教育改革国民会議

教育改革国民会議第1分科会(第5回)議事録

教育改革国民会議第1分科会(第5回)審議事項



時 間:平成12年7月11日 18時00分〜20時06分

場 所:虎ノ門パストラル松の間

出席者:江崎座長 今井委員 梶田委員 河上委員 曾野委員 沈委員 森主査 山折委員 田村委員 浜田委員 クラーク委員 泉議員 銭谷室長

次 第

  1.教育基本法について
  2.分科会報告の検討

開 会

【森主査】それでは、教育改革国民会議第1分科会第5回会議を開催いたします。
 本日はお忙しいところ、お集まりいただきましてどうもありがとうございました。

 まず、本日は浅利委員、勝田委員、山下委員は欠席でございます。
 江崎座長のご出席をお願いしております。どうもありがとうございました。
 さらに、第2分科会から田村委員、浜田委員、まだお見えになっておりませんが、グレゴリー・クラーク委員がご出席の予定でございます。

 本日の議題は、教育基本法と分科会報告案の検討でございます。教育基本法からまいりますが、配付資料がございますので、銭谷室長から説明をお願いいたします。

配付資料説明

【銭谷担当室長】本日の配付資料につきまして、ご説明申し上げます。

 配付資料の1は、教育基本法説明資料でございます。この資料につきましては、後ほど文部省の金森総務課長から簡単に内容のご説明をさせていただきたいと存じます。

 資料2は、第1分科会所属委員から寄せられました意見のうち、教育基本法関連部分を(抜粋)した資料でございます。これは、先般、各委員の先生方にお書きいただきましたペーパーの中で、教育基本法に関わります部分を抜粋して資料といたしたものでございます。

 資料3は、教育基本法に関する各委員の発言の概要という資料でございます。これは、教育改革国民会議が始まりましてから、全体会及びこの第1分科会で教育基本法に関わりまして委員の皆様方からご発言がありました内容の概要を取りまとめたものでございます。

 それから、参考資料として、各基本法の内容構成の比較資料をご用意しております。教育基本法以外にも原子力基本法など、さまざまな基本法がありますので、その各基本法の内容等を比較してみた資料であります。

 以上が教育基本法関係の資料でございます。このほかに資料4は、第1分科会の議論の概要を主査の方でおまとめいただきましたものでございます。これまで4回の会議でのご議論をごく簡潔に主査の方でおまとめいただいたものでございます。

 資料5は、前回の会議の最後の方で「しつけ三原則」というお話がございまして、その内容について各委員から3つずつ出していただきました「しつけ三原則」の案の資料でございます。

 最後に、横長縦書きの資料は、本日ご欠席の勝田先生から教育基本法につきましてさらに一言ということでいただいた資料であります。この資料については梶田先生から後ほどご披瀝があろうかと存じます。

 以上が本日お配りさせていただきました資料でございます。

議 事

(1)教育基本法について

【森主査】どうもありがとうございました。

 それでは、教育基本法についての審議に入りたいと思いますが、審議に先立ちまして、金森総務課長から教育基本法に関する資料の説明を簡単にお願いいたします。

【総務課長】教育基本法につきまして、お手元の資料1をごらんいただきたいと思います。

 表紙をめくっていただきまして、1ページが教育基本法でございます。日本国憲法が施行されました昭和22年、同じ年に教育基本法が公布・施行されました。新しい憲法の下、新しい時代における新しい教育の理念と基本原則を定めたものでございます。

 この法律には、第1条の前に前文が設けられておりまして、民主的で平和的な国家の建設という憲法の理想を教育の力によって実現しようという、この法律制定の趣旨や目的を明らかにしてございます。

 第1条が「教育の目的」でございまして、教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者としてふさわしい資質を備えた心身共に健康な国民の育成を期して行わなければならないことを示しております。

 第2条は「教育の方針」でございまして、教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならないなど、第1条の「教育の目的」を達成するためのいわば心構えを示したものでございます。

 第3条は「教育の機会均等」ということでございまして、憲法の法の下の平等や等しく教育を受ける権利に基づきまして、こういった規定が設けられております。

 第4条は「義務教育」に関するものでございまして、4ページに憲法の規定を抜粋してございますけれども、憲法26条の義務教育の規定をさらに具体的に敷衍したものでございます。

 第5条は「男女共学」の規定でございまして、これも憲法の法の下の平等を踏まえ、戦前、我が国で男女別学制がとられていたということにかんがみ、こういった規定が設けられたものでございます。

 第6条は「学校教育」に関するものでございまして、学校教育が国民全体のために行われるべきものであるという考え方に立って、学校の設置者、教員の使命や身分についての原則を規定したものでございます。

 第7条は「家庭教育」「社会教育」につきまして、国や地方公共団体がその奨励をしなければならないということを規定したものでございます。

 第8条は「政治教育」ということで、民主主義社会における良識ある公民として、国民の政治的教養を高めることの重要性とともに学校の政治的中立の確保について規定したものでございます。

 第9条は「宗教教育」に関するものでございまして、憲法の信教の自由や政教分離の原則に基づいて宗教教育のあり方を示したものでございます。

 第10条は「教育行政」ということで、教育の中立性を確保し、教育が国民全体のために行われるべきものであるということを示しますとともに、教育行政はその目的の遂行に必要な諸条件の整備確立を期して行わなければならないということを規定したものでございます。

 こういったように、教育基本法は全体で11条からなる法律でございますけれども、学校教育だけではなく家庭教育など社会教育をも含めた教育全般についての基本理念や基本原則を示すものでございまして、ほかのさまざまな教育法令のよるべき、まさに基本法たる性格を有する法律であると存じます。

 2ページでございますが、「教育基本法制定の経緯」ということでまとめてございますけれども、昭和20年の敗戦後、一連の教育改革が行われました。昭和21年には教育全般にわたって積極的な提案を行うために米国教育使節団が来日いたしまして、報告書を提出いたしております。この報告書は、例えば6・3・3制の実施などを内容とするものでございますけれども、教育基本法のような法律を定めようとする内容は含まれておりませんでした。しかし、昭和21年6月、ちょうど帝国憲法の改正案を審議しておりました際、文部大臣から教育の基本となるべき理念や原則を法律をもって定める教育根本法のごときものの制定を考慮しているということが示されまして、8月には内閣総理大臣のもとに教育刷新委員会が設けられ、12月に教育基本法制定の必要性とその内容となるべき基本的な教育理念について建議がなされたわけでございます。

 その後、政府の方で教育基本法の案を作成いたしまして、枢密院に諮詢、帝国議会に提出いたしまして可決成立、昭和22年3月31日に公布、施行ということになったわけでございます。

 3ページは、今申し上げました教育基本法の性格や理念についてまとめたものでございますが、上の方は教育基本法の審議の際の国会における提案理由説明の内容でございますが、例えば憲法改正の基礎の上に立って、民主的平和的国家を建設するためには、新しい教育の基本理念の確立が必要であるということ。それから、従前の天皇の名による詔勅や勅令の形式ではなく、法律で新憲法の精神を具体化した教育上の諸原則を明示する必要があるということ。それから、教育基本法は教育上の諸法令の根拠法ともなるべき性格を持つものであるということ、こういったことが教育基本法の性格として言われております。

 それから、下の方の教育基本法の理念に関しましては、従来の教育の欠陥を反省する立場に立ちまして、憲法前文にうたわれている人類普遍の原理を教育の基本理念とすること、また真理の尊重と人格の完成に重点が置かれているということ、こういったことが教育基本法の理念かと存じます。

 次の4ページは、日本国憲法の教育に関する規定でございまして、法の下の平等でございますとか、教育に関する規定などが設けられているわけでございます。

 5ページでございますが、これはご参考までに学校教育法の規定を抜粋してございます。教育基本法は各分野の教育活動を通じた教育の理念と基本原則を定めた法律でございますけれども、学校教育法では小学校、中学校、高等学校それぞれの学校ごとの目的や教育目標を定めた規定がございまして、例えば一番上の段は小学校でございますが、17条が目的、18条は目標ということで、1号には学校内外の社会生活の経験に基づき、人間相互の関係について正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。2号では郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと、などの小学校教育の目標が掲げられているところでございます。

 また、真ん中の段は中学校でございますけれども、36条を見ますと、中学校における教育の目標として、1号でございますが、小学校における教育の目標をなお充分に達成して、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと、などの目標が設けられているわけでございます。

 高等学校につきましても、そういった目的、目標が設けられているということでございます。

 最後に、6ページ、7ページでございますが、外国でこういった教育基本法に相当する法律があるかということでございますけれども、アメリカでは教育に関する事項は基本的に州の専管事項とされておりまして、我が国の教育基本法に相当するようなものはございません。イギリスにも我が国の教育基本法に相当するようなものはございません。

 フランスには、最近のものとして1989年に制定された教育基本法がございます。全体で36条からなるものでございまして、例えば国民の教育水準の向上のための目標など、日本の教育基本法に比べますとかなり具体的な数値目標や具体的な事柄が規定されている教育基本法でございます。

 それから、ドイツには我が国の教育基本法に相当するものはございません。

 中華人民共和国でございますけれども、1995年に教育法が制定されておりまして、これは全体で84条からなるものでございますけれども、社会主義建設理論等の指導の堅持をはじめ、教育の理念・目的だけではなく、教育制度全般の原則的な枠組みを定めた総合的な法律でございます。

 それから、大韓民国でございますけれども、1949年の教育法が1997年に全面的に改正されまして、29条からなる教育基本法が制定されております。教育理念や学習権の保障のほか振興すべき教育分野を幾つか規定した条文も見られるところでございます。こういったところが諸外国の教育基本法に相当する法律でございます。

 以上でございます。

【森主査】どうもありがとうございました。特に質問という形をとりませんので、議論を通じてまた質問していただきたいと思います。

 続きまして、本日欠席の勝田委員からぜひこの会議でご報告をということで、梶田委員が勝田委員の文章をお読みいただくことになっておりますので、梶田委員からお願いいたします。

【梶田委員】勝田先生のご意見につきましては、これに取り込んであるものに2つか3つ詳しく述べられております。私はいつも隣に座らせていただいておりますので、きょうは私に自分の意のあるところを何とか発言しておいてほしいということですので、皆さんのお手元にあるかとは思いますが、これを代読させていただきます。

 「7月11日、本学に寛仁親王殿下が客員教授としてご来講くださいます。その日私が不在では失礼ですので、第1分科会例会を欠席させていただきます。ご海容願います。

 しかしながら、その日の主要議題である教育基本法の問題は小生ずっと前から最も関心あるところですので一言いたしたく、梶田先生に代読をお願い申してございます。

 すでに教育基本法について、その前文と第1条、さらに第9条に関して詳細なる拙文を提出いたしました。恐縮ですが、委員各位に読んでいただけますよう伏してお願い申し上げます。

 結論的に、次のように提案いたしたく存じます。

 (1)前文は削除してかまわない。

 第1、前文の文章は日本語としてぎこちない点が多いと考えます。ほんの一例だけをあげますと、冒頭に「われらは、さきに、日本国憲法を確定し」云々とあります。同じ文言は、憲法前文にも見られます。まるで、税金の「確定申告」をするかの如くです。ところが、原文(英文)を参照しますと、「確定し」にあたる語は《establish 》です。「イスタブリッシ」には、ちゃんと(法律を)「制定する」の意味があります。これを「確定し」と訳した(多分外務省の?)お役人の英語力は、失礼ながら、必ずしも高いとは思われません。

 次に、第1条(教育の目的)。この条文の日本語も、お世辞にも名文とは言えません。完全に書き改める必要がありましょう。書き改める折に、「我が国の良き伝統と美しい民族文化を静かに体現し、祖国と世界の平和と福祉のために貢献する知的と志操と活力ある青少年の育成」といった文言を入れていただきたいものと思考いたします。

 (2)さらに、すでに提出した拙文で田辺元先生の「種の論理」を援用して申しましたように、教育基本法がすっかり欠落させている“教育の理念と目標”を明記すべきであろうかと存じます。すわなち、「家族愛、郷土愛、祖国愛」の涵養がこれです。

 (3)次いで、教育基本法第9条(宗教教育)に関してはすでに拙論で何度も詳述しましたように、GHQによる介入と干渉の以前に起尊された文章を復活すべきであろうかと存じます。

 つまり「宗教的情操の涵養は、教育上これを重視する」。他方、公立学校においては「特定の宗派的教育および活動を禁じる」と。

 なお、第5条(男女共学)の条文は、もはや不必要ではないかと思われます。

 最後に、蛇足ですが教育基本法全体の文章の拙劣さは、救い難いものがあるとさえ思われます。別に名文に書き改める必要はございませんが、せめて簡潔かつ明快な日本語にいたしたいものです。この点、どうか、文部省秀才官僚の皆様のお知恵を借りたいと存じます。」

 以上です。

意見交換

【森主査】どうもありがとうございました。

 それでは、これから1時間20〜30分かけまして、教育基本法についてのご討議をお願いしたいと思います。差し当たっては自由にご発言いただきたいと思います。どなたからでもどうぞ。

【江崎座長】先ほどの金森さんですか、この教育基本法は先進国である国は比較的少ないというのですが、学校教育法のようなものはどうでございますか。学校教育法には、先ほどの勝田さんの話ではございませんが、郷土愛とかそういうものも若干入っておりますね。学校教育法は海外と比べますと、その点、説明していただければと思いますが。

【総務課長】それぞれの国でそれぞれの学校教育について規定した我が国の学校教育法に相当するような法律はございます。その内容はさまざまでございまして、基本法と違うところは、理念、原則というよりは、むしろそれぞれの学校に即した具体的な規定が設けられているというところでございます。

【江崎座長】わかりました。学校教育法の方が具体的なものだし、実際に必要で、各国にあると。理念的なものは、学校を運営するになくても構わない、なくてもやっている国があるということですね?

【総務課長】教育基本法の方は、学校教育、社会教育、家庭教育、いろいろな分野の教育全般を通じた理念や基本原則を定めたものでございます。我が国もそうでございますが、それぞれの国で必要に応じてそれぞれ個別の法律をつくっているというような現状でございます。

【江崎座長】ありがとうございました。

【曾野委員】私は、多分、こういう抽象的なものというのはどんなにでも解釋されるだろうという感じがするのですね。悪用されないうちは結構なものなので言いようがないという、大変ずるい表現だと思うんですけれども、今、抽象的・理念的と江崎先生もおっしゃっておられましたが、この「抽象」と「理念」というのは、間違いなく浮き上がって、しかも空疎化するという必然的、物理的な力を持っております。

 私は「真理と正義を愛し」なんて恐ろしいことは言えないんですね。何が真理で、何が正義がわからないというものを出して平気だという感覚がよくわからない。それから、「個人の価値を尊びながら、自他の敬愛と協力」、なかなか難しいところがあります。

 こういう、ある意味で日本語としてあやふやな文章というものの怖さをどういうふうに感じたらいいのか危惧を感じています。「悪用」されると困ります。

【森主査】悪用かどうかわかりませんけれども、裁判で争われたケースはあります。

【銭谷担当室長】これは私の個人的な感じですが、例えば教育基本法の10条がございます。例えば2項に「教育行政は教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」とあります。この文言について、「教育の諸条件の整備」は、財政的・物的な整備いわゆる外的な条件整備に限定されるのか、それとも教育の内容的な面の充実も「諸条件の整備」に入るのかということをめぐって、長く議論があったということはございます。

【曾野委員】ですから、日本でプールを全部つくったんですね。あれなんか、国費の無駄遣いだと思います。ほとんど30日か50日くらいしか使えない、せいぜい2カ月。各校にプールをつくるなんてことは全く要らないんですけれども、そういうことが行われた。今、そんな貧しい例しか思い浮かびませんけど。

【政策課長】例えば、第10条の第1項でございますが、「不当な支配に服することなく」と書いてございます。もちろん、これは大事なことではあるのですが、これが極めて拡大解釈をされてまいりますと、例えば正当に行政機関から言われることも不当な支配であるというようなとらまえ方をされたり、あるいは一方で住民の正当な要求に対しても不当な支配であるというようなことがなされるということが現場で私ども行政に携わっておりますと問題視されるようなところかと存じます。

【森主査】それから、悪用かどうかわかりませんが、第7条「社会教育」ですが、ここで「家庭教育及び勤労……」という、「家庭教育」が社会教育の中に入っているようになっていることは、社会教育法の規定が違うんですね。その関連はどうかといったような議論もあったかと思います。

 社会教育法の規定はすぐにわかりますか?

【政策課長】社会教育法の規定では「社会教育」を「学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動」とされておりますのが、教育基本法の規定ではおっしゃるような問題はございます。家庭教育を社会教育の一部ととらえるように読めてしまうことが地域と家庭との関係を少し誤解を招くようなことになっているということはあるのではなかろうかと思います。

【曾野委員】第8条もいろいろ解釈されますでしょう?

【政策課長】はい。これもそういうようなことで、過度に防御的になったり、あるいは一方で拡大解釈をされたりということがあるようです。

 それから、言うまでもなく第3条の「機会均等」について解釈を誤ると形式平等主義に陥ってしまうというようなことが起きないかという感じがございます。

【江崎座長】この教育基本法が必要だと論議されたことはございますか。

【森主査】いいえ。

【江崎座長】その点は、文部省その他からご意見ありますか。

 学校教育法はいろいろ具体的にやってこれは必要だと思うんですが、それに対して曾野先生も若干おっしゃられた、こういう抽象的などういうふうにでも解釈できるようなものが本当に必要かどうか、その点は皆さんどういうふうにお考えですか。

【総務課長】教育基本法が国会に提案されました際の提案理由説明を先ほど資料の3ページでご紹介申し上げましたが、ここでは3つに分けて説明されております。

 1つは、憲法改正の基礎の上に立って、民主的平和的国家を建設するためには、教育の根本的な刷新が必要であって、その前提として新しい教育の基本理念の確立が必要であること。

 それから、戦前は教育勅語がございましたけれども、そういったものではなくて、国民自らのものとして法律で憲法の精神を具体化した教育上の諸原則を明示する必要があること。

 それから、教育の理念を宣言して、ほかのいろいろな教育法令の根拠法となるような性格を持つものも必要だということ。こういったことが教育基本法を制定する理由として説明されております。

【森主査】特に2の「従前の詔勅、勅令の形式ではなく」という、戦前は教育勅語をはじめ小学校令とか、学校教育法に当たる法律ではなかったので、戦後は法律でという、何か法律が神様のようなありがたみが当時あったんだと思うのですが、それで教育の根本法規という発想が出てきたのではないかと思います。

【江崎座長】現在、もしそれを変えるとしますと、どういうことになるんですか。

【森主査】よくわかりませんが、今、たくさん出ましたような問題点を是正するということがある。もう一つは、全面改定といいますか、全く新しい発想で書き換えるのか、いろいろな考え方があると思うんです。なくてもいいという考えもそのうち入るかもしれませんが。

【梶田委員】もちろん、なくてもいいのかもしれませんが、教育というのをどういうふうに考えるかなんですね。教育をもし一人ひとりが学び、成長する、そういう機会とか仕組みをどういうふうに整えていくかということだと考えますと、教育というのが「ゆりかごから墓場まで」になるわけです。人間というのは、死ぬまで発展するわけですから、少なくともその可能性はあるわけですから。

 それが、学校教育というのは普通はある準備期間の部分だけをカバーしている。ところが、学校に入る前に、フランスの就学前教育で強調されるように、幼児期において社会そのものが責任を持って、一人ひとりがきちんと育つように保障しないといけないだろうというのもある。

 それから、学校が終わって、企業に勤め、あるいはいろいろなところで仕事をするときにも、一人ひとりが発展していくためのいろいろな社会的仕組みを考えていかなければいけないだろう。あるいは、そういう現役を引退したからでも考えないといけないだろう。

 もし、こういうふうな考え方に立つとするならば、社会教育法とか今の学校教育法を超えたものが必要だろう、あるいはつなぐものといいますか、貫くものというか、「ゆりかごから墓場まで」の人間の発達というものをどういうふうに考えていったらいいのだろうか。もちろん個人の問題なんだけれども、社会そのものがそれをどう支援したらいいだろうか、そこは難しいですね。支援し過ぎてもいけないし、といって放っておいてなるものだろうか、社会の方で責任が負えるのだろうかという話もある。

 だから、私は、「教育基本法」という名前をつけるかどうかは別として、今の学校教育と社会教育について決めたものだけでは、赤ちゃんからご老人にまで至る、人間一人ひとりを発達していくのを支援する仕組みについての原理を定めるということはどこかに必要だろうと思います。

 ただし、気をつけなければいけないのは、さっき曾野先生がおっしゃったように、そこにあまりにも美し過ぎる言葉ばかりで散りばめられますと、それは理念ではなくて、単なるキャッチフレーズで、飾り言葉だけになりますので、「青丹よし」みたいな形になりますので、そこは気をつけなければいけないと思いますが、やはり私は存在意義そのものはあると思います。

【江崎座長】今おっしゃったことは、例えば新しい日本国憲法の中に含まれるというものでもないんですか?

【梶田委員】憲法の中に含めたっていいですね。ご存じのように、教育基本法を制定するときに、憲法の中に入れるべきだという論議があったんですね。しかし、その部分が重くなるとか、いろいろな論議があったようでして、別立てになったという経緯があります。

 今、憲法を見直しておられますから、そういう中でいけるんだったら、それも十分可能だろうと思います。

【森主査】外国では、憲法の中でかなり教育のことを決めている国もございますね。

【山折委員】戦前の教育勅語がああいう形で非常に行き過ぎてしまったという歴史的経験があるわけで、教育勅語の行き過ぎた面を大きく軌道修正をする必要が昭和20年の段階であったと思います。

 ですから、ある意味では非常にラジカルな教育に関する路線というものがあの段階で考えられて、それがこの教育基本法に結集したのだろうと思います。この教育基本法は見事にその役割を果たしたと思います。戦前の教育勅語的な教育観といいますか、人間観というものを根底から疑い、これを引っくり返した。50年で見事にその役割を果たしたと思います。

 ただ、そのような役割を果たした結果、現在の教育の状況でいいという判断があれば、もう教育基本法はなくてもいいようなものですね、その効果は十分に発揮したわけですから。しかし、この50年、教育基本法によって戦前のマイナス面は克服したけれども、新たな問題が出てきたという認識が我々には恐らくあるのだろうと思います。それをまた軌道修正するために、改めていくためにもう一つの法律が必要だろうというふうに私は思うんです。

【河上委員】私は法律のことはよくわかりませんが、中学校の現場で考えてどうかというようなことで言いたいと思います。まず、教育基本法というのは何十年もつのか、あるいはもたせるのかという、そこが一つよくわからないんですね。

 次に、今、山折さんがおっしゃったように、現在、例えば学校の現場が抱えている問題とか、あるいは現在の小学生、中学生、高校生あるいは青年といってもいいと思うんですけれども、彼らの抱えている問題をどうするかというようなことを考えたときに、考え方の基準をはっきり提起した方がいいのではないかという気がするんです。

 もう一つ、今、梶田さんがおっしゃったように、家庭で赤ん坊が生まれてから学校へ入れて、卒業して、さらに死ぬまでの教育というものがもしあるとすれば、どこがどういうふうな役割を果たすのかということが、今現場でははっきりしていない。例えば、中学校で言うと、親が学校に任せ切っているというのか、ある意味で言うと「捨てている」ような感じもあると思うんですが、そういう親も多いですし、逆にいつまでも親が中学生にかかわり過ぎているということもあるでしょう。

 子育てとか教育とかに関する考え方、それは日本の文化とか伝統というものに絡むと思いますが、人間にとって教育とは何かという根本的な問題も含めて、もっとわかりやすく提起しないといけないのではないかという気が強くしています。

 さっき山折さんがおっしゃったように、そういうようなことを提起して、何年かたって、あるいは何十年かたって、役割が終わればまた変えればいいではないか、そんな感じが強くするのです。

【クラーク委員】外国で教育基本法は北ヨーロッパではほとんどないです。

【江崎座長】そうです、ありません。フランスだけがあるということで。

【クラーク委員】普通の場合、国家ではなくて、私の国も同じなんですが、州ですね。中央集権の強い国、フランスとか、中国とかの共産主義だったら教育基本法はあります。

【梶田委員】ただ、州が持っている場合、特にドイツなんかは完全に州ですね。これなんか、多分、州によってそれに類したものがあるのではないかと思うんですが、私は幾つかの州でそういうのは聞いたことがあるのです。

 結局、どこかが教育について責任を持つ。つまり、国の姿が違うわけですから、日本みたいに東京で全部決めるところと、幾つか大事なところについては州で決めるところと違うわけですから、国に教育基本法がないからその国で教育に関する基本法をつくるということは大事にされていないということではないですね。もし、州が持っていればそのレベルで大事にしているということですから、もしわかるようでしたら、何かの機会に、これはたくさんである必要はありませんが、例えばイギリスであればイングランドのあれも一種の州みたいなものでやっているわけですから、そういうものがあるかどうかとか、つまり教育ということについて中心的な権限を発揮するところにおいて、基本法を持っているかどうかという、そういう資料を一度出していただくといいのではないかと思うんです。

【総務課長】例えば、ドイツなどの例を見ますと、連邦レベルでは教育基本法というのはございませんが、州レベルでは憲法に比較的詳細な教育規定を設けている例とか、あるいは別の国でございますが、オーストラリアなどを見ますと、連邦には教育基本法はございませんけれども、州によってはそういうものを持っているところもあるようでございます。

【曾野委員】この文章には「目的」は書いてあるんですが、「方途」がないというような気がします。例えば、抽象的に言うと「平和と真理を希求するには勇気というものが要る」−−そういうものは全然省いていますから、どうしたらその目的を達成できるか書いていないという感じなんです。

【森主査】「勇気」はかねがねあらゆる面で欠如している、勇気は徳の一部だというね。

【曾野委員】この前申し上げたと思いますけれども、「平和って見たことない」という人もアフリカにいました。27歳くらいの平均寿命のところで、生まれる時からずっと部族抗争の中で生きて来た人々に「真理と平和を希求する」というのが当然だという前提は成り立たないわけです。日本国家ならそれでよろしいんですけれども、日本国民が世界中そうだと思うとまた間違いなところもある。

【河上委員】ともかく、文章を読んでよくわからないです。はっきりしないんです。前文なんか読んで、何が言いたいのかよくわからないです。もうちょっと、例えば普通のおじさんやおばさん、子どもが読んでも「こういうことなのか」とわかる文章でないと私は意味がないだろうと思うんです。

 先ほど曾野さんがおっしゃったように、あまりに抽象的にし過ぎるといくらでも解釈ができますから。もう少し具体的に書く必要があるのではないか。この文章はあまりに抽象的過ぎて、どういうふうにでも解釈できてしまうというのはよくないだろうという気は強くします。

 だから、もっと簡潔でいいと思うし、はっきり「何だ、こういうことなのか」という……。

【森主査】前文のある法律というのは、基本法だけだと教育界では言われるのですが、教育以外の基本法には前文があるんですか?

【銭谷担当室長】参考資料をごらんいただきますと、観光基本法、高齢社会対策基本法、ものづくり基盤技術振興基本法、男女共同参画社会基本法、こういった法律には前文はございます。

【田村委員】国会図書館法には前文がありますね。非常にレベルの高いというか、憲法の前文みたいな前文がありますね。

【森主査】憲法の前文は、帝国議会で議論されたとき、私はまだ高校生か中学生で、新聞で読んでおもしろいと思ったのは、ある議員が質問で「この前文は長過ぎる。あたかもsdのよだれのごとく、切れるかと思うと続き、続くかと思うと切れて……」、そこのところだけは覚えているんですけどね。

 確かに、前文というのは、国際会議のいろいろな法律を見ても長いのが多いですね。児童の権利条約にしてもワンセンテンスですから、これはもう少し考えてもいいような気がします。

 それと、もう一つは、我が国にたくさん基本法がありますけれども、教育基本法だけが占領下の法律なんですね。あとは全部、独立してからの法律なんです。だから、占領下の教育の価値の転換のときの機動力を出す意味では、もう役目は終わったという感じがしないでもないのですが、今度は21世紀に向けてどういう教育を目指すかというので考え直してもいいということも言えるのではないかと思うんです。そういう主張は、梶田さんがかねがねおっしゃっているところなんですが。

 よく言われる批判は、教育基本法は「蒸留水のように無味乾燥」、そういう意見が多いですね。人類普遍の原理−−まさにそれはそうなんでしょうけれども、日本という国が見えてこない、これは勝田先生もおっしゃっています。私の個人的な不満を言えば、家庭教育が社会教育の中に入っているというのはどうも理解できないので、これは臨教審以来、「家庭教育は教育の原点だ」といっている。原点が見えない基本法は基本法ではないのではないかと思うことが一つと、それから河上先生がおっしゃったように、教育基本法なら教育の基本に関することが書かれていなければいけないと思うんですが、そういう観点から見ると必ずしも十分とは言えないのではないかという気がしますのと、基本はだれでも理解するように書くべきだというのは、これは考えてもいいのではないかと思います。

【河上委員】山折先生は一貫して前文を大事に書くべきであるということを主張なさっていますね。具体的な方策よりも、むしろ考え方をきちんと主張すべきであるという主張です。

 人間とは何なのか、教育がどうして必要なのか、学校の役割は何なのか、家庭の役割は何なのか、みたいなことがなるべく簡単に、うまく表現されるようなものがあった方がいいのではないかと思うんです。これは余計なお節介なのかもしれないけれども、現状を見ると、そういうことがすごく混乱している状況がありますから、はっきりした考え方を出すということが、必要なのだろうという気がするんです。

【森主査】もう一つの問題点としてよく指摘されることは、生涯学習の考え方が出ていないということがあるのですが、これはよく読めば第2条の「あらゆる機会にあらゆる場所」とか、第3条の「すべての国民は」とありますから、“生涯学習”の言葉はないけれども理念は読み取れないこともない。ただ、読み取りにくいですけどね。

 同じことが憲法26条についても言えるので、憲法26条でも、“生涯学習”という言葉は使っていませんが「すべて国民は」と言っているので、憲法26条とリンクして考える必要が出てくるのではないかという気がいたします。

【山折委員】学校現場の先生方のご意見を伺っておりますと、私もそれほど広範囲にわたってそういう機会があったわけではありませんけれども、小・中・高なべて校長先生とか教頭先生とか、やはり60代、70代の先生方が共通にお感じになって、本音で言われていることは、「今のこの教育の現場の荒廃の根本的なところに宗教とか倫理の問題が非常に深くかかわっている」ということを例外なしに言われるんです。

 それは、恐らく社会のさまざまな分野における倫理的な不祥事の問題とも連動しているわけです。そういう自覚を大体例外なくお持ちになっているにもかかわらず、公的な場ではそれは絶対に口にされないんです。

 そういう日本人のいわば指導的な立場においでになる方々が本音と建前という二元的な形で宗教とか倫理の問題を語っているという、意識の自己分裂状態のようなものはすごく不幸だと思うんです。だから、いつも議論をやりながら、しかしどこかそのようなところで上滑りしているということになっている。そういう意識の二重構造を生み出した根本的な原因は、私はこの教育基本法にあると思うんです。そこのところは何とかしなければならない。

 別に宗教教育というものを具体的にどうしろ、道徳教育をどうしろということではなくて、その前の問題として、戦後、日本人の自己意識に嘘があったということです。これはやはり何とかしなければいけない。そこの第1点だけでも、教育基本法を変えるということの意味が私はあるだろうと思います。これは非常に危機的な問題でもあって、20年後、30年後の日本の将来のことを考えますと、今やらなければ、もうやるチャンスがないだろうという気がいたします。そういう意味で基本的なことだと、私は思っております。

【梶田委員】私も、実はポイントは今のところあたりに一つあるなという気がするんです。私、3回目か何かの全体会でお話をさせてもらったので、同じことを繰り返すばかりではいけないとは思うんですけれども、これが占領下において、アメリカの精神文化を基調にして、しかも当時の昭和初年からの日本のファナティックな、ある時期の非常にまずい精神状況があった、それを覆すという戦略的な意味を込めて行われたと。

 したがって、2つの意味の大きな限界があるわけです。1つは、この精神そのものが日本の土着のものではないのです。日本的なものではないのです、輸入品なのです。もう1つは、非常に戦略的といいますか、これを道具として使うためにやったのです。教育勅語的なものを覆すために持ってきたということがある。この前申し上げたように、その時点では一定の意味があったと思うけれども、もう55年もたって、それをそのまま残しておくこと自体が、敢えていうと国辱的なものですね。もっと言うと、日本人が日本の将来を見据えた上でアイデンティティを形成していくというときに、こういうことがむしろ混乱の要因になるというふうに思います。

 ですから、今、山折先生もおっしゃったけれども、そういうところはいつも念頭に置かないといけないのではないか。細かいところはいろいろ考えなければいけないと思うけれども、教育基本法の根本の性格はいつでも忘れてはいけないと思います。

【河上委員】じっくり読めばそういうふうに読めるとは思うんですけれども、例えば最近「好きなことは何やってもいいんでしょう」とか「自分の嫌なことはやらなくてもいいんでしょう」とか「人のことなんか、どうだっていいんでしょう。人に迷惑をかけなければいいんでしょう」というような子どもが大量に生まれていますね。これは大人もそうなっていると思うのですが、例えばそういうふうに言われたときに、こちらがひるむんです。「そうでないんだ」というふうに一歩突っ込むだけの根拠がないんです。多分、教育基本法をよく読めば、そういう根拠もあるというふうに解釈できるのでしょうけれども、「それは違うんだ」というようなものがはっきり打ち出せないとだめなのではないかと思うんです。

【曾野委員】「個人の価値を尊び」というのが書いてありますよ。

【河上委員】そうですか。どちらにでも読めてしまうんでしょうね。「健康な国民の育成」というところではそうではないように読めるんでしょうから、現在のそういう状況からすると、そういう行き過ぎた状況に対してそうではないんだよというところがどこかにないと。それから、これは宗教みたいなものがバックボーンにあれば、多分、そういうものをコントロールする力になるんでしょうけれども、私らはどうもそういうものがないようですから、そういうバックボーンになるようなものが必要なんだろうと思うんです。

【山折委員】もう一つ申し上げたいと思いますのは、資料1の2ページに「教育基本法制定の経緯」という資料が出ております。昭和21年8月に教育刷新委員会が設置されたとあります。このとき、たしかこの委員会の委員長は安倍能成さん、副委員長は南原繁さんだったと思います。やがて、委員長に南原さんがなられるんですが、このころの南原さんの論文、演説の内容を見ますと、一番最初のところに「これからの日本の教育を考える場合には、ルネッサンスと宗教改革の精神が必要だ」とはっきり言っておられるんです。

 ここでは、米国教育使節団が来て、それに対応して日本からも代表団を組織してアメリカに行って、たしかワシントンで講演をしておりますが、そこでも冒頭に言っているのはそのことなんです。果たして西洋型のルネッサンス、宗教改革という問題の出し方がいいか悪いかというのはまた議論がありますけれども、とにかく宗教改革ということが戦後の日本教育を考えていく上で不可欠な最重要事だという認識はあったと思うんです。それは本音で、やはり情熱的に南原さんは主張されていた。

 ところが、やがてそれがスーッと後退していくわけです。1つはGHQの圧力、もう1つは日本の当時の社会情勢、社会主義勢力の運動が盛り上がった。そういうことでずっと後退していって、その2つの条件を南原さんはいつの間にか引っ込めてしまった。それで、教育における宗教の問題、ルネッサンスの問題、特に宗教の問題は私的なものとして受け止めて考えていけばいいというふうに路線転向しております。

 教育基本法成立過程の問題を考えてみましても、あのときまでは日本人のリーダーはやはり本音で語っていた。その後、二重構造で語るようになった−−この不幸です。この不幸を何とかしなければいけないと私は思います。

【クラーク委員】きょう、遅れましてごめんなさい。

 教育基本法の第9条をごらんになれば、かなり宗教の役割が強調されているのではないかと。

【山折委員】そうです。ただ、これは空文になっていると思います。

【クラーク委員】いずれにしても、私、西洋人として、当時の雰囲気をちょっと覚えているのですが、当時のアメリカとかオーストラリアは日本にとって宗教が必要だと−−できれば、西洋的な宗教が必要であるのではないかと、南原さんと同じ意見があったのではないかと思います。だから、第9条となったんです。宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、これはかなり強い。我々欧米人は、そういう言葉を使わないんです。私、初めて読んだのですが、びっくりしました。ごめんなさい、当時の欧米人は日本に対してかなり優越感は強くて、「あのだらしのない民族のために宗教が必要である。なければ、サムライ理念に戻って、軍国主義に戻っていくのではないか」という心配は強かったんです。

 いずれにしても、ただ問題は、どういう宗教かということです。欧米宗教はもちろん日本人の心に合わないでしょう、これが問題だったんです。だから、あまり意味はなくなりましたけれども。GHQはどうかわかりませんが、当時の世論は、特に私の国オーストラリアでは、日本人のために宗教を早く導入しないと危ないのではないかと。

【梶田委員】そのとおりなので、この前、私の地元の京都新聞が大きな特集がしまして、GHQが戦後すぐ国家神道に代わるものとして、キリスト教の各派、特にアメリカから派遣をいろいろな形で要請しているのです。今、おっしゃる占領政策のある一部分として、そのときにアメリカを中心としてたくさんのミッショナリーが来て、私のおります学校もそのときにそういう一環でつくられたんです。

 ただし、その場合の宗教というものが先ほど言いましたように、やはり欧米的な意味での宗教なんですね。だから、文言として「宗教に対する寛容」という言葉はあるかもしれませんが、日本的に言ってそういうことがメークセンするかどうかなんです。私は、そこが問題ではないかと思っております。

 ですから、今、クラーク先生がおっしゃった点は非常にあるのですが、宗教を本当に大事にしているかどうかとか、少なくともそういう意味で受け止められてきたのかということが、ちょっとそこは問題かなという気はします。

【沈委員】今のと少し関係があると思うのですが、第9条の件でいろいろなご意見もあろうと思いますが、私が現場で見た第9条のことを申し上げたいと思うんです。

 鹿児島は、ご存じのとおり尚武の国で、ことしは関が原400年祭、島津藩主が敵中突破して帰ったというので、至るところに400年祭記念の旗が立って、旧暦9月15日を待っているわけです。その神社の祭には、戦前からほとんどの学校が戦争中は鉄砲を担いでみんな行きましたし、戦後もGHQが帰っていきますと、校旗を先頭に何百人が整列して、片道20キロの道を歩いてお参りをする、そして青少年を鍛えるという風土が今でも残っているのです。

 ただ、そのとき、初めて気がついたのは、神社の入り口までは学校行事なんです。校長先生、教頭先生が先頭に立って粛々と行進をしていくわけです。そして、そこに近づいたら、「これにて学校行事終わり」と宣言して、そうするとPTA会長が出てきて「これよりPTA行事に切り換える」と言って、その列がそのまま参内して、お祓いを受けて、また歌を歌って帰ってくる。境内を離れると再び学校行事に返り、「列を正せ」ときちんと並んでいくふうが今でもあるのです。

 ただ、それを見ている子どもたちが目の前で校長先生とPTA会長が行う、法律の裏をかく劇を見て、実に情けない、そして世の中ってこうやればやれるのがという感じを持っているのです。私は、そのとき非常に不思議に思って、教育委員会に行って「なぜ、あんなばかなことをするか」と言ったら、「教育基本法に書いてある。しかも昭和24年の次官通達によって、さらにきっちり決めてある。だから、これをそのままやったら校長先生以下みんなクビだ。だから、子どもには悪いけれども、あの基本法がある限り、子どもの前でドラマをしなければならんのだ。それをやらなければ、地域の人が昔の英雄を偲ぶ、それに今の若い者は来ないのか。学校は何しているのかということになる」という、学校のジレンマを聞かされて、初めて教育基本法の存在と。地方では、そういう形でこれに抵触せず、しかも地域の意味を生かすために、みすみすドラマを演じなければならないことがある。

 そして、またある地域で、子どもたちに神仏をおそれて、神に祈る心を持たせようというので、「毎朝学校に行く前にご先祖に拝礼して、線香をあげて、そして学校に行くようにしよう」ということを決めたら、ラジカルな教育職員の組合から「教育基本法第9条違反である。そういうことを、しかも学校の一室を借りて決議するのは大問題だ」と言われまして、そしてPTAの会長さんは普通の方ですから、元気がないので、「そういうことなら、それはやったらならんぞ。つかまったりしたらいかんじゃ」ということで、それも消えていきました。これもやはり基本法です。

 それから、第10条の第2項のところでありますけれども、やはり激しい先生方は、ちょうど戦争中の陸軍の統帥権みたいな、青年将校が「我が国の軍隊は代々天皇の統率したところにある」という、軍人勅諭の直接天皇の統帥下にあるということから、日本の陸軍が暴走したわけですから、同じように教育がだれからも支配されないんだという、これを論拠にして非常に議論をする若い教師と何人にも会いました。だから、このように極端な拡大解釈をされないように、そしてまた子どもの前で嘘をつかなくても済むような、わかりやすくて、しっかり実現できるようなものに書き換えてもらいたい。

 どう書くかということについては、具体的なもの、歴史的なもの、文化的なもの、伝統的なものの尊重とかいろいろありますけれども、まず拡大解釈されないこと、そして間違ってやることで法律に反するような結果が出ないようにしてもらいたいということで、私はこの際、もう一回手を入れるべきだということを考えております。

【森主査】それがなくなっても、憲法20条2項で「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」とありますが、これに抵触……。

【沈委員】宗教活動というものの限界なんです。島津義弘という殿様は仏教徒だったんですから、そして今神社に祀られている。その程度の宗教観が人の心まで左右するかというと、そこまで宗教を厳しくやってくると、心の教育も何もできなくなると思います。

【梶田委員】私の箕面という町、これは箕面忠魂碑訴訟というのがずっとありまして、神道式で地鎮祭か何かやったのを未だに引きずって、だけれども結局は箕面市が勝ったわけですが、日本の場合で、神仏をという場合、祭天の古俗みたいなところがあるわけです。昔から、一つの習俗として、日本人が1000年も2000年も天を敬い、祖先を敬いしてきたものがある。このこと自体をこれも宗教だから国が一切関与してはいけないということ自体はおかしいではないかという、そういう論理が結局闘わされたわけです、今の箕面忠魂碑訴訟ではですね。私の理解では、それが通ったと思っております。

 宗教ということのコンセプトが、例えばキリスト教的に考える場合と、日本人が日本人らしく、祖先を敬い、あるいは天を敬うという、祭天の古俗ですね。天を祀る、古くからの習俗というものとは若干ずれるところがありまして、そこの問題が戦後のキリスト教的というか、ヨーロッパ的な宗教の範疇ですべてを禁じてきたというか、禁じられていると理解してきたという、そこのところに私は大きな問題があっただろうと思っています。

 私は、みんな神社に行って、手を打つべきだと言っているのではないけれども、その辺が非常に狭く解釈されないように、この辺は考えなければいけない。

 ご存じだと思いますが、生活科というのが小学校1、2年に始まったときに非常に大きな問題になったのは、地域の鎮守様を連れていって見せていいかどうかという問題があったのです、宗教施設ですから。だけれども、連れていかなければその集落の昔からやってきたことがわからないわけでしょう。これは判例がありまして、みんなを神社の前に並べて、「神様だから、頭を下げましょう」と言ったらいけないけれども、そうでなければ連れてって、いわく因縁を説明してもいいということになったというふうに私は理解しておりますが、第9条が非常に宗教的なものを一見認めているように見えるけれども、いろいろないきさつから言って、非常に狭く、そして宗教を排除するということの中で、日本の昔からの習俗そのものを排除してしまってきたという事実があるだろうと私は思うのです。ですから、この辺は少し考えなければいけないだろうと思います。

【田村委員】教育基本法のことをきょうおやりになるということで、昔、読んだ田中耕太郎先生の『教育基本法の理論』という厚いやつを抜き出してざっと読んできたのですが、当時書かれた日本の国づくりの考え方は文化国家建設なんですね。戦争に負けてしまって、とにかく世に売り出すものがないから、文化でいこう、だから日本は文化国家をやるよと。これは南原さんもいろいろなところに書いています。文化国家をつくるという目標で、そのための教育という考え方で教育基本法をつくられているんですね。

 ところが、その後、日本は違った道を行ったわけです。つまり、経済発展の方を求めたわけです。経済発展を求めるから、どうしても教育基本法で言っている内容と実際に国民が考えて行動する場合の原理的なものは経済発展が中心になりますから、ずれてきますね。そのずれてきたということを建前と本音みたいな形で、現場で適当に済ませてきた日本的な結論が今この教育基本法の改正という論議につながっているのではないかという気がしてしようがないんです。

 だから、この議論をするときに、私はやはり議論した方がいいと思うし、基本法をどうするかということは真剣に議論するべきだと思いますが、その前段階で、日本の国をどういう国にしようとしているのかということをまずはっきりさせる必要があるだろうと思うんです。

 これをつくったときの情熱は、恐らく日本の国も日本の伝統文化、民族文化みたいな、文化を大いに誇りにして、それを中核にして国づくりをすると。「武士は食わねど高楊枝」でもいいのだという考え方がつくった人たちの意識の根底にあったのではないかと思うんです。そういう考え方で、理想的なことを書いてあるわけです。理想的なことを書いたけれども、現実にはそれではやはりまずいので、経済発展を中心にしてやっていこうというふうにある時期から変わってきたわけです。

 それは、ある意味では正解だったと思うのですが、豊かになったところでどういう国づくりをするのか。経済的なところではなくて、何か求めるものをしっかり教育の中につくっていくのか。

 例えば、ことしの春の家庭のしつけにおける国際比較というのが出ましたけれども、あれを見ると、それが見事に出ているのですね。つまり、日本の家庭は諸外国の家庭と比べると、子育ての原理は「明るく、朗らかに」が原理です。子どもたちの行動の原則は「損するか、得するか」ということで行動させている、そういうように親が子どもを育てているんです。

 アメリカの家庭を見ると、親が言っていることはそうではないんです。「正直かい?」とか「子どもをいじめていないか?」ということを年中親が子どもに言っているのです、損得の原則ではないのです。だから、基本法が現実に合わなくなってしまったのは、僕は社会が動いたせいだと思っているのです。だから、そこのところまで遡って議論して、これから国づくりをどうするのかというところから、基本法を必要があれば改正する必要がある。これは、家庭も学校も社会も全部含めた教育についての考え方ですから、まさに家庭のしつけもこれに影響があることだろうと思うんです。

【曾野委員】私、日本国以外の宗教の現実というのを知らないので、クラーク先生あたりに実情を伺わなければいけないのですが、外国で暮らしたものがないですから。

 ただ、シンガポールによく行きますが一応宗教は寛容であることをよしとしているような気がするのですが、世界中、決して寛容ではありません。寛容でないところから、宗教というものは成り立っているというところがあるわけです。キリスト教は寛容を言うのですが、仏教はよくわからないので教えていただきたい。

 寛容を旨としていてシンガポールでは、マレー人と中国人とタミールが一緒にならなければいけないと盛んに言っていますが、一緒にならなければいけないというのは、なっていないから言っているわけです。

 この間、聞いた話ですけれども、例えばイスラムの人の結婚式にタミールのヒンドゥーの人が行くかというと、友達でも行かないんだそうです。その人だけが狭量だったのかもしれませんが、決して日本人みたいに寛容がいいなんて思っていないような気がいたします。

【河上委員】また、中学校の教師の立場で言いますが、宗教教育と大げさに言わなくてもいいと思うのですが、例えば最近の生徒とか若い親を見ると、「恐れを知らない」ということがあると思うんです。自分の考えていること、自分の欲望が絶対であるという方向にしか動いていなくて、恐れを知らない。私もそんなに偉そうに言うほど、恐れを知るような教育を受けていないのですが、しかし幾分なりとも自分が絶対であるというふうには育っていないような気がするのです。

 個を超える大きな力があるいうことは、宗教というような分野で教えるしかないだろう。これを“神”というか、何というか私はよくわかりませんけれども、少なくとも個人を超える存在があって、それに対して畏まることが必要であるということは、小さいときから教えないと個が暴走してしまうのではないか、それは強く感じます。

【クラーク委員】曾野さんの指摘、すごくおもしろいです。外国人は自分の宗教の中ですごく厳しい。だから、ほかの宗教を否定すると戦争になってしまうので、できるだけ相手の宗教を認めるのです。そういう意味で寛容にすべきなのです。

 これを読んで、多分、意味は日本人はキリスト教に対してもっと寛容な態度をとるべき、そこにはかなりGHQの影響が入っていると思います。問題は、我々外国人の道徳、倫理の中にはいろいろ入っています。宗教は確かに大きな要因ですが、もう一つは法律です。もう一つは、若いときから社会に出て社会のルールをちゃんと身につけるのです。日本人の道徳は非常につかみにくいものなのです。“伝統”と“雰囲気”と、もっとシチュエーションの言葉では“空気”なのです。これは何らかの形で今までのものを引き継いできたものですが、戦争で今までの日本人の伝統に対しての自信とか気持ちがかなり被害を受けた。

 昔の道徳に戻るか、あるいは新しい道徳をつくるか−−これは日本人の大きなジレンマなのです。アメリカ人は正直というけれども、日本人ほど正直な民族はないです。釣銭のごまかしはほとんど日本はないです。忘れ物をちゃんと届ける、これを支えているいるのは雰囲気だけです。あれを説明するのは難しい。日本に来ている外国人は、みんなびっくりするのです。私、財布を3回くらい置き忘れたけれども、毎回戻ってくるのです。外国だったら考えられないことなんです。

 というのは、宗教とか法律とか、そういう問題を裁くことはできないのです。警察も釣銭のごまかしになんて、何もしないでしょう。日本人の伝統的な道徳は、「人に迷惑をかけない」とか、今の世代まで生きていたんですが、問題は今の世代を見ているとこれが急に崩れてしまったのです。これは危機です。

【曾野委員】恥の文化がなくなってしまった。

【クラーク委員】日本の今の若い人を見ると、もう真空地帯ですね。ここに、宗教と言ってもいいですが、道徳として何をつくるか。明らかにキリスト教は日本人に合わないでしょう。日本人はもともとイデオロギー的ではないです。韓国人は3割くらいキリスト教になっています。韓国人、中国人は求めるのです。日本人はそんなに求めないのです。

 欧米的な宗教を導入するのは、ほとんど不可能なんです。では、伝統的なルール、雰囲気とかに戻れるかどうか。私、日本人ではないですけれども、多分、難しいでしょう。問題はみんなが思っているよりも深刻ではないかと思っています。

【山折委員】宗教の中身の問題とか、倫理の中身の問題になると、これは果てしなく議論が出てくるわけです。そういうことをこの会がやってもあまり意味はないと私は思うんです。

 私が申し上げたいのはそういうことではなくて、明治以降の日本の教育のシステムの基本はどうだったのかというところから、宗教とか道徳とかあるいは芸術とか文化という問題をどう位置づけるかという問題だと思うんです。

 私の考えでは、今、キリスト教がどうの、仏教がどうのということを功罪をあげて論ずるということよりは、我が国の教育の基本にまず科学技術重視の教育の路線が重要な軸として一つあったと思います。第2の軸として、社会科学を非常に重視する教育の路線があった。この2つの軸でずっときたと思うんです。

 それに対して、文化とか芸術とか宗教に注がれたエネルギーというのは非常に少なかった。やられなかったわけではありません。常にそれは周辺的なところに位置づけられた、これは明治以降、今日まで変わらないんです。そういう問題の歪みが現在出てきていると私は考えます。

 だから、そういう意味では宗教の中身の問題がどうのこうのということではないのです。つまり伝統とか、文化とか、宗教とか芸術とかいう、領域の問題を自然科学や社会科学、経済などの領域の外部に位置づけられてきたということこそが問題なのであって、それをむしろこれからは第3の主要な軸として位置づけることが必要だろうということです。それが30年後、50年後の日本人のために必要ではないかという観点から言っているわけです。キリスト教、儒教、仏教、神道、そういういろいろな宗教的価値については、それこそ個人個人で受け止め方がいろいろあるわけですから、そのことについては細かく議論するなんていうことはやらない方がいい。

 だから、私は宗教に関する歴史とか知識を教えるなんていうことは毛頭考えておりません。そんなことを言っているのではないのです。さきほど申しあげたようなことを考えるのが、一番大事なことではないかと思うのです。

 そういう観点からしますと、この国民会議に課せられた重要な仕事は、現に発生している犯罪とか教育現場における不祥事をすぐ何とかするというようなことではないと思うんです。それは第1の目的ではないと思います。そうではなくて、現在の日本人、我々の意識をどう変えていくか。それに対してどういう提言をするか、ここが最大の眼目ではないかと私は理解しております。それ以外の個別的な問題は、中央教育審議会でもうやり尽くされているのです。ほとんどそこでいろいろな提言がなされている。問題はそれが実践できていないということの方でしょう。実践しても効果はなかったということがもう証明されているわけです。

【森主査】意識を変えるために変えたらどうかという発想になっていくのですが。

【山折委員】そのために教育基本法の改正は絶対に必要だと私は思います。

【浜田委員】素人の大変大ざっぱな感想で恐縮なのですけれども、実は教育基本法というのを読んだことがなくて、こういうことになりましたので、数週間前ですか、1カ月前ですか、初めて読んでみまして、感心したんです、すばらしいことを書いてある。これのどこを変えなければいけないのだと最初疑問に思ったわけです。

 特に、この第1条の「真理と正義を愛し、個人の価値を尊び云々」ということ、一語ごとに読んでみまして、今の状況というのはこの目的の状況とは大分違うなと。ということはどういうことなのか。こんな立派な教育基本法があるのに、このとおり行われてこなかったということは、これはただの飾りだったのか。そうしたら変えてみたって、同じじゃないかと思いかけたのですが、さっきちょっと田村先生が言われたように、私はこういうことなのではないかと感じていますのは、第10条の2項に「教育の目的を遂行するに必要な諸条件」という言葉があるのですが、これを大変広く解釈しまして、教育のここに書いてある第1条の目的、これだけの目的を遂行するのに大変悪い条件が揃い過ぎた国に今なってきたのではないかと。

 「貧乏は最大の教師だ」という言葉があるのですが、その正反対の状況になってきて、教育をするのに大変難しい状況になってきているという認識をまずしなければいけない。物が豊富になって、食うに困らないという状況になった。もう一つは、メーカーの努力で、私どもメーカーの一員ですけれども、利便性が高まり過ぎて、それが行き過ぎて、バーチャルリアリティの世界で遊べるようなところまで来てしまったというような状況は、ここに書いてある第1条の教育の目的を達成するのに大変悪い諸条件が整い過ぎたのではないかという認識ですね。

 その状況下で、「改めて教育を」と考えるときに、戦前・戦中のあの軍国主義、全体主義の暗闇の中から、この基本法というのはバラ色に輝く、本当に眩しいばかりの表現だと思うのです。これで新しい日本ができるというような、ちょっと大げさかもしれませんけれども、今の閉塞感のある状況から、さて、どうやって、どこのツボをどうしなければ、この第1条の目的が再び実現できるのかという形に教育法を書き換えるなら、大変な難事業になるかもしれませんが、それだったら賛成だけれども、逐条をいじるというのは、教育を今までずっと進めてこられて大変問題があるところはいじられてもいいけれども、それ以外は残されてもいいのではないかという感じがします。

【森主査】前文の最後の段落ですが、ここに「新しい日本の教育の基本を確立するために」と、当時の新しい日本の教育を確立するためにということで、私も当時物心がついたころでありますので、この精神はよくわかるのですが、今、21世紀を目前にして、また別の新しい日本の教育を考えなければいけないので、そのためにどうすべきかということがいろいろきょう議論が出ましたけれども、皆さん、変えなくもいいという意見はあまりなかったように思うのですが。

【今井委員】私、専門ではないのでずっとご意見を聞かせていただきました。ふだんの暮らしの中では、この教育基本法というのはちょっと遠い存在です。ただ学校の先生方がいつもおっしゃっていることは、先ほど山折先生や河上先生がおっしゃったこととほとんど変わりないことで、宗教や倫理感を意識の根本におくことは必要だと思う。また社会の中での責任とか、そこのあたりも明確にしていただいて、これからの子どもたちの教育が夢をもって育める環境というか、そういう基本法に改正してほしい。また、文章については、誰にも親しみやすく読みやすく、なおかつ、存在感のあるものしてほしい。

【森主査】それでは、次回、もう一度、多分この問題を議論しなければいけないと思いますので、次の議題に移りたいと思うのですが、よろしゅうございますでしょうか。

(2)分科会報告の検討

【森主査】次は、『第1分科会の議論の概要』という資料がございますので、ごらんいただきたいと思います。

 これは今までの議論の経過を並べてあるわけで、このまま整理するという意味ではございませんので、皆さんのご意見をお伺いしたいと思うのですが、まず「現状認識」に始まりまして、今、現状は大変危篤状態、大変な状態だと。その「背景・原因」は、先ほどおっしゃった利便性により依存心が増大して、自律を目指す教育の足かせになっているのではないかといったようなこと。それで、教育改革というのは、先ほども出ましたように、自己の意識改革が究極的には問題になるのではないか。

 「戦後教育改革の評価」は、自由・平等の観念のはき違えという言葉がいいのかわかりませんが、そういうご発言もありましたが、国家、郷土、文化、伝統の軽視、欠落。臨教審以降については、初等中等教育、家庭教育の成果があまり出ていないのではないか。私個人的には家庭教育だけでいいのではないかと思いますが、初中教育にも問題がないわけではない。

 では、どういうふうに「方向転換」をするのかということでありますが、結論は豊かな社会における教育のあり方を考えなければいけないのではないかということであります。ここでは、学校、家庭の役割分担をはっきりさせなければ、連携、教育もできないのではないかということ。それから、子どものしつけを厳しくという意見がよく出ますが、子どものしつけは親がするのですが、では親や大人のしつけはだれがするかを考える。これは、みんなで考えようというところに自発性を喚起する呼び水政策があるのではないかと思うのですが、これを上から「こうしましょう」と言うと、また依存心が増大しますので、大人は自律できないということになるのではないかと思います。

 では、改革の方向として、どういうことが考えられるのかということで、大きな方向は知・徳・体のうちの徳が一番軽視されている。知育は知識偏重とかいろいろ言われながら、あるいはスポーツ、体育については今保健体育審議会がスポーツ振興基本計画を策定しております。徳については、徳育振興基本計画というのが聞いたことがありませんし、文部省に体育局はありますが、道徳教育局というのはありませんし、教育基本法で人格の完成を目指すと言いながら、どこが担当するのかはっきりしないということで、生涯徳育の重視が大きなターゲットになる。

 細かいことで議論が出た順に申しますと、社会性の重視ということで、共同生活による肉体・奉仕活動の義務化。小中ではまず2週間、高校は1〜2カ月、将来は18歳のすべての国民に、2年はちょっと大変なので、1年に直して、高校生でありますので、これは法律改正がどの辺までいくのかよくわかりませんが、それから子どもの職場体験。それから、道徳教育の重視、これは山折先生のおっしゃった3本柱とするという、文化活動です。

 それからて、死とは何か、生とは何かということをしっかり教える。生きる力というのは、死なない力でもありますから、両方考えないとわからないのではないかということであります。

 そのために、授業においては古典とか歴史を読むことで道徳教育の無意識的な予習をさせる。言葉の重視、話すことが特に大事でありますが、「言葉は人格をあらわす」と言いますように、さらに現在の教育課程では「道徳の時間」になっていますが、中学では人間科、高校では人生科というふうに変えたらどうか。これは、私は学校が変わる毎に教科の名前を変えた方がショック療法としていいと思うのですが、これはあらゆる教科について言っているのですが、小学校の算数が数学になる、英語は大学に行っても英語なのですが、そういう意味ではせめて道徳くらいはと思うんですが、その道徳教育をする人が数学や国語を担当している人ではなくて別の人が教えた方がいい。要するに親が子どもの教育をするには限界があるということなのですが。

 それから、規律の重視。これは集団の中での型の教育といいますか、強制が教育には欠かせない。そのためには、教師が信頼される必要があるという、教師の人格的権威を高める。「人格的権威」という言葉はありませんが、これはマックスウェーバーの言葉で、権威には制度的権威と人格的権威がある。日本では権威というと、権威主義といったように制度的権威だけが横行して、権威はマイナスイメージでとらえられておりますが、信頼される教師つくりはそのことをあらわしています。

 それから、問題を起こす子どもを強制的にどこかへ転校させる。これは義務教育段階では保護者の同意が要るわけですが、そういったことが例外的にどの程度可能かということです。ですから、1人の学習権か39人の学習権かという問題であります。

 最後に、家庭・地域の教育力。これは、先ほど言いました徳育についての振興基本計画というものは考えられないかということです。そこで書くべきことは、親が人生最初の教師でありますから、その自覚を促すようなこと、既に文部省も家庭教育手帳その他でやっておりますが、さらに何が考えられるかということ。それから、マスコミとの協力、しつけ三原則、「子どもをほめよう、叱ろう運動」「心の庭づくり」−−これは子どものストレス解消の場、ほっとする場所が今家庭にないので、ストレスがたまっている子どもにいくらしつけを強制しても、無意味だということであります。そのためには、会話と笑が要るのではないかということです。

 そ地方自治体公共団体によるスローガンづくり、教育の日の制定。教育の日をつくるとすれば、スローガンをたくさん並べるのではなくして、1年に一つ、ことしのスローガンはこれですというふうに、1年間は一つのスローガンで深谷市のように「靴を揃えよう」ならそれでいいのですが、1年間それを徹底すれば、人間の欲望は高度化しますから、何か一つマスターすると次に何かやろうという気になるのですから、何でもいいから一つずつ各地方公共団体で決めればいいと思うのです。

 現在、市民憲章、県民憲章がありますが、5つも6つも並んでいまして、毎年、教育の日に大事だ、大事だと言って、結局、何もできていないというわけです。

 それから、教育休暇による父親の教育への参加、有害情報の規制、いろいろ出ましたが、これは日曜日にゴルフ禁止とかいう意見もありましたが、以上が今までの議論の概要、キーワードで並べましたが、それと本日の教育基本法についての整理が加わるわけです。こういう形で次回の討議を踏まえまして、全体会に報告する資料のたたき台でありますが、皆さんのご意見をあと20分ほどございますので、お願いいたします。

【梶田委員】概要としては、これは私は大事なところは触れられておっていいなと思うんです。ただ、まとめをするときに、これ、全部入れてしまったら大変ですから、この10分の1ぐらいに絞り込まないと、ポイントのわからないあれになるような気がしますね。

【沈委員】マスコミに対しての要望は盛れないものでしょうか。きょうの毎日新聞を見てみますと、1日3時間以上、テレビと対しているという子どもが五十何%いる、ゲームも2時間以上やっているとか、もう親が教えること以上のことを彼らはいろいろなところから学んでいるのです。だから、そこに対して、子育てへの協力、次の時代への目配りというものがお願いできないものかどうか。

【森主査】それは「マスコミとも協力した国民運動の推進」にありますが、今やっています政府の広報番組ですが、あれはあまり人の見ない時間帯にやっているのですが、一番人の見るときにやらなければいけないと思うのですが、そういう問題があります。

【沈委員】きょうも郵政省のデータでも「テレビを見過ぎる子どもが凶暴になる」とはっきり出てましたですね。そういう子どもが打つ、蹴る、刺すということが、感情の赴くままにやると。そこにも何かお願いするか、協力の場を求めない限り、親だけ叱ったり、学校だけ責められないと思います。

【森主査】家庭の中に聖なる場所をつくって、そこで心を落ちつけるといいますか、昔はあったのですが、それが今はなくなっている。今はテレビの前に座って、有害情報を無制限に摂取しているという、精神的な栄養失調になっているようなところがあります。

 それと、三原則のことを資料5でごらんいただきたいと思います。梶田委員、勝田委員、河上委員、沈委員、それから私のがありますが、私は三原則というのはみんなが考えるためですから、極端に言えば何でもいいと思うんです。まず、各家庭で三原則を考えようということをメッセージとして送っておいて、例えばこういうものがありますということで例示するとか、そういう形はどうかなと思うんです。

【曾野委員】フレキシブルにして、それこそさっきの教育の日の目標みたいにずっと固定ではなくて、変えてよろしいんですね。

【森主査】そうです。

【曾野委員】「万引きは恥だ」とか、毎年簡単にやればいい。

【沈委員】わかりやすいな。

【森主査】そうですね、進歩しなければいけないんですからね。学校教育目標というのは変わらないんですね。ちっとも進歩していないと。

【河上委員】抽象的過ぎるんですね。だから、具体的に達成したかどうか全然わからない。

【森主査】ということで、一緒にご審議いただきたいと思います。

【曾野委員】私、あした、皆様方のご意見を森先生や何かと一緒に作文する作業会をいたします。極めて物理的にダッと書きますから、それをお直しいただくという……。

【森主査】それを最後に申し上げようと思ったのですが、このキーワードを合作するというのはよくないので、一人の人が一人の思想・哲学で格調高く書いた方がいいので、やはり曾野先生にということで、梶田先生と私とでお願いして承諾を得ておりますので、今晩徹夜で書いてくださるそうなので、お願いいたします。

【クラーク委員】コメントですが、子どもの不幸のもう一つの原因は教育制度自体なんです。特に大学教育制度なのです。なぜ17歳の不祥事が多いか、ちょうど入学試験を迎えている人が多いのではないかというのがまず一つです。

 もう一つは、家庭と社会のバランスなんですが、きのうアメリカの友達と会ったのですが、自分の子どもは2カ月家にいないのですが、サマーキャンプに行くのです。

【江崎座長】そう、アメリカはたいていサマーキャンプですね。

【クラーク委員】お父さんは自分の子どもを愛しているけれども、家庭から離れてほかの子どもと山に入って、立派なリーダーや大人たちと付き合うのは家庭の中の教育よりも大事であるというお父さんの考え方なのですが、自分の場合、夏休みは学校のプールで毎日泳いでいる。日本の学校のプール、全部閉鎖しているのです。これは社会的な活動をもうちょっと重視すべきではないかと思います。

【江崎座長】私が住んでいたアメリカのところでは、ほとんど全部の子どもはサマーキャンプに行きます。いろいろなサマーキャンプのアクティビティがある。スポーツな好きな子どもとか何とかいろいろあって、これは大変役に立つ。

 それから、もう一つは、ハーレムの子どもがそういうチャンスがなかった。そのために我々のコミュニティがお金を出して、ハーレムの子どもにキャンプの経験をさせる、そういう運動もやりました。

 ちょっと私の体験を申してよろしいですか。

 私は、かなり長く生きてきた人間なのですが、小学校から中学に入ったときに、私は同志社へ入ったのですが、これは好んで入ったわけではないのですが、試験に落ちて公立学校に入れなかった。同志社は新島襄がつくりましたキリスト教的な学校ですが、私はキリスト教というものに非常に影響を受けましたね。私の心に大変なインパクトを与えました、私はクリスチャンにはならなかったですけどね。

 それから、バイブルというのは世界中の人が一番たくさん読んだ本であるだけに、大変いいことが書いてあります。今、日本人は営利的になった、金儲けをするということをおっしゃいましたけれども、昔から日本の神社、仏閣には、参るとお金が儲かりますというのが非常にあったわけですね。決して、日本の昔からの宗教はそんなにノーブルなものではありません。お金を出すとこういうことが良くなると。キリスト教はそういうことは絶対ありませんからね。

 それから、河上先生がおっしゃった「恐れ」というものですが、キリスト教をならいますと「恐れ」ということがわかると思います。スーパーナチュラルなものがあるという観念をキリスト教というものは恐れる。

 それから、ちょっと話が飛びますが、先ほど南原さんの話が出ましたが、実は私が大学卒業するときに南原さんが総長だった。卒業式のときには南原さんの演説を聞きました。今、山折さんがおっしゃったようなことも南原さんが話されました。そのほかに、「ただの酒は飲んではいかん」と。そのころは、ただ酒を飲ましてくれるようなところはありませんでしたけど、南原さんもキリスト教に影響を受けているんですね。

 ですから、非常にパーセンテージは少ないのですが、日本の支配階級にカトリックの人が非常に多いです。それから、キリスト教の精神に基づく教育は日本にかなりあるのではないかと思います。ですから、日本人がキリスト教にかなり洗礼を受けているということはある程度言えるのではないか。それはむしろポジティブに貢献しているのではないかと私は思うのですが、これは私の個人的な体験等含めて、今の宗教ということについて言ってみました。

【曾野委員】お二人の先生方が「話せ」とおっしゃいましたが、話す前に中川志郎さんが動物の子育ての話を書いておられます。

【江崎座長】茨城県の自然博物館の園長をしています。

【曾野委員】先生のお話によると、まず、動物は産んだら抱く。何年か抱いて、その次に目の届く範囲に放しておくということを厳重にやる。それから何年かたったら、全く他人のように放す。それをきちんとやれるのに、人間は抱くときに抱かない。すごい痛烈でした。もし、本が手に入るようでしたら……。

【森主査】同じことは、大脳生理学の時実さんもおっしゃっていましたですね。自閉症の子どもをまず抱く、抱きっ放しでいけないので次に突き放す。突き放したら、突き放しっ放しではいけないので、今度はじっと見つめて指導する。だから、抱いて、突き放して、見つめるということですね。

【田村委員】さっきの青少年の社会的訓練ですね。あれ、実は戦前、日本にはあったんですね。それがGHQが来たときに、ある年齢以下の子は夜7時以降は外出してはいかんという命令が出るんですね。それが全国に普及するわけです。青少年のそういった異年齢集団の会合が全部そこでつぶれるんですね。

【森主査】前回、通学合宿の資料を文部省から出していただいて、第1分科会には行き渡っているんです。そういう形で、日本でも徐々に普及していると。

【河上委員】最近、学校というのは個人のための学校というふうにしか思っていない人が多くなりました。個人のための学校の役割は当然あるのですが、社会にとっての学校というのもあるわけです。そこをぜひ強調してもらいたいということ、それから、学校と家庭の果たすべき役割に関連して、小学校に入学するときに、学校という一つの社会に入るための基礎訓練を家庭でやってもらわなければ困るということを入れてもらいたい。

 それがもし無理であれば、例えば就学を保留するというようなことを出した方がいいのではないかという気がするんです。小学校に入れるために家庭としては最低これだけのことをやってもらわなければいけない。言葉を教えるのは学校でいいわけですから、例えば、生活のことを家庭でしっかりやるということを強調するためにぜひそれを入れてもらいたいと思います。

【森主査】それは、私は校長先生が悪いと言っているんです。入学式のあいさつのときに、校長先生が「元気なお子さん、みんな仲良く一生懸命やりましょう」と言うからだめなので、そういうときに校長先生が「本日は手遅れのお子さんが多いようです。多分、だめだと思いますが、一生懸命やりましょう」くらいにショックを与えなければいけない。これは講演でよく言うのですが、それはそれとして、私は南原先生のお宅にお伺いしたことがあるのですが、学生2人行くというので、2人じゃ寂しいから、もう一人だれかと探していて私がいたものですから、一緒に行こうといってお宅に伺ったのですが、あのころの人というのは「暮らしは低く、思いは高く」を実践しているような人が多かったですね。それだけ印象に残っているんです。どんな話を聞いたら覚えていないんですが、緊張していましてね、みんな。

【浜田委員】先ほどクラーク先生から夏季合宿の話が出ましたので、ちょっと便乗してお願いをさせていただきたいと思います。

 ある年齢で、親元を離れて合宿して、農業体験をするというのをどこかに提案としてぜひ入れていただけないかなと。

【曾野委員】入っています。ただ、農業かどうかわからないですが、入っています。

【浜田委員】私は、やはり生産活動という、植物に接する−−自然と人間の接点の代表は植物だという私は信念みたいなものがありまして、植物が育つのと一緒にある期間過ごすというのは、やはり自然と人間との調和というんでしょうか、自然の原理原則を肌で知るというんでしょうか、そういう意味でものすごく大事なことではないかと思うものですから、屋外が遊べばいいというのではなくて−−遊ぶのも大事なんですけれども、何らか生産活動に従事するというのをぜひお願いしたいと思います。

 実は、会社で実験的にもうやろうと思って、2カ所ばかり土地探しを。まだ発表段階ではないのですが、社会貢献の一つとして思っております。

【森主査】ほかにございませんでしょうか。

【江崎座長】こういう活動ということになりますと、アメリカあたりは大学生は夏は決してサマーキャンプなんかに行かないで、どこかでアルバイトをする。これも一つのいい経験、教育になると思います。企業で働く場合もあるでしょうし、社会で働く。

【クラーク委員】アルバイトをやるのはまるで悪いことだという考え方がありますが、私は逆です。すごくいいことなんです。夏休みの間アルバイトをやって報告書を書けば単位をあげたいんです。教授会に提案したんですけど、みんなショックを受けたんです。

【曾野委員】大学に入って、アルバイトばっかりしているのがいるんです。それが困る。お金持ちになっていいんですけど。

【江崎座長】それは大学が悪いんです。そういうふうにして、大学で生活できるということ自身が問題です。

【クラーク委員】特にアメリカでは多いです。学生の教育の上で非常に大事な一部分ではないかと思います。

【江崎座長】中学生あたりはキャンプで過ごす、大学あたりは働くための仕事をする。

【森主査】そうしますと、三原則を出すのは大体いいと。ただし、それはまず各家庭でつくる。そして、それは毎年変える。例えばというので、どれか例示でいただく。

 事務局の方にもいろいろ出していただいていますので、その三原則はどれを選ぶか、どれを組み合わせるかは、こちらにお任せいただければと思いますが、お願いいたします。

【河上委員】最近、いろいろな少年の事件とか学校の中の生徒の変化がありますね。あれは、どうも古い枠組みで何とかそれを解釈しようとしても無理だと思うんです。ただ、新しい枠組みが、私なんかまだよくわかりませんから「わからない」というふうに言った方がいいと思っているのですが、マスコミも含めて、今までの子供観とか社会観とか、そういうもので問題を整理して落ちつかせようというのが一般的だと思うのです。現在起こっている子どもたちの問題とか事件とかいうのが、古い枠組みでとらえることはかなり難しい状況になっているということをどこかに書いてもらうといいかなと思います。

 少なくとも、当分、非常に不安な状況が続くのではないだろうか。そのことをアピールした方がいい。

【梶田委員】私もそれは賛成ですね。早わかりの解説が多過ぎるんです。私も心理学をやっているものですから、心理学者がいろいろと出てきて、解説するのを見ると、同業者としてはなんか嫌ですね。そんなふうに簡単に、小さいときからの育ちの中で、外的なトラウマがあってとか、そんな簡単にわかれば、それはあれですよ。

 今は、河上さんがおっしゃったように、何でかわからないけれども、とんでもないことが起こっている、そういう目で見ていかないと本当の原因にはいかないと思うんです。みんな、早わかりの解説をするのは落ちつきたいからなんです。安心したいから、いろいろな解説者や大学の先生なんか出てきて解説しますけれども、何の根拠もない、思いつきみたいなことばかりみんな言っていますね。

 ですから、今当面しているとんでもないいろいろな状況は極めて不透明な、簡単には原因を特定できないものだというような、そういう趣旨のものはどこか私はほしいなというふうに思います。

【森主査】それについて言えば、私はあまりにも早く結論を出し過ぎていると思うんです。2日でも3日でも、もっと徹底的に討論する。

 もう一つは、学校でどうして討論しないのかと思うんです。17歳問題なら、17歳についてのことを学校でみんなが1週間でもいい、自分たちの問題として討論してもいいと思うんです。だから、総合的学習は少年事件をテーマにやってもいいなと思っている。短期集中授業でね。

 テレビでもこれから本題に入るというときに「時間が来ました」で、コマーシャルで終わってしまうんですね。だから、それは翌日またやればいいと思う。それをやらないで、安易に答えを出していますね。

【沈委員】人に変わりはないということ、国籍とかそういうことで変わりを持つような人間観を持たないことと、それから職業に貴賤はない。青年は広く、どんなところでも行けるのだ、行かすべきだということをぜひどこかに盛り込んでいただきたい。

【森主査】“貴賤”という言葉は使い方が難しいんです。

【沈委員】そうなんですか。手仕事の世界はもうみんな枯れ切っているんです。

【河上委員】関連して言うと、これは生徒に話をすると、生徒が「お母さんに言ってよ」というんですが、大多数の母親は勉強できるようになってほしい、いい学校に行ってほしいという、まだそういう感覚は強いんですね。だから、生徒の中で勉強のできない子−−勉強というのは、これはとりあえずペーパーテストと仮に限定しますけれども、そういう生徒については母親や父親からのそういうようなプレッシャーの中で、非常につらい状況にあるということがある。

 だから、どういうふうに書くのかよくわかりませんけれども、勉強ができる人も、できな人もいるわけです。それぞれが、自分の個性や能力に応じて生きるのがいいという考え方がどこかで出ているとすごくいいと思います。

 ほとんどの親が「勉強ができるようになってほしい」というふうにまだ思っているんですが、そういうことは不可能ですね。

【森主査】親の教育の問題になりますね。

【河上委員】家庭教育学級の中で、「すべての子が勉強できるようになりませんよね」というと、皆さん、そういうことがわかって笑うんですけれども、「うちの子はできる」と思っているようです。人の子はわからないけれども、うちの子はやればできると思っていらっしゃるから、全然これは通らないんです。

【森主査】それこそ、マスコミの力を借りるしかないのかもしれませんね。

【今井委員】親といったら、「自分のことだ」という当事者意識を何かのところにしっかり……。人のことだと思っているところが問題であって、自分のことだと思って、そのときに恥ずかしいと思わなくてはいけないですね。

【沈委員】非常にそういう意識が強いですね。うちに弟子入りに来る子どもでも、親が連れてきて、「勉強もできない、言うことも聞かない。もう茶碗でもつくらせにゃ仕方がないから」といって来ますよ。しかし、そんな子が1年くらい押さえ込んで、仕事を教え込むと、いい陶工になってくれます。ただ、親がどんなに子どもの将来に対して壁になっているか、それもホワイトカラーを誇り過ぎているかということが青年の不幸を相当つくっていると思います。

【曾野委員】それ、神がないと同じだという証明ができないんです。現実に東大総長の方が偉そうに見えるし、中央の霞が関にいらっしゃる方の方がいいような気がしますが、神があると全然違ってくる。

【田村委員】日本の学校は徹底的に教科主義なんです。教科で成り立っている。ですから、教科ができるのがいい子というふうになってしまうんですね。教科主義というのをどこかで変えないといけないと思うんですけどね。

【河上委員】それは、日本の学校というより、多分この20年くらいの間にそういうふうに変わってきたというふうに私は見ています。

 私が三十数年前に教師になったころは教科主義ではなかったです。

【田村委員】教養の問題が今言われていますね。日本の教員の意識というのも、生徒も全く同じなんだけれども、教科をしっかり勉強することが教養が深くなることだと思っているんです。

【森主査】教養の前に常識ですね。

【田村委員】常識がスタートですね。

【曾野委員】教科主義で、私、困ったのは、或る先生が生徒が「ドアから出るだけじゃない、窓からも出られるんだね、先生、おもしろいね、と言った。これはいい発見だ」と。とんでもないですよ、ドアは向こうに床があるという約束で、窓はその向こうは下に落ちるかもしれない。そういうことがおもしろいというのが通用したんです。教科主義でなかったから、そういうことになったんでしょう。

【森主査】教科を変えるには、やはり道徳の時間を教科にして、内部から変革するのかなと。

【江崎座長】曾野さんが今おっしゃったのは、神がないという、その神はやはりキリスト教的な?

【曾野委員】何でもよろしいんです。

【森主査】超人間的なものという。

【梶田委員】聖徳太子が世間コケイ、尤物で信じているでしょう。結局、ああいう政治家なんですよ、聖徳太子というのは。政治の世界の価値は非常に大事にしているけれども、それを超えた一つの価値の世界を大事にするわけでしょう。まさにそういう面での恐れがなくなっているんです。

 だから、教科主義であろうと何であろうと、どこかで自分がのし上がらんといかんと思うから、それが人生の目的になるからおかしいんで、私は聖徳太子、変えればいいと思っているんです。だから、それはキリスト教の神だけではないんです。

閉 会

【森主査】時間が来ましたので、一応終わります。

─了─