教育改革国民会議

第3回教育改革国民会議・議事概要

(日時) 平成12年4月25日(火)17時〜19時

(場所) 総理官邸大食堂

○各委員からの発表及び発言は以下のとおり。

[委員からの発表]

(江崎座長)
 本日の議題は、「戦後教育の総括−その2−戦後教育改革の理念と評価」としている。
 まず、梶田叡一委員、藤田英典委員のお二方から、15分ずつ戦後教育改革について発表していただくので、その後に皆様で議論いただきたい。

(梶田委員)
 敗戦直後の教育改革についておさらいしたい。今の教育制度の枠組みは、敗戦後、違った民族によって支配されていた占領下の6年間に作られた。伝統など大事なものは残していきたいとする日本側の提案とGHQの指令とのせめぎ合いの中で、修身の廃止や6−3−3−4制、教育基本法の制定、「教育勅語」の排除・失効等の改革が行われてきた。昭和24年くらいから日本側の意向が若干反映されるようになったものの、大枠は占領下の最初の3年間でできた。
 敗戦直後の教育改革を貫く理念そのものは、今でも評価できるが50年経って思わぬ問題を引き起こしていることにも着目しなければならない。
 @軍国主義から平和主義へということでは、国際的な関係を軍事的な面からも考えなければならない時代なのに、独善的一国平和主義になってしまっている。
 A全体主義から個人主義へということでは、日本文化が個を埋没させてしまいがちだったので、一つのショック療法として大切なことだったが、全体・協調・他人への感謝などを忘れてしまって、個人だけが独善的な形で突出するようになってしまった。個人主義に自己責任が伴っていない。
 B日本主義から国際主義へということでは、自民族中心主義(エスノセントリズム)からの脱却という面ではよかったが、伝統や先人の業績など日本を忘れ、また国際主義ということがアメリカモデルの無条件的な輸入になってしまっている。
 C国家神道体制から社会の非宗教化へという面では、宗教の自由が保障されたのはいいが、宗教を考えることが胡散臭い、という感覚がもたらされた。
 シンボリックな意味を持つ教育基本法についても考えなければならない。例えば第5条の男女共学規定などは現状と不適合。制定時は占領下であったことから、「日本」「国」「伝統」「祖国」「愛国心」はタブーであったが、個人の人格的完成のみでなく、共生・連帯・協働の精神についても強調する必要がある。人格的完成は、日本の伝統的価値観を次の世代に伝えていくことを基本としなければならない。

(藤田委員)
 制度改革を主として問題にしたい。臨教審以降15年間、教育システム全体について具体的制度改革が進められてきたにもかかわらず、様々な問題が起こっていると言われている。典型的な問題点は、「ゆとり」と「個性」を制度的に保障しようとする改革を行ってきたこと。80年代以降の諸外国の改革は「教育の再武装化」(学力向上、道徳再武装、コミュニティの再建等)であった。それに対して日本の改革は、「ゆとり」と「個性」をスローガンに掲げて選択・多様化・自由化を進めてきた。この「ゆとり」と「個性」を学校選択制、選択科目の多様化、入試の多様化、6年制中等学校、学校週5日制等の施策により制度的に保障することは、制度的な差別につながるということを改めて問い直す必要がある。
 また、学校週5日制、新しい学習指導要領では、教育の内容と時間を大幅に削減しており、学力・努力・学業態度の二極分化と多様化・低下を促進する可能性がある。加えて個性の多様化・個別化の促進は、共生という価値を軽視している。
 「ゆとり」には、@絶対時間の関数A能力・学力の関数Bその他(活動する場所の雰囲気や個人の意欲、鷹揚さ等の性格からもたらされるもの)、が考えられる。学校教育において目的とされる「ゆとり」は、能力・学力を高めることにより得られるもの。学校の時間を少なくして「ゆとり」が実現できるというロジックには非常に矛盾がある。
 「個性」についても、学校教育で目的とされる「個性」は、「能力的個性」である。「能力的個性」は、知識情報社会が高度になり、学校教育が高度になればなるほど、基礎的な能力の十分な高さの上に開花するもの。「人格的個性」や「嗜好的個性」には多様性が認められるので、ある種のタイプを良い個性として推奨する事は可能だが教育の目的とすることはできない。また、「尊厳的個性」は、教育の前提である。この15年間の学校教育は、「能力的な個性」を伸ばす、教育の水準を高めるような改革であったかという点で疑問。
 「生きる力」は、苦労し、努力し、挫折し、様々な経験を自らやっていくことで身に付くもの。その機会を豊かに与えるような改革をすべき。学校教育は何をしなければならないのか今一度考える必要がある。
 効率・平等・共生の価値は、制度的に保障することが可能であるが、「個性」「自己実現」という価値は、制度によって保障しようとすると差別的なものに変化してしまう危険性がある。学校や教育システムの中で、一人一人の個性を伸ばすことを考えることは必要だが、制度として保障することが本当に好ましいことなのかどうか考え直す必要がある。

[戦後教育改革についての委員からの発言]

(勝田委員)
 何らかの宗教的情操教育が必要と考えるが、教育基本法第9条第2項には、「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」としており、この文言は宗教教育について胡散臭い印象を与えている。人間を超える大いなる存在に対する畏敬、畏怖の念というものを取り戻す必要がある。宗教的情操の涵養については、基本法の改正で一番のポイントと考える。

(江崎座長)
 前回、日本人は貧しい時代の礼節はともかく、豊かな時代の教養がないという話が出たと思う。日本人は情操教育や教養教育を十分に持っていない。

(田中委員)
 教育基本法第9条には、宗教教育をしてはいけないとは書かれていない。宗教的情操についての理解がないことをはじめ、戦後教育の理念が望ましい方向から問題のある方向に展開した背景について、説明していただきたい。

(梶田委員)
 問題点としては、一つに、戦後教育のような理念を日本の文化の中で展開していくにあたって、千年、千五百年と古くから積み重ねてきた大事なものを十分に踏まえてこなかったことが原因。温故知新が重要。例えば「人権」という言葉一つ取ってみても、フランスの歴史の中で言われてきたものと日本の室町時代から表現されてきた人権意識は違う。日本は戦争に負けたため大事なものを全て流してしまった。
 二つに、豊かで便利になった時代には、あえて豊かさ便利さを超える価値を大事にしなければならないが、1960年代以降、一番低きに流されるような文化状況が強くなっている。
 三つに、百花斉放的な個の重視による良識無視の風潮。価値の多様化の悪い面が出ている。過去千年以上培ってきた日本人としての感性を再確認せず、理念だけが先走っている。豊かで便利になった社会で流され、目先のことしか考えなくなった。個の重視による悪い意味でのレッセフェールが起こっている。

(河合委員)
 基本法第9条には反対すべきことが書いてあるわけではない。「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」ということは、「特定の宗教のため」以外の宗教教育はしても良いということ。国民全体がそのように受け止めているとしたら問題だが条文自体はそれほど悪いわけではない。基本法の条文は大体良いことが書かれているが、生涯教育が抜け落ちている。第5条の男女共学は現状と少しずれている感じがする。

(勝田委員)
 「特定の宗教のため」以外の宗教教育はしてもよいとの解釈もできるが、「特定の宗教のための宗教教育その他」と書かれているため「宗教教育」そのものが胡散臭く見られている。昭和21年9月にもともと文部省が出した「教育基本法要項草案」にあった文言、つまり「宗派的教育」と変えたほうがよいのではないか。

(石原委員)
 戦後教育では、学校が全てを引き受けてきたが、これから学校週5日制となり、子どもが学校で過ごすのは一年間の4分の1だけとなる。しかしながら、現状では学校が何を引き受けるところなのか国民的なコンセンサスがない。加えて、家庭教育における親の、地域社会の、ひいては社会の大人の役割や責任が認識されていない。従来、学校が全てを引き受けてきた結果、歪みが出てきている。この会議では、社会全体で子どもを教育するという大人の責任や役割分担の在り方を明確にする必要がある。それが21世紀の学校教育を充実・活性化させる基本である。
 また、「ゆとり」と「個性」については、子どもに多忙感のあることが調査結果から明らかであり、現場としては必要という背景があった。

(江崎座長)
 学校の役割という点については、かつて知識・情報は、両親と学校・教師から得ていたが、最近の子どもには知識・情報を得るメディアが多くあることを感じている。

(藤田委員)
 学校外のメディアから摂取してくるものは子どもによって異なる。我々が問題とする道徳等に関してはメディアに期待できない。好ましい情報を自ら学び、摂取してくることと区別する必要がある。学校が何でも受け入れ過ぎているというが、家庭や社会の変化の中で、好ましい情報や道徳の伝達は学校にしか期待できない時代になっている。家庭や地域社会には期待できないので学校に期待を寄せるしかない。

(河上委員)
 30年前の教師には余裕があった。部活動一つとってみても生徒が自分たちでやっていた。1970年代以降に「生徒指導」という言葉が登場したあたりから学校が何でも引き受けざるをえない状況になってきている。決して好んで学校が引き受けてきたわけではない。学校がこの30、40年間何を引き受けてきたのか検証する必要があるのではないか。
 また、「ゆとり」「個性」についても、義務教育の学校が何を引き受けるべきか論議されないまま入ってきたため、義務教育の根本が崩れてしまったのではないか。

(クラーク委員)
 日本と外国の比較をするべき。アメリカやオーストラリアでもマスコミからの悪い影響は存在するが「援助交際」やひどい学級崩壊は存在しない。子どもは、地域スポーツや奉仕活動を通じて社会に出て社会性を育てることによりバランスをとっている。日本の子どもは社会との接点が少ない。悪い影響ばかり受けてしまっている。親と教師だけに期待するのは難しいので、社会が引き受ける教育の役割を考えるべき。

(田村委員)
 臨教審以降の日本の教育は「武装解除」だったという話だが、レーガン・サッチャーが学力向上のための改革を行ったのは、当時、国際的な比較によってアメリカ・イギリス両国の学力の低下が認識されたため。一方で臨教審以降の改革もユネスコをはじめとする国際的な教育改革を反映したもの。日本人が国際社会の中で生きて行く力をつけるためにも臨教審改革路線を進めていかなければならない。
 また、現状では学校が負担しきれなくなってきていることは明らか。名古屋の5千万円恐喝事件のようなひどい事件があったにもかかわらず、学校が何を引き受けるべきかという問題を議論するのはいかがなものか。あのようなひどい事件についてしっかりと議論し、これを踏まえて改革のための議論をすることが重要。

(森委員)
 学校週5日制時代では、学校が何をするのかという点だけではなく、家庭や地域社会においても何をすべきか議論し、3者の連携協力を考えるべき。その際、学校・家庭・地域社会について、それぞれ「できること」「できないこと」を考える必要がある。ただし、学校だけでも、家庭だけでも、地域だけでもできない、3者一体でやってもできないのが道徳教育ではないかと考えている。

(藤田委員)
 学校が「できること」「できないこと」を考えることはよいが、名古屋の5千万円恐喝事件では学校の責任を追求するという雰囲気にはなっていない。黒磯のナイフ殺人事件のときはマスコミも政策担当者も学校を追求した。アメリカではデンバーの銃乱射事件の時も学校を追求していない。社会に問題があるとして原因追及のための調査を行った。日本では同じような事件が起こった場合は、学校の責任にして学校を変えようとした。アメリカや欧米諸国は、家庭や社会には問題があり、学校に期待せざるを得ないため学校改革をした。臨教審改革では、カリキュラム等のグローバル化の中で変わらざるを得ないものは取り入れられている。制度や「ゆとり」で得た時間を子どもがどのように過ごすのかという点については、必ずしも臨教審改革は合理的ではなかった。
 また、アメリカや欧米諸国では、子どもがボランティア活動等を通じて社会について学ぶという面もあるが、現実には異なる面もあり、子どもの社会基盤がどうなっているのかについて的確な状況把握と対応をしなければならない。

(町村内閣総理大臣補佐官)
 黒磯のナイフ殺人事件の時には文部大臣をしており、全国の保護者に向けてアピールを出した。学校・家庭・社会で「できること」「できないこと」を明確にしてゆくことは大変重要であり、ほとんど「学校教育基本法」とも言える教育基本法を改める場合には、学校教育、家庭教育及び社会教育のそれぞれの役割を明確に規定することが必要と考えている。しかしながら、現実に今の家庭教育において、具体的に何をしたらよいのかという点は非常に難しい。

(河上委員)
 学校週5日制はかなり過激で革命的。学校の機能を外に任せることは必要だが、現実にこれを引き受けられる家庭・地域社会はない。問題を未然に防ぐために警官を増やす等の施策を行わなければならないのではないか。私自身は結局学校が引き受けるしかないと考える。

(江崎座長)
 1983年のアメリカの「Nation at Risk」(「危機に立つ国家」:教育の優秀性に関する全米審議会報告)は、学力向上一点張りで道徳教育は一切省みられていない。アメリカの公立学校では宗教・道徳は教えていないのではないか。

(木村委員)
 アメリカでは、大学で価値基準・価値観を教養として教えており、高等学校でも倫理観を教えている。教養教育を通して道徳教育を行っているのではないか。
 また、日本は学校に任せ過ぎている。自治体が親の教育をすることも一案である。

(大宅委員)
 子ども一人一人が何をやりたいのか考えさせないのが問題。自分で考えるチャンスをたくさん与え、その選択の責任は自分自身でとらせないといけない。
 また、今の学校に任せることはできないが、家庭や個人に何をさせるのかを考えなければならない。

(浅利委員)
 この会議と世の中一般に距離があってはいけない。結論としての制度改革や法律改正は答申できるが、社会的影響を与えるためにはPR活動をしなければならない。そのためにはマスコミを含めて公開で議論をして世の中にアピールする必要がある。例えば深刻な教育問題をドラマにしてもらってもいいし、雑誌で特集を組むというのも有り難い。分科会のなかでマスコミと接触する部分をつくり、世の中にこの会議の議論を出していく必要もある。

(梶田委員)
 学校は、「ゆとり」「個性」「生きる力」について、何をしていいかわからなくなっていることが忙しくなっている原因。家庭や親・社会がしっかりしなくてはいけないということを言ってみても意味がない。与件を嘆いてもしょうがない。変数を探っていく必要がある。マスコミを通じてPRすることも一案である。

(町村内閣総理大臣補佐官)
 臨教審以降の「ゆとり」教育がまずかったのではないかという点は、この会議で意見が分れているところだが、どのように考えるか。

(勝田委員)
 「ゆとり」教育が学力低下を導くことを危惧している。「ゆとり」教育は、「これ以上頑張らなくても良くなった」という先進国に追いついた国の豊かさの産物。暗記、詰め込みの教育は感心しないけれども、それをやめて芸術を学んでおれば、創造性が豊かになるとは考えられない。創造性があるとされるアメリカで一流の大学の学生はものすごく勉強している。

(河合委員)
 「ゆとり」教育は良いと思うが、「ゆるみ」教育になってしまうことが問題。「ゆとり」を「ゆるみ」にさせないようにしなければならない。反動でかつてのような固い教育に戻ってしまうことを危惧している。

(金子委員)
 制度を作ることによって、創造性を高める等、何らかの結論を得ようとすることは難しいのではないか。、個人が自発的に参加することにより、地域の力を引き出すような環境を作ることにお金を使うことを考えるべき。

(上島委員)
 二種類の「「ゆとり」教育」が考えられる。一つは学力低下、もう一つは教え方を充実すること。例えば、これまで10時間かけて教えていたものを5時間で教えるというように教え方に「ゆとり」を持たせること。後者には賛成したい。

(森委員)
 「ゆとり」と「充実」はセットにすることが重要。

(江崎座長)
 戦後教育改革についての議論はこのぐらいにして、次は今後の会議の運営について検討いただきたい。前回の会議では、3つ程度の分科会を設け、各委員には、それぞれ分科会に所属していただきたい旨を申し上げた。分科会の審議事項等について、皆様の御意見を踏まえた案をお届けし、いろいろと御意見を伺った。本日は、これを整理した「教育改革国民会議の審議事項(座長案)」を資料5として配布しているので、この座長案について御意見を伺いたい。分科会の名称、検討事項、審議内容等について発言をお願いする。

[会議の今後の運営についての委員からの発言]

(浅利委員)
 3つの分科会を置くこと、及び審議内容はこれでもいいが、第1分科会の名称はもっと具体的なものとしてほしい。比較的美しい言葉で書かれているが、もっとラジカルな表現にすべき。名称の決定は分科会に任せてはどうか。

(河上委員)
 第1分科会を希望している。社会性を持たない子どもについて議論したいと思うが、原案の名称を見ると第1分科会ではちょっと場違いかもしれないという印象を持った。

(黒田委員)
 学校の位置づけ、「ゆとり」とは何かということなど、分科会に分かれ具体的制度の議論に入る前に、会議として共通認識を持つべきではないか。

(江崎座長)
 その点を配慮して、分科会に入る前に、5月にもう一度、全体会を開催することとしている。

(浅利委員)
 誰でも参加可能な中核的な会を作って、本質的な議論をするようなやり方を考えてもよいのではないか。

(森委員)
 栃木県や大宮市で行われている「教育の日」など、地方自治体で先行している施策について、国としてどうするのか議論する必要がある。

(江崎座長)
 分科会の議論は全体会にフィードバックする。8人程度の3つの分科会の他に、中核的な会を作るのは技術的に難しいのではないか。

(河上委員)
 義務教育の役割をはっきりさせたい。学校に権限がまったくないにもかかわらず、国や社会から強制的な力を発揮することを期待されている。

(町村内閣総理補佐官)
 学校の役割は第2分科会に、家庭教育の役割は第1分科会にという具合に分散している。議論が統合できないということであれば、皆さんの御意見をもう一度お預かりして江崎座長と一緒に考えたい。両者を第1分科会に統合することも一案。全体会で議論することも必要かもしれない。

(江崎座長)
 重なり合う部分が生じてしまうところがあるが、一カ所に集中するのではなく、できるだけ各分科会に分散したい。

(金子委員)
 具体的テーマごとに分けるよりも、@今、何故このような状態になってしまったのか、といったそもそも論A具体的な枠組み・制度B創造性をのばすための方法、というように機能・性格で分科会を分けたほうが良いのではないか。テーマは重なり合うが、あまりきっちり分けない方が良い。

(浅利委員)
 教育専門家のあいだで、芸術は軟派なものと考える方が比較的多いが、芸術は子どもたちに働きかけ感動させる力があることを理解していただきたい。

(クラーク委員)
 「創造性」は、学校で得られるもの、養成できるものではない。第3分科会の名称は、「充実した教育」というようにしてはどうか。

(河合委員)
 「創造性」の高い人材の育成は、どうしても考える必要のある問題。どこかの分科会で取り上げていただきたい。

(木村委員)
 「創造性」を発揮する人は2通りいる。エジソンやアインシュタインは自ら創造ができるタイプ。もう一方は非常に広範な知識を持ち、これを統合することにより「創造性」を発揮するタイプ。教育で養成できるのは後者。日本ではその教育がうまくいっていない。

(石原委員)
 市町村の学校設置は義務づけられているので、「市町村の裁量権限の自由化」を「○学校設置の自由化」の枠組みに入れるのは間違っているのではないか。

(江崎座長)
 各分科会の審議事項については、分科会での審議が始まる前に、全体会としても一応の検討を行いたい。次回の全体会で分科会の審議事項について議論を行っておくことにより、今後の分科会審議の参考としたい。
 なお、次回の日程については、5月11日に開催することを予定しているので、よろしくお願いします。

(町村内閣総理大臣補佐官)
 各分科会の検討事項、審議内容、委員の所属、各分科会の主査等を座長と企画委員会の相談の上で案を作成して提案したい。また、次回は、会議としての共通認識を持つための議論をするとともに、どなたかに臨教審改革のコンセプトや実体論について発表をお願いしたい。

[文責は教育改革国民会議担当室]

(注)本議事概要の内容については、今後変更の可能性があります。