教育改革国民会議

資料7

教育改革国民会議委員から寄せられた
教育のあり方に関する意見



平成12年4月

内閣官房内閣内政審議室 教育改革国民会議担当室

この冊子は、小渕前内閣総理大臣及び中曽根文部大臣からの依頼に応じ有識者の方々からいただいた教育に関する意見のうち、教育改革国民会議の委員から寄せられた意見を掲載したものです。

目    次


○ 石原 多賀子(金沢市教育長)

○ 今井 佐知子(社団法人日本PTA全国協議会理事)

○ 上島 一泰(社団法人日本青年会議所会頭)

○ 牛尾 治朗(ウシオ電機会長)

○ 江崎玲於奈(芝浦工業大学学長)

○ 大宅 映子(ジャーナリスト)

○ 梶田 叡一(京都ノートルダム女子大学学長)

○ 勝田 吉太郎(鈴鹿国際大学学長・京都大学名誉教授)

○ 金子 郁容(慶應義塾幼稚舎長)

○ 河合 隼雄(国際日本文化研究センター所長)

○ 河上 亮一(川越市立城南中学校教諭)

○ 木村 孟(大学評価・学位授与機構長)

○ 草野 忠義(連合副会長)

○ グレゴリー・クラーク(多摩大学学長)

○ 河野 俊二(東京海上火災保険株式会社取締役会長)

○ 田中 成明(京都大学教授)

○ 田村 哲夫(学校法人渋谷教育学園理事長)

○ 沈 壽官(薩摩焼宗家十四代)

○ 浜田 広(リコー会長)

○ 藤田 英典(東京大学教授)

○ 森 隆夫(お茶の水女子大学名誉教授)

○ 山折 哲雄(京都造形芸術大学大学院長)

○ 山下 泰裕(東海大学教授)

<資料> 
小渕前総理大臣及び中曽根文部大臣の連名による有識者に対する依頼文書


石 原 多 賀 子
(金沢市教育長)

 21世紀の教育のあり方について、意見を述べる機会をいただきましたことに感謝申し上げます。地域住民に最も身近で密着している地方教育行政の責任者として、現場と現状の課題を踏まえながら、新しい時代の教育のあり方について、以下に述べさせていただきます。

1.教育という営みにとって大切な視点。

(1) 2つの視点
 @ 個人として、誕生−成長−老化−死という一生をどのように生きていくかということに関わる教育。生き方の選択ができる力を育んでいく過程を指導・支援していく役割を担う教育。
 A 社会を構成し、社会をつくっていくための力を育む<協同>と<公>に関わる教育
(2) 人生における<学校教育>の位置づけと役割について
 小・中学校は人生における何を準備させるためにあるのかという認識が教職員、保護者、地域住民に明確に共有されることが必要。
(3) <子育て>と<教育>について
 学校中心主義の教育から家庭−学校−地域社会の連携した教育へ、と言われているが、現状の問題はむしろ、<子育て>が学校中心主義になっている点にある。子育ては、親の責任のもと家庭を基盤としながら、社会全体が子どもの<社会化>に関わるという視点から<子育ての社会化>が必要である。
(4) 勉強は何のためにするのかが児童生徒にわかる教育のため<社会の双方向型教育体制づくり>
 学校卒業後、社会人として就職するという<単線型のコース>だけでなく、学校で学びながら、年齢に応じて仕事やボランティア活動に従事し、それらを通して勉強は何のためにするのかという勉強の必要性を感じとれるような<双方向型コース>も必要である。働くことの意味や現代社会に合った職業教育のあり方が必要である。
(5) 子どもを大切にするということの意識改革
 子どもを大切にするということについて、日本では、環境を整え、条件を整備し、安全を確保して何不自由なくさせるということにシフトしすぎているのではないか。子どもがその年齢や能力でどこまでやれるかというその可能性にチャレンジさせることが、本当に子どもを大切にすることであるという意識改革が必要である。

2.学校、家族、地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮すべきか、生涯学習 をどのように進めるか。

(1) 学校
 体系的・継続的なカリキュラムを専門家によって教育する<教育施設>としての役割と地域コミュニティ形成の中核を担う<教育機関>としての役割
 @ 基礎的な学力
 A 知的な能力の開発
 B 家族とは異なる社会的集団生活の場としてのルールとマナー
 C 地域の学校としての役割
(2) 家族
 子育ての基礎的な集団であり、子どもの生活の拠点としての役割
 @ 親子関係を通して育まれる人間関係への信頼感
 A 生活のしつけ、社会的なルール
 B 倫理、道徳の基礎
 C 言葉の基礎的習得
(3) 地域社会
 子どもの社会生活の場としての役割。
 地域社会そのものが変化してきている。都市化、産業化によって<家業型地域社会>から<サラリーマン型地域社会>へと変化している中で、地域連帯感の希薄化と、子どもをターゲットにした商業主義的な営業活動が展開されているのが現状。
 @ 地域の大人全体で子どもに関わり、子育ての社会化を担う。
 A 地域社会をよくするのはそこに住む人々の役割と責任であることを大人も子どもも自覚するとともに、サラリーマン型地域社会におけるコミュニティ教育の役割を果たす。

3.<個>と<公>についてどのように考えるべきか。

 総理大臣が年頭の記者会見で述べておられる通り<個人>が自分の意見で社会と関わり合うことで<公=パブリック>を生み出していき、「個人」と「公」が共に支え合う新しい社会の仕組みを築いていくためには、<個>ということが限りなく<私化>していき、<公>が<行政、国家>へと収斂していく現状をどう改革していくかという重い問題がある。
 また、西欧的な屹立した自我の確立をめざす<個>ではなく、日本の文化に根ざした<和>の精神の中で育まれる柔らかな<個>の形成が必要である。<公民教育>の視点が学校教育・社会教育において大切である。

4.教育改革を今後具体的にどのように進めていくべきか。

(1) 生涯学習時代にふさわしい学校制度の複線化、多様化への改革
 既に中高一貫教育、単位制高校等が実現しているが、さらに、学校−卒業−就職というコースだけでなく、中・高校、大学で年齢に応じて学校で学びつつ仕事や社会参加活動をし、勉強と仕事、学校と社会の双方向の交流を図っていけるシステムの検討。
(2) 地方分権時代に対応した教育のあり方について
 義務教育については、設置者である市町村の裁量権限をさらに拡大し、特に中核市までは、地域の学校として当該自治体が責任を果たせる仕組みの確立。
(3) 個に応じた教育の一環として本当の意味でのエリート教育制度の確立
(4) 入学試験制度から卒業資格制度への転換
(5) 小・中一貫の英語教育の推進
今 井 佐 知 子
(社団法人日本PTA全国協議会理事)

意見書を提出するにあたって
 私はふたりの子どもを持つ母親で、何の専門的知識もありません。教育のあらゆる問題は、素人が口出しできるほど簡単な問題ではないでしょうが、どんどん複雑化してくる子ども達の教育環境や、詰め込み教育からくる心の病いなどを考えると、これ以上、専門家にまかせていていいのかとの疑問も生じます。21世紀の教育のあり方を国民全体で考えるときに、親の意見を参考にしていただけることは、大変有意義であり感謝してます。

1.教育の基本理念とは

 今の子ども達は、瞳が輝いているのだろうか。幼・保、小、中、高と進むに連れてその子本来の輝きを、失っている気がする。ある意味で、教育は子どもに願いをかけ、その願いを実現していくためのプロセスなのに、教育現場では校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊など深刻な問題が起こっており、大きな社会問題にもなっている。私たち親は、子どもが生まれた時には、「心身ともに健全に育ってくれれば」と思っていたのに、学校に通う頃になると、テストの点が気になり、他の子どもとの比較や、平均値(世の常識)に目を奪われ、子どもの成長にすら満足できなくなってきている。そんな親や教育制度のもとで、子ども達は輝きを増すことができるのだろうか。
 また、「何のために勉強するの」「学校は何しに行くの」等の子ども達の問いかけに、私達は明確な信念を説明できるだろうか。何の目的もないまま、知識を習得し社会へ出ていくことが、学問なのだろうか。知識偏重や金銭至上主義によって、子ども達の失った輝きを踏まえ、今こそ教育の真の目的を確立すべきである。特に幼児期からの心の教育、あるいは人間本来の人としてのあり方(徳育)などを念頭におき、一人ひとりが自分の価値(生き方)を発見し、自分らしさを発揮することを学ぶことが、教育理念だと考える。

2.学校・家庭・地域の役割と生涯学習の推進について

 IEA(国際到達度評価学会)の調査によると、我が国の子ども達は国際的にもトップレベルの学力水準にあるにもかかわらず、応用力に弱かったり、数学や理科などが嫌いという、なんとも矛盾する結果がでた。今の学校教育の制度疲労がそこに見える。学校で何を学ばせるか、明確な基準を持たないで、社会の要請に答えてきて、教育内容がどんどん高度化してきた。いくら親や、先生が「あらゆる努力をすれば報われる」の精神で叱咤激励しても、子ども達はもう、消化不良を起こしてる。授業がわかりにくい子ども達は、小学校で3割弱、中学校で5割(日本PTAの調査より)。後は塾が補完してる現実を、どう考えるか。ぜひ大幅に教育内容を削減し、少人数学級を実現し、授業についていけない子どもたちをなくしてほしい。
 私自身、大人になって一度も、三角関数や因数分解など活用していない。もし、日本の子ども達が必要以上に知識を学び過ぎてるとしたら、それは、とんでもないエネルギーの浪費だ。現代は情報通信も発達してるので、知識については必要な時に得ることができる。今、必要な教育は、その学び方(基礎・基本)と興味・関心の意欲を育むこと。その上で、多様なカリキュラムの選択の自由を充実してほしい。科目は選べるようになっても、先生は選べない。学級王国のなかで「こどもの心はわからない」と嘆くまえに、自分の授業技術の力量を磨いてほしい。また、先生に対する子供や保護者の評価も加え、適正を欠く先生の配置転換の基準も明確にすることも必要である。学校は誰を守るべきところなのか、ぜひはっきりさせてほしい。
 また、完全学校5日制が始まるなかで、部活があると学校に土、日を拘束され、学校で過ごす時間は少しも変わらない。少子化で部員減少の現状も踏まえて、早急に地域スポーツへの移行を検討されたい。
 それから、一般的に「学校=教育」という観念があり、親も学校に行かせておけば、子どもは育つという、学校神話が現場では多々見うけられる。本来、親が身に付けてきた知識や知恵、あるいは地域の文化を次世代に伝えることが教育の原点なのに、学校の存在があまりにも大きくなり、家庭や地域は教育能力を失ったようにも思える。家庭や地域が崩壊したひとつに、戦後のサラリーマン人口の増加が挙げられる(現在約8割)。あらゆる面での自己責任意識が希薄になってきた。また、地域の人々も少子高齢化や後継者不足など、嘆くだけでは魅力的な地域づくりは推進されない。子ども達は地域の宝であり、ひいては地域の後継者でもあるから、「ピンチはチャンス」の発想で、学校と一緒になって地域教育を推進することを支援してほしい。そのためには学校評議員制度などを活用して、地域に開かれた学校の姿が求められる。学校だけでは子ども達の感性は育たないので、地域の方には指導者として自然体験、社会体験、文化、ボランティア活動など様々なふれあいを通じて、どうしたら好奇心を伸ばしたり、自分の能力に気づき生かしていけるかを、教えていただきたい。そういう大人に出会うと、子ども達はきっと瞳を輝かせるにちがいない。
 子育ては両親が身体ごとぶつかって、叱ったりほめたりしながら成し遂げていく教育の一大事業である。少子・高齢化のなかで、女性の社会進出など時代の要請もあるが、子どもが強く育っていくには、まず温かい母性が必要である。また、父親も仕事を理由に逃げないで、積極的に係わっていくことが母親や子どもに安定感を与え、規範意識も育まれてくる。核家族化傾向が強まるなかで、若い親は父性や母性の問題を自覚し、父親、早親のあり方を考える、あるいはどこかの機関で親業教育をすることも必要になってくる。
 また、子育て支援を地域で受けるには、「怪我と弁当は、自分持ち」の自覚がないと地域連携は成り立たない。両親が職業をもっていようとなかろうと、育児は育自であることに気づいてほしい。生涯学習は、誰でも、いつでも生涯を通じて学ぶ権利を与えるものだから、子どもを勉強漬けにする必要はない。様々な子ども達が自分の好きなところで学べばいい。この選択の自由と試行錯誤の自由、やりなおしのきく自由が、今の日本の教育に一番求められているのではないだろうか。それが確保されれば、「教育=学校」の観念も変わってくる。生涯審では、もっと国民にわかりやすい自己実現(生きがいの発見)の総合計画を早急に提唱してほしい。ひいては、それが学歴偏重の単一な価値観から国民を解放することにもつながるので。

3.「個」と「公」について

 生涯学習が推進されてくると、その成果を生かすことのできる社会が望まれる。私自身ふり返ると、PTAを通じ教育の重要性を学び、子ども達の健やかな成長を願い、行政や社会とつながって主体的に活動できることは、忙しいなかにも楽しく充実した喜びがある。学習をすることによってお互いのよさを認めあい、それぞれが同じ目的にむかって共同できる社会は、21世紀の日本社会のあるべき姿である。個人が学んだことを、キャリア開発や、ボランティア活動、地域社会の活性化などにどんどん生かせるシステムを推進してほしい。ただ残念なことに、市町村レベルでは生涯学習の理解に温度差がある。社会教育主事や公民館などの意識改革を積極的に取り組まないと、国民から取り残されることになる。
 また、個を公に生かす(つなぐ)コーディネーターの充実や、学習者への豊富な情報提供も望まれる。と同時に、マスメディアなどと連動して仕事以外に自己実現を図る場があることを、国民にわかりやすく伝えてほしい。

4.教育改革の進め方

 これまで述べてきた通り、学歴偏重社会から生涯学習社会への移行は、多様な価値観を認め、やり直しのきく弾力的な、ゆとりのある社会を構築することになる。しかし、入試制度の大胆な改善がない限り「絵にかいた餅」になりかねない。中教審の中間報告を読んだが、丁重に説明したいあまりに、随所で同じ主旨の文言が繰り返されており、内容も非常にわかりづらかった。入試制度の改善は、国民の関心も高いし影響も大きいので、答申までには一般の人にも内容を把握し、理解できるような文言の整理、精選を図ってほしい。
 また日本PTAでは、広く国民の間で生涯学習の振興など、教育について考える機会を設けることを目的に、「教育の日」(6月3日案)の制定に向けた取り組みをしている。各教育団体に働きかけ、国民の祝日として法制化を目指しているので教育改革国民会議の席でも、ぜひ議論をお願いしたい。
上 島 一 泰
(社団法人日本青年会議所会頭)

@ 教育という営みにとって大切な視点(基本理念)は何か

教育とは
 現在、学校では知識偏重の詰め込み式型教育、画一教育、指導の硬直化などから、子どもたちの持つ創造性豊かな心を奪ってしまっているのではないでしょうか。そのことで子どもたちの多くがストレスを感じ、そのはけ口として「いじめ」や「校内暴力」へとつながっているのではないでしょうか。また、家庭では子どもたちの心を育てることを学校に押し付け、いつしか学校に子どもたちの教育の全てを任せてしまっております。「任せること」は子どもたちへの「無関心」につながり、また、地域もコミュニティが希薄になり、自己中心的な考え方が広がり、他人の子どもには全く「無関心」というような状況です。子どもたちもまた、家庭に地域に「無関心」になっております。学校、家庭、地域の関係が崩れ、子どもたちに「心」を教え、伝えるところがなくなっているのではないでしょうか。今まで私たちの祖先は、様々な文化や文明を輸入し取捨選択して積み重ね、加工したうえで日本独自の文化を育んできました。そして、日本人の心もそれと共に成長してきました。この日本の心を育む役割が教育だと考えます。それは組織的に行われる学校教育や企業内教育のみならず、日々の生活の中での家庭教育や地域における伝統を伝承する地域教育、ひいては自ら経験すること自体が教育です。つまり、学ぶ姿勢があれば、実生活の中で様々な教材があることに気づき、その発見そのものが教育といえるのではないでしょうか。家庭も学校も地域の一部とした社会全体で子どもたちに「日本の心・精神」を伝えていく「心」の教育こそが真の教育だと思います。

A 学校・家庭・地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮すべきか、生涯学習をどのように進めるか

PTCA運動の提唱と地域の先生づくり運動の実践
 先に述べたように、現在の子どもたちの教育環境は、核家族化が進み、躾などの教育も含めて学校主体となっております。また、隣、近所の人々とのコミュニケーションの減少により、地域で子どもたちを育てていくという意識も少なくなり、地域教育も学校に頼っています。教育を「家庭に任せた」、「学校に任せた」など責任転換をするのではなく、家庭、学校、地域がそれぞれの役割を引き受け、地域が子どもを育てるという意識を持つことが大切だと考えます。そこで、社団法人日本青年会議所はこの考えのもと、従来のPTAにコミュニティのCを加えたPTCA運動という行動を提案しました。これは、P=両親とT=先生、そしてC=地域(コミュニティ)に住むすべての人々によるA=組織(アソシエーション)をつくり、家庭、学校、地域社会が共同で地域に開かれた教育を目指し、それにより地域教育も向上させようとする考えです。共に育み、共に育つ。教育から「共育」へ。子どもたちが本音で話し合い、その考えを私たちが聞けるような「子ども会議」の実践や、子どもたちに仲間づくりの楽しさや大切さを教える「がんこおやじの会」の実践などを行っていこうというものです。また、その地域の特性や伝統文化を取り入れた体験学習の実施や、地域の住民が学校の授業に参加できるカリキュラムなど、学校・家庭・地域の三位一体による「心の教育」を提案しております。私たち青年会議所はこの「共育」システムにより、地域教育の担い手の育成とそのネットワークを築き、社会全体で子どもたちの「日本の心」と「生きる力」を育てていくことを目指しております。
 更に具体的でより身近な行動がとれるように「地域の先生づくり運動」にも取り組んでおります。昔から子どもたちが、生活に必要な事、知識・道徳など、様々なことをまわりの大人から学び、また大人は自分の知っていることを、自分の子どもだけでなく近くの子どもたちにも、時には厳しく、時にはやさしく教えてきました。この大人たちが「地域の先生」ではなかったでしょうか。隣の子どもは隣の親が面倒を見るという考え方ではなく、隣の子どもも自分の子どもと同じように育てていこうという考え方を私たち自身が持ち、私たち大人が「先に生まれた者」としての「先生」になって、地域の方と一緒になって身近なことを伝えていくことが「地域の先生づくり運動」だと考えます。また、この運動を成功させるためには家庭では思いやりの心や感謝する心など基本的な「心」=躾を伝え、地域社会では人としての責任や他人を認め、助け合う心を、そして、人としての希望を伝えていくことが大切であり、学校は世帯を越えた交流や伝統文化の伝承を伝えると同時に家庭と地域を結ぶプラットホーム的なコミュニケーションセンターとして機能させることが重要です。それぞれの役割を明確にした上で、地域社会全体でこの運動に取り組まなければならないと考えます。
 また、この「地域の先生づくり運動」を継続性のあるひとづくり運動として、地域に根ざした運動にして行くならば、その地域の人たちからいろいろなアイディアが生まれ、様々な年代の人々が参加するようになり、世代を越えた交流の場が生まれるようになるでしょう。この交流の場が市民参加のまちづくり運動へと発展する可能性があります。ひとづくりとまちづくりの融合こそが、「人間力」の開発であり、生涯学習ではないでしょうか。

B 「個」と「公」についてどのように考えるべきか

「個」と「公」
 社団法人日本青年会議所は2000年という新しい時代に、はつらつとした逞しい子どもたちを育むのは、私たち大人の責任だと考え、私たちが「日本人として心の豊かさ」を取り戻し、子どもたちが自らの力で考え行動し、喜びや楽しみを見出せるような「たのもしい人間」に育てていくという社会の実現が重要だとも考えます。「たのもしい人間」とは物事の道理や人間的な情熱に基づいて判断する良識を持ち、自らのアイデンティティを明確にし、自己責任の原理原則と公正な判断ができ、創造のために行動する勇気を持った「人間」です。この「たのもしい人間」がまさに、「個」の自立した姿ではないでしょうか。また、「個」を支える「公」も、従来の「官」だけではなく、「地域社会」も含めた公共でなければなりません。地域社会を含む「公」となると、そこにある「個」も含んだ「公」になるわけです。「個」がなければ「公」が成り立たず、「公」がなければ「個」が成り立たなくなってきます。たのもしい人間が公共(地域)を支え、公共(地域)がたのもしい人間を支える社会が21世紀を動かす原動力になります。
 自立した「個」である「たのもしい人間」を育てて行くには、「地域の先生づくり運動」の様な、個性豊かで創造的な、社会性の大切さを認識した子どもたちを育てていくなど、個人の継続学習のシステムを推進する必要があると思いますし、国を愛し、地球を愛する心を持ったグローバルな精神や新たな公共心を育てるプロジェクトも必要だと考えます。

C 教育改革を今後、具体的にどのように進めていくべきか

教育改革
 教育は人の長い歴史の中で様々な形態を示してきました。しかし、時は流れ、洋の東西を問わず、その共通の理念は先に述べたように、人格形成を促す「心」です。精神的な欲求を満たし心の豊かさを家庭や学校、地域で育んできたのが教育です。しかし、戦後から現在にかけての教育は「社会の地位や財産」といった物質的欲求を満たし、物質的な幸福を求める手段として利用されてきたのではないでしょうか。そのために子どもたちの「心」がむしばまれ、「いじめ」や「不登校」といった教育問題となって現れていると考えます。先にも述べた「心」の教育を再認識することが大切だと思います。また、これからの新しい時代には、日本人としての意識をしっかり持った人材の育成が重要です。戦後教育の中では、日本の明治維新以来の歴史を自虐的に教えてきました。そのために日本人としての歴史を喪失し、日本の伝統文化や精神が教育からなくなりました。結果、日本人としての価値観も共有することができず、国に帰属意識を求めない個人の集合体になりつつあるようです。国を不要とする社会は秩序、規範に共通性がなくなり無秩序、無規範といえる状態になります。いま、社会で起きる事件はそのためではないでしょうか。歴史を見直す教育が国民の心を呼び覚まし、日本人として誇りを持った人材を育てると確信します。
 私たち社団法人日本青年会議所は日本の未来を築く、たのもしい子どもたちを育てていくために下記のような改革を提言させていただきます。

1.初等中等教育における学校選択権の確保
 a.学区制にとらわれない公立学校の選択の自由化
 b.チャータースクール的な新しい学校の認可
 c.教師の学校間トレードの制度化
 現在の初等中等教育はほとんどが選択性のない状況にあります。この選択権を子どもと保護者に与える必要性があります。そうすることによって学校は的確な情報を流し、また、PRをすることが必要になります。その結果、学校側の切磋琢磨が期待でき、多彩な学校が誕生するきっかけのひとつになると思います。また、アメリカのようなチャータースクール的学校を自由に造ることができるように制度の改革も必要だと思います。地域の教育委員会などから認定を受けると授業料は税金で賄われ、成果が認められなければ認定が取り消されるシステムをつくり、運営する学校を造ります。PFIに近い運営方法をとり費用を安くでき、また、いろいろな個性がある学校が可能になります。自分たちにあった学校を探すことができ、不登校などの問題も解決できます。
 学校間で教師をトレードすることで学校の教育力アップを図ることが可能です。受け入れの学校はもちろん生徒たちの活性化も図れるだけでなく、教師や学校自身の意識改革にもつながり効果が期待できます。

2.学習指導要綱の柔軟化
 a.学校の独自性を生む学校の裁量権の拡大
 b.独自のカリキュラムが組めるような指導要綱の簡素化
 c.障害者の人との交流や共同授業の実施
 現在の学習指導要綱は改定を重ね、ある程度自由度のあるものになってきております。しかし、教師にとってはノルマ化されたものであり、そのノルマを達成するために画一化した事業が実施されているのが現状です。校長先生に権限がある程度委譲されてきておりますが、実際に教育を行う教師の自由裁量を増やすことで、接している子どもたちの個性に応じた、より多彩な学習指導を可能にします。子どもたちの能力に応じた教育が可能になり個性の伸長が期待されます。

3.専門教育の新しい方向性
 a.学校で取得した知識を社会生活に積極的に活用できる教科の再編や連携
 b.初等中等一貫教育の実施
 初等中等教育において選択科目を設置し、芸術・技術的な科目の指導を充実させ、高等教育の専門化を強めます。また、中等教育修了者を受け入れる専門学校を増設し、多彩なものにします。現状では中等教育修了者の進学できる専門学校は非常に少なくまた分野も偏っております。このことにより社会のニーズに合った実践的な人材を育成することが可能になると考えます。また、初等中等の一貫教育を目指せば、基本的な教育、専門的な教育をより明確に連携することができると考えます。偏差値での判断をなくす意味でも初等中等一貫教育が理想です。

4.学校・家庭・地域社会のつながりを生む三位一体システムの検討
 a.地域にすむ人を副校長先生として学校に送り込むシステムの構築
 b.空き教室を地域に開放するようなシステムの検討
 c.自由に授業参観ができる制度の検討
 現在、校長先生の権限により教師として地域の方を教師に登用できる制度ができましたが、子どもと親、子どもと学校、そして地域と学校をより密接な関係にするために、地域の方を副校長先生として学校に派遣できるシステムも有効だと考えます。教師でない副校長の存在は学校の教師や生徒、そして親たちの刺激になると思います。学校を地域に開放することで、その地域にすむ人と子どもたちの交流が広がり教育の相乗効果があがります。また、地域に開かれた学校が望ましいとするのであれば、「毎日が授業参観日」とし、誰でも学校の様子を見ることができる制度も有効です。結果的に地域の人たち全員で地域の子どもたちを育てていくという意識が生まれます。

5.教育評価システムの確立
 a.個性をはかれる教育用評価シートの検討
 b.地域教育力(独自性、多様性)をはかれる評価シートの実施
 現在、教師としてその資質が問われております。校内の管理職や親、子どもから評価されるシステムが必要です。また、地域の人が学校にかかわる場合でもその行動を評価するシステムが必要です。この評価によって学校内も活性化されますし、教師を正当に親の立場や子どもの立場から評価できるシステムが確立されれば、サラリーマン化した教師にとって、聖職を考え直す機会になり、熱意ある教師のやる気を高めます。魅力ある学校づくり、自慢のできる学校づくりの大きな一歩になるはずです。


牛 尾 治 朗
(ウシオ電機会長)

 2000年を迎え、教育の基本に遡って幅広く今後の教育のあり方について検討し、新しい21世紀の「教育百年の計」を策定するという小渕首相の考えに対し、大いなる賛意を表すとともに、「教育百年の計」についての私なりの考えを述べさせていただきたい。

T.基本認識

 加速度的に進展する情報化・グローバル化や資本主義の構造変化と相克、価値観の多様化・混合化や労働力構造の変化に対応していくため、企業は今、生き残りをかけた真剣な改革努力を続けている。それに伴って、企業が求める人材像や学校教育に対する期待も自ずから変化してきている。また、地域社会と企業とのかかわり方もかつては異なったものになりつつある。
 本来、子どもたちの教育は学校だけが行なうものではなく、家庭や地域社会もその役割の一端を担っている。本人の自己教育・自己啓発も欠かせない。戦後、教育は学校だけで行なうものという風潮が蔓延した結果、学級崩壊等の問題を引き起こした側面もあるが、幸い、この数年、家庭や地域社会が学校と一緒になって子どもたちの教育を担おうとする動きが出てきた。非常に喜ばしいことである。
 私は、「教育百年の計」の観点に立てば、教育の基本は資本主義と民主主義を両輪とする社会を担い、この国の新しいかたちを築く次世代を育てることであると思う。

U.基本理念

 教育は、本来、各人が持つ多種多様な資質(個性)や才能を引き出し、豊かに花開かせることにほかならない。同時に、@社会に貢献する姿勢、A自己表現能力、B相手(異文化)を理解・尊重する力、この三つを身につけることが必要である。しかし、現状の教育はこのために有効に機能しているとは言い難い。
 私は、この視点を基軸に据え、「教育」は選択の自由という理念を重んじつつ築かれなければならないと考える。すなわち、学校は自己責任原則に基づき、自らの教育体系を「選択」すると同時に、生徒・学生から選ばれる立場に立つことを、また生徒・学生は多様な教育コースとカリキュラムの中から自己の責任において、自ら「選択」する教育を目指すべきである。結果として、初中等教育においては、基礎学力、体力、公徳心をきちんと身につけた「伸び伸びとした人間性」を育む教育が行なわれ、また高等教育においては、リベラル・アーツを基盤とした専門教育の十分な修得を目指す、すなわち、すぐれて「学問」の行なわれる場となることが好ましい。
 また、教育は一人教育界だけの問題ではなく、学校、家庭、企業、地域をはじめとする社会全体の問題でもあり、それぞれが自らの役割と責任を自覚し、知恵と力を出し合うことが重要である。
 これまで、「人生18歳確定説・年齢輪切り主義」が、わが国の教育や社会の歪みをもたらしてきたが、現在、企業社会ではこうした年齢輪切り主義はもはや消滅しつつある。これは、今後の教育を考えるうえで欠かせない視点である。

V.具体策

 最後に具体的な提案を二つほどいたしたい。
 一つは、企業人が学校で「先生」となることを通じて、企業のナマの姿を子供たちに伝えることである。こうしたことは「総合的な学習の時間」などを通じて実際に行なわれているが、地域や社会にオープンになることを躊躇する学校もまだまだ少なくないと聞く。また、企業人を先生に招くケースも決して多くはない。学校は、地域社会に対してオープンになるのと同時に、インターネットなど情報ツールをうまく利用して、地域の企業に勤める人たちや地域の企業OB、さまざまな職業人といった人的資源をフル活用して欲しい。それには、@各学校からインターネットなどを通じて、例えば「海外勤務経験の長い商社マン募集」といった情報発信をすること、Aこれとは逆に各地の教育委員会がこうしたキャリアを持つ企業人のエントリー窓口となるとともにデータ・ベースを整備すること、B各地の経済団体等が教育委員会等との連携を持つこと、などによって、学校に過度な負担をかけずに、地域の人材を活用するための有機的なネットワークができるのではないか。
 もう一つは、外国語教育の内容を見直すことである。思い切って、英語の教科書の題材を日本の歴史や文化、社会のあり様に全面的に切り替えてはどうか。戦後、米国にキャッチ・アップすることを目標とし、米国的な文物が日本人にとって珍しかった時代は、例えば教科書の内容が欧米の文物を題材とする受信的側面が強いものでも良かったのであろう。しかし、そうしたものが珍しくなくなった現在、英語を勉強する意味は変貌している。英語は諸外国の人々とのコミュニケーション・発信の手段であり、われわれが発信する情報も、わが国の文化や社会などが主である。我々が中国語やロシア語を学ぶ意味(中国やロシアの文化や社会を学ぶという側面が大きい)と英語を学ぶ意味は明らかに違ってきているのである。

 国民の総力を結集して、教育改革国民会議で十分論議を尽くし、新しい21世紀の「教育百年の計」を策定し、即座に実現に結び付くような仕組みも合わせて作り出して欲しい。我々企業人としても、そのための力は惜しまない。


江 崎 玲 於 奈
(芝浦工業大学学長)

教育の在り方

 「時には踏み慣らさらた道を離れ、“森”に入ってみなさい。そこでは、あなたがこれまでに見たことがない何か新しいものを見出すに違いありません。」これは電話機を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルの言葉ですが、教育改革も“森”の中で行えば新しい指針が得られると提案しています。

 現在日本の教育問題は甚だ多岐に亘るが、ここで、二つの面とその間に介在する諸問題として捉えてみれば整理されるのではないであろうか。
 一つの面は、技術革新が目覚しい21世紀、様々の分野で日本を担い、国際貢献も出来る創造性の高い人材を如何に育成するか。これは小渕総理が言われた“創造への挑戦”であり、教育改革国民会議開催の本来の趣旨でもある。現在の我が国の教育制度では全体のレベルは上げられるが、優れた能力を持つ人材が育成しにくいという致命的欠陥がある。
 もう一つの面は教育界が現在直面する病的現象、即ち学級崩壊、不登校、いじめ、自殺、暴力など国民の関心が深い諸問題に対し、学校、家庭、地域がどう対処すればよいか。
 そしてこの二つの面の間に挟まれて本国民会議が課題とすべき諸問題が介在すると考えてよい。その中で特に重要と思われるものは以下の通り。限られた時間で結論を出すには、優先順位を定め、重要と思われるものに焦点を合わせねばならない。

1)教育の基本理念、目標達成のための必要条件:少人数学級と教員の資質向上

 人間の能力は二つの要因によって定まる。一つは持って生まれた“天性”、即ち遺伝情報であり、もう一つは環境による“育成”、即ち遺伝外情報取得である。一般的に、生物学者や優生学者は“天性”を重視し、社会学者や社会主義者は“育成”を重んずる傾向にあるが、“天性を見出し、育成に努める”のが教育の基本理念である。
 われわれの容姿や容貌、才能や素質、ある病気にかかる傾向が強いといった各人の特徴はすべてゲノム、遺伝情報としてDNAの中に刻み込まれており、この持って生まれたゲノムは宿命とでも言おうか、決して変えられないのだということ、勿論、平等ではないことを生徒、父母、教師すべて認めなければならない。“天性”を見出すとは、言わば、自分のゲノム解読なのであるが、先生の講話を聞き、級友達と交流する教育環境の中で、知性、感性の受ける様々な刺激が自己発見に結びつく。このように、先ず、自分の“天性”の発見に努め、次に、それが個性的な光彩を放つよう“天性”を最大限生かす“育成”を図るのが教育の目標である。このような教育が実行されれば、国民それぞれが生まれ持つ能力は最大限に発揮されることになり、我が国の社会の活力は限りなく増大することは明らかであろう。
 この教育の目標を達成するためには、各人の“天性”の違いを無視する平等主義や画一的な“育成”手段を排除せねばならぬのは当然であるが、30人以下の少人数学級、習熟度に応ずる教育、優れた教師の存在は間違いなく必要条件である。これにより各生徒にカスタムメード(特注)教育が可能になる。生徒数が減少する今日、少人数学級を作る絶好のチャンスであると思われる。また、教育の質向上のために教員の再教育、修士号取得を求める時が来たと言えるのではないであろうか。

2)教育制度の改革

 高校進学率が97%にも達する今日、高校も義務教育に含める。その際6−3−3制から4−4−4制にする。この方が各学校がまとまり易く急速に変化する社会に対応し易い。また、4年間の高等学校を大学に準じた組織にする。例えば、単位制を導入し、多くの選択科目を作る。また大学に進学したとき、大学で単位として認められる上級コースを設ける。中学、高校、大学何れも、入試を重視する現在の入学管理体制から卒業管理体制の教育に移行する。そして、これは経団連でも論じられているが、小、中、高校、大学の各卒業段階で全国レベルの学習到達度試験を実施し、各生徒の学力評価を行うとともに、学校、教員の教育成果の評価にも活用する。生徒の学力がある基準に達しなければ卒業証書は与えない。また、生徒はこの学力テストの成績によって希望する中学、高校あるいは大学に進学し、現在のような学校個別の入学試験は中学、高校、大学何れにおいても一切行わない。これにより生徒達は学校の勉強には励まねばならないが、受験のための勉強からすべて解放されるし、大学のレジャーランド化も防げる。また、テストの成績はすべて公開し、企業はこの成績に基づいて採用を決めてもよい。

3)道徳・倫理

 幼児期に家庭、学校、地域における“しつけ”教育の徹底、自制心や克己心の涵養、偉人伝などを通じて情操モラル教育、インターネットの普及、テレビゲームの蔓延による仮想世界(ヴァーチャルワールド)や人間疎遠への対抗策、キャンプなどの集団生活を体験させて規律や協調性を培う。学校と家庭を結ぶインフラネットワークを築くことによって学校を中心とする地域社会を形成させる。今、生徒、両親、教師が何を求められているか知る。愛するに値する学校、郷土、国家を作る努力を傾け、それを通じて愛校心、愛郷心、愛国心の高揚を計る。
大 宅 映 子
(ジャーナリスト)

 JCOのバケツ、山陽新幹線のトンネルのコンクリート崩壊、H2ロケット打ち上げの失敗、夫だけでは足りず、息子にも保険を掛けて殺人。お受験殺人にミイラに足の裏……もう、どれをとっても“日本”に起きてはいけないこと、起きるはずのないことばかり続出しています。
 その根っこは何でしょうか。日本型システムにより、@モノとカネだけを追求し続けたA選択と決定を個人ではなく官主導の結果平等主義で行った。この二つに原因があると思います。
 誰も一人勝ちせず、誰も落ちこぼれず……というシステムは実にやさしい。また、キャッチアップ時代には有効でもありました。しかし日本は鎖国しては生きて行けない国です。国際的に生き残れる力が必要です。
 モノとカネ以外の楽しさ、心地好さ、おいしさ、人を助けて喜ばれて嬉しい、知らないことを学んで面白いetc、数字にならない部分を切り捨てた結果、心の荒廃になったのです。
 しかも、色々な判断を国民が考えて決めるのではなく、官にお任せ、の楽チンな道を選んだ。その方が責任を取らずに済むのですもの。何かおきたら、管理者責任だ!と文句をつければ良いわけです。
 私は行政改革委員会委員として、規制緩和小委員会にも属し、国民の声を聞く、チャンスを三年間毎月一回、与えられましたが、見事に“個が確立していない”集団となった、“やさしい”ヒトビトにあきれはてました。
 翌年から“教育”の規制緩和にとり組みましたが、“お仕着せ”でOK。飛び入学も9月入学も、学校を親が選ぶなんていうのも反対……が多く、がっかりしました。
 教育については、長年改革せねば、といわれ続けてきたものの失敗しています。根っこは、与えられ続け、“差がつくことは悪”の思想にまみれた国民と相変わらず、利益誘導こそ代議士の役目と任じている政治家とのなれ合いの上でこの国が運営されているからです。
 頑張っても頑張らなくてももらえるものは同じ−これで“生きる力”が出るわけがありません。
 『任せなさい。(依らしむべし)』で考えさせないで、急に自己責任を問うても無理な話です。
 個性を伸ばす、と言葉でいいますが、個性というと、社会で認められた特別な才能のように考えがちです。もっと小さな所、人一人ひとりは、違うのだ、違って当たり前だ、違う所に意味があるのだ、という所を押さえるのが一番大切だ、と私は思います。
 違うのは当然で、どちらかが上等とか序列化するものではない。平等だが違う。という当たり前の価値をどうやって皆に認めさせるかが、鍵だと思います。
 女と男は違うのです。群馬と東京も違います。日本とアメリカも違うのです。違っている所をお互いに認め合って、共存する、のがオトナの社会です。
 まずこの“違うことはいいことだ”をクリアし、自分で考え、自分で判断し、自分で選択する。そして勿論その結果自分で責任を取る、という強い個人を沢山つくり出さなくてはいけません。
 日本は7割方のヒトが“そうだ”と思っていることが“正しい”と思い込む風潮があります。小・中・高校と学校に行くのが当たり前。18才で大学に入学し、卒業したら会社に就職するのが当たり前。会社にはフルタイムで長く勤務する方がよろしくて、パートタイマーは亜流。
 この硬直性が、子供達をキレさせているのです。一度はずれたら、“アーもう主流からはずれてしまった!”と思うのは当然です。
 敗者復活というより再挑戦の場を沢山つくり出すことが一番の対策だと思います。学校も企業も。
 そして、国民全員が世界ではばたくリーダーになるわけもないし、必要もない。でも一人一人はどんな仕事でも、それぞれの場で重要な役を担っているのだとお互いに尊敬し合いましょう。
 どんどん進めるヒトや企業には道をあけ、頑張ってね、と応援する。ただそれだけで日本は変る、と思います。(ただし、何もそういう人や企業だけが『上等』というわけではないことをくれぐれも御間違いなく)
 倫理や道徳の問題は“家庭だね”と結論づけるのは簡単です。私も個人的にはそう思います。でもそれを、学校や、文部省や政府には言われたくない、と個人的には思います。
 私のような個人が、個人にそう説いて廻るのはかまわないのですが、これまで“任せなさい!”と大きなお世話をし続けて来た方々からは言われたくありません。
 問題は複合汚染で、学校も行政も教師も親も、皆ダメになったから、社会の教育力が低下してしまったのだと思います。
 思えば昔、貧しい時代は、放っておいても自立とがまん、は教えることが出来ました。
 家庭の中で一人一人が役を果たさなければ家庭がうまく運営されなかった。父さんは稼ぎ手であり、“社会”の代表、母さんが居なければ、食事も掃除もない。
 子供がヒトが持っているものが欲しい!といわれても、先立つものが無ければ、がまんするしかない。
 今や豊かになり過ぎて、子供に自立もがまんも教えられなくなっているのです。
 余程親や社会が“意識して”指導していかない限り、この泥沼からの脱出は難しい、と思います。“悪いのはあなた方一人一人です”というメッセージを伝えられるかどうか、にかかっていると思います。

 ご健闘を祈ります。
 ご参考までに産経新聞『正論』の記事をつけます。


"いろいろあらァな"
今は平均点の時代ではない

少し風穴をあけるだけ
 日本を元気にするための改革が進められているにもかかわらず、なかなか効果が見えない。私なりの診断は、私たちは ゛改革 ″というと、総取り替えで、以前のものは捨てて取って代わるもの、と把えるからだと思っている。
 日本型システムを変えよう、とすると、日本のやさしさを捨てるのか、と来るし、規制緩和を推進すべし、というと、市場は至上でない、アメリカのような弱肉強食の社会不安だらけの国になっていいのか、となる。
 根が自由の国と、結果平等皆一緒が良いが骨の髄まで染みこんだ国とは土台が違う。あまりにも硬直的な自由度の無い中に、ちょっとだけ風穴をあける、゛いろいろあらァな″という意識を気楽に認めるだけでいいのだ。何も全員強くなって戦え、といっているのではない。ヒトと違うことをやりたい、やる力がある人(企業や地方も)に、どうぞ、やってみて、と道を空けてくれるだけでいい。足を引張らないだけでいいのだ。
 運動会で親子で一緒にお弁当を食べる、というのは大きな楽しみだった。ところが最近では、お母さんが来られない人がいるから可哀想、お弁当作ってもらえない人もいるから可哀想etcで、子供たちはいつも通りに教室で給食。親は親だけで食べるのだそうだ。
 世の中には多様な家庭があるんだよ、と教えるのも大事な教育であろうに…。コンビニのお弁当の子がいたって別におかしくはない。卵焼き半分こしてみようよ、というのが楽しいのだと思うのだ。
 日本では、生き方から働き方、死に方まで画一的で、7割方がそうしているのが当然かつフツーでそれ以外は変、という硬直性がある。この自分たちで縛り合っている硬直性を、ほんの少しでいいからゆすぶって、違う生き方、働き方も認める。これだけで、日本は確実に元気になると思う。

選択肢を多くすること
 何で6歳で小学校から始まって18歳で大学、大学を出たら企業に就職、長くいる方がフツー、なのか。
 不登校にでもなったら、アーこれで私は路線からハズレてしまった、と本人も思い、周囲も思ってしまう。これが子供たちを追いつめているのだ。
 落第も飛び級も自由、途中で就職してまた戻ってもよい、昔と違ってすぐ奉公に出て稼がねばならぬ、ってわけでない。やりたいことをみつけてごらん、人生80年もあるんだから、1年や2年どうってことねェやな、という親が増えたら良いな。
 義務教育なんだから行かせるのが義務だ、という親もいる。しかし義務だからといって、そのまま通わせたら子供が自殺するか、ナイフで刺してしまうか、というような゛学校″にどうして押し込み続けるのか。
 働き方だって、フルタイムだけが正しい働き方でもあるまい。
 国力のための国民や企業のための人材、という発想は、いい加減止めた方が良い。
 一回しかない人生を個人の側から発想して、いかに豊かにするか、という視点から見れば、選択肢を多くすること、こそ大切だと思う。ただし責任は自分で取らねばいけないが……。

教育分野での規制緩和
 ゛いろいろあらァな″の意識を広げるために、教育の分野で色々な規制緩和をしはじめている。
 飛び入学──物理と数学に稀有な才能をもつ者が一年早く大学入学が出来るようになった。が、親が一年早く入学させようとするから余計受験戦争が厳しくなる。親に尻を叩かれたのなどいらない。
 本当に天才に近い人がもしいたら飛ばす、といっているだけなのに、小学生用の物理の塾はどこにあるか、と問い合わせる親がかなりいたらしい。
 9月入学もわずかながら出て来たが、ある公聴会会場で、受験生の親という人に、゛受験生の身にもなって下さいッ!″と怒鳴られてびっくりした。
 全員に9月入学の入試も受けろ、などとはいっていない。
 何も18歳の一年をあたら無駄に過ごさなくても、浪人が半年ですむなら、結構だろうに。
 やりたい人、やれる人がいたらやらせてあげるゆとりがほしい。
 原則からいったら、物理と数学しかも一年、なんていうから特別なものになってしまうので、音楽だろうが、国語だろうが、何年だろうが自由にすればいいのだ。供給側が評価能力、事務力に欠けているから出来ないだけだ。
 これからは平均点の時代ではない。お互いヒトと違う所をほめ合うのがよい。変ったヤツ、ヒトの考えない面白いことを考えつくヒトを応援しよう。フツーや正解は一つ、という考えは捨てよう。試験問題も正解がいくつもある、ことにしたらどうか。四つのうち必ず一つが正解だ、一つしか正解がない、という訓練をし続けるから考え方が硬直するのだ。もしかしたら全部バツ、もしかしたら全部マル、という試験を増やすことを提案したい。きっと゛いろいろあらァな″という意識が生まれると思う。

(1999年7月15日 産経新聞「正論」 ジャーナリスト  大宅 映子)


梶 田 叡 一
(京都ノートルダム女子大学学長)

教育改革について望むこと

【未来への期待と共に過去との対話を】

 教育は「国家百年の計」である。したがって教育改革とは、どのような人を育てていくのか、どのような社会、どのような国家を創っていくのか、といった「未来」の選択に関わるものである。
 しかし「未来」の選択は、先人の積み重ねてきた何千年もの文化遺産を次の世代にどう継承させていくのか、そして近年の歴史的流れが原因で歪んでしまった人々のあり方や社会・国家のあり方をどう正していくのか、といった「過去」の振り返りを通じて考えられなくてはならない。
 つまり「子どもの未来」「社会や国家の未来」は、こうした「過去」との対話と、それに基づく現状況の徹底した検討なしには、構想することが不可能なのである。
 例えば、日本の先人達が「人権」や「民主主義」について、どのような積み重ねをし、どのような実績を積み重ねてきたか、子どもだけでなく大人も含めて、現代日本人の大半は何らの知識も持っていない。その代わりとして、現代日本人は、せいぜい、国連やユネスコの「人権」に関わる宣言、フランス革命のスローガンである「自由・平等・博愛」、そしてパリ・コミューンの試み、さらにはアメリカの三権分立、等を語るだけであろう。日本人の伝統的な意識のあり方やそれに基づく実際の社会的歴史的実践、たとえば室町時代の農村一揆の傘連判状が日本における基本的な「人権」や「平等」の意識をどのように示しているのか、山城の国一揆や堺の町衆や佐渡島のコミューンにおける自治の仕組みはどうなっていたのか、そうした中に現在言われる「民主主義」的な原則がどのように生きているのか、ほとんどの人が知っていないし、また知ろうともしていないのが実情ではないだろうか。
 明治維新と第二次大戦の敗戦という大きな民族的転換期を経験し、いずれの場合も、「それまでの日本のものは全て捨て、あらゆることを欧米風に変える」という目標を、教育を含め社会文化のあらゆる面で追求してきた結果が、こうした「文化的被植民地化」をもたらしたと言ってよい。しかし真の国際人としてこれから生きていくためには、日本の良き伝統をきちんと身に付け、その上でどの国の人とも平等互恵の関係の中で付き合っていける能力を身に付ける、ということでなくてはならない。このためには、単なる手直しでない、教育のあり方の根本的な再検討が不可欠である。

【豊かで寛容な社会における自己規律と自己責任の教育】

 1970年代以降、日本社会が物質的に極めて豊かになり、快適便利になり、そして価値の多様化が進む中で、社会の気風も家庭の雰囲気も全ての面で寛容になった。このこと自体は素晴らしいことであるが、こういう中で子どもも大人も利己的自己中心的になり、自堕落になり、依存的になり、自己責任を回避して他に責任を求める、といった気風を強めてきた。このため社会は秩序感覚を失い、非人間的な犯罪は増え、一人ひとりが孤立した砂漠の様相を呈するに至っている。
 教育改革に依って新しい「未来」を創っていこうと言うのなら、従来とは異なった原理に立つ人間教育が不可欠であろう。豊かさに負けない教育、快適便利さに負けない教育、寛容さに負けない教育、利己的自己中心的な落とし穴を克服する教育、自堕落さを克服し自らの中にけじめの感覚を育む教育、依存性を克服し真の自立を目指す教育、他人の痛みがわかるといった内面洞察に立つ真の連帯の教育、等々が考えられなくてはならない。
 このことは加害者の人権を言い立てて被害者のことに言及しない「人権」感覚の是正、個人的な都合が公共の福祉より無条件に優先するかのような「人間尊重」論の是正等々、社会自体に正当なバランス感覚を回復していくことにも繋がっていかねばならない。
 このため、具体的には、学校において自己規律の力とその内的拠り所の育成とが不可欠である。「好きなことを好きな時に好きなように学ぶのが最高=」といった誤った子ども中心主義(実は子ども追随主義)を改め、子どもが困難なこと嫌なことに進んで立ち向かい、自分の力を全部出し切って課題と取り組むような学習が奨励されねばならない。我慢と立ち向かいと頑張りを積み重ねていかない限り、豊かさや快適便利さに負けない逞しさを身に付けていくことは出来ないのである。
 また、世の中には、自分の好き嫌いは別にして、許されることと許されないこと、美しいとされることと醜いとされること、等々といった価値の基準があるということも、ことあるごとに教えていかねばならないのではないだろうか。「自分で良しと判断したのだから」と子どもの言うことやることを丸ごと認めていくなどということは、良識ある大人のすべきことではないのである。

【教育の政治的中立性の確保と中央教育委員会の創設】

 以上に述べた根本的な教育改革を進めていくためには、教育行政の仕組みを抜本的に変革していくことが必要となる。まず第一は、教育のあり方を政治的に中立にするための変革である。第二には、草の根からの創意工夫を教育のあり方に生かしていけるようにするための変革である。
 教育は歴史観や社会観など基本的な価値観に関わる面が強いだけでに、政治的に深刻な対立をはらむものとなることが少なくない。この五十年にわたって続けられてきた日教組と文部省、革新政党と保守政党、といった対立が教育の現場の荒廃をもたらしてきたことは誰しもが認めることであろう。幸いにも、現在では大きな対立も影をひそめ、さまざまな面で教育の正常化が実現しつつあるとはいえ、今後より一層教育の政治的中立をはかっていくためには、政党政治の枠組みから教育に係わる政策決定を切り離すことが不可欠であろう。このためには、国会において任命された中央教育委員からなる中央教育委員会が、政治的中立の立場にたって教育内容を含めた政策決定を行ない、その事務局として文部省が行政的な日常業務を行っていく、という体制に革めていく必要があるであろう。

【中央集権的な教育行政の仕組みの解体と草の根の教育活動の推進】

 教育内容の国家的水準を確保するためには、何らかの形で国の関与が不可欠であるが、個別の学校、そして地域の(市町村の)教育委員会が、「指示待ち」になることなく、真に当事者意識を持ち、主体性を持って自己の管轄範囲の問題について主体的に工夫し解決していく姿勢と能力を持つようにならなくてはならない。教育における地方分権が、財源の問題を含めたシステムの改革としても、また関係者の意識変革としても、追求されなくてはならないであろう。
 教育内容の国家基準にしても、実質的に文部省が定め、それに基づいて教科書の検定も行う、といった従来の仕組みは革めるべきである。具体的には、中央教育委員会直属のカリキュラムセンターを創設して、国の基準の大綱を定めると同時に、地方や地域に対する助言を行ない、具体的水準での教育内容の決定と実施は都道府県や市町村、更には個別の学校に任せること、このことに対応して教科書も自由化し、学校の設置者の責任で採択を行うこと、といった改革が必要ではないだろうか。

 教育問題についての論議は、従来、ややもすると美しい言葉をもてあそぶだけの「言葉遊び」に終わってきたと言ってよい。今回の教育改革がその轍を踏むことのないよう、国民の一人として切に願うものである。


勝 田 吉 太 郎
(鈴鹿国際大学学長・京都大学名誉教授)

「教育の基本理念」

 世界と日本の平和と繁栄に貢献できる知識と志と活力を持つ青年層の育成

1.教育基本法の見直し−「種の論理」(田辺 元)

 国際人の養成とは今や流行語となって久しい。だがそれは〈無国籍人の育成〉であってはならない。この点で「教育基本法」の見直しが必要であろう。(この点の詳細は、十数年も前から指摘してきた点である。拙著『民主教育の落とし穴』、勝田吉太郎『著作集』第8巻所収、1995年ミネルヴァ書房)一言するなら次のようになる。教育基本法の全文と第1条をみるなら、「世界の平和」、「人類の福祉」等他方では「個人の尊厳」、「真理と平和を希求する人間」、「個人の価値」といった文言が乱舞している。しかしながらここには、「人類」と「個人」、つまり「類」と「個」の間を架橋する中間項 − 国、民族、郷土、伝統文化、家庭など − への言及が全くない。まるで個人は、直接人類と向かい合って、自己完成をうるかのようである。京大の優れた哲学者、故 田辺 元の用語を借りるなら、そこには「種の論理」が欠落しているのだ。自分を育てた郷土や国、民族、伝統と文化の価値をしっかり弁えることによって、はじめて日本人たるアイデンティティーを自覚できるであろう。むろんのこと、それは盲目的愛国主義や自国至上主義の狭隘な心性を意味するものではない。むしろ自国の文化や伝統を相対化し、そのよきものと悪しきものとを弁別する心構えをも育成することによって、異文化との共存と友好を高めることに通じるであろう。この点についてちょうど100年前に、真剣かつ深刻に考え、『武士道』を書いたのが新渡戸稲造であった。(これについて添付した産経新聞正論「武士道と真の国際人」参照)

2.公と私−「義を見てせざるは勇なきなり」

 国家の命運を賭けた戦争の惨敗によって、戦時中のスローガンを裏返しにした形で、戦後は「滅公奉私」の風潮が支配するにいたった。国家は“悪”とみなされる一方、利用すべきもの、食いものにするもの、皆でぶらさがる対象へと化した。
 “義”の代りに各人の“利”が追求され、その結果“欲望民主主義”の進行と手に手をとって経済大国が実現した。
 「義を見てせざるは勇なきなり」という『論語』のことばは万人周知であるが、戦後は殆ど死語と化した。かねて私は戦後教育の罪過の一つは“勇気”の徳目を教えなかったことにある、と論じてきた。その結果、“見て見ないふり”の習性が社会に蔓延した。学校現場でいじめ、万引、シンナー、校内暴力“援助交際”、はては学級崩壊が全国に波及した。すべては家庭、学校、近隣の共同体が“見て見ないふり”をする結果だといってよい。
 「義」とは、山鹿素行から新渡戸にいたる思想家たちが論じたように「武士道精神」の根幹をなす。しかしながら“義”は、現今の民主主義時代においても通用する価値であり徳目でなければならない。
 私人の「利害をすてて条理に従い、人道・公共のためにつくすこと」と『広辞苑』は記している。“義”が今日の“公共善”とみなされるために、一方では硬直した国家至上主義(「滅私奉公」の再現)を斥け、他方ではケルゼン流の(価値)相対主義による民主主義の基礎づけを批判する必要があろう。そういう政治哲学論にたち入ることは、ここでは割愛しよう。

3.「千歳不易、一時流行」(芭蕉)

 21世紀に向けて、情報化教育はますます必要となる。米国を見習って小学校高学年には、コンピュータの操作を自由にできるよう教育すべきであろう。ところで、情報化社会の進行は必至であるが、情報というものの性格は、〈新しく、珍しく、有用かつ断片的な知識〉という特徴をもつ。それは、シェラーの言葉を借りるなら、〈技術知〉の帯びる性質でもあろう。しかしながら、およそ教育には、〈無用の用〉(荘子)があってよいのではないか。その代表的なものは、〈教養知〉と〈救済知〉であろう。今日、新しく珍しくすぐに役に立つ有用な情報知識だけが重んじられる傾向が強い。だが、〈無用の用〉たる〈教養知〉の十分な素養を欠く青年たちは、正しい〈救済知〉に到達することなく、淫祠邪教の類の落とし穴に陥る危険が大きい。オウム真理教の幹部たちは、まさしくそうした類の犠牲者ではなかったか。そこで私の持論として、少なくとも大学前期2年間は、哲学・文学・芸術・宗教・歴史など古典的な人文学の知識を教える期間であってほしいと思う。ちなみに、これらの〈教養知〉を学ぶ時間帯は50分と10分の休憩、計1時間が適切であろう。1時間半の授業時間は、集中力を持続させるには長すぎると思う。情報教育の大切さを軽視するものでは決してないけれども、〈技術知〉と〈教養知〉と〈救済知〉の3つをバランスよく学習することによって、人間は真に人間となりうるであろう。

4.「正師を得ざれば学ばざるにしかず」(道元)

 よき日本人を育成するためには、家庭・学校・地域社会の緊密な協力が不可欠であることは言うまでもない。しかし、国家が義務教育を設定している以上、よき教師たちを国家が積極的に養成し、生徒たちに提供するのは国の厳粛な義務でなければならない。この点に関して、共産主義崩壊後もいぜんとしてイデオロギー的偏向を多かれ少かれ帯びる日教組の一部集団に対して、無原則な妥協的態度と受け取られる様な対応を文部省はなすべきではない。一部マスコミによって、いかに〈タカ派的〉と批判されようとも、この点に関しては文部省は毅然たる態度をとらねばならない。偏向的な教科書を採択させるように陰で働きかけているのも一部の日教組集団であること、それは多くの評論家によって指摘されている。他方では、小・中・高の教師の採用にも民間企業の経験を持つ常識的かつ志操高き人を積極的に登用すべきであろう。同時に定年退職した教師や元校長などを各小・中・高校でカウンセラーとして再雇傭することもあってよいではないか。
5.「道元の(老婆心)の公案」  今日の大学受験においては、各大学とも○×式やマークシート方式の受験方法に対して、極めて懐疑的な人々が多くなっている。私自身は率直にいえば、センター入試が開始された直後から極めて批判的な見解を述べ、かつ書きもしてきた。20年来今日もその見解は、変っていない。細切れの断片的な知識の丸暗記は、勉強嫌い、学問嫌いに導くのみである。私は、奈良県立商科大学の学長時代に事務官にけしかけられ、その厳重な監視下で、〈英語〉と〈世界史〉のセンター入試試験に挑戦してみた。惨憺たる結果であった。およそじっくり多面的に考える思考能力や創造的な能力は、判定しようがないではないか。こういうこまぎれ知識の暗記能力でIQの高さがはかられるのは笑止千万。最近アメリカでも、ゴールマンの書物『EQ−こころの知能指数』(1996年講談社、土屋京子訳)の発刊以来エモーショナル・インテリジェンスという概念が一気に広まるようになっている。つまり知のみならず、情と意の作用が人間性にとって極めて重要であるという認識がうち出されてきたのである。この点について、私は受験方法も大幅に改革すべきであると20年来主張してきた。センター入試を廃止する。たとえ廃止しなくても、それをフランスのバカロレアの様な一種の入学資格試験にすべきであると長い間説いてきた。
 知のみ独走するのではなく、知・情・意の三つがバランスよく発達した人間の育成の大切さは、すでに800年近く前、道元がその愛弟子、義介に与えた〈老婆心〉の公案に明瞭にうち出されている。この点については、添付した拙論「戦後教育を反省する」を参照されたい。


『武士道』と"真の国際人"
100年前の思索が21世紀を導く

 明治が生んだ国際人
 ちょうど百年前の1899年、新渡戸稲造は英文で『武士道』を著した。やがてそれは日露戦争の終結に寄与する米大統領はじめ欧米知識人に感銘を与え日本理解に貢献することとなる。新渡戸はこの本を書くことで自分自身の存在証明を試み、日本人たるアイデンティティを明確にする一方、表面的には特殊と見えるような日本人の道徳・価値観が潜在的には国際社会に通用する普遍性を帯びるゆえんを説いた。『代表的日本人』を同じく英文で世に問うた内村鑑三とともに、明治が生んだ゛国際人″たる新渡戸博士は、日本人たる矜持と自負心を鮮明に表白した。およそ国民ないし民族の誇りと自尊心を失った卑屈な人間は、とうてい他国民の信頼と尊敬をうることはできないであろう。
 「国際人の養成」が一種の流行語となって久しい。とはいえそれは国籍不明のコスモポリタンを育成することではないはずだ。なぜなら各人の郷土、民族性、国、伝統と文化を離れて個人が直接に世界と人類に結びつくのではないからだ。゛個″と゛類″との間で両者を媒介するもの、京都大学の優れた哲学者故田辺元博士の用語をかりるなら、「種の論理」がなければならない。つまり自分を母乳とともに育んでくれたそういう種的なもの、家や郷土、民族、伝統と文化などが架橋の役を果たすことで個人は普遍人類性と結合し、吸収摂取できるであろう。新渡戸の深い思索の軌跡が今日のわれわれに教えているのは、このことに他ならない。

 日本人の国民的教科書
 それというのも、まるで国家を悪玉視し、環境保全など誰一人反対できない美名を掲げて各国の市民と手を結ぶことで゛地球市民″となるといった言い草がジャーナリズムの舞台に乱舞する一方、自虐的な歴史観をふりかざして自国の歴史文化を卑しめ、国旗や国歌を白眼視する人種がいまなお蟠踞しているからである。だが、自国の良質で美しい文化と伝統を静かに体して世界の平和と幸福に寄与する若い世代を育てることがわれわれの務めではないか。そう考えるなら博士の『武士道』は21世紀に向けて一段と価値を発揮する古典、日本人の゛国民的教科書″の一つとなるのではないか。
 この書がいぜん今日的な意味を失っていないと思う理由はまだ他にもある。その執筆のきっかけとなったエピソードがすこぶる現代的だからである。というのは、ベルギーのある法学者と会話していた折のこと、「日本の学校に宗教教育はないのです」と新渡戸が言うと、くだんの学者は゛えっ″と驚き、「宗教教育がなくてどうして道徳教育を授けるのですか」と。これは実に深刻な問題ではないか。即答できなかった彼の真摯な思索がここから始まる。「私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをやっと見いだした」と。
 彼の生きた時代と比べるなら、現今の日本は一段と宗教的関心が退化しているようだ。公立学校は憲法20条と教育基本法9条に気兼ねして、宗教的情操の育成さえ危険視する。「触らぬ神に祟りなし」である。こんな有様で道徳教育は本当に可能なのか。それどころかいまわが国は、゛忍び寄るニヒリズム″に蝕まれているではないか。

 内面に誇りを抱く人間
 さて、山鹿素行から吉田松陰まで武士道を論じた思想家たちは、゛利″を思うことなく゛義″を重んじるようにと説いた。新渡戸も例外でない。だがその他に彼は「名誉」の徳目を力説する。ここが共鳴を誘うのである。なぜなら名誉はモンテスキュー以来、東と西の比較文化史を考える折の゛キーワード″だからである。ここで詳論するゆとりはないが、封建制は元来東の日本とポーランド以西の西欧の母胎に生長した。その封建制の土壌で育まれた東の武士道と西の騎士道とは共通点が多い。
 この点で興味があるのは、騎士道の根づいた西欧から日本を訪れた最初の知識人たるサヴィエルが日本人の生と行動様式を観察し、そこに名誉意識が浸透していると強調したことである。彼の゛日本発見″から二百年のち、オランダ商館の医務官となったトゥンベルグも、日本人が名誉感と固く結びつく人間的自由の貴さをしっかりと弁えているとみた。それによるとオランダが奴隷貿易で巨利を得ているのに日本人は奴隷売買をやらない。奴隷制を嫌悪しているからだ、というのである。
 なるほど現今の大衆社会の風潮は、゛名誉″と゛名声″を混同している。だが本来゛名声″は外面的、社会的な次元のもの、他方゛名誉″は内面的つまり個人の心中に根ざす事柄である。換言するなら名誉とは人間的誇り、矜持の観念に通じよう。内面に誇りを抱く人間とは、人間の尊厳と自由に覚醒した存在である。それは慢心や傲慢とは別物である。人間たる矜持を抱くということは、己を高く持し、決して浅ましい人間になるな、卑しい態度をとるな、恥ずべき振舞をするなという内面の声に従うことに通じよう。軍国主義や皇国史観的夾雑物を洗い落してこう解釈するなら、百年前の『武士道』は、21世紀を担う"真の国際人"の教化に役立つのではないか。

(1999年1月5日 産経新聞「正論」 鈴鹿国際大学長 勝田 吉太郎)


戦後教育を反省する

かねて私は戦後教育の過誤の一つは勇気という徳目を忘失してしまった点にあると思っている。そういう私の思いには、敗戦後間もなくの頃の想い出話と結びつく。当時私は、むろん学生だった。不思議なご縁で入学以来何かにつけて可愛がって頂いた恩師瀧川幸辰先生にまつわるエピソードである。ある日のこと、先生は市電の中でヤクザ風の男が二人分の席を占領してどんと座っている、その前に子供を背負った婦人と老婆が立っているのを見て「君、立ちたまえ」と指示された。するとその男、なんと先生に食って掛かり手を出そうとする。先生はやっとのことで電車を降りられた。「君ね、その電車には若い男も数人はいたよ、なかには座って寝たふりをしている男もいた。あーあ、日本は戦争に負けて情けない国になったものだね。男たちの背骨が折れてしまっているのだよ。こんな状態が長く続いていくなら亡国だね。」と。
 折にふれて私はこのときの先生の口調、その顔付をも思い出す。「義を見てせざるは勇なきなり」ーこの『論語』のことばは誰でも知っている。知っているのに皆"見てみないふり"をするようになったのだ。敗戦後"義"の代りに"利″が追求され、戦時中の"滅私奉公"は死語となってその代り゛滅公奉私″が大手をふって罷り通るようになった。その結果日本は経済大国となり"豊かな社会"が実現した。だが瀧川先生が言われたように゛精神の背骨″は折れたままなのではないか。
 いまや小・中学校にいたるまで゛学級崩壊″の現象が日本全国を覆っているという。いじめや校内暴力、はては万引、麻薬、シンナー、゛援助交際″さえ横行しているという。すべては゛見て見ないふり″の習性のもたらす結果であろう。いじめの大半は、多数者が寄ってたかって一人の゛変り者″に陰湿な暴力を加えるケースであるという。残余の級友は要するに勇気をふるって暴力行為を非難することもせず、かかわりを恐れて゛見て見ないふり″をしているのだ。少年の行動や犯罪は社会を映す鏡である。日本国家自身も、外国人の眼には"精神の背骨"の折れた国のように映じているかも知れない。橋本前内閣当時に発生したペルーの日本大使公邸ハイジャック事件を想起すればよい。
 あの時政府首脳は、1977年9月にダッカ空港の赤軍派ハイジャック事件に際して福田首相が述べた言葉ー「人命は地球より重い」ーを想い起こさせるように、口を開けば念佛のように「人命尊重」と「平和的解決」を唱えていた。それはちょうど福田内閣が赤軍派の要求を全部呑んで゛無条件降伏″したように、テロリストたちに゛超法規的措置″を講じて多額の身の代金を支払って事件を平和的に解決しようとする方法を示唆していた。ところが日系二世のフジモリ大統領はテロリズムの発生直後からひそかに公邸へ通じるトンネルを掘り、暴力と不法に屈伏することを断じてしない態度を示していた。結果的にはペルーの突撃隊員二名と人質となったペルーの高官一人の犠牲者を出しはしたが、大統領の勇気ある決断によってテロリズムは粉砕された。全世界はいまや日本本国ではなく皮肉なことに外国の日系二世のうちに゛サムライ魂″が残っていることに拍手喝采したのだ。

 勇気とは決して軍国主義の無謀を意味するものではない。暴力やテロやいじめや反社会的行為を見て見ぬふりすることなく、直ちに毅然とした態度を示すことにほかならない。そういう勇気がなければ平和を維持することもできないであろう。
 この点興味があるのはトルストイやガンジーの無抵抗主義の教説である。それは暴力に対して無抵抗を貫く主義では決してない。暴力と不法を断じて承認しないけれども、ただ暴力に暴力をもって対応しないというのである。従ってそれは無抵抗主義というより、むしろ非暴力主義と呼ぶのが適切であろう。暴力に対抗して暴力を行使しないというからには、非常な道徳的勇気が不可欠となる。極論するなら剣に対して素手で立ち向かうことを意味するからである。 侵略者の暴力と不法な要求には、死を賭しても服従を拒否するというトルストイとガンジーの教説、つまり非暴力の抵抗には暴力を以てするよりもずっとずっと高度な勇気が必要だ。それは、死を恐れない人間にのみ適用可能な主義なのである。それは「生命あっての物種」主義、゛死んで花実が咲くものか″といった心性の透けて見えるような戦後の゛平和主義″とは全く別次元の教説であろう。
 現にガンジーは『わたしの非暴力』(森本達雄訳)のなかでこう書いている ─ 「人は生以上とは言わないまでも、生と同じほど死を愛することを学べ」と。
 再言するならトルストイやガンジーの非暴力ー無抵抗主義は「生命あっての物種」主義の奴隷的平和論とは全く別物なのだ。自尊心や名誉心を棄てるくらいなら死を選ぶのが真の勇者であろう。ガンジーの教説は、勇者の、或いはむしろ聖者の無抵抗主義なのである。そこで彼は別のところで明言するー「臆病の別名にすぎないような非暴力なら投げ捨てよ」と。「むしろ武器をとるべきだ。その場合、武器だけが彼らに後退させまいとする意志となる」からである。われわれは敗戦後のわが国に風靡する゛平和憲法至上主義″と゛平和主義″とを真に鍛え上げるために、トルストイとガンジーの非暴力無抵抗の教説の神髄を学び、われわれの心性に真剣な反省を加える必要があるのではないだろうか。

 戦後教育の反省すべき第二の点について、これまた私はずっと前から知育偏重の害を説き、また、すぐに役立つような種類の知識万能主義の弊害について論じてきた。これに関して、恥ずかしながら私自身の拙い体験を報告してみよう。7年前のこと、当時私は奈良県商科大学に勤務していた。公立大学だからしてセンター入試に参加し、会場をも提供している。教職員みな緊張する2日間である。いよいよ試験開始のベルが鳴る。所在なく私は試験本部の椅子に掛けていると、電話マスコミ係の若い事務官に「学長も退屈しのぎにテストを試みてみませんか」と誘われた。うっかりその誘いにのって、「そうね、英語と世界史ならまあ自信はなくもないがね」と言ったのが運のつき。くだんの事務官の厳格な監視下にトライする羽目となった。ところがである。後日手渡された答案の採点をみて驚いた。100点満点で45点ほどだった。恥を忍んで言えば、京大法学部にいた頃私は政治思想史講座の他に政治史をも数年間講義していた。そういう教授がなんと45点とは!
 そこで思うのだが、受験生の大半は塾や予備校で○×式やマークシート方式のテストに備えてこま切れ知識を丸暗記し、それを要領よくかつすばやく試験会場で吐き出す訓練を受けているに違いない。聞けば今や数学まで一種の暗記科目に化しているという。問題は、そういう訓練を受けて高得点を得た学生に創造能力があるのか、さらにそういう丸暗記のこま切れ知識をいくら持っていてもそれは学問とは何の関係もない、ということであろう。テストで悪い成績だったから悔しまぎれに言うのでは必ずしもないけれども、戦後の○×式やマークシート方式の大学試験の結果、学生たちは勉強と学問嫌いとなり、創造性を若芽のうちに摘みとられた者が多くなっているのではないか。
 以前から私は天才の伝記などを読み、大半の天才が゛落ちこぼれ″であったこと、少くとも学校秀才でも受験秀才でもなかったことを知った。そういう類の内外の天才たちについてこれまでいろんなところで書いてきたから、ここでは再言しない。ただ戦後の゛受験戦争″の過程で生まれ強化されてきたIQ信仰や知識至上主義を反省するための材料を提供したいのである。

 第一に米国でも比較的最近IQに代ってEQつまり゛感じる知性″(Emotional Intelligence)がD・ゴールマンの書物の出版以来、大きな話題となっている。それは左脳万能の教育に代って右脳の重要性をも明らかにしようとする教育論に結びつくであろう。
 第二に、しかしながらわが国には、すでに800年近くも前に知・情・意のバランスの大切さを説いた人物がいる。もはや紙数が尽きたため詳述はできないが、大略こうである。
 道元が永平寺を去って上洛する折、死を自覚していた道元は枕辺に愛弟子義介(後の徹通禅師、永平寺第三世)を呼びこう諭した。「お前は数多くの弟子の中で最も秀才で知識も豊富である。義を求める心も人一倍強い。だがお前にはまだ老婆心がない(汝未有老婆心)。このことを注意して修業すれば立派な私の後継者になってくれるだろう」と。老婆心とは孫を思う老婆の心、つまり゛愚かしいほどの親切心″と言ってよいだろう。頭抜けた秀才なればこそ義介にはこれが不足している、と道元は見たのである。ここで道元が教えているのは、知の独走した人間ではなく、知・情・意の三つがバランスよく発達した人間の育成の大切さであろう。こう考えてくるなら、道元の遺言は、現今の日本にも重要な意味を帯びてわれわれの心に迫ってくるではないか。

(財団法人日本教育研究連合会・日本教師会『日本の教育』(平成12年1月15日第472号)
鈴鹿国際大学学長  勝田 吉太郎)


金 子 郁 容
(慶應義塾幼稚舎長)

ネットワーク社会における初等中等教育

 これまで私は、アメリカの州立大学(University of Winsonsin-Madison)で9年間、日本の国立大学(一橋大学)で10年間、また、日本の私立大学大学院(慶応義塾大学政策・メディア研究科)で6年前から現在に至るまで、それぞれ、教育・研究・大学運営に携わってきた。また、平成11年4月からは慶応義塾幼稚舎(小学校)の校長を兼任している。そのような経緯から、日本の教育は、小学校から大学・大学院まで、いくつもの大きな課題を抱えていると感じている。以下では、問題がより切実だと思われる初等中等教育に焦点を合わせることにする。
 現代の日本の初等中等教育は危機的状況にあるといわれ、抜本的変革が求められている。日本社会の歪みがそこに典型的に反映され、その一方で、学校が社会の歪みの起源になっているからである。このような状況に対して、道徳教育の強化、総合的な学習の時間や情報教育の導入など、さまざまな提案がなされている。しかし、それらは、教育アプローチ全体の枠組みを変更するものとしては十分でない。
 ネットワーク社会といわれる現代社会では、子どもと大人、児童と教員、学校と社会などを含めたさまざまな関係性に基本的な変化が起こっており、物事が相互的にしか成立しなくなっている。そのために、既存の組織がその在り方を大きく変えることを求められ、従来の権威が崩壊し、新しい社会秩序が形成されようとしている。学校制度は、これまで、そのような動きにきわめて鈍感だったのではないか。
 ネットワーク社会では、また、一方的な情報伝達や固定的な知識を保有することの有効性が低下し、自発的に相互的に情報がやりとりされるコミュニケーション・プロセスが重要になっている。これまでは、「教える」ことは教員のもつ知識を学習者に移すことであり、「知る」ことは頭のなかに情報をしまいこむことだとされてきた。本来は、「知ること」や「学ぶこと」は、創発的なやりとりのなかで、よろこびや楽しさを共有し、何らかの意味や文化的価値をともに作ってゆく、学びと遊びのプロセスであるはずだ。
 一例として、情報教育について考えよう。幼稚舎では小学校一年生よりコンピュータ/インターネットの授業がある。これまでの経験だと、コンピュータが楽しいと感じれば、子どもたちは英語のアルファベットをおぼえる前にブラインドタッチを習得する。慶応大学の研究プロジェクトで開発した、「タイムトンネル」画面の中で歴史事象の関係性を実感してもらう教育支援ソフト(クロノスシステム)を利用しての授業では、歴史年表を見たことがない小学校低学年生が時間の流れを理解し、自分の関心事がどこに位置付けられるかに興味を示す。子どもたちには、「これこれをしてからでないとこれはできないはずだ」といった、おとなの固定観念を軽々と超える潜在能力が備わっている。
 政府のバーチャルエージェンシーは、今後の情報教育についての中間報告で、「子どもたちが変る」「授業が変る」「学校が変る」という考えを打ち出した。これは、なかなか斬新な切り口である。しかし、その先に「社会が変る」がなければ十分とはいえないだろう。つまり、現在の社会や既存組織の旧来の関係性をそのままにして、学校のみが変ることは期待できないし、社会の中の学校の役割をそのままに授業内容を変えても、これからのネットワーク社会に生きる力をもった子どもたちを育てることはできない。開かれた多様な関係性の海の中で、どう自分の存在を確立してゆくかという視点がないと、情報教育は電子文房具の使い方の練習に終わってしまう。
 これまでの学校の教員は、ともすると、「自分の傘の下」に児童・生徒を置かないと安心できなかったのではないだろうか。そもそも、子どもたちは、教員がもちあわせない才能や、おとなが思いもよらないアイディアをもっているものである。ネットワーク社会は、そのように「はみだす」ことの可能性とリスクをもたらす。そのような機会を抑制するのではなく、伸ばすことこそが教育である。
 しかし、このことは、子どもの自由に任せ、教員が導かなくていいということではない。むしろ、その反対である。近年の学校では、「参加」がキーワードになっている。重要なコンセプトであるが、教員を含めて全員が横並びで参加するということでは教育にはならない。教員や学校は、ことなかれに陥ることなく、「よいこと」の例を率先して示し、よしあしを教え、子どもへの介入を恐れてはならない。ただ、ものごとは相互的にしか成立しないということを知っていなくてはならないし、教員がすべてを知っている、すべてをコントロール下におかねばならないという幻想はとり除く必要があるということだ。
 昨今では、また、評価をしない、競争をさせない、ということが民主的でよいことだという意識が一部の学校や教員にあるようだ。これも違うと思う。評価は重要である。ここで評価といっているのは、唯一の尺度で子どもたちに固定的な優劣をつけることではない。学びと遊びのコミュニティにおいては、コミュニティへの参加によって自分が貴重なものを得るとともに人の役に立ったという手応えが返ってくることが大切である。それこそが学習の成果である。また、相互信頼が成立していれば、競い合うという経験は、楽しさ、よろこび、もりあがり、参加、献身などを体験的に学びとる機会となり、また、子どもの発達を促進し、集団生活のルールを自ら学ぶ大事な機会となるであろう。そのためには、生き生きしたフィードバック情報が常に流れ、多様な競いの場面がふんだんにあるコミュニティを作り、運用する必要がある。そのためのリーダーシップと責任を学校や教員は負っているのである。
 人類の人類たる由縁は、情報やアイディアやルール、つまり、文化を伝承するということだ。変化の激しい、既存の秩序が崩れて行くネットワーク時代であるからこそ、基本的な倫理観、人間にとって不変なものへの理解、国やコミュニティとしての伝統を、これからの子どもたちに、伝え、学んでもらうことが重要である。
 私はアメリカとヨーロッパに12年間暮らしたが、人々が毎週、教会に行くかどうかは別にして、なんといってもキリスト教の倫理観が生活の基礎にある。そのうえでの資本主義であり、自由競争である。日本では、伝統的な価値が失われた一方で、資本主義にしろ、個人主義にしろ、基本精神なしの形式だけが横行しているような気がする。
 慶応義塾には、幸い、福沢諭吉という創立者がいるので、子どもたちに「いい、わるい」を教えるにも、「福沢先生はね・・・」という言い方をすることで直接的に分かってもらえる。そのように、価値を伝えるには、なにかしら歴史的な参照ができることが重要である。今後の学校教育では、たんに、昔を懐かしみ美化するということではなく、子どもたちには、見習うべき先人について知り、伝統的知恵から学び、日本の国やそれぞれのコミュニティの歴史と伝統を、それぞれの生活や行動に生かして行ってほしい。
河 合 隼 雄
(国際日本文化研究センター所長)

日本の教育改革について

 教育を考える上において大切な視点は、子どもをひとり一人異なる個性をもつ存在と考え、その個性を可能な限り実現しつつ、そのような個性を持った人が、他とのつながりをも大切にして生きてゆけるには、どのようにすべきかという点にある。自分の個性を生かすために、自分で物事を判断して行動し、それに責任をとることができる人間をつくり出さねばならない。
 このような教育を行う最初の出発点は、家庭教育にある。このことは大いに強調すべきである。他人と暖かい関係をもつためには、生まれたときからそれを経験することが必要である。また、他の人と共に社会をつくってゆくためには最小必要限のしつけを身につけねばならない。これらのことは、寝食を共にしている家族によって行われるのが最も効果的である。そのような家庭教育を受けた者が、学齢に達して小学校に入学する。
 以上述べたことは当然のことなのだが、このことが今難しくなっている。それはなぜだろうか。それは、日本の伝統的な考えに、欧米の考えが強く作用してきて、日本の個人、家庭、社会、すべてが変化しつつあるが、本当のところは、どちらの方向に向かうべきかがわからないため、親がどのように家庭教育を行うかについて自信がないためである。
 このような親の不安を取り除こうとして、社会の役割を強調する考えもあるが、その社会にしても昔どおりの村社会であるのは困るし、日本における新しい地域社会の在り方について確固としたことを言える人はないだろう。
 「個の確立と公の創出」は、今後の国際社会での日本の役割を考えるとき、大変重要であるが、実のところ、ここに言う「個」も「公」も伝統的な日本にはなかったものだという自覚が必要である。
 日本人にとって教育改革は必要である。しかし、最も改革しなくてはならぬのは、日本のひとり一人の大人である。ここにわが国の教育改革における根本的な難しさがある。制度に関しては、これまで何度も改革をしてきたし、現在も中央教育審議会においても論じられている。ところが、そのような改革を有効にするためには、日本人が各自の意識改革をする必要があるところまで追い込まれてきたのである。
 このような意識改革との関連において、生涯学習の重要性が浮かびあがってくる。しかし、これは単なる知識の吸収ではなく、体験を通じて学ぶことになるので、それを社会教育や大学で行うにしろ、その講師の在り方や方法などについて抜本的に改革すべきであろう。若い夫婦が「家庭教育とは何か、それをどう行うか」などについて学べるような場を国として提供することを考えねばならない。
 制度の改革は難しいと述べたが、私の関連する分野におけることを申しあげてみたい。下手をすると我田引水になることを恐れるが、現在の日本において極めて重要と思うので敢えて発言させていただく。
 物が豊かになったのに対し、心も豊かにすべきであるが、日本は後者の点においてあまりにも遅れている。「心の専門家」である臨床心理士をもっと生かしてゆくことを考えていただきたい。幸いにも、文部省が試験的に行っているスクールカウンセラーは、現場においても好評を得ているので、これを正式に制度化することを考えていただきたい。
 カウンセラーは時に誤解されるように、子どもの異常を正常にもどすというような短絡的な行為をしているのではない。まさに最初にあげたような「個性を伸ばす」ために最大限のことをしようとする仕事なのである。子どものひとり一人を大切にすることから出発してゆく。これは先に述べた、日本人の意識改革にもつながってゆくことである。
 ここで大切なことは、カウンセリングの仕事はなかなか困難な仕事であり、専門的な訓練を経たものでなければできないことである。従って、先進国においては、その資格制度が国のレベルで決められていることが多い。わが国はまだそこまでには達していないが、大学院における臨床心理学の専門家養成の目的をもった高等教育が多くの大学においてなされるようになってきた。今後、この点を明確にし、カウンセリングが必要なのでということで、安易に能力のない人がその職につくことのないように考えるべきである。人の善意が役立つこともあり、ボランティアなどの助けを有効に使うにしろ、常に専門家による指導や援助を忘れないようにしたい。
 スクールカウンセラーは、学校と協力しつつ、ある程度の独立性をもつことが必要なので、教育委員会に直属して、数校を一人のカウンセラーがかけ持つようにするのがいいであろう。
 自分の専門分野のことを強調して申し訳ないが、日本の現状において是非必要と思われるので敢えて述べることにした。
河 上 亮 一
(川越市立城南中学校教諭)

1.はじめに

 @ 現場の公立中学校の教師の立場で発言したい。
 A 生徒の変化、学校の現状、学校の役割と教育改革などについて述べたい。

2.生徒の変化

 @ 10数年前から“新しい子ども”たちの登場がハッキリしてきた。
 A ひ弱でわがままな生徒である。
 B ひ弱さ
  1) 生活の型をほとんど身につけていない
  2) つらい事、嫌な事に直面すると精神的、肉体的に、すぐ参ってしまう
  3) 非常に傷つきやすくなり、他人とうまく関係を結べない
4) 全体として、元気がなく、無気力、だらしない
 C がんこ・わがまま
  1) 傷つけられた時、相手が弱いとみると、はげしく反撃し、暴力に限界がなくなった(キレる)
  2) 欲望をあくまで通そうとする
  3) 感情の起伏が激しく不安定
 D “普通”の生徒が、時と場合によって何でもやるようになった。
   不登校、いじめ、自殺、暴力、学級崩壊‥‥などの問題は、このような“新しい子ども”たちが引き起こしている。
 E しかし根本的な問題は、社会性のない自閉的な自我を持った子どもたちが大量に登場し、社会的自立が困難になっていることである。

3.“新しい子ども”たちはどうして登場してきたのか

 @ 子どもたちが自分からこうなったわけではない。
 A 子どもの育て方、つまり、社会が大きく変わった、と考えるべきだろう。
 B 学校からみると、次の三点が大きな原因と考えられる。
  1) 物質的な豊かさを達成したこと ー 学校で我慢して努力しなくてはいけないという姿勢がなくなった
  2) 個第一、自由・平等という理念が広く行き渡った ー 教師も生徒も平等だから言うことをきかなくてもいい、好きなことは何やってもいい。嫌なことはやらなくていい、という雰囲気が広がった
  3) 地域の共同性が崩れ、学校を支え、抑えていた力がなくなった ー 「学校へ行ったら先生の言うことを聞け」という声がなくなり、教師の権威の低下がハッキリした
    これまでの伝統的な子育て、教育の社会システムが崩れ、子育て困難な時代に直面している

4.学校の教育力の低下

 @ 1970年頃から、学校の教育システムが崩れ始めた ー 地域の支えを失う。豊かになって食えるようになったことがハッキリし始めた。
 A 1980年代の校内暴力の時代 ー 生徒が言うことを聞かなければ教育は成り立たないことがハッキリした。
 B 1985年頃からの激しい学校たたき ー 学校が街中と同じになりつつある。学校崩壊が進行している。

5.どう対応するのか

 @ 学校の教育システムの崩壊は、戦後社会の完成の上に起こっていることではないか。
 A 特効薬はないし、求めるのはまちがいである。
 B 新しい社会のイメージをつくる中で子育て、学校の役割をじっくり考える必要がある。
 C その時、これまでの学校をきちんと総括し、残すべきもの、変えるべきものを考えることが大切である。
 D 国民的合意には、時間がかかることを覚悟しなくてはいけないと思う。

6.教育とは何か、学校の役割とは

 @ 人間は本能が壊れた存在だから、放っておいて、文化(生活の仕方)をとり込むようにはできていない。
 A 大人の側が教える(強制する)ことが必要で、大人がそれにひるんでしまったら、子どもは社会的に自立できない。
 B 他方、子どもが自由に行動する場が必要で、自分で考えやってみて責任をとる経験が重要だ。
 C 現在は、強制と自由が全く逆になっている状況である。
 D 学校の役割は、子どもの社会的自立をはかることであった。
 E そのために、日本の学校は、教科(授業)と特別活動(生活と行事)の二本柱で生徒の教育を行ってきた。
 F 基礎学力(教養)、生活の仕方、他人といっしょに生きる力(社会性)の三つが、その内容である。
 G 学校では、基本的に生徒が教師の言うことをきく、ということが成り立って、初めて教育が成立した。
 H そのうえで、生徒の自治的活動を保証してきた。
 I 現在は、教育についての考え方、学校についての考え方が混乱し、共通認識がなくなっている状況である。

7.教育改革の方向

 @ 社会と子どもが大きく変わってしまい、学校との落差が大きくなって、さまざまな問題が出ている。
 A 文部省を含め、ほとんどの改革案は古くなった学校を解体して、社会・子どもの現実にあわせるべきだ、という考え方に立っている。
 B 個性化・自由化が基本理念である。
 C この十数年、学校は大きく改革されている。
  1) 生徒のやる気を第一にする ー 学びたくなった時に学ぶ(生涯教育)
  2) 一斉、おしつけ授業からノビノビ教育へ
  3) 教師は援助者である
   このような考え方で、学校の中からも、強制が消えており、生徒の中には好きなことは何やってもいい、嫌なことはやらなくていいという雰囲気が広がっている。自治的活動も生まれていない。
 D 文部省の教育改革は、これまでの学校を崩す役割をはたしており、改革はすすんでいると言うべきだろう。たとえば、学級崩壊は、その成果と見るべきだろう。
 E 改革理念の問題点
  1) 生徒のやる気を第一にし、いろんなメニューを用意するというやり方は、少数の学ぶ生徒と多数の学ばない生徒を生み出すのではないか。生涯学習は絵空事に終るのではないか。
  2) 基礎的学力の分野(つまり義務教育)に大はばに個性化・自由化を持ち込むのは、多数の学力低下をまねくのではないか。
  3) 個性化・自由化の改革は、これまでのようなクラスの生活や行事を解体することになるだろう。
  4) 生活の仕方や社会性を身につけさせることが難しくなるが、学校でやらないとすると、どこでやるのか、或いは新しい社会では、そんな能力は必要ないのか。
  5) 義務教育の学校と高校、大学とはちがった考え方の必要があるのではないか。高校、大学は、自由化・個性化の方向でいいと思う。
6) 義務教育の個性化・自由化は、特別な能力を持った生徒と、学力、生活能力、社会性が著しく欠ける生徒について必要かも知れない。
  7) 現在の子どもの現実から発想することが必要だと思う。
木 村   孟
(大学評価・学位授与機構長)

我が国の教育は如何にあるべきか

 わが国は、江戸時代の寺子屋における庶民教育の伝統を受けて、既に明治の初期に、小学校レベルの就学率が70%を越えるという、世界でも類を見ない高い教育水準を保持していた。明治維新後、近代国家形成を目指した時の政府は、国民の教育水準をさらに高めるべく、明治10年代から、次々と高等教育機関を創設し、当時の国のモットーであった「殖産興業」を実現するための有為な人材を数多く生み出すことに成功した。言うまでもなく、当時の高等教育は、少数の限られた人々を対象にするものであり、その恩恵に浴することが出来た人々は、エリートとして格別な待遇を受けた。この時代になされた教育投資は、当時のわが国の国力からするとまさに膨大な額であり、当時の国のリーダー達の教育振興に対する決意が如何に並々ならぬものであったかを窺い知ることが出来る。この膨大な教育投資が功を奏し、わが国は極めて短期間に、世界の大国の仲間入りを果たすことが出来たが、その結末は、戦争という最も不幸な選択であった。
 戦前、高等教育を受けたエリート達が大きな過ちを犯したと言う反省から、戦後、エリート教育は徹底的に罪悪視され、占領軍からの圧力もあって、我が国の高等教育はひたすら大衆化路線を辿ることとなった。
 戦争で全てを失った我が国は、戦前と同様、再び先進諸国へのキャッチアップによって経済を立て直す方策を取った。その方策が功を奏し、我が国は、国民の懸命の努力もあって、極めて短期間に世界有数の経済大国にのし上がった。この過程で、我が国では、社会の全ての分野において徹底した効率化が図られた。この高効率至上主義は、高等教育の大衆化路線とも結びつき、我が国の社会に画一主義をもたらしたが、先進諸国へのキャッチアップ段階では、それが特に大きな問題とはならなかった。むしろ、ある意味では、画一主義はキャッチアップの達成に与って力があったと言うことも出来る。しかしながら、我が国がキャッチアップを終え、次なる新しいステップへ進むため、また変化の激しい世界の動きに伍していくためには、それが、極めて深刻な弊害となっていたのである。
 先進諸国にシーズを求め、これを質の高い工業製品生産へつないでいくという従来のやり方は、今や完全に機能しなくなり、わが国は自らがシーズを生み出して行かねばならない立場に置かれている。ところが、社会に画一主義が蔓延した結果、国民全てがほぼ同じ価値観を共有することとなり、わが国はシーズを生み出すべき独創性、創造性に富んだ人材を育てるメカニズムを完全に失っていたのである。即ち、わが国では、高学歴が異常に高い価値を持つこととなり、各個人の能力、適性が、顧みられることが殆どなくなってしまった。一点刻みのペーパーテストを金科玉条としてきた有力大学、並びに、採用に、登用に、有力大学の卒業生を過度に優遇してきた、産業界、経済界、官界が、この傾向をさらに決定的なものにした。
 このように、学歴、年齢など、人間本来の価値以外の価値に重きが置かれるようになった結果、我が国の社会に、モラルの著しい低下を伴った閉塞状況が生じるとともに、子供達に大きなストレスを与える状況が出来したのである。このような社会的傾向は、ここ数年富みに顕著になりつつあり、いじめ、登校拒否、校内暴力、少年犯罪等、子供達をめぐる極めて憂慮すべき社会現象が増加の一途を辿っている。
 このような、我が国の崩壊に繋がりかねない状況から脱却するためには、筆者は、我が国の教育システムを、以下に述べる二つの観点から、根本的に見直す必要があると考えている。すなわち、第一は、これまで我が国が行ってきた国民の平均値を上げることに主眼を置いた教育から、子供達の個性、適性に応じた教育への転換である。これを可能とするためには、教師の質の特段の向上を図るとともに、個人的接触が濃密になるような小人数クラスの導入が不可欠である。また、高い能力を持つ子供達の能力をさらに伸ばしていくための、習熟度別クラス編成あるいは飛び級システムの導入等も積極的に実行して行かなければならない。さらに、我が国が戦後完全に失ってしまった、ノプレス・オブリジーを実行できるヘゲモニーを求めないエリートを育てることも、国として考えて行くべきである。
 第二は、健全な職業観、勤労観の養成である。最近、我が国では、我が国が誇ってきた技術をめぐるトラブルが続発している。その原因を技術者の倫理の欠如に帰す声が多いが、それは、何事にせよ失敗の原因を心の在り方に求める日本的考え方であって、このような見地からの改善努力が効果のないことは、我が国が戦後行ってきた道徳教育が、殆ど実効を挙げていないことからも明らかである。我が国の教育で大きく欠如しているのは、上に述べた子供達の個性、適性に対する配慮に加えて、職業観、勤労観の養成の視点である。職業観や勤労観は、「お話」を聞くだけでは絶対に身につかない。体験学習だけが実効を挙げ得る手段であると言っても過言ではない。道徳教育も然りである。これからの若者が、健全な職業観、勤労観を身につけることが出来るような教育システムを確立することも、我が国にとって喫緊の課題である。
草 野 忠 義
(連合副会長)

「21世紀における教育のあり方について」

1.教育という営みにとって大切な視点は何か

 (1) 過熱する受験競争による学校教育の歪みは、児童・生徒の学習負担を重くしているだけでなく、保護者、教職員も含めて、いずれも「ゆとり」とはほど遠い過重な負担を強いられている。
 また、「偏差値教育」で「試験の学力」という物差しだけが肥大化している。「AがBである」式に答が明確なモノだけを教え込むので、最近では「そんなことは学校で習わなかった」とか、「試験に出なかった」などと、自分がモノを知らないことを正当化したり、そう言えば叱られないと考えたりするような、そんな若い人が増えたと思う。逆に言えば、今の子どもたちが「学ぶこと」から逃避しているのは「詰め込みすぎ」が主な理由ではなくて、「学ぶこと」に対して興味や関心が持てず、自分のこととして考えたり追究したりできないからではないだろうか。「今までわからなかったことが理解できるようになって嬉しい」と素直に思えなくなっているのだと思う。
 大切なのは、保護者や社会全体が別の物差しを幾つか持つことである。教師は子どもにとって「もっと何でも見てやろう。知りたい」というキッカケになるようなものを幾つ与えてやることができるか、それが課題だと思う。
 (2) 小・中学校では不登校児童が、高校では中途退学者が増加しているだけでなく、悪質な「いじめ」や「暴力事件」、「援助交際」、覚醒剤等の「クスリの乱用」に加えて、「学級崩壊」現象など児童・生徒の問題が各地で頻発している。こうした問題に対しては、これまで大人たちが考えてきたような型にはまった紋切り型の分析では説明できない、子どもたちのこころのなかにある葛藤や隠された背景を探ることから対策を始めていく必要がある。
 重要なことは、自分さがし(自分の個性、特性を発見して伸ばす)、生きる力(自分で課題を見つけ、自分の頭で考え、主体的に判断する能力を身につける)、自己確立(人の尊厳を大切にし、かけがえのない存在としての自分を実感でき、大切に思う気持ちを持ち、社会との関わりの中で自己の責任を認識し、個人として自立する)をめざす教育と社会を再構築することである。
 (3) また、一方では新卒者の就職が大変厳しい状況にある中で、青年が就職したがらない、就職してもすぐやめてしまう、そういう人が大変増えている。経済的に豊かになったことで、いわゆる「フリーター」も親元で生活をエンジョイできるし、親もそれを許す。それが背景にあることは確かだが、一方で「就社よりも就職だ。とにかく社名じゃなくて仕事の中身だ」という意識や「仕事探し・自分探し」という自己実現を重視する意識が強くなってきたことが底流にあるからかも知れない。
 「働き方」「生きがい」を個人が自由に選択することは、今後とも大事にしなければならないが、併せて、若い人の意欲を喚起し学習の動機づけをしていくような対策を、学校教育も含めて社会全体でやっていくことが必要である。

2.学校・家庭・地域社会の役割と生涯学習の進め方

 (1) 学校に偏りすぎた「教育の責任」を家庭や地域社会に適切に分担させるとともに、子どもの自発的な活動分野を拡大するなど、これまでの「試験の点数による単一の尺度で子どもをはかる」画一的な価値観に基づく知識偏重の教育から脱却する道を大胆に切り開くことが求められている。特に、受験競争を小学校にまで波及させている大学の入試制度については抜本的な改革が必要である。併せて、受験競争の背景となっている「学校歴社会(ただし、今大きく変容しつつあるが)」の風潮を助長してきた企業・官公庁の人事・採用方針を抜本的に改善することも重要な課題となっている。
 (2) 18歳までに社会人たる自立した個人を確立することを目標として、小・中・高校のカリキュラムを抜本的に見直し、@「自立した個人」としての人格形成に必要な権利・責任関係の意識を系統的に育てるとともに、あらゆる場を通じて人権の概念及び価値を理解させ、人権尊重の意識を高めるための教育を充実すること A働くことの価値と働く者の権利を軸に、職業・労働体験などを通じた職業観の形成を学校教育の目標として、ワークルールに関する基礎知識の取得等を必修とするとともに、職業能力開発と学校教育との連携をはかること B「国際化」の進展に対応するため、英語その他の外国語教育を充実するとともに、諸外国・諸民族の多様な文化を理解し、互いの違いを尊重し合いながら共生できる力を育てる教育を進展すること C「技術革新・情報化」の進展への対応を進めるとともに、社会保障や税金に関する基礎教育、開発・環境教育、消費者教育の内容を充実させることが必要である。
 (3) 次代を担う世代の育成に向けて、「学校」「家庭」「地域社会」のそれぞれの役割と責任を明確にし、相互の連携をはかるとともに、教職員、保護者、地域の人々が協働して子どもの教育に関われるような環境整備が大事である。
 学校は、学校だけで教育のすべてが完結するという考え方をとらず、生涯学習の基礎となる「生きる力」の育成を重視し、子どもの校外活動等への参加、年齢の異なる子ども同士の遊びを可能とする環境を整備する。また、保護者や地域の人々を学校に招いて話を聞くことを子どもの学習に取り入れる必要がある。
 家庭は、子どもに基本的な生活習慣、生活能力、豊かな情操、他人への思いやり、善悪の判断、社会的マナー、自制心や自立心、不正に対して毅然として立ち向かう態度等を培かう責任がある。保護者は、その責任を十分発揮するため、労働時間を短縮し、子どもと触れ合う時間を拡大することが求められている。
 地域社会は、地域の中にある多様な人材や施設、文化財や自然のもつ教育機能を有効に活用し、子どもを育てる姿勢が必要である。とりわけ、保護者や地域の人々が日常自由に出入りできる場を学校内に設けるなど、学校を地域づくりの拠点として活用することで、学校運営や地域の子どもの教育について、教職員、保護者、地域の人々が意見を述べ合意形成をはかる場を確保することが大事である。
 また、特に別の方法で行わざるを得ないという止むにやまれぬ理由がない限り、普通学校にすべての子どもを在籍させ、ニーズに見合った教育を提供する包括的な教育(インクルーシブ教育)の原則を確立することも必要である。
 (4) 生涯学習の観点から言えば、学び直しの機会を保障するしくみを整備することが大事である。経済・産業構造の大きな転換の中で、労働力の流動化が避けられない事態に直面している。キャリアアップのための流動化に対応していくためにも、能力再開発教育(訓練)が不可欠である。従って、これらを含めた生涯学習の重要性が増していることは言うまでもない。そして、同時に生涯学習の成果が発揮できる環境を整理することが重要である。
 (5) これらの課題の実現をはかるためには、教育に対する投資の拡大と学校教育における「ゆとり」が必要である。
 具体的には、@すべての子どもが持っている個々人の特性、関心、能力および学習ニーズを考慮して学校教育を行う環境を整備するため、必要な教職員を配置すること。そのための国庫負担・補助制度を整備すること A知識偏重のカリキュラムを改め、児童・生徒の地域活動・ボランティア活動への参加、地域間交流などの実践的活動分野を拡充すること B中学校時の学業評価、作文、面談等に重点を置いた高校入学制度の改革を進めること C「センター試験」を含む大学入試制度を「資格試験制度」に改め、有資格者が特定の大学に集中した場合は面接と論文による選抜を行う新たな大学入学制度を創設すること D老朽化した校舎の更新、情報化の進展・高度化に対応した施設整備、学校図書館の設置拡充その他学校施設の総合的な整備を推進すること などが必要である。
グレゴリー・クラーク
(多摩大学学長)

1.高校卒業試験の実施

 高校在学中に勉強へのインセンティブを与えるために、現在の共通一次試験のような全国的な高校卒業試験を文部省が実施する。これをセンター試験の代りに、大学入学の資格として利用する。

2.4−4−4制の導入

 現在は子供の成長が早くなっているため、小学校6年では逆に長すぎる。
 4−4−4制を考えるべきである。

3.飛び入学の拡大

 能力別クラス編成を考えるべきだが、日本は学歴社会のため、それによって教育競争がかえって激化することは好ましくない。こうした無理な競争を防ぐために大学への幅広い飛び入学を考えるべきである。

4.大学での飛び級の採用

 飛び入学がもっと普遍的になれば、日本にとって必要な天才教育を実現できるだけでなく、教育の一局集中を断ち切ることができる。成績のよい学生が17才で、東京の有名大学よりも地方の優秀な大学を選ぶ、この学生たちが学部を3年で終え、引き続き大学院か留学を選べるならば、22才でそれを終了できる。かれらが今後日本の各地でエリートとして育てば、現在のやり方よりメリットが大きい。

5.暫定入学制度の導入

 受験戦争の弊害を和らげるために大学の門戸を広げ、定員をオーバーして、入学希望者の全員か一部合格ラインに近い学生を余分に入学させる。一年後に足切り試験を行い、定員まで人数を減らす。それに受かれば正規の学生として入学金をいただく。受からない学生は1年リピートもできる。

6.小人数クラスの実現

 教師の負担を軽くし授業の充実をはかるため、25人学級の実施が望まれる。

7.子どもの社会性の育成

 日本の学生が創造性と自主性に欠けるだけでなく、道徳崩壊の大きな原因は、子どもの視野が狭いこと、学校と家庭というハコのなかで育てられるところにある。子どもの教育は学校と家庭だけの責任ではなく、社会も責任がある。子どもが若いときから、社会の中で奉仕活動、ボーイスカウト、ボランティア活動を経験させ、学校と家庭以外に責任感の強い大人との接触を重視する。その関係で、いまの修学旅行のやり方を改め、代りに全員を山の中で2,3泊のキャンプ生活の体験をさせてはどうか。京都や奈良は各自家族や友人と行くものとする。また「1校1山」運動として、各学校が自分たちの山を決め、学校ぐるみで山の世話をしながら、山と親しむ制度をつくれば、子どもの社会教育にも環境教育にも、よい効果を生むと考える。

8.英語教育

 英語教育が小学校からスタートしたとしても、15才までは基礎的な英語を教えるだけにして、15才で、英検3、4級程度の全国共通の試験を行う。高校では、受験英語はしないで、英語は選択制にする。本格的に英語をやりたい学生は大学に入ってから、専門と語学を組み合わせたダブル専攻で勉強する。
河 野 俊 二
(東京海上火災保険株式会社取締役会長)

 これまで教育関係については、日経連の教育特別委員会で産業人の教育問題を取り扱ってきており、3年前に「グローバル社会に貢献する人材の育成を」を、そして昨年「エンプロイヤビリティの確立をめざして」の提言を出しています。
 また、海外子女教育振興財団で、海外子女の教育問題に携わってきており、こうした経験も踏まえながら意見を述べてみたいと思います。

1.現在我が国は、第三の変革期にあり、高度工業社会から情報社会へと大きな変革期にあると考えています。
 また、グローバル化の進展により、経済を初めとする社会の仕組みが国境を越えたものとなり、インターネットに代表される情報革命によりさらにスピードが早められ、その結果、従来私たちがよって立ってきた社会全般の構造や価値観などが、大きく変りつつある時代になっているといえましょう。

 戦後我が国の教育制度は、経済・文化・技術社会の発展に大きく貢献してきたことは間違いありませんが、こうした環境の変化に十分対応できず、いわば制度疲労を起こしていることも否定できません。

2.この大きな変革期の中で、また21世紀を目前にしたこの時期、教育という営みにとって大切な視点(基本理念)を何処に求めればよいのでしょうか。もっと突き詰めて問うならば、グローバル化とIT革命が進展する多様な社会を強く意識したとき、日本がこれから生き残って行くためには、何が最も大切か、との視点に他なりません。
 それは、いうまでもなく人という資源であり、時代の進歩を担う技術にしても、心に潤いをもたらす文化にしても、所詮人です。人間性豊かな、国の内外から、専門性もあり信頼される人材の育成こそ求められているのではないでしょうか。

 冒頭、海外子女教育に携わっていると述べましたが、この関係でブラジル、イギリス、アメリカなどの日本人学校を見て回ってきていますが、印象に残ったことは、生徒達は、自律心を持ち、はっきりとした自己主張を行い、多様な価値観を受け入れ、規律も保たれしっかりとしたコミニケーションをしており、我々が毎日見聞きする子供達とは同じ日本人であるにもかかわらず、随分違うということでした。
 このように教育は環境に大きく影響を受けるものと考えますが、日本人が弱いといわれる「個の確立」と、考える力としての「構想力」、「創造力」を、どのようにすれば身につけていくことができるようになるのか、これは内からの改革で難しいことですが、これを実現していくことが、21世紀の日本の将来を決めることになるのではないかと思います。これまでの教育を敢えて一括りでいうならば、「画一、均質、平等」な教育であり、この良い面もあるものの、一人一人の個性・能力には違いがあるとの前提を踏まえていたとはいえません。
 従って、人を中心に据え、多様な価値観と、多様な選択肢を可能ならしめる「個」の確立のために、どのような教育がまたどのような環境・社会システムが必要なのかが、極めて大切な視点になるものと考えます。

3.教育は、誰が行うべきか。制度・枠組みとしては学校が、幼児から成人に至る過程の中では家庭と学校が、それぞれの教育についての役割を担うべきことははっきりしています。そして、学校、家庭はそれぞれが無関係に独立して存在するのではなく、地域社会の中で共同して存在しているものと考えています。
 まず、学校と家庭の役割分担ですが、上述の既存の価値観の変化を背景に、それぞれの役割が、特に家庭の役割が、非常に曖昧になってきていると考えます。
 従来日本の家庭がしっかり伝承してきたと思われる「躾」を例に取れば、家庭は学校に、学校は家庭に期待するといったすれ違い・押し付けあいすら発生してきています。少子化になり子供自体が各家庭の中で絶対的「王様」となり子のいうなりの状態では、躾自体が崩壊していくことも当然のこととなります。
 私自身は、家庭の役割はとても大きいと考えています。幼児期から自我が芽生え、成人に至る過程までは、まず家庭が「公」(パブリック)の中の「個」の在り方を躾ける義務(広義の徳育)を負い、学校は知育を軸に徳育・体育を行うといった分担でどうかと考えます。学校に躾を初めとするすべての徳育を依存する、任せるということは要求のしすぎであると思います。
 教育改革論議の中で、学校、家庭それぞれの役割を改めて十分論議しその結果を学校、家庭が理解し実践していくことが、必要であると考えています。
 次に、地域社会との関係ですが、社会構造の変化でかつては見られた学校、家庭、地域の一種の共同関係もほぼ崩壊していると思われます。この共同関係を修復し再構築することが、家庭と学校の関係を強化することとなります。
 共同関係の構築は、地域と学校の双方向の会話から始まると考えますし、まず学校はどのような教育をしようとしているのか、そして学校で何が起こり何が問題となっているのか、先生は何を悩んでいるのか等、地域・家庭が学校を正しく理解できることが大切です。学校は、学校経営(マネージメント)について極力透明性を確保し、併せて説明責任をより一層果たしていくべきものと考えます。そうすれば、学校経営への何らかの競争原理と第三者機関による評価付けの導入といった思い切った仕組みに、地域が制度的に参画していくことができるようになりましょう。

4.最後にこれからの進め方ですが、教育関係の審議会も多数あり、臨教審を初めとして、この1月に出されました「21世紀日本の構想」に至るまで、それぞれの立場から教育問題について、立派な各種答申なり提言が出されております。
 しかし、教育の根本にまで遡り、今までの個々の改革案や論議を全体の中の何処に位置づけるのか、そして長期的視点からそれらをどのように実施し、どのようにスケジュール化していけばよいのかという全体論議を、もっと行う必要があるのではないでしょうか。
 また、今までの教育改革がどのような効果があったのか、できうる限り定性的・定量的に、その検証と評価をあわせ行って行く必要があるのではないかと考えます。

 教育には時間とお金がかかります。21世紀を展望し教育改革の早期着手と、国の予算の中で教育への投資の比重を思い切って高めることを希望します。


田 中 成 明
(京都大学教授)

21世紀における教育の在り方についての意見

 終戦直後にいわゆる戦後民主主義教育を受け始め、経済成長が始まった時期に新制大学に学び、大学で研究教育に携わってきた世代に属する者として、専攻分野である法学と密接に関連する実践知の教育の在り方を中心に意見を述べさせていただく。
 自らの経験を振り返ってみると、初等教育から高等教育まで、貧困な教育環境のなかで、節目節目によき師にめぐり会った幸運もあったが、基本的に自学自習でやってきた観があり、私どもの世代の経験は似たり寄ったりであろう。だが、戦後50年あまり経ち、成熟社会を迎えつつある今日、若い世代の生活スタイルをみると、最終的に自学自習が重要であることは変わらないけれども、それを支援する教育環境の抜本的な拡充なしには、ものごとを学ぶということ自体が、愉しいだけでなく、個人の善き生の追求と正しい社会の実現にも不可欠であることを実感させ、自ら学ぶ姿勢と方法を育てるという、教育の基本理念の実現が難しくなってきているという現状の改革が焦眉の課題であろう。
 次世代の教育について、学校に対する期待が過度に強まり、家族や地域社会の責任が希薄化している観があるが、これは、画一的な平等主義的試験制度の下で、教育内容が正解のある理論知(理系的知識)の教育に偏りすぎ、物事を多面的に熟慮し的確な判断をする実践知(文系的智慧)の教育が軽視されていることと関連しているように思われる。もちろん、このような実践知の教育は、第一次的には家族や地域社会で行われるべきであるが、家族や地域社会での教育はとかく現実対応的な処世術に傾きがちであり、現実社会の問題を批判的にとらえ新しい問題に創造的に対処できる実践知の教育を家族や地域社会に期待することには限度があり、転換期に必要とされるこのような実践知の教育は、学校で各段階にふさわしい仕方で系統的に行われなければならない。
 だが、このような実践知の教育は基本的に徳育であり、徳育は、たんなる知育と違って、教える者に人を得なければ、成果を収めることができないどころか、逆効果が大きい。このような徳育が、イデオロギー的対立や形式的な公私峻別論などの影響もあって、その教育の方法や内容の開発が妨げられ、この種の教育を担当する人が払底していることが教育の荒廃の一因であろう。初等中等教育においてこのような実践知の教育に携わったり、実社会において実践知を働かせて公共的な責務を果たしたりするプロフェッションの養成のための高等教育体制を整備することが急務である。さらに、社会の基幹的な公的・私的領域においてこのような実践知が正しく使われていることが示されなければ、若い世代が実践知を真剣に学ぼうとする誘因も乏しいことを考えるならば、教育改革を推進するためには、政治や経済をはじめ社会の基幹的な諸領域を次世代に誇りうる魅力のあるものに改革することが先決であろう。
 以上のような実践知の錬磨は、科学技術の進展に対応する専門知の修得などと同様、生涯にわたって行われるべきものであり、とりわけ実社会での経験とその理論的省察とのフィードバック作用が重要である。大学などの高等教育機関は、このような生涯学習に様々な形で積極的に門戸を開くべきであり、このような観点からもプロフェッションの養成のための体制整備が急がれるべきであろう。
 戦後教育が個人主義を基調に展開されてきたことは、歴史的には意義のあることだが、個人や個性の尊重ということが私的欲望の利己的充足を正当化する方向に傾き、社会的相互依存関係への配慮や公共奉仕の精神などを弱める方向に展開してきているきらいがあることは問題である。これは、たんに教育だけの問題ではなく、わが国の政治経済の実態がこのような傾向を助長してきたことも反省されるべきである。教育の場で多様な個人・個性を尊重しつつ公共精神を涵養するためには、教育の内容や方法に公的な画一的規制がなされているだけであるというのではなく、国家社会の負担において十分な公共的な配慮と支援がなされていることを実感させるような環境のなかで教育をすることが最も効果的であろう。自己負担や家族に依存して教育を受けた者に対して、自分や家族への配慮を超えて、国家社会への公共的関心を第一とする生涯を送るような生活スタイルを身につけさせるは至難である。実践知の教育を、理論知の教育以上に安上がりで効率的なシステムで行おうとする教育政策が続く限り、公共的な事柄に対する責務感覚はますます弱まらざるをえないであろう。
 さらに、教育が公共精神の涵養につながらなくなってきていることは、とくに高等教育がエリート教育の場からマス教育、さらにユニバーサル教育の場に変容してゆくなかで、大学の平準化要求が強まり、エリート教育の場が失われつつあることとも関連している。社会のあらゆる領域において公共精神に富んだエリートが存在しなくなった国家がどのような運命をたどるかは歴史の実証するところである。高等教育政策においても、科学技術振興ということだけでなく、実践知を身につけたエリートを養成するプロフェッショナル教育にも重点的な配慮がなされるべきであろう。
 教育問題の難しさの一因は世代間・専門領域間での見解のずれが大きいことにあると思われるので、改革の進め方については、これらのバランスに十分配慮し、しかも、戦後教育を規定してきた画一的平等主義の呪縛から脱却し、抜本的な改革の方向がさぐられることを期待する。
田 村 哲 夫
(学校法人渋谷教育学園理事長)

21世紀の「教育百年の計」

=はじめに=

 西暦二千年を迎え、新しい千年期に、人類社会は巨大なパラダイム・チェンジの時を迎えようとしている。
 政治、経済、科学、文化、教育そして人間の生活様式までも、全てが連動しながら、変容していくことが予感される。
 例えば情報技術(IT)革命の進展は、人間に倫理思考そして価値観の大変容を求めることになる。なぜなら膨大な情報量の入手が可能となることによって、その使い手一人ひとりには従来では考えられないような倫理的、社会的責任が要求されるようになろう。
 日常的なことでも、例えば、嘗て私の少年時代「芥収集」には大八車が使われていたが、今は機械化された複雑な自動車に変っている。使用者一人ひとりが変らなければ、大きな事故につながる。近年の東海村原発事故はこの典型的な事例ともいえよう。
 こうした、新しい変革は、社会にそして教育に新しい実践を求めることになる。
 実はこれと似た状況は我国で既に経験されている。明治期の教育がそれである。ここで、当時政治も教育の一環と考え実践した政友会の優れたリーダーの一人であった江原素六先生の言葉を紹介したい。
 日清戦争に勝利して日本が新しい道を力強く歩み出した社会の昴揚期、明治28年(西暦1895年)、彼は“青年即未来”と主張し麻布学園を創設する。幕末期、徳川政府により米国に派遣留学させられた素六は、新しい時代の動向、新しい社会、変革の行く手を明確に認識していた。橋本前首相を初めとする多くの人材を日本社会に輩出している麻布学園の今日は創立者江原素六精神と言われるものが連綿と続いてきた結果であると言えよう。
 当時、日本では維新期の混乱を乗り越えて学校制度が整備され、義務教育の形が出来あがりつつあった。
 新しい時代の教育を実践する学校教育が「真の国民教育(今日的に言えば、ユニバーサル化=誰にも適応出来る=)とならん為には、家庭教育の責務、いよいよ重大なり」その為に「いよいよの母親の奮起を要す云々」と述べた江原先生の主張は、今日いよいよ重みを増して私達に迫ってくる。
 教育に、特に変革期の教育には、「変らねばならないもの」と、「変ることの出来ないもの」があることを充分に認識することの大切さを伝えているのではないかと考えている。

=これからの時代の教育に何を求めるか=

 21世紀の「教育百年の計」を考えるにあたって、二つの視点から論じてみたい。
 その第一は、「個の尊重」である。ここから「生涯学習」というテーマが教育にとって重大な意味を持つものとなる。そしてここから「創造的資質」がのびていくのである。
 そして第二は、「自然との共生」であろう。そしてここから、有限の地球社会に生きる人類=ホモ・サピエンス=考える人の意識が「グローバリズム」の真の意味を引き出してくれる。そしてここから真の意味での科学技術教育と正しいエリートが育っていく。

・個の尊重そして生涯学習
 「個の尊重」「自立した個人」が今日強調されている。先般公表された「21世紀日本の構想」報告書にも「個の確立」が謳われている。
 「個」とは、どう考えるべきか。変るべき処と変ってはならない処はあるのか。「集団主義」と言われる日本の社会は、経済大国を目標にした国造りに一時期大きく貢献した。全体の為に「個」を背後にかくし、奉仕協力することの有用性は、日本経済の発展を見るならば、はっきりとしていると言ってよいであろう。然し、個の全くない「全体」は存在しえないし、「個」だけあって全体がないことも考えられない。当然考えられねばならないことは、何を支点として「個」と「全体」のバランスをどうとるかということである。
 夏目漱石は大正3年(西暦1914年)、当時の日本の指導層の子弟の学ぶ学習院輔仁会で「私の個人主義」という有名な講演をしている。ここで「自己本位」という有名な言葉を残すが、当時評判の悪かった個人主義という表現をあえて使ったこの講演は大変好評であったという。この中で「私はこの世に生れた以上何かをしなければならん」と思って努力研究をしたというくだりは、まさに今日のマズローの自己実現説を思わせるものがある。
 明治期以前には、我国では「教育」という言葉より「啓発」(論語・述而)が 使われていたことの意味をもう一度考え直したい。
 漱石は講演のなかで、@自分の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない。A自己の権利を行使する時には、同時に付随している義務を心得よ。B自己の金力を示そうと願うならそれに伴う責任を重んずることの三点を示し、この個性、権力、金力の自由な享受の為に、背後にあるべき「人格」の支配の重要性を指摘している。又世界で最も自由を尊ぶ国、英国は同時に最も秩序の調った国であるとも述べている。今日そのまま有用な指摘である。
 「全て国民は個人として尊重される」(憲法13条)ことの延長線上に全てのことが考えられねばならぬ時代の「個人」は、その自由を享受するには、義務を果たさなければならないのである。つまりその「義務」とは自らの発意による自らの人格の完成への努力の継続のことである。米国独立時の中心人物の一人、ベンジャミン・フランクリンは自叙伝によれば、一生を通じ毎日13の徳目のうちどれが出来たかを日記に記したという。
 これこそが、今日求められている「生涯学習」の原型であると考える。

・自然との共生そしてグローバリズム
 リヨン・サミットから提唱され、昨年のケルン・サミットでコミュニケの形で示され、本年の沖縄サミットの中心テーマになる「グローバリズム」はまさに今日の教育改革の中核となっている視点である。
 19世紀以来、民族国家の主権の中核部分として存在した「その国の教育」は、国際社会という舞台の広がりのなかで、グローバリズムという新しい改革の示唆を持つことになった。この有用性は既にして、ユネスコ活動、IEA或いはOECDの協働などで我国にも知られている処であるが、グローバリズムを重視する視点は、「自然」との共生概念から生まれると考えている。
 西欧流(デカルト以来)「自然」は人間が利用する対象「モノとしての自然」 であった。
 一方日本では明治期、ネイチャーに対応する概念がなかった故「花鳥風月」「雪月花」という言い方で訳されていたように、自然は自分を含めた共有概念で「コトの自然」、言えば人間を含めた山川草木全てが神を宿し故にその全てを大切に敬う(神道)といった考えであった。これをある意味で大切にしていきたい。
 地球規模での人口激増、科学技術の発達は、有限な地球での生物絶滅種の激増 (最近50年間で35種もの野生動物種の絶滅等)をもたらしている。
 人類の為にも、人類社会の共通モチーフである「生命」へのいとおしみを大切 に育まなければならない。
 そして、この延長線上で、ガリレオ以来の近現代科学(サイエンス)の持つ問題点、科学は何の為に存在するのか(医学の領域におけるヒッポクラテスの誓いのようなもの)の問いかけの応えがあるのであろうし、又ヴァーチャル・リアリティーの問題も乗り越えることが出来よう。

=結語・まとめとして=

・教育という営みにとっての基本理念
 これからの時代に求められる教育目標について前述したが、ここで教育という 営みについての「基本理念」についてふれる。
 敢えて言えば、「自調自考」である。(筆者の創立した学校の校訓)
 論語の「啓発」にあるように、自ら学び自ら考えるもののみが教育をうけるにふさわしいものであろう。そこで具体的に言えば「夢を与え」「自己の人生での自分捜しの旅を扶ける」役割を果たすことを通して、鈴木正三の言う処の「大義」(マックス・ウエーバー職業倫理に近いもの)に気付かせることと考えたい。

・生涯学習と学校、家庭、社会の役割について
 ドイツ国憲法には、その前文で自律的人格権にかかわり、国民各人の自律権(自分の生き方は自分で形成する)が尊重される良き社会の形成発展という長期的視野に立って国民自らが「自己拘束」をなすという観点から「神に対する責任」という言葉が使われている。日本ではこの「個人の自律」を育む精神文化をどう形成するかがポイントになろう。
 嘗て我国では、「オテント様」という発想があったが。

・「個」と「公」について
 道路普請、井戸浚いが、長い間「オカミ」の命令であった我国では、なかなかに「個」の延長線上に「公」があることが定着しなかった。やはりこれからは、ケネディ大統領の就任演説にあるように、「国民は国に何かをしてもらうことを考えるのでなく、国に何が出来るのかを考える」ようになりたい。
 その為に、学校、家庭、社会でのアイデンティティ(自我同一性)の確立(エリクソン)に努める必要がある。自我の確立と社会性の確立のバランスの実現。

・教育改革の今後の進め方について
 教育には、次世代に伝えるべき内容(伝統)の伝達と、新しい時代に生きる智恵の理解の二つの役割がある。不変と変と。変化の激しい今が最も大変な時である。
 国を挙げて、教育のテーマ解決に取り組まねばならない。国民の祝祭日を「教育を考える日」にして、これを契機に、マスコミも企業も学校は勿論家庭も「教育」について真剣に考える提言を、そして参画してほしい。
 教育は、教師と学校に子供を通わせる親(通過集団)にまかせっきりではいけ ない。特に高齢社会における高齢者の活躍を。
 学校は今、開かれた学校として変わろうとしているのであるから。


沈   壽 官
(薩摩焼宗家十四代)

1.基本理念について

(イ) わが国では廉恥や惻隠の心情、「親孝行や三尺下がって師の影を踏まず」などの徳目は1945年の敗戦まで日本人の精神社会を律してきた。
 朱子学をもととしながらも老荘、禅、神道の諸説を自由に採り入れて造られたこの国のかたちは江戸中期、石田梅岩などの手によって体系化され開花結実した。内戦ともいわれる明治維新においても民心は安定し大混乱を起こす極端な状況に陥られなかったのは前記の江戸時代の石田梅岩などの初期社会教育の教国的効果として大いに評価すべきである。

(ロ) 私の立場
 昭和42年から鹿児島県PTA連合会長の任につき以来30年間絶えず社会教育の第一線で働いて来た。県社会教育委員も20余年勤め現在、鹿児島県社会教育委員協議会の会長の任にある。
 これでお判りの通り、中央で決定された通達や答申事を忠実に実現する、現場の責任者として働いてきた。抽象的にすぎる内容に頭をひねり、時には現場の実情、東京と地方の生活感覚の違いに驚いたりもした。

(ハ) 私は家庭教育を教育の原点として捉えている。親でなければ子供に伝えられない大切なものがある。家庭の中で育てる人と育てられる子供の「分」を明らかにし、その家の善悪の規律や人間としての美学、「恥の文化」を教え伝える大切な伝達は家庭以外にはない。子供を躾けるためには父母の生き方、考え方が基本となる。子供は本来父母の生き方を学習する本性をもっているのである。古来教育の対象は子供ときめていたが家庭教育の対象は親である。

(ニ) 現在の社会教育は最も必要とする所には指導や助言が届かない。未だに「集める教育」の方式を脱却せず、対象は会場の規範に支配される。割り当てをしなければ講演会や指導会議の出会率は悪く、毎回の出席者の顔ぶれは変わらず、是非この会に出席して戴きたいと指導者や周囲の人々が願っている人は出席がなく折角の指導も講演も空転することになる。必要とする人に届かないのである。
 社会教育の方法を、「集める教育」から、「個々に届ける教育」に変える時である。家庭の中で人間の美学や恥の文化等の対話が始まるとき制度的改革をうけ入れられる基礎が出来ることになると思う。

(ホ) 「父親の家庭教育からの脱落は今日最大の問題である。会社人間に徹するあまり、家庭教育の責任から逃避して在宅時でも、家族との団欒、子供との対話などについて適切な対応を知らず、若き日の経験だけをくり返し、現代青年心理や、子供の成長過程について認識不足のため、結局大声で威圧するか、幼児症的媚びで子供の関心を得ようとする。
 会社や企業は父親の家庭教育参加の機会をふやし社員教育の一環として父親の家庭教育能力を高める手立てを構ずべきである。
 子供には父親でなければ教育できない人生の岐路があるのである。家庭教育の再生こそ教育改革の基本である。

2.学校家庭、地域社会の役割発揮について

(イ) 学校には師弟の間に敬愛の心が無く、不必要に馴れ馴れしい関係や責任回避。些細な事まで事件にするなど目を掩うべきものがある。その理由は甘やかされた精神的不錬磨が心理的弱者を生じ師を敬するという大切なものが失われているからではあるまいか。
 敬なくては教育は成り立たない。しかし学校自らの改革努力には限界がある。
 かりそめにも「教師の悪評を語らない」という地域や家庭内の約束事を積み上げなければ学校教育は蘇生せず、今日の非常な状況よりの脱却はむずかしい。

(ロ) よく学校、社会、家庭の三者の協力が叫ばれるが、三者協力の美名、に甘えて学校依存しむつかしい問題を相手に押しつける弊害がなしとしない。批判より敬愛、三者とも自らの果たすべき役割を確認し、現実を見据えた上での協力が必要である。
 近づく週5日制について、中央や大都会は当然の如く受け止めているだろうが、施設のない過疎の集落では1日ふえた子供の休日について対応に苦慮している。特に日給で働く母子家庭では1日ふえた子供の休日のために仕事を休まなければならない心配がある。地域社会が何とか協力すべきであるとしても、自治公民館には専従者がいない。会長や役員も、自分の仕事をもつ兼務者で毎度の土曜日に子供の相手を押しつけることはむつかしい。今日地域の教育力は、非常に衰弱している。せめて僅か月に1回か2回の公民館の全員集会でも家庭教育の重要性を説き、親孝行の獎めと、教師に対する尊敬心を求める以外、地域社会の教育への参加は考えられない。戦後50余年の歳月の中、個の尊厳だけが先行し地域の心も崩壊している。

3.個と公の関係

 厳罰主義その他無限に試みられた。しかし百年河清を待つが結如しである。公私の混同を国民が監視でき、その不正が誰にでも判る方法から始めねばならない。公務員、学校、会社や企業に働く人々が、役所名、会社や企業名の入った封筒や便箋などを私用に使うことを絶対禁止し、天下に公表し、国民注視の中で実行すれば、影響は大きい。単なる文房具ぐらいという心が公私混同に発展する。
 小さいことだが出来ることから手をつけるべきではなかろうか、民主主義の基本に関る問題である。

4.学区制について

 「学区制」は何故廃止されないのか。恵まれた校区に住んでいるという理由だけで希望校に入学することができ、地方に住む子供にはチャンスが無いのは理解出来ない。悪平等論か、地域エゴかの問題はさておき、どんなに頑張っても近場の学校に、学校の成績のよしあしにかかわらず入学させられる子供の口惜しさは充分理解出来る。努力すれば学力に應じてどんな学校にでもゆける夢と勇気を育てるためにも学区制廃止を都道県に対し積極的に指導すべきである。

5.歴史教育のあり方について

 わが国の歴史教育はアジアの諸国間でいつも取り上げられる問題である。私は青少年を案内して隣の韓国に研修旅行に度々行くが、友好親善のムードの中で俄かに険悪な空気が漂うのは何時も歴史問題である。歴史的事実の批判や評価以前の世界周知の事実を日本の青少年が全く知らないという点が先方を苛立たせるのである。「そんな明白なことを知らないのか。とぼけるな」という具合。一例として、韓国にとって国母の閔妃が日本人の集団に宮内で暗殺されたことは世界の外交史にも明確である。しかし当事者の日本人は知らないのである。評価は別としてその事実が存在したことだけは正しく教えるべきである。
 「無謬主義」で事実を教えないことは、国家にとっても不利益、青少年にとっては不幸である。恥かしい歴史を知った上で、なお成熟した愛国心をもつ堂々たる姿勢で生きられる青少年が望ましい。

6.教育改革の具体策

 官民合体の国民的社会教育推進母体をつくる事
 社会教育は成果が表れるのが、きわめて緩慢である。非常に多様な人々の心を教育対象として捉え、その目的を対象に滲透させるためには民間人を含む経験豊かな、人間の参加がなければ、戦後の形を打破することは困難であろう。
 官民合体の国民教育センター(仮称)建ち上げ、多様なメディアを駆馳し、人材を集めて国家の基本的かたちを構築する必要がある。フィリピンの放送ではニュースの終りに「今日のことば」と題して教育に関わる「諺」を放送する。たとえば「今の一針は明日の九針を救う」などである。目前の小さい問題を先送りするとやがて大きな問題となるという意味であろう。活字や電波のメディア、更にITなど手段は澤山ある、もし可能性があれば郵便ハガキの片隅に短い教育的標語を印刷する。まさに「届ける社会教育」の典型というべきではなかろうか。

 私の意見は大変迂遠な手法と評されるかもしれないが、中央で考える程現状は甘くない。いわゆる大衆の中に生きる中で感じた実感である。社会教育とはまさに小鮮を煮るが如しである。
 祖先崇拝や親孝行や、教師への敬愛を口にするだけで、「教育勅語を懐かしむ」と烈しい反論を唱える輩もある。極めて遺憾である。しかし語弊があるかもしれないが大衆は愚にして賢なりという言葉がある。
 この状態を憂え、この国の誇りあるありようを真剣にまさぐっている火種はまだ残っている。しかし火種が焔となって燃え上るためには、大きな社会的な「風」が必要である。何時までも学校教育の系統に依存し、変化のない指導法では焔は燃え上らない。推進母体を求めるのはここにある。

7.結び

 幾度も外国の教育制度を導入しながらも、本来の徳目とアイデンティティーを守り抜いたわが国の教育風土は、50余年程度の荒廃で本質まで失われたとは思えない。
 家庭や地域の正しい教育のありようの実現を、大目標としてまず歩き出す事が今日の教育的課題を解決する鍵となるであろう。
浜 田   広
(リコー会長)

教育改革について

1.教育という営みにとって大切な視点

 先ず現在の教育の現状をどのように認識するか。
 (1) 個と公の関係が個の方に片寄りすぎている
 個人主義=自分個人に都合の良い主義
   民主主義=結果の平等に偏し、努力する人もしない人も、能力の高い人も低い人もできるだけ平等な成果にありつける主義
 (2) 真のリーダー育成の体制、体系、カリキュラム等が、消滅してしまってい  る。
   優れた能力と人間力、ノブリスオブリジェの精神、公私のバランスを持ったリーダーが、各界に意図的に滲み出てくるようにしなければ、国は保たない。
   また、国際化時代のリテラシーのひとつとして英語教育が叫ばれているが、国民全員に日本語をないがしろにして英語力をつけるなんてナンセンスである。リーダー層に世界に通用する英語教育を組み込むべきではないか。
 (3) 社会全般にハングリー精神と緊張感の欠除。
   国際紛争以外で、国民的緊張感を作り出す方法はないか。受験時以外に格別な緊張を感じない、弛緩した、目標喪失の社会の中で、教育の再興は容易ではない。

2.家庭・学校・地域社会の役割

 家庭=基本的な躾の責任。倫理観の涵養。生活能力の育成。
 学校=基礎的・専門的知識。集団生活を通じた協調性、規律、公徳心、社会性な    ど。
 地域社会=家庭・学校と連携しながら、さまざまな社会体験の場を提供し、社会    貢献の概念等の育成につとめる。
 もちろん役割が三者で明確に分かれるわけではなく、いくつかのものは、両者、三者にまたがって育成に努めるべきである。

3.「個」と「公」について

 戦後これまで、経済成長という国家目標に邁進する中で、俗っぽい言い方をすれば、自分中心、お金中心になってしまったことが、最大の問題ではないか。
 友だちができない一人ぽっち、結婚相手ができない一人ぽっちが増えつつあるのは憂慮すべき事態である。そして更に、学級崩壊、校内暴力である。
 人は何から多くを学ぶか。(私論であるが)
 第一に、大地自然から学ぶ、
 第二に、人から学ぶ、
 第三に、書物から学ぶ、
 第四に、テレビやパソコン画面から学ぶ。
 現代はこの順番が逆さまになってしまった時代であり、おかしくならない方がおかしい。幼少年期に友達ができるのは、ほとんどが自然が仲立ち、媒介役を果たしている。テレビと受験参考書では、助け合ったり、悩みを相談したりする友人はできない。
 ここに一つの提案がある。14〜5歳で、ある期間(少なくとも数ヶ月から1年)農舎に合宿して農業に従事する。動物を飼う。義務教育の一部で「国民皆農制」である。これで何を学ぶことができるか。紙面の都合で省略するが、10指に余る教育効果がある。実現には相当な困難を伴い、かなりの覚悟が必要である。しかし、今の日本の状態で、教育改革をしようとしたら、例えは悪いが、戦争をするぐらいの覚悟で取り組まなければ、効果は見込めないのではないか。
 個人と家族や友人というサークル、個人と何か身近な集団との関係が、しっかり形づくられた延長戦上に、個人と国家という関係が意識され形成されていくのではないか。間違った個人主義と拝金思想の中にいきなり「愛国心」を求めても無理であろう。

4.教育改革の進め方ないし方向について

 (1) 学校教育の分担
   教育の役割とそれに伴う責任を、
   1.国家
   2.地方自治体
   3.学校
  に三分割する。県や市、そしてもちろん学校ごとにシンボルになる“教育者"が居る状態をつくる。その人がその単位の教育理念、方向、方法等をきめ、明確に社会にその内容を打ち出し、結果責任を持つ。
   学校や市町村ごとにお互いに刺激し合い、競争し合う。昔の寺子屋の大型現代版である。被教育者は評判をきいて受験し、あるいは移動する。
 (2) 偏差値重視の単眼・単線的受験システムから、複眼・複線的システムへ
   限られた受験課目のほかに、さまざまな個性的能力も評価する。その中に体力テストもとり入れる方法もある。
   また、選んだ専門コースが自分に向かない場合など、やり直しのきく、乗り  替え容易なシステムをとり入れるなど。

5.その他

 これからの日本の再興には、創造性の高い人材を造り、その能力発揮の場づくりをすることが、学校にも社会(企業)にも求められている。創造力という能力は、一流大学卒という学歴とはあまり関係がないようである。企業側も従来の人事、採用のやり方を改めて、協力・推進すべきである。
 また、産学連携の観点から、さまざまな知識・技能・経験等をもつ社員を講師として学校に派遣したり、工場等の現場へ学生を受入れるなど、視野の広い人材の育成に全面協力をすべきである。
藤 田 英 典
(東京大学教授)

21世紀の教育と社会について

 「新しい千年紀の入り口に立ち、・・・日本の明るく希望に満ちた将来の姿」について真摯に考えてみようという首相のご決意に敬意を表しつつ、小生の日頃感じているところを申しあげたいと思います。
 「教育改革国民会議」では、「そもそも教育改革とはなんぞやという原点に立ち返って、戦後教育について総点検するとともに、現在の教育の問題がなぜ起こっているかを含めて分析、検討」するとのことですが、是非とも、偏見や思い込みや予断を排して、誠実かつ合理的に分析、検討していただきたいと思います。そのためにも、次の六つのスローガンを心に留めていただければ幸いです。これらは、近刊の拙著の冒頭に記したものです。

●教育をおもちゃにするな
●いじめや不登校を出しにするな
●独善や思い込みで事を運ぶな
●特定階層の利害・関心を不当に優先するな
●制度改革は変化の始まりでしかない
●倫理・理念を歪める改革は将来に禍根を残す

 3年前、小生は『教育改革−共生時代の学校づくり−』(岩波新書、1997年)を上梓しました。そこでも論じたことですが、こんにち日本の教育は重大な岐路に立っている、と言えます。この10年ほど小生はそう言い続けてきましたが、それは、日本の教育が社会の変化に対応できていないからというよりも、それ以上に、臨時教育審議会以降の教育改革が、思い込みと偏見に基づき、問題の本質を捉え損ね、理念と倫理を歪め、欺瞞的な改革を進めてきたからです。その点で、政策担当者やオピニオン・リーダーの責任は重大だと思います。
 「個人が力を十分に発揮」できる社会、「個人がいきいきと活躍できる社会」は、確かに「仕事や暮らしに関して、多様な『豊かさ』を追求できる選択肢が用意されている」社会だと言えると思います。しかし、その選択肢は必ずしも<制度的な選択肢>ではないはずです。制度的な選択肢は個々人の選択をその選択肢に限定し、制約します。たんに制約するというだけでなく、差別と排除を制度化することになります。本当に「多様な『豊かさ』を追求できる」には、誰にでも開かれた参加・活動の場と機会が用意されていることと、そこにおける<多様な豊かさの追求>を許容し、認め合えるような文化を育むことが重要だと思います。学校は基本的にそういう場でなければなりません。学校をそういう場としていかに豊かで許容的なものにしていくことができるか、そのために何をすればよいかを考えることが、これからの教育改革の基本的な課題だと思います。
 校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊、青少年の非行・逸脱等は、けっして日本だけの問題ではありません、先進諸国はほとんど例外なく抱えている問題です。それは、教育病理というよりも、社会病理と見るべきものです。ところが日本では、この十数年、これを教育病理と見なし、その原因は日本の学校教育の在り方にあると論じて、一連の制度改革を進めてきました。むろん、社会病理とはいえ、そうした問題に対する対応策として、学校に期待を寄せることは不当なことではありません。なぜなら、現代社会では、こうした問題に対する政策変数は、学校教育以外にないからです。しかし、それは、教育の機会を左右するような制度改革によって対応すべきものでもなければ、有効に対処できるというものでもありません。この点で学校の改善が必要だとしたら、それは問題の原因が現在の学校の在り方にあるからではなくて、学校にしか期待を寄せることができないからです。
 情報化やグローバル化の進展によって、社会は大きく変化しています。その変化に教育も対応していく必要があることは言うまでもありません。しかし、変化する社会への対応は、あくまでも合理的で適切なものでなければなりません。しかも、その際、理念や倫理を歪めるようなものであってはなりません。教育という営みは、子どもの現在と将来に関わる営みであり、社会の現在と未来に関わる営みです。学校が子どもにとって安全で豊かな場であるなら、社会の現在も安全で豊かなものになる可能性があります。子どもの将来が希望に満ちたものになるなら、社会の未来も希望に満ちたものになる可能性があります。そのためにも、いま確実に言えることは、理念と倫理を歪めるべきではないということです。教育の形態は多様でありうるでしょう。しかし、その多様な形態は基本的な理念と倫理に適うものでなければなりません。制度的な差別や排除を組み込むようなものであってはなりません。
 科学技術の発展や国際的な経済競争力を支える人材の育成が重要だということも、大学を中心に教育・研究水準の質的向上が重要だということも確かだと思います。しかし、この点でも、本当に日本の教育は優れた人材の育成に寄与していないのか、教育・研究の水準はどの点で不十分なのかということを、的確に把握することが肝要です。小生の考えでは、大学教育の在り方には改善すべき点が多々あると思いますが、研究面では、研究者の資質や活動の問題よりも、研究環境の改善の方がはるかに重要です。最近ようやく新たな産・官・学の連携体制の充実が図られるようになりましたが、それを含めて、インターフェースやマネジメントやコーディネーションの重要性を確認し、その充実を図ることこそ重要な改革課題だと思います。
 「教育は国家百年の計」だというのは、その通りだと思います。しかし、それは、たんに計画を策定し、あるいは、改革を行うということではなくて、いかに誠実にその「計」に取り組み、その「計」にふさわしい資源を投入するかということだと思います。
 誠実な検討と賢明な判断・政策を期待いたします。


森   隆 夫
(お茶の水女子大学名誉教授)

「大人の幼児化と子どもの劣子化対策」

1.教育改革の視点=原因の原因を考える

<大人の幼児化>
 あらゆる教育問題の「原因の原因」を考えていくと「大人の幼児化」ということに帰着する。子どもの教育は大人がするのだから、大人が駄目なら、子どもはより駄目になる。文明が発達し、豊かな社会になると、生活が便利になるので、自然、「依存心」が増大する。さらに豊かで快適な生活は、人間の「耐性」を肉体的にも精神的にも低下させる。風邪を引き易いとか、直ぐにキレルのがそのせいである。
 つまり、大人の幼児化とは「便利=依存=自律できない」ということで、これは、人間の自立(律)を目的とする教育に反していることになる。文明は教育の「敵」という側面をもっている。したがって、学校を余り便利にすると、子どもは自律できなくなる。学校とは子どもが学校(教師)に依存しながら自律していくという矛盾した組織なのである。
 要するに、大人の幼児化とは、文明(分業)の発達により外部依存度が高まり、自分で自分のことが出来なくなった人間のことをいう。
<子どもの劣子化>
 大人が幼児化したのに対して、子どもはどうなったかというと、幼児化した大人より、もっと悪くなっていく。「知・徳・体」のいずれの面でも劣化している。加えて少子化で少なくなる子どもに青少年犯罪が増加している。少子化という「量」を問題にするだけでなく、子どもの「質」を、「劣子化」としてとらえる必要性を痛感する。

2.百年の大計、五十年の中計、一年の小計のシステム化

 歴代文相の演説を調べてみると、殆どの文相は、教育は国家百年の大計といっている。しかし、もし、百年の大計を実行しようと思うなら、五十年の中計があり、各年毎の一年の小計がなければならないし、この大計、中計、小計がシステム(関連)化されていなければ意味がない。それでは単なるスローガンに終る。「理念」を実現するには、「理論」が必要であり、理論を実践に移すには、「方策」が必要なのである。この三点を抜きにして教育改革は語れない。
 大人の幼児化を防ぐには年月を要するからこれは百年の大計か五十年の中計に属する。
 子どもの劣子化対策は、中計から、一年の小計でもある。

3.家庭は教育の原点

<家庭> 家庭はあらゆる教育の「原点」(臨教審)であり、「出発点」(中教審)であると指摘されながら、具体的な方策は示されていない。川をきれいにするには、川上(家庭)から始めるべきなのに、中高一貫とか大学改革といったように、川の中流あたりから手をつけているのが現状である。
 家庭教育は「模倣」から始まる。子どもは無意識的に親を模倣するが、その親が幼児化しているから、「模範」を示せない。つまり、親は子の「鑑」といわれたのは昔のことで、現在ではその鑑は割れている。したがって、子は親の「鏡」といわれたが、その鏡もくもっている。
 したがって、具体的方策としては、親が、家庭で「存在感のある親」になることである。そのために、親は人生最初の教師としての自覚をもち、「信念」をもって生きている背中を子どもにみせることである。まず、信念、座右の銘を!で、親子関係は「鑑と鏡」の関係であることを忘れないことである。
<学校> 学校では、「生きる力」が重要といわれているが、そのうち、徳育が、もっとも手薄すになっている。知育、体育は、極端にいえば、学校で力を入れなくても、民間機関が補ってくれるが、徳育の塾がないように、いや、徳育は、家庭でも、学校でも、地域でも全体で協力しても、十分ということはない。それなのに、学校ではどうかである。
 具体的には、教師の「人格的権威」を高めることである。権威とは、制度的権威と人格的権威があることは、M・ウェーバーも説くところだが、重要なのは人格的権威である。一般の大人は幼児化していても、教師は職責上、幼児化していてはいけないはずなのに、それに応えられていない。
 地域社会の大人については、幼児化していることは繰り返さない。

4.しつけの基礎基本は何か

 しつけを厳しく、とよくいわれる。当然である。しかし、しつけの方法、とくに、何から、いつ、どのようにしつけるかについての提案がない。
 赤ちゃんが生まれてからの、最初のしつけは何かである。例えば、どういう言葉から教えるかである。アメリカでは、サンキューが第一で、第二に、プリーズ、第三に、 ユア・ウェルカムともいわれる。日本では、マンマといった喃語ぐらいしかない。基礎基本がないのである。
 さらに、しつける前に、悩みや、不安を解消する必要もある。ストレスの解消である。ストレス解消には、「会話」と「笑」が不可欠だが、家庭に、これがない。会話は一人でできないから、家族が一緒に居ることが大前提になる。いかに家庭が、家族が多様化しても、その基礎になるキーワードは、「一緒に」である。昔はこれを「団らん」ともいったが、現在では、それも忘れられて久しい。
 大人には、バーや喫茶店と、会話と笑でストレス解消の場は多い。それに比し、子ども用のバーや、子ども用の喫茶店があるだろうか。それを家庭につくる、それは「心の庭」である。ガーデンニングの前に家庭に心の花、笑の「心の庭」をつくるべきなのだ。
 家庭に「心の庭」づくり運動を始めるべきだ。
山 折 哲 雄
(京都造形芸術大学大学院長)

「教育改革」についてのご質問に、つぎの二点にかぎってお答えします。

 第一、日ごろ小渕首相は「富国有徳論」を提唱されていますが、しかし私は、基本理念を「日本有徳論」へと改めるべきではないかと考えます。ご承知のように日本のGDPはイギリス、フランス、ドイツのそれを合したものとほぼ匹敵するといわれています。日本国の存在自体がすでに「経済大国」の実力をそなえるところまできています。また、防衛力の科学技術水準も世界でAクラスに達していることを考え合わせてもいいでしょう。そのような現実の中で、なぜわれわれは世界にむかってさらに「富国」の旗を掲げなければならないのでしょうか。なぜ「有徳」とともに「富国」といわなければならないのでしょうか。
 いってみれば「富国有徳論」とは、経済発展のためには倫理がともなわなければならないという議論です。その点ではアダム・スミスの「富国論」と変わるところがありません。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の域を出るものでもありません。近代の産業革命の成功を説明する前世紀的な考えです。しかしそのスローガンがこれからの日本国家のかじ取りに有効にはたらくとは思えません。ましていわんやわが国の教育改革を推進する場合に力を発揮するとはとても思えないのです。なぜなら今日の日本の問題は経済発展には大成功を収めたけれども、モラルの退廃が国の根本を危うくしていると考えられているからであります。「富国」そのものが困難な問題の元凶をなしているからです。「徳」の圧倒的な欠如が自覚されはじめているからです。されば今こそ、「富国」の論を後景にしりぞけて、「有徳」の論をこそ前面に掲げるべきときにきているのではないでしょうか。
 ここで、ご参考までに申しますが、ある経済人たちの集まりに招かれたときのことです。日本を代表する企業のリーダーから、つぎのような悩みをうかがったことがありました。ちなみにその企業は総従業員の四割以上が外国人で占められているとのことです。−毎日のように海外では悪戦苦闘を強いられているが、西欧社会は日本がいくら経済大国になっても、心の底では日本人を軽蔑している。なぜなら経済システムをはじめ日本がここ百年余りのあいだに実現しえた政治や法律を含む近代的な制度のすべては、西欧からの借り物であり模倣であると思っているからだ。模倣と追随に明け暮れてきた日本がかれらによって尊敬されるはずがない…。

 第二に申しあげたいのが、「心の教育」についての問題であります。そもそも教育には二つの軸があるだろうと私は思っています。一つが短期的な時代の要求に応ずる教育です。対症療法的な実用教育といっていいでしょう。少年たちの凶悪犯罪、いじめ、学級崩壊などに対応する教育軸であります。短期的な実用教育という点からすれば「丁稚教育」ということになります。もう一つが長期的な将来展望に立つ教育です。三十年、五十年さきを見通した人間教育であります。今日流行の言葉をかりていえば、精神のグローバル・スタンダードを構想する教育、といってもいいでしょう。さきの「丁稚教育」にたいする「生涯教育」もしくは「人間教育」です。
 とりわけ「心の教育」というような場合、長期の将来展望に立つ教育軸の開発が欠かせないことはいうまでもありません。だがそれが、現実にはそうなってはいません。世をあげて経済のグローバル・スタンダードを口にする人は多いのにたいして、教育のグローバル・スタンダードに言及する声がほとんどきこえてはこないからであります。いくら「心の教育」と叫んではみても、そのじつやっていることは右を見ても左を見ても対症療法的な「丁稚教育」ばかりではありませんか。
 今日の「心の教育」には、およそ三つの位相があると私は思っています。第一は心理学的な「心」の領域にかかわる位相です。社会科学的手法にもとづくものですが、その大半は現実の困難にたいして対症療法的な処方箋を書こうとするものであり、「丁稚教育」の最たる実例といっていいでしょう。

 第二が、いわゆる「道徳教育」論に象徴される、一種の精神鍛練法にもとづく教育論です。時代が危機的様相を深めるとき、きまって登場してくる議論ですが、その古色蒼然たる旋律が人びとの心にとどくことはまずないでしょう。

 第三が、千年の歴史の風雪に育まれてきたわが国の「心」の伝統に深く学ぶ教育であります。万葉集、源氏物語から浄瑠璃まで、空海、最澄から親鸞、道元、そして世阿弥や千利休まで、「心」の探求のために費やされてきた巨大なエネルギーの鼓動に心を澄ます教育であります。ところがこの第三の「心の教育」が、残念ながら今日ほとんどないがしろにされています。今日の大学教育においてはもちろん、小中高の学校教育においても、さきの「丁稚教育」的路線ばかりが追求されていて、この第三の位相に属する「人間教育」の基本がまったく顧られてはいないのです。
 もしも小渕首相および文部省当局が今後真剣に「教育改革」に取り組まれるおつもりならば、この第三の「心の教育」の位相にまず着目することから再出発すべきではないかと、私は思います。
 以上二点が、ご質問にたいする私の答えであります。ご熟考願えれば、まことに幸いであります。


山 下 泰 裕
(東海大学教授)

 今の子供の諸問題、とりわけ子供を巡る問題は、何も学校教育、家庭教育、地域教育だけの問題でなく、社会における価値観が反映されたものと思う。たとえば、今も、50年前も、あるいはそれ以前においても、この世に生を受けた赤ん坊は基本的に同じ状態だろう。その人間がどのように育つかは、その子を取り巻く環境に左右される。子供に責任があるのではなく、大人に責任があると言ってよい。
 昨今の社会風潮を見ると、行き過ぎた競争(受験)により、他人を蹴落とし自分が上に上がって行く。たくさん知識を詰め込んで良い中学、高校、大学へ進み、一流企業、又は官僚になれば幸せになれる。何よりも地位、権力、お金、物(家・車)が大切である、という価値観が支配的になっているように思われる。日本が戦後の厳しく貧しい時代から復興の為に取ってきた政策は基本的に間違っていなかったと思うが、反面そのひずみも大きくなっており、それが社会的に一番弱い子供たちに現れてきている。家庭内暴力、いじめ、登校拒否、自殺、学校崩壊等は大人社会の反映であり、価値観のゆがみから来ていると思うし、したがってそういった価値観の是正なくして、どこまで学校教育、家庭教育を改めることができるのか、はなはだ疑問である。後5年、10年たてばこのような子供たちが大人になっていく。いや、すでに20代の大人に、父親に、母親に、その兆候が現れている。
 今の教育はいかに知識を詰め込むかを重視するあまり、多面的な可能性を持つ子供たちを知識量だけで評価し、優劣を付けている。そして、社会もその物差しで若者を評価している。これは大きな問題である。教育で大切なことは、人を育むこと、その人の可能性を伸ばすことではないか。誰にもすばらしい面と、足りない面がある。全てにすばらしい人はいないし、全てに劣っている人もいない。その人の持つ素晴らしいところに光を当てれば人間は生き生きと輝き始める。そして、その輝き方は十人十色、決して知識量だけで人を評価、決めつけることなどできない。子供たちを、明るい輝く笑顔、生き生きとした姿、自然を愛し、他人を思いやる心、そして夢や希望にあふれる姿に戻す責任が、我々大人にはある。
 教育においてはやはり、『知』『徳』『体』をバランスよく育むことが大切である。現状はこのバランスが崩れており、『体』や『徳』が重要視されていない。特に『徳』の軽視は大きな問題であり、今の教育の大きな欠点だろう。また、この50年の教育の中で『徳』の欠落は我々大人にも大きく現われている。多くの大人が自分の良心に恥じる行動を自分の出世(決して幸せでない)や、企業等の組織のために、何のためらいもなく行っている。大人の世界の倫理観が正に欠けている。子どもが、こうした風潮の影響を受けないわけがない。大人は襟を正し、人間として「いかにいきるか」、「いかにあるべきか」、を自らに問い、しっかりとした思想、価値観に裏づけされた行動をとるべきであろう。この思想、価値観を養う教育が現在の教育の中に欠けており求められる。
 これまでの歴史を見ても明らかなように、かつて日本人は世界に誇るべき素晴らしい「心」をもっていた。生活は質素であっても、人間としての誇り、名誉、信頼を大切にし、先祖、自然を敬い、家族、地域を大切にするすばらしい思いやり、助け合いの心を持っていた。そして貧しい生活の中でも教育を非常に大切にしていた(この教育は決して知識を詰め込むものではなく、人を育くむもの)。その中で人間としての生き方、あり方を学び、高い思想、価値観が培われていった。そして、高き志、国を思う熱い気持ちを持つ若者が輩出していった。それが明治維新にも現われていた。
 私は、「人を育む」という意味においては何よりもまず私たちの社会の、つまり日本人の「心」を学ぶことが大切であると考える。その心を持った日本人であればこそ、世界の平和に貢献できるし、そして、そうであってこそ世界から信頼されるようになると思う。
 最後に、我々大人にとって心がけなければならない非常に大切なことの一つは、「次の時代に何を残すか」であると思う。その根本は正に「教育」にあると思う。以上、平素、考えていることを雑駁に述べたが、提言としてまとめてみると次のようになる。

1.教育の諸問題は社会のあり方(特に価値観)と深く関わっているので、社会全体のあり方(日本の進路・国のあり方)の中で論議し、方向性を決めてゆくべきだろう。

1.子どもの実態は大人社会の反映と思う。まず、反省すべきは大人の姿勢、価値観ではないだろうか。教育問題を論議する際には、このことを銘記すべきだと思う。

1.「自由」の概念には、「公共の福祉」の概念が欠かせない。勝手気ままな自由は許せないし、本来存在しない。このことを教育現場でしっかり教える体制を創ることが必要だろう。

1.教育に関しては、教師の情熱、力量が重要である。その意味で教員の資質向上プログラムに重点的に取り組んでもらいたい。

小渕総理の『教育改革国民会議』開催の考えに賛同し、心から成功を祈るものです。

※「人を育む」は、人間を創る、人物を創る、という意味で使用しました。