教育改革国民会議

教育改革国民会議第2分科会(第3回)・議事概要



(日時) 平成12年6月9日(金)16時〜18時

(場所) 虎ノ門第10森ビル5階会議室

(金子主査)
 今回は、議論の大枠を資料2の(A)全体の方向性、(B)具体的な提案、(C)新しい学校の試みとすることについて検討していただいてから、Bの具体的提案のひとつである教員の問題について議論することとしたい。

(藤田委員)
 この進め方については賛成であるが、Aの「全体の方向性」については、多様な試みを評価し可能にする制度を作るということであり、その内容はここにあげられているものに限定せず、今後議論していくということでよいか。

(金子主査)
 よい。

(石原委員) 
 Aについては、「全国的な基準を確保しながら地域の実態に応じて努力が評価される」という文言の方が分かりやすいのではないか。

(金子主査)
 Aは表現の問題で意見が分かれる。ただ抽象的に「いい学校」というだけではインパクトがないので、意見は分かれると思うがある程度具体的な表現を検討したい。

(藤田委員)
 AとCの「新しい学校の試み」は関連が深い。金子委員のいう「飛び地的に」コミュニティスクールを作るというのも、Aとセットになると違った意味合いを帯びてくる。その内容については、Aとの兼ね合いも含めて検討するということでよいか。

(金子主査)
 制度内での提案か、制度自体新しいものを作るかという問題で、どちらか一方に絞るという趣旨ではない。

(石原委員)
 Cの「責任をとれる人」というのは「公的に責任をとれる人」であることが必要。

(大宅委員)
 責任など取れないのではないか。責任というのがよく分からない。

(金子主査)
 ここは具体的には、学校がなくなるとか教員が辞めるとかいうことのつもりである。

(藤田委員)
 Cからイメージするのは、アメリカでいうチャータースクールのようなものか。これ自体はアメリカでも賛否両論あり、どちらか好ましいかについては議論するということでよいか。

(田村委員)
 制度でなく人と人とのつながりを教育に持ち込む意味でこうした提案をするのはいいと思う。

(金子主査)
 Aは全般にわたるもの、Bは具体的な提案、Cはまとまりとしてこういう学校をイメージしようということで整理ができるのではないかと思う。内容はこれから議論するとして概ねこの大枠でやっていくことでよいか。それでは、教員の問題を議論したい。

(田村委員)  
 カウンセラーの導入について、摩擦があってうまくいかないという意見も聞くが、日本は今まで何でも自分でやるという発想が強い。教員の養成も、最近は教科に関する科目を少なくして教職に関する科目を増やしているが、日本の学校は教科主義なのにそれでうまくいくか疑問である。教科を専門にする先生と教職やカウンセラーを専門にする先生は分けた方がよいのではないか。

(藤田委員)
 教員養成課程で教科の割合を下げることについては問題を感じる。教科のエッセンスを教える力を付ける方法をもっと検討すべきである。また、小中などで特に必要とされるカウンセリングなどについては、研修制度の中で臨床心理、精神医学方面の修士を取るなどについてもっと考えてもいいのではないか。

(河合委員)
 日本の今までの方法は、全部自分でやるということだったが、今はそれではいけない。教員は担当教科については誇りを持つ必要があるが、それ以上の難しいところについてはスクールカウンセラーなどの専門家に任せればいい。学校現場の認識も変わりつつあり、スクールカウンセラーの導入後はこれを肯定的に評価する人が多い。カウンセラーシステムを上手に使っていけばうまくいくのではないか。

(藤田委員)
 アメリカでも教育の現場に分野に応じて多くの専門家が配置されているが、問題を抱えている学校ほど先生との間の連携がうまくいっていない。これは、これらの専門家がステータス、資格や要件などが一般の先生と全く異なる。こうした問題を認識することが必要。質の高いスタッフが配置されることが必要。

(河合委員)
 力のある人がカウンセラーになってほしい。
 教育をやってきたからカウンセラーになれるわけではなく、専門的な訓練が必要。

(藤田委員)
 非行や犯罪、暴力などの問題に地域、学校全体でどのように取り組んでいくかというカルチャーの形成にカウンセラーが寄与できればよいが、そうでないところでは、いじめは増えているとも言えるのではないか。具体的な検討が必要。

(金子主査)
 スクールカウンセラーを配置した学校は、もともと全国平均よりもいじめ等の発生率が高いところなのか。もともと低いところだと効果があったとは必ずしも言えない。

(徳永財務課長)
 生徒指導上の問題の多い学校から優先的に選んで配置したものである。

(石原委員)
 20世紀は体の健康診断ということで校医が配置されたが、21世紀は、心の教育、子どもの現状や親の子育ての不安等を考えると、カウンセラーの配置についての現場からの要望が強い。調査研究としてここでうち切るのではなく、学校スタッフの充実として制度化してほしい。

(金子主査)
 心理面の問題の解決にあたっては、相性の問題が大きい。カウンセラーには精神科の医師、心理学、小児科の医師、保健婦等様々な系統があり、必ずしもその間で意見の一致があるわけではない。スクールカウンセラーを配置すると、そこにいるからかえって他へ行きにくくなることもある。スクールカウンセラーを学校に配置すること自体はよいが、そこ以外へも行ける選択肢を用意しておくことが必要である。

(河合委員)
 カウンセラーも自分でかかえ込んでは駄目。情報をオープンにして、養護教諭などと協力するようにしている。

(大宅委員) 
 一人ひとりの教員が楽しく教えられればよいのではないか。資料のアンケートでは、教師の多くが「楽しく学べる授業をしたい」と言っており、「したい」ということはそれができていないことの現れである。教員はなぜそれほど忙しいのか疑問。子どもに関わる以外の時間がそれほど多いわけではないようであり、教員になれないような人が教員になっているということではないか。
 また、教員は「教え方を習っていない」というが事実か。それでは個人商店のように運営されているだけで、学校内の切磋琢磨が起こらない。いい教え方についての情報を共有するなどの改善から始める必要があるのではないか。
 さらに、学力低下は事実か。

(田村委員)
 学力自体は下がっていないと思う。TIMSSの調査でも知識や計算力は下がっていない。しかし、興味や関心は下がっており、「学んだ力」は下がっていないが、「学ぶ力」がないと言える。学力をどちらととらえて学力低下と言っているのか分からない。

(藤田委員)
 前回のTIMSSの調査から既に6年経過している。明らかに90年前後で学業態度や努力の多様化、低下が起きているのは事実。しかし、社会の変化の中で必要とされる知のあり方も変わっているので、本当に「学力が低下」したと言えるのか検証が必要。

(大宅委員)
 教員は何がそれほど忙しいのか知りたい。

(徳永財務課長)
 教員は、忙しい教員と忙しくない教員に分かれている。アメリカでは教員は週に25時間教えているのに対し、日本では小学校で週22コマ、中学校で週16コマ、つまりそれぞれ週16時間強、13時間強しか教えていないのであり、諸外国に比べればかなり少ない。諸外国では部活動や生徒指導がないからとも言われるが、日本では、生徒指導や部活動などの指導も個々人でかなり違っている。

(藤田委員)
 数字の上ではそうであるが、私が都内の公立小学校で1年間フィールドワークをしたとき、様々な行事、会合の多いことに驚かされた。教員はそうした行事等の準備や校務分掌で本当に忙しい。こうした仕事の中で削れるものはもっと削っていくべき。

(田村委員)
 しかし、教員は暇にすると帰ってしまう人も多い。全部やめると、結局やる人はやるし、やらない人はやらないということになってしまう。それを社会が認めるかどうかの問題だ。

(今井委員)
 PTAの活動には教員が入っていない。PTAは親が仕事を終えてからの時間でやっているが、教員と話をしようとすると、勤務時間内にやってくれと言われる。昼間集まるためには親は仕事を休まなければならない。結局、そうした活動を教員の労働時間から見るのか、学校を支える活動としてとらえるのかの違いかと思う。一生懸命やってくれる先生とは連携も取りやすいが、そうでない人とはうまく連携がうまくいかない。

(田村委員)
 イギリスではそうした活動は全部夜やっている。

(大宅委員)
 親の方はボランティアでやっているのに、教員だけ勤務時間内というのはおかしいのではないか。

(藤田委員)
 日本の学校は非常に活動密度が高いため、うまくいっているときは互いに支え合ってうまくやれるが、一度歯車が狂うと個別の問題に対応できなくなってしまう。

(大宅委員)
 学校で最低限何をやってほしいのかについてコンセンサスが必要。私は人間性は教えてほしくない。読み書きそろばんと団体生活を教えてもらえば十分。教員はそれさえやっていれば早く帰ってもいい。善意の上にのって初めてうまくいくというのはおかしい。

(田村委員)
 そこは教養教育との問題がある。日本でも教科を教える人と教養教育を教える人を分ければいい。
 また、大宅委員の言われることも分かるが、暇にすると仕事をしない教員が出てくる。

(藤田委員)
 教科の修得には人間性の修得も付随するはずである。教科を十分に教えることで副次的に得られるものをもっと全面に考えていく必要があるのではないか。

(大宅委員)
 道を示せば、興味のある子はそちらへ行く。先生がそうした提案ができれば十分と思う。

(田村委員)
 その方針でやってきた日本の戦後教育の結果、教養が十分についたとは言えない。
 また、勤務時間と言うが、今の教員は職員会議をやっていても勤務時間が終わったと言って帰ってしまう。そんなことができるのは「潰れない」という前提があるからだ。

(藤田委員)
 そこから潰れる潰れないに行くのは飛躍のしすぎ。評価の問題ではないか。

(河合委員)
 教員の評価の問題は非常に難しい。日本的民主主義ではみんな一緒という考え方が強いので、教員間で差がつくのは大問題となる。しかし、上手に教えるということは非常に難しい。一生懸命やっている人とそうでない人とで差を付けることを考えてもいいと思う。

(金子主査)
 会議等が多いことについては、やり方次第。
 評価についてはどうしても必要であると思う。しかし、今のままで評価だけを導入するのでは不十分。多様な人を入れる→それぞれが学んで切磋琢磨→駄目であれば辞める、配置換えと、トータルなプロセスを考え、そこに評価が入るということではないか。

(藤田委員)
 評価は必要であるが、教育活動は協同作業である。やった作業の評価と資質や力量についての評価は異なるはずであり、当事者が最善の評価方法を考えていく必要がある。

(金子主査)
 絶対的に正しい評価はあり得ない。プロセスの中で考える必要がある。

(田村委員)
 評価については公表することが重要である。

(藤田委員)
 個人のプライバシーに関わることまで公表することは問題。

(金子主査)
 評価を誰がやるかという問題と、その結果をどう使うかという問題についてはどうか。

(藤田委員)
 教員の評価の流れが広まっているのは事実であるが、導入の仕方によっては日本の教育の協調性のよさが失われるおそれがある。一律の導入は必要ではない。当事者が集まって最善の評価の導入の仕方を考える必要がある。評価の大枠は都道府県の教育委員会で、個別の評価の仕方は学校単位で決めるなどがよいのではないか。

(河合委員)
 Cの「新しい学校の試み」の中に評価を行っている学校を入れてもよいのではないか。

(田村委員)
 勤評闘争の時に、組合側と妥協して評価システムを作り、何にもならなかったという事実がある。

(今井委員)
 評価される人たちがつくると逃げ道ができるのではないか。

(河合委員)
 教員の評価を考え出したと言うだけでも教員の態度が変わるのではないか。

(今井委員)
 そうした評価が保護者にまで伝われば、学校を選択できる。

(藤田委員)
 評価は、その結果を報酬に結びつける考え方と、自己改革を促すための手段とする考え方がある。後者は報酬と結びつける必要はなく、各学校で努力できる。そうした自己改革の努力を促す手段という意味で評価、フィードバックの重要性を訴える必要はある。

(田村委員)
 マネジメントの分野でも、給料に差をつけるよりも、本人にやる気を出させる、自己実現の欲望が満たされるかどうかが基本的な発想。評価の結果をフィードバックさせて本人の自己実現の意欲に反映させるのが一番よい。

(河合委員)
 評価を導入すれば教員の悩みも増すので、教員を支える制度が必要。

(金子主査)
 くり返しフィードバックしてもだめな人にはそれなりの処遇が必要。

(石原委員)
 評価については、教員が教育公務員であるという大きな枠、特徴を念頭に置くべきである。
 教員の多忙感については、学校の運営が全員一致主義に基づいており時間がかかってしまうという問題がある。組織としてきちんと運営ができるような体制作りが必要。一方、最近は公的な部門で「説明責任」が言われ、仕事の質が違ってきた。こうした中で、先生が子どもに向き合う時間をどう作るかを考えることが大切。
 現場の教員は実践者であり、スポーツで言えば選手。現在はコースが単線的で、一生選手でいるようなもの。しかし、教員の中にも実践が得意な教員と組織運営が得意な教員などがいる。一定の年齢で様々な仕事や職を選択できる仕組みを作ることが必要。
 教員の勤務形態については、職務の性質上決められた勤務時間で終わりとはならない。現状の問題点は、いい先生ほど多くの仕事をやらなければならないということである。

(金子主査)
 不慣れな仕事をやり続けて不幸なのはよくない。終身雇用の中で、有期や契約などを組み合わせた形態を検討してはどうか。

(田村委員)
 パートタイムの教員を導入してはどうか。

(金子主査)
 次回はもう一度本日の続きを検討することとし、教員も含めて具体的な提案について議論することとしたい。

[文責は教育改革国民会議担当室]

(注)本議事概要の内容については、今後変更の可能性があります。