた。しかしこれからは芸術・文化の教育を第3の軸と位置づけるべき。犯罪や不祥事に即効性のある対策を打ち出すのが国民会議ではない。具体的な対策はやり尽くされているし、実施されたにもかかわらず効果がなかったということではないか。
(浜田委員)
現在は教育について悪い条件が揃いすぎている。閉塞感をうちやぶるため教育基本法を変えるのはよいが、逐条をいじってみても仕方がない。
(今井委員)
普段の暮らしの中では、教育基本法は遠い存在。もっと国民にわかりやすい表現に修正してほしい。また社会教育と家庭教育の位置づけははっきりさせてほしい。
(森主査)
教育基本法については次回また議論したい。次に、これまでの議論を整理した資料を配布しているので説明の後、議論したい。
○森主査より資料4に沿って第1分科会の議論の概要を説明
(梶田委員)
概念としては一通り書かれているが、まとめるにあたっては10分の1ぐらいに分量を絞るべき。
(沈委員)
マスコミに対して子育てへの協力、次世代への目配りといったことをお願いできないのか。
(森主査)
三原則については、各家庭に三原則考えようというメッセージを送り、その後で案を打ち出してもよい。三原則は進歩する必要がある。学校教育目標は進歩しないが。
(河上委員)
学校教育目標は抽象的すぎる。具体的に達成できたかどうかがわからない。
(クラーク委員)
日本の子どもの不幸は教育制度自体にある。17歳に問題が起こるのは大学入試を迎えるのが原因。家庭と社会とのバランスが悪い。アメリカではサマーキャンプがあり、夏休みには家庭の外に出る機会がある。社会的な活動を重視すべき。
(江崎座長)
日本人が営利的になっているというが、神社には昔から参拝すると商売繁盛するというのがある。日本の昔からの宗教はそれほど高貴なものではない。お金を出すと良くなるということはキリスト教には絶対にない。
(曾野委員)
中川志郎氏の本に、動物は子どもをまず抱き、次に目を離さない範囲で遊ばせて、最後に突き放すということが書かれていた。
(田村委員)
日本にも戦前、青少年の社会的訓練は行われていたが、GHQの政策で、ある年齢以下の子どもは夜7時以降外出してはいけないということになった。青少年の異年齢の集団がそこでつぶれた。
(河上委員)
個人のための学校だけではなく、社会のための学校という観点が必要。学校という社会に入る前の基礎訓練を家庭でやってほしいということを入れてほしい。
(浜田委員)
ある年齢で親元を離れて一定期間農業体験をやるということを入れてほしい。
(曾野委員)
農業体験かどうかはわからないが入っている。
(森主査)
三原則を出すのは大体いいということでよろしいか。三原則のどれを選ぶかは、一任ということでお願いしたい。
(河上委員)
今起こっている事件を古い枠組みで解釈しようとしても無理であるということを書いて、当分は不安な状態が続くことを知らせる必要がある。
(梶田委員)
テレビにでている専門家たちは、事件の原因をトラウマなどど早わかりの解説をしている。何の根拠もない。原因は簡単に特定できるものではない。
(森主査)
17歳の問題について総合的学習の時間を使って、学校で議論してもよいのではないか。
(沈委員)
親や子どもたちがホワイトカラーを目指し、ホワイトカラーを誇りすぎていることが不幸な青年をつくっている。
(河上委員)
親の望みは勉強して良い学校に行くこと。親に対して「全ての子どもが勉強をできるわけではない」というと、親は「自分の子どもは違う」と言う。
(田村委員)
日本は教科主義。教科ができるのが良い生徒と言われている。教科をしっかり勉強することが教養が深くなることだと思っている。
(河上委員)
その傾向はここ20年ほどの間のこと。30年前は教科主義ではなかった。
(森主査)
分科会の報告については、キーワードを合作するのではなく、一人の人の思想・哲学で格調高く書いたほうがよいので、既に曾野委員にお願いしている。
(曾野委員)
森主査と作業会を開いて皆様のご意見をまとめて書くので、次回それをお直しいただきたい。
[文責は教育改革国民会議担当室]
(注)本議事概要の内容については、今後変更の可能性があります。