教育改革国民会議

第3回教育改革国民会議 議事録



【江崎座長】 ただいまから第3回教育改革国民会議を開催させていただきます。

 委員の皆様方におかれましては、御多忙のところ御出席賜りまして、誠にありがとうございます。

 森総理は、ただいま国会が行われております。御都合がよろしければ、こちらに御出席いただけると伺っております。

 本日は、まず、前回に引き続き戦後教育改革について御議論していただきたいと思っております。

 今日の発表者は、お二人いらっしゃいまして、一人は梶田叡一委員、もう一方は、藤田英典委員でございます。15分ずつぐらいお話をしていただく予定でおります。

 その後、この会議の運営の在り方について御検討していただくことになっておりますから、よろしくお願いいたします。

 本日の配布資料は1から6までございますので、御確認いただければ幸いだと思います。資料1は、本日の「議事次第」でございます。資料2は、今日お話いただく梶田先生のアブストラクトでございます。資料3は、今日お話していただく藤田先生のアブストラクトでございます。資料4は、これは実はこの前、申し上げたのですが、お帰りになるときに申し上げて、十分徹底しなかったと思うのですが、座長を補佐して助言するための企画委員会を設置したいという、その件でございます。後からもう一回申し上げます。資料5、「教育改革国民会議の審議事項(座長案)」でございます。資料6は、「教育改革国民会議第1回議事録」でございます。

 以上、皆様お受け取りかと思います。

 議事に入ります前に、運営につきまして、二つの点を御説明したいと思います。

 一つは、分科会についてでございます。前回の会議におきまして、私から、委員の皆様の発言の機会を多くし、より濃密な議論をしていただくため三つの分科会を設けることを提案させていただきました。

 これまで皆様からいただきました御意見を踏まえまして、私なりの分科会についての案を皆様方にお送りしたところでございます。皆様からいろいろ御意見をいただいており、その意見を踏まえ修正を加えました案を、本日お配りしたもので、後ほど時間をとりまして御検討いただきたいと思います。これが座長案、先ほどの資料5でございます。

 それから、分科会を始める前にもう一回全体会を開催し、審議事項について全体会として論議したいと思います。この件につきましては、後ほどお諮りいたします。

 二つ目は、先ほど申しました企画委員会の設置についてでございます。これは資料4でございますが、会議の運営について、座長である私の相談に乗っていただくため、企画委員会をつくる。メンバーとしてはここに書いてございますように、副座長である牛尾、木村両委員、金子、田村、森委員、私を含めて計6人で構成したいと思います。この企画委員会、御了承いただければ幸いだと思います。

 それでは、企画委員会について御了解いただいたものといたしますが、よろしゅうございましょうか。

(「異議なし」の声あり)

【江崎座長】 それでは、議事に入らせていただきます。

 今回は、まず、前回に引き続きまして戦後教育改革について御議論していただきたいと思います。

 本日の議題は「戦後教育の総括−その2−戦後教育改革の理念と評価」としておりますが、梶田叡一委員と藤田英典委員のお二人から、15分ずつ発表していただきます。

 それでは、梶田叡一委員よろしくお願いします。

【梶田委員】 それでは、失礼いたします。私に与えられた課題は、敗戦直後の教育改革について、おさらいをみんなでする。そのためのポイントを一応出すようにと、こういうことでありました。

 御承知のように、昭和20年、日本は敗戦をいたしまして、占領されたわけですね。これは日本の歴史になかったことです。全部が違った民族によってコントロールされた。そういう時期が6年間続いたわけです。今の教育の枠組みはその6年間の占領の中で、こういう言葉は語弊があるかもしれませんが、異民族によって支配されていたときにつくられた、こういう基本構造を持っております。したがって、最後は全てGHQの了承を得なければ改革はできなかった。逆に言うと、日本側から出てきたいろんな改革案もGHQによって修正されて今のものになっていると。

 いずれにせよ、今の教育制度の在り方に問題があるにせよ、ないにせよ、今の教育制度そのものが、そういう6年間の占領下においてつくられたということをお互いに思い起こしたいと思います。

 何があったかというのを1ページ目に挙げておきました。日本側が敗戦前までのいろんなことを継続したいということで出す。それに対してGHQが、それを抜本的に変えろという指令を出すという、このせめぎ合いの中でいろんなことが行われてきたわけです。

 そういう中で、理念的に言いますと、軍国主義、全体主義、日本主義、国家神道体制が否定されて、新しい考え方にしなければいけない、こういうふうにされたわけです。具体的に言いますと、例えば修身がなくなる。地理や国史の中身を大幅に変える。御承知の墨塗りというのがあったわけですけれども、そして義務教育も、6・3制という9年間のものになる。ですから、このとき初めて今の6・3・3・4というのができたわけです。大学も昔の大学と全く違った形でいわゆる新制大学ができてきた。私どもは「新・新制大学」だと言っているんですけれども、当時、専門学校等々が全部昇格して大学になりました。これはアメリカンモデルで、一県に一つの国立大学をつくっていくという旧来の日本の発想になかった形での、ある意味では高等教育の普及を図った、別の言い方では高等教育ということの意味合いを変えていった、そういうことがあります。

 それから、非常に重要なのが、1948年(昭和23年)、敗戦から3年近く経ったときに、はっきりとした形で、教育勅語を、衆議院では「排除」という言葉を使っていたと思います。参議院では「失効」、そういう決議をしております。その1年前、つまり昭和22年に「教育基本法」ができています。

 こういうことで、もう一度申し上げますが、そういうせめぎ合いの中で、日本の当局としては、大事なものは残していきたいということで、戦いに負けたわけですから、軍国主義的なものは全部やめなければいけないけれども、伝統だとかそういうようなことを言いながらやってきたのが全部GHQに入れられないまま今の形になってきた、こういう流れがあります。

 とはいえ、昭和24年ぐらいから、若干せめぎ合いの中で日本側の声が強くなってきまして、20年から24年でやったことの一部が修正されて、対日平和条約・独立の回復に至っているという面があります。しかし大枠は、もう一度言いますけれども、占領下の最初の3年間にできたということがあります。

 2ページ目を見ていただきますと、その理念として何があったか。私は理念そのものとしては非常に日本の歴史の中で評価すべき大事なものだったと思っております。四点一応私なりにまとめてみました。「軍国主義から平和主義へ」、「全体主義から個人主義へ」、「日本主義から国際主義へ」、「国家神道体制から社会の非宗教化へ」、それぞれ意味があったと思いますが、ただ、これが50年経って、実はそれが思わぬとんでもない問題を引き起こしてしまっているという面があります。

 1 軍国主義から平和主義へ

 これも語弊がありますが、「独善的一国平和主義」という言葉が使われますけれども、日本で平和、平和と言っておけば平和が実現するかのような、東西の冷戦の中で二つのパワーがせめぎ合っているときには、その中で日本はバランスをとっていけたでしょうけれども、こういう時代になったら、いろんな国際的な関係を軍事的な面からも考えていかなければいけないのですが、そういう思考が50年間欠けてしまったという面が一つあるのではないか。ただし、最初からこう思っていたとは思いませんけれども、そういうまずい結果が50年経って現れているのではないか。

 2 全体主義から個人主義へ

 滅私奉公も大事なんですけれども、滅私だけではなくて、「私」というのも大事にしなければいけないというのが戦後の一つの流れだと思います。今いらっしゃらないから言えるのでしょうけれども(笑)。そのこと自体は、日本の文化というのがなかなか埋没させてしまうようなところがありましたから、一つのショック療法として大切なことだったと思いますけれども、全体とか協調、他人に対する感謝、そういう手のつなぎ合いの面を忘れてしまって、個人だけが、しかも独善的な形で突出するような、そういうことを50年にして生んでしまったのではないか。例えば「人に迷惑かけなければ何やってもいい」とか、「自分で責任をとるから親も教師も口出しするな」、これは援助交際をやっている女の子がみんな言うことなんです。だから親も言うな、教師も言うなと。私のことは私が責任とるのだからというのが、いわゆる援交をやっている人たちの言い分ですね。個人主義というものが自己責任を伴うはずなのに、そのこと自体がおかしくなった。

 3 日本主義から国際主義へ

 これもエスノセントリズム(自民族中心主義)、日本だけがすばらしいというところから抜け出したのは良かったと思いますけれども、しかし日本を忘れてしまったという、50年したら、そういうまずい点が出てきました。御承知のように、教育基本法の前文に、もとの案では「伝統を尊重し」というのがあったと言われておりますが、これはGHQに削られました。ですから伝統、先人の業績、そういうことは一切抜きになって今に至っております。国際主義というのが、アジア、アフリカからラテン・アメリカをにらんだ国際主義ではないですね。アメリカモデルの国際主義なんです。“コカ・コーライゼーション”とよく言われますけれども、コカ・コーラを飲んでハンバーガーを食べるのが国際的になったかのような浅薄な国際主義というか、アメリカンモデルの無条件的な輸入というのが50年で出てきてしまったのではないか。

 4 国家神道体制から社会の非宗教化へ

 昭和10年代には国家神道体制という大変なものがあったわけです。そこから開放された神道も一つの宗教として、いわゆる国民の思想信条の自由が保障されたのはいいのですけれども、いわゆるセキュラライゼーションという宗教というものを考えることが何か疎ましいというか、宗教というのはどこかうさん臭い、そういう感覚がもたらされてしまったのではないか。ですから、これも後で教育基本法を読んでいただきますと、宗教のところは、私はああいう書き方でいいのかと思うような書き方になっております。

 こういう四つ。繰り返しますが、理念としては、当時間違いではなかったと思うのですけれども、これが今50年経って何を生んだかということに着目しなければいけないだろうと思います。

 私は、教育基本法を論ずるとか論じないとか、そういうことではありませんが、そういう中で、一つのシンボリックな意味を持つのが教育基本法であろうと思います。教育勅語ができて55年経ってなくなりました。教育基本法は既に53年経っております。したがって、現状況、今の実際の状況との不適合が非常に目立つものになっております。例えば、第五条(男女共学)、「男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。」という規定が麗々しくあります。しかし、今むしろ特別な場合には別学も認めなくてはいけないと書くべき状況になっているんですね。今どんどん女子校や女子大学が共学になっていくご時世です。ほとんど別学ではなくなってきました。つまり状況そのものとして不適合が起こっているのではないか。

 2番目に、占領下であったため「日本」、「国」、「伝統」、ましてや「祖国」、「愛国心」というのはタブーだったわけです。

 3番目に、個人の人格的完成、これはとても大事なことですけれども、共生・連帯・協働、今よく言われておりますけれども、これの精神に基づく記述は私は本当に薄いだろうと思っております。共生ということは今こそ本当は必要なのにと思ったりします。

 4番目に、人格的完成、これは何もなしで、例えばカントやそういうものを読んでも人格的完成になるわけはないのです。日本の古くから何を大事にして、どういうことをやってきたかということを十分に次の世代に伝えていかなければ、小林秀雄の『本居宣長』をお読みになれば、私と同じようなお気持ちになられるのではないか、私はそんなふうに思ったりいたします。

 今日はくれぐれもオーバーしないようにと、江崎座長に言われております。ちょうど15分です。

【江崎座長】 大変ありがとうございました。特に時間を守っていただきまして。

 それでは、いろいろ御議論もあるかと思いますが、引き続きまして、もうお一人、藤田委員に話していただいて、その後で御議論いただきたいと思います。それでは、藤田委員よろしくお願いします。

【藤田委員】 それでは、お手元の資料をご覧いただきたいと思いますが、非常に盛りだくさんに書いてしまいました。とてもこれを全部お話するわけにいきませんので、参考資料として後でまたご覧いただければと思います。しかし戦後教育の総括をするということでありますから、戦後50年、少なくともこういう制度的変化があったということを、私なりに重要だと思うことをピックアップし、アメリカ、イギリスとの比較で最初のページに表にしておきました。

 こういう50年の総括をするという場合、あるいは50年に限らず過去を総括するという場合、さまざまの出来事をどのような視点からピックアップし、どのように解釈するかという点で多様な見方があり得ることは言うまでもありません。ここにまとめましたのは、そういう多様な見方のうちの一つだということを、最初に確認しておきたいと思います。

 それから、表中には、例えば(平等主義)、(能力主義)、(人材形成)といった言葉を括弧に入れて示してありますが、それらは、教育の基本的な組織原理として重要と考えられるものです。教育の基本的な機能は、人間の形成と文化社会の再生産にあります。それに加えて、現代社会では、学校は子どもたちにとって基本的な生活の場になっており、また、現在の社会の仕組みは学校を抜きにしては成り立たないものになっています。こういった点を基本的な前提にするなら、教育改革のあゆみを検討する場合、その有り様がどう変わってきたかということに注目する必要があります。そのようなわけで、その基本的な組織原理や機能や構造的特質との関連で何らかの重要な変化をもたらしたと思われる事項を中心にピックアップしたつもりであります。

 それから、括弧内の言葉もそうですが、教育の組織原理としては四つの価値が重要だと考え、その価値に関わる側面を中心に注釈的なコメントを付けてあります。その四つの価値とは、「効率」と「平等」と「自己実現」と「共生」です。「効率」については、人間形成という点でも経済社会の発展という点でも、教育は基本的に効率的でなければいけません。もう一方で、そうした教育の機会は「平等」でなければいけません。それから、人格形成に密接に関連することですが、一人ひとりの個性や「自己実現」というものが尊重され達成されるものでなければいけません。さらには、「共生」、共に生きるという価値が基本的なところで担保されていなければいけません。そのようなわけで、これら四つの価値が、教育の制度改革や変化のなかでどう実現されてきたか、あるいはどう歪められてきたかということを中心にコメントを付けたつもりです。

 ところで、梶田先生は、戦後改革とその後の変化について、その理念的な側面を中心にお話されたと思いますが、私に与えられましたテーマは、主として四六答申以降、特に臨教審以降の改革を中心に検討するということでしたので、70年代以降の改革と変化を主に制度改革に注目して検討したいと思います。と申しますのも、制度がどのように変わるかということは、人々の意識や行動、教育現場の有り様や教師の実践を枠付け変えていくからであります。

 周知のように、臨教審以降の改革は、「ゆとり」と「個性」をスローガンに掲げて進められてきました。その一連の改革は、「第三の教育改革」と言われるほどに重大なものだったと思います。この「第三の教育改革」という言葉自体は四六答申のときに既に使われていましたが、とにかく、臨教審以降、この15年ほどの改革は、まさしく日本の教育の歴史における「第三の改革」と言われるだけの内実を備えてきたと思います。ただし、私自身は、その改革の多くに対して批判的な意見を述べてきました。

 とにかく、表の右側の欄の80年代のところに書いてありますように、例えば大学審議会、生涯学習審議会が設置され、それらの審議会に加えて、従前からある中教審・教養審・教科審等におきまして、諮問された様々な課題について検討され、その答申に基づいて具体的な制度改革が進められてきました。例えば、高校での総合学科・単位制高校の導入、学校五日制の導入、さらにはその完全実施(2002年から)、6年制中等学校の導入、大学設置基準の大綱化とそれに伴う大学の改革、大学入試の多様化、大学院の拡充・多様化等々、様々な改革が進められてきました。いずれも重大な制度改革ですが、それはまさしく、明治の初めと第2次大戦後の改革に続く、第三の改革と言っていいものだと思います。

 そういう重大な改革が進んできたわけですが、そのほとんどは臨教審で取り上げられ、そして、それらを具体化するためにも、第14期中教審では、新しい時代に対応する教育制度の改革について審議されましたし、並行して生涯学習社会では、どのように制度的に組織されるべきかということも議論されました。第16期中教審では心の教育の在り方が議論されました。さらに第17期中教審では、初等・中等教育と高等教育の接続関係が議論されました。つまり教育システム全体について、これまでの15年間様々に議論され、そして適切と判断された改革が進められてきたわけであります。

 しかし、それにも関わらず、日本の教育や青少年の問題状況は改善したとは見られていません。先ほどの梶田先生のお話にもありましたような問題、あるいは前回のこの会議で様々に議論された問題が指摘され、なんとかしなければいけないと言われています。例えば、学級崩壊や青少年の暴力・犯罪が重大な問題として注目されるようになり、道徳性や社会性の問題、共生という問題など、改めて考え直す必要があると言われています。

 そうしますと、これまで進められてきた改革、特に臨教審以降の改革は一体何だったのかということになります。それは何を達成し、何を達成しなかったのか。「第三の改革」と言われるほどの重大な制度改革を進めてきたのに、なぜ事態は改善していないのか。私は、臨教審以降の改革は、部分的には必要かつ適切な改革だったと言えるものもありますが、根本的なところで間違った改革を進めてきたと考えています。その典型的な問題は、「ゆとり」と「個性」を制度的に保障しようとしたことにあります。

 お手元のレジュメの2ページの真ん中あたりをご覧いただければと思いますが、そこに「臨教審以降の教育改革の特徴と問題点」が書かれています。前々回の会合でも申し上げましたが、諸外国のこの15年ほどの改革、1980年代以降の改革は、教育の「再武装化」と言ってもいいようなものでした。学力の向上、道徳の再武装、コミュニティの再建というようなことを明確な目標として掲げて改革が進められてきました。

 それに対して、日本のこの15年間の改革は、「ゆとり」と「個性」というスローガンを掲げ、選択・多様化・自由化を基調としたものでした。ゆとりや個性を制度的に保障しようとして、選択科目の多様化、入試の多様化、学校五日制の導入、6年制中等学校の導入などの改革を進めてきました。さらに、その延長線上で、学校五日制の完全実施が決められ、学校選択制も広まる気配が強まっています。つまり、こういう制度改革をすれば「ゆとり」や「個性」が実現されると考えてきたわけです。しかし、この多くは制度的な差別につながっていく可能性の大きい改革です。また、これまでの経験からも明らかなように、いじめや学級崩壊も、青少年の暴力・犯罪も、社会性・道徳性の問題も、こうした改革を進めたからといって改善されるというものではありません。つまり、一連の改革は総じて、指摘されていた問題の解決という点で合理的なものではなかったということです。

 さらに、学校五日制の完全実施に伴って2002年から実施されます新しい学習指導要領では、教育の内容と時間が大幅に削減されることになっていますが、そうなると、学力・努力・学業態度の二極分化と多様化・低下がさらに進む可能性があります。もちろん、実際にそうなると断言できるわけではありませんが、現に学校五日制が実施されて5年ほど経つわけですが、それ以降、特に中学校の先生方を中心にして、学力の二極分化が進んでいる、学力の下位層での多様化・低下が進んできたということが指摘されています。つまり、「効率」という価値が非常に軽視されているということです。

 「共生」という価値も同様に軽視されてきました。一連の改革は、個性を制度的に保障しようとして、教育の多様化・個別化を進めてきましたが、それは「共生」という価値の制度的基盤を崩していく可能性があります。一連の改革は、「心の教育」や社会性の形成が重要だと言いながら、「共生」という価値をどのように重視し、制度改革に盛り込もうとしてきたのかという点で、非常に疑問があると言わざるを得ないのであります。

 ここで、この15年間、繰り返し言われてきた「ゆとり」というスローガンについて考えてみたいと思います。「ゆとり」とは一体何なのか。それは絶対時間の関数であります。また、能力・学力の関数でもあります。絶対的な時間が多ければゆとりが生まれます。力のある人はゆとりを持って事に当たることができます。加えて、それは活動する場所が持っているリズムや雰囲気にも左右されます。さらには、個々人がその活動なり時間の過ごし方にどのように前向きに関わっているかということや、個々人の持っている鷹揚さのようなものも、ゆとりを生み出す重要な要素になると思います。

 これらの要素のうち、学校教育が直接の目的とすべきものは、能力・学力です。それを高めればゆとりが生まれることになります。ところが、これまでの改革はこの部分を軽視してきました。学力そのものを高めようとするよりも、学習の内容と時間を削減するという改革を進めています。学校・教室のリズムや雰囲気も子供たちの学業への構えも、その改善を直接図ろうとするのでなく、学習の個別化・多様化や選択制を進めればよくなると考えているようです。それで「ゆとり」が実現できるとどうして言えるのか、まったく不可解だと言わざるをえません。

 「個性」についても同様のことが言えます。先ほどの梶田先生のお話にもありましたように、一連の改革論議では「個性の重視」や「人格の尊重」ということが繰り返し言われてきました。このこと自体はもちろん大切なことであり、私たちの社会が進歩したことの証しでもあると言えます。しかし、それにしても、教育の目的、教育改革の目的として掲げるべき「個性」とは一体何なのか。これは今一度考えてみる必要のある問題です。

 ここでは、それを「尊厳的個性」、「能力的個性」、「人格的個性」、「嗜好的個性」という四つの側面に分けてみました。

 「尊厳的個性」というのは、一人ひとりの子どもがそれぞれ固有の尊厳的存在として尊重されるに値する存在だという意味での個性です。したがって、これは教育の前提とすべきものであって目的とするようなものではありません。「能力的個性」というのは、何をどのように行うことができるか、という側面での一人ひとりの子どもの力量・特徴のことです。知識・技能がその中心的な要素であることは言うまでもありません。これこそが教育が本来目的とすべき「個性」です。しかし、この個性は、知識・情報社会が高度になればなるほど、基礎的な能力の十分な高さの上に開花するものです。それに対して「人格的個性」というのは、人格・パーソナリティーや人間性・社会性などの側面での特徴を指しています。これは、一面では人それぞれに多様であり、どういう人格になるべきだなどと学校教育が押し付けるようなものではありません。しかし、もう一面では、人間性・社会性などについてある種の望ましさが思い描かれていることも事実であり、学校教育においても、その形成を支援することが期待されています。したがって、社会的な美徳とされているものを伝えることや個々の教師が理想を語ることは重要ですが、それ以上の何かを教育の目的として掲げることには無理があると思います。むしろ人格的個性というのは、教育の結果として形成されるものであり、その豊かで多様な開花を尊重することが重要なのだと考えるわけです。他方、「嗜好的個性」は、様々な生活の仕方・ライフスタイル・好みなどにおける個性を指しています。これは、人格的個性と同様、人さまざまであり、教育が具体的に伸ばそうとして何か特別にカリキュラムを組んでやるようなことだとは私には思えません。

 以上の区別がそれなりの妥当性を持っているとするなら、学校教育で重視すべき「個性」、カリキュラムに組み込むべき「個性」の基本は、「能力的個性」ということになると思います。この個性は、私たちの社会の文化や活動の多様性に対応して多様でありえますが、基本的には、学力・知識・技能・身体的能力など、能力といわれるものの水準を高めてこそ、その延長線上に開花するものではないでしょうか。他方、それ以外の個性は、尊厳的な個性を含めて、教育の前提であると同時に、同じことをやっても一人ひとりが違った個性を育んでしまう、そういうものだということを確認すること、そして、その育んだ多様な個性を称賛し合うこと、受け入れ認め合うことが重要なのではないでしょうか。このように考えますなら、この15年間の教育改革は、この能力的個性を本当に伸ばすような改革をしてきたのだろうか、人格的個性や嗜好的個性による教育機会の差別化を図ろうとしてきたのではないのか、といった点で、疑問があると言わざるを得ないのです。

 「創造性」、「生きる力」についても同様のことが言えます。それは非常に聞こえのいい言葉ですが、その意味内容はまったく曖昧なままに改革が進められてきたのではないでしょうか。むろん私はそれを伸ばすことに反対というわけではありません。しかし、それは能力や努力や苦労・挫折の経験なくして身につくものだとは考えられません。そうした側面を軽視して、本当に創造性や生きる力が身につくのかということを、いま一度考え直す必要があると思います。もちろん軍隊式に強制してやらせるような時代でもなければ、それが好ましいなどと考えているわけでもありません。しかし、能力も生きる力も、苦労し努力し、様々な経験を自ら積んでいくことで身につくものだとするなら、その機会を豊かにするような改革をすべきだと思うわけであります。

 これまでの改革の文書には聞こえのいい美辞麗句が並んでいますが、実際に進められてきた制度改革は、それらの点で非常に疑問の多いものだと私には思えるわけであります。

 与えられた時間も残り少なくなりましたので、最後にまとめとして、教育改革を進める際に考慮すべき基本的な理念ないし価値について確認しておきたいと思います。最初にも言及したことですが、3.の1)で書いてありますように、私は、「効率」・「平等」・「共生」・「自己実現」という四つの価値が重要だと考えています。教育は個人の成長という点でも、経済社会や文化社会の発展という点でも基本的に効率的(有効)なものでなければなりません。つまり、「効率」という価値をおろそかにすべきではないということです。これはもちろんエリート教育だけでなく、全ての子どもの教育に言えることであります。

 「平等」ですが、これも制度的に保障することが可能な価値、制度的に保障すべき価値であります。この場合の平等が「機会の平等」であることは言うまでもありません。

 「共生」ということも、制度の在り方や、生活の場、学習の場がどのように組織されているかということに左右されますから、この価値も、制度的・組織的に保障していくべきものです。差別的・分断的な制度や組織づくりをすべきでないということです。

 他方、「個性」や「自己実現」という価値は、制度によって保障できるものではありません。抑圧的な制度はこの価値の実現の障害になりますから、変えていく必要がありますが、その積極的な実現を制度によって保障しようとすると、途端にその制度は差別的なものに転化する危険性があります。この点で私は、臨教審以降の改革には重大な問題があると考えています。一人ひとりの個性を伸ばすことはもちろん重要なのですが、それは、6年制中等学校や学校選択制といった制度改革ではなくて、学校運営の仕方やカリキュラムや教育実践の在り方を変えることでこそ、対処すべき課題だと思います。学校の開放性・許容性・弾力性を高めることによってこそ、その実現可能性も高まっていくものだと思います。この点ををいま一度考える必要があるのではないかということを申し上げて終わりにしたいと思います。

 レジメには他にもいろいろ書いてあります。言いたいことは山ほどあるのですけれども、時間を守って、ここで終わりにさせていただきます。

【江崎座長】 どうもありがとうございました。今日は7時まで予定しておりますが、これから、今のお二人がお話になった戦後の教育改革について御議論していただければ幸いです。それから、あと残った時間を、一番最初に申しましたように、これからの会議をどういうふうに運営していくかということにつきまして、皆さんの御意見を賜りたい、そう考えておりますから、よろしくお願いします。皆さん自由に発言してくださったらいいのでございますが、この前、発言されなかった方がいらっしゃると思いますが、そういう方々もどうか発言していただければ幸いかと思います。それでは、どなたか、今のお二人の発言についてコメント、御質問あれば。

【勝田委員】 この前、私発言しちゃったのですが。

【江崎座長】 もちろん構いません(笑)。できるだけ、私は皆さんが発言されるために、この前、発言されなかった方も大いに発言してくださいと、こう申しております。

【勝田委員】 私はいつもきっかけをつくっているだけなんです。藤田先生も、私はいろいろ意見がございますけれども、同感するところが多いです。梶田先生も基本的には私と同じお考えだなと、そう思いながら拝聴したんです。

 教育基本法の問題に関しましては、まだいろいろじっくり考えなければならない点があると思います。しかし、できるだけ短い時間でお話しようというので、まず最初は第九条、ここに「宗教教育」という文言がございますね。そこから切り込んでみようと思っているんです。私は結論的に申しますと、「宗教的情操」の教育の必要性をうたうことはできないか、そういうことをかねてから考えているわけです。第九条を見ますと、要するに「宗教教育」というものに関して、それをうさん臭いというか、そういう類のインプリケーションがあるんですね。“宗派的教育”というのだったら、私は問題ないと思いますよ。公立学校は「宗派的教育と活動」をしてはならない。それが「特定の宗教教育」という文言にGHQの介入によって変えられたのですから、宗教はうさん臭いというか、これに関わってくると、宗教は狂信を生み出すと言わんばかりの含意がある。そこで宗教を敬して遠ざけるという方向になってくると思います。私は先ほど言いましたように、“宗教的情操の教育”というものをここで考えたらどうだろうかなと、文言の上でもそういうふうな表現にした方がよいと思うのです。

 できるだけ短くお話ししようと思いますが、前文や第一条の中で、いろいろ美しいことが書かれていますが、例えば、この中で「個人の尊厳」という言葉が出てきます。私はかねてから思っているんですけど、一体人間はなぜ尊厳に値するのでしょうか。今思い出したのは、ちょうど150 〜160 年前に、マルクスと同時代人ですが、スペインにドノソ・コルテスという思想家がおりました。ドノソ・コルテスはこう言ったのです。彼はカトリックですから、当然こういう言い様になるのですが、「もし神がイエスをこの地上に送らなかったならば、今、私の足が踏みつぶそうとしている毛虫ほどにも人間は尊敬に値しない」、そういうふうに申しましたが、全く私は同感なんです。カトリックだから、そういう表現をするのですけれども、もっとわかりやすく言えば、“神の似姿”とか、あるいは仏教的には“仏性”とか、そういうふうな形而上学的な、あるいは宗教的な理念、それがあって、初めて人間は尊重するに値する。あるいは尊厳ということが言いうるのであって、もしそれがなかったら、人間は毛虫よりももっとおぞましい動物じゃないですか。牛や豚の方がずっとかわいいじゃないですか、そう私は思っているんです。

だからして、“宗教的情操の涵養”を教育の場で考えなければいけない。言いかえれば、人間は我々を超える大いなる存在、それを神と名付けようが仏と名付けようが、―仏教は難しいですから、極めて簡単に言いますと、人間を超える大いなる存在、そういう存在に対する畏敬の念、畏怖の念、そういったものを取り戻す必要があるのではないか、そう思われてならないのです。

そういった意味で、この問題は、教育基本法の一番のポイントでもありましょうし、まだほかにもございますが、こういった点で「宗教的情操」の教育というか、そういったものを真剣に考えることによって現今のみじめな、モラルの崩壊を少しづつ回復できるであろうと思います。

【江崎座長】 ありがとうございました。

【浅利委員】 梶田先生、藤田先生お二人の御意見は明快で本質を突いていらっしゃると思います。これだけはっきりした論理が展開されているのですから、座長がおっしゃるように、早く分科会に入るべきではないかと思います。ただ、分科会のテーマについては少し突っ込んだほうがいいと思います。

 分科会のタイトルをみていると、美辞麗句ばかりだと思います。私はこの会議では比較的ラジカルなことをぶつけ合っていく方が世の中の議論を起こしやすいのではないか、と個人的には思います。

【江崎座長】 ありがとうございます。この前、牛尾委員がおっしゃったのではなかったかと思います。日本人というのは貧しいときのエシックスみたいのは知っているんだけど、豊かになったときにはどうするのかわからないというようなことをおっしゃったんですね。それは、私、今おっしゃった情操教育といいますか、教養教育というものが日本にはミッシングだと思いますね。そういう意味で、勝田委員のおっしゃったのは、情操教育は教養教育の一環だと思います。金持ちになって必要なのは、教養ということで、それを日本人が十分持っているかどうかということ。

 それでは、どなたかほかの方、田中委員。

【田中委員】 お二人の先生のお話を伺って、私は余り詳しいことは知らないので、問題がどこにあるのか、いろいろ勉強させていただきました。先ほど勝田先生のおっしゃったことに関係するのですけれども、私も法律家のはしくれですが、第九条を読んでも、宗教的情操の教育をやったらだめだというようなことは何も書いてないわけですね。教育基本法の条文よりも、何かほかのところに問題があるように思われます。

 そういうことで、梶田先生が、理念としては望ましい四つの方向に変わったけれども、それぞれ問題がある方向に展開したということを明快に整理されましたが、問題のある方向へ進んだ理由とか背景について、何故こういうことになったかということを、梶田先生からもう少し御説明いただければありがたいのですが。

【江崎座長】 それでは梶田委員。

【梶田委員】 いくつか理由があると思います。一つは、最初の会議で、「温故知新」ということを言いましたけれども、実際的なことをやるときに、古くからのいろんな大事なものを踏まえた上で現実のことをやれ。例えば理念は大事なものであっても、それを日本の文化の中でどう展開するかというのは、やはり1000年あるいは1500年日本で積み重ねてきたものを十分に踏まえてやらなければどうにもならないと思います。例えば「人権」ということを最初のときに多分言ったと思いますが、人権ということをフランスの歴史の中で言われてきたものと、日本で室町時代から、例えば唐傘連判状で人権意識を表現してきたことと同じ言葉、日本の感覚でいうと、ヒューマン・ライツという言葉は同じようだけれども、若干違う点があります。

 戦争に負けたために、たらいの中の水と一緒に赤ちゃんまで流してしまった。大事なものを全部流してしまったという気がしております。これが一つの理由です。いわばバックボーンがないままでやってきたということですね。

 2番目には、今出ておりますが、豊かになって便利になったときには、あえて豊かさや便利さを超えた、ある価値を大事にしようということがなければいけないんですけれども、やはり豊かさや便利さの中で一番低きに流れるような、そういう文化状況が、特に1960年代後半以降、70年代になったら非常に顕著にあって、それの中で流れてきてしまったということがあるだろうと思うんですね。

 もう一つ言いますと、この中の特に百花斉放な「個性の重視」。これはマスコミのいろんな主張にもあらわれておりますけれども、一人ひとり言えばいいみたいな、やっぱりいろんな人がいろんなことを言うけれども、そこには自ずからとても大事なことと、やはり余りそのことにこだわったらどうにもならないことがあるはずなんですね。それを昔は「良識」という言葉で見分けていたわけですが、良識を一切抜けて、それぞれが言えば、それで認められるべきだみたいな風潮、つまりこれは価値の多様化の悪い面、あるいは言論の自由の悪い面だろうと思うんです。これは非常に微妙な問題ですから、なかなか短い中では無理ですけれども。

 というようなことで、今3点だけ私は挙げてみたい。つまり過去から1000年以上培ってきた日本人としての感性の再確認、あるいは先人のやってきたことの再確認抜きで理念だけが先走りしてしまった。それから、70年代以降の豊かで便利になった社会の中で流されてしまって、いわば目先のこと以上のことを考えなくなって、それがこういうことになってしまった。3番目に、個の重視というようなこと、あるいは言論、思想、価値観の重視ということの悪い意味でのレッセフェールが起こってしまって、おのずから大事にすべきものをお互い確認していく努力を今怠ってきているのではないか。ほかに大事な点があるかもしれませんが、今3点申し上げておきたいと思います。

【江崎座長】 河合委員。

【河合委員】 今、田中委員が言われたことがもう一つわかりにくかったんですが、例えば、第九条に書いてあることは何も反対するべきことではないんですね。ちゃんと書いてあるという感じがします。つまり「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」ということは、特定の宗教のためでない宗教教育ならしてもいいということなんですね。これだったら、そうじゃないでしょうか。

 だから、こういうのを国民全体が受けとめてきた姿勢は非常に問題だけれども、条文そのものはそんな問題ではないのではないかという感じに私は思っております。

 それから、条文で見ますと、私は大体いいこと書いてあるという感じがむしろありまして、梶田さんが男女共学のことをちょっと言われましたね。これは確かに良い悪いの問題ではなくて現状からずれているなという感じを持ちました。

【江崎座長】 第何条ですか。

【河合委員】 第五条の「男女共学」のことです。これはこのことが悪いのではなくて、別にそう言わなくてもという感じがしました。そして今の現状で私は抜けているとしたら、学校教育、社会教育、政治教育、宗教教育と書いてあって、書いてほしいのは「生涯教育」という感じを持ちました。

 以上でございます。

【江崎座長】 ありがとうございました。

【勝田委員】 今のお話の中で私が感じますのは、田中先生、いろいろ補充、あるいは批判していただきたいんですけれども、法律家の立場から。確かに「特定の……」。

【江崎座長】 「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」、「特定の宗教のための」という条文がある。

【勝田委員】 この文言です。そういうふうに解釈もできます。ところが「特定の宗教のための宗教教育」という言葉を使うものですから、何か宗教教育そのものが悪い、うさん臭い、敬遠しようと、そういうことになるので、これをもっとより鮮明にするためにもともと昭和21年の9月に出された「教育基本法要項草案」にあるように「宗派的教育」と改めた方がより鮮明になりはしないか、このことを言っているのです。

【江崎座長】 それでは、その他どなたか御意見ございましょうか。

【石原委員】 2002年から完全学校週五日制に入りますが、学校週五日制になりますと、授業日が年間の半分になります。また、子どもは学校という施設に24時間いるわけではなく、概ね半日と考えれば1年間の約4分の1という時間を、子どもが学校で教育を受け、4分の3は家庭・地域で過ごすことになります。このように大きく転換していく中で、学校が基本的に、特に義務教育の場合、何を引き受けるところなのかについての共通認識が必要です。

 私は戦後の教育が大きな問題を抱えたのは、結果として、学校が子育て機関となり、しつけから何から全てを学校におぶさってきたという中で、家庭教育の親の役割や責任、また地域の役割や責任、ひいては社会の大人が子どもに対してきちんと関心を持ち、責任を果たすということが抜けてしまったということ。そのことを学校週五日制の中で改めて社会全体で子どもをきちんと教育するという、その役割分担の在り方をむしろこの教育改革国民会議で、政治が教育に関わるというときに、その関わり方の中で、だからこそ国として大人の責任とそれぞれの役割分担を明確にしていくことが重要であり、21世紀の学校教育をきちんと充実・活性化させる基本であると考えております。学校が全て担い続けてきた結果、学校自体がいろんなことを現実にできなくなってきています。学校は学校でしかできない教育に関しての役割をしっかりと果たすべきであり、特に義務教育は子どもを育てることですから、家庭や地域社会や社会全体の大人がどういう役割を果たすべきか。むしろ教育に対しての大人のきちんとした責任が果たせられるような国民的な運動をこれからの21世紀の教育の中で果たしていけるような、そういう国民的な運動や担い方についての考え方を基本にしないと、学校の枠組みの中だけで、教育の全てを考えることは非常に無理があるのではないかと思っております。

 また、「ゆとり」と「個性」ということは、この方針が出ましたときに、学校現場は、ある意味でそのとおりだと思った下地がございました。学校が子どもにとって多忙感があるということはいろんな調査からも出てきております。子どもにとって、自ら学び、自ら考えていくことのできる力を育てていくことのできる「ゆとり」という意味の学校教育における充実感というものをどう与えていくかという中では、学校教育の改革とともに、先ほど申し上げましたように、学校と家庭と地域が役割分担をし、単に学校で全て教育を完結するのではない仕組みを義務教育においては21世紀つくっていくということが大切ではないかと。

 昨今のいろいろな若い人の行動なども、大人がその場でもっと注意をしたり関心を持ち行動していたならと思うこともたくさんございます。そういう意味で、国民的合意形成と運動を単にキャンペーンだけでなく、それをきちんと担えるような役割と制度的なことを考えていけることができれば、今ここで問題になっていることのある意味の基本的な方向の一つの解決ができるのではないか、こんなふうに考えております。

【江崎座長】 ありがとうございました。学校がどういう役割を演ずるか。今のお話を聞いておりまして、私なりに感じましたことは、私の小さいときは、情報・知識はもっぱら両親と学校の先生から得ることが多かったように思うのですが、どうも最近の子どもは、情報・知識を得るメディアが大変たくさんあるわけですよね。我々と違っていることは、キーボードを使うような文化になってきた。つまり割合に自然にターミナルになれていくというのが若い人たちの感じです。

 そういうことを感じましたのは、実は内閣の総理府でミレニアム・プロジェクトで作文を小学校、中学校、高校に募集したところ、1万件集まりまして、黒田委員もその評価に参加されたのですが、そのうちのいいものを実はこの間表彰したのですが、それをずっと私読みましたら、最近若い人たちはいろいろ新しい言葉を使っているんですね。両親・親に手伝ってもらったのではないかと思われるほどいろいろなものをつくっている。それは多分本人が書いたのだと思います。

 そういうことで、学校の今の役割、今までは多くのものを学校から得ているのですが、最近はほかのメディアから情報・知識を得ることになってきたということが一つの問題点だと思います。

【藤田委員】 確かにおっしゃられるとおりなんですが、例えば学校外のメディアというのは、子どもによって何を摂取するか、どういう接触の仕方をするかという点で明らかに差異的ですよね。例えば道徳性や社会性の問題にしても、情操の問題にしても、いつも教育上の問題として議論されるのは、メディアのネガティブな影響です。しかも、メディアを含めて、子どもたちが学校の外で接触・吸収するものについては、私たちはそれをコントロールする術を持ってはいません。有害情報と言われるものはその典型です。

 もう一方で、学校の外の多様なメディアから知識や情報を得る時代になったというときに想定されているのは、そこから好ましいものを摂取する子どもたちなんですね。ですから、その違いを確認しておく必要があるのではないかと思います。

【江崎座長】 もちろん私はそれが好ましいとか好ましくないとは言っておりません。それは決して好ましいものを得ているとは言ってなくて、特に好ましいものも得ているでしょうし、好ましくないものも得ている、それは私も十分。

【藤田委員】 江崎先生がそうおっしゃったということではないんですけれども、メディアの問題を考える場合、あるいは学校が何をできるか、何をすべきかということを考える場合に、たぶん学校にしか期待できない時代になっているのだということを確認することが重要だと思うんですね。

 先ほど石原さんは、学校が何でも取り込み過ぎて、いろんなことをやり過ぎてきたから学校はそれに応えきれなくなったとおっしゃったのですが、そうした見方はかなり広まっていると思います。しかし私は、少し違う見方をしています。先ほど来、あるいは前回も議論がありましたように、家庭の変化、社会の変化、情報社会の変化、そうしたさまざまの変化が進む中で、学校・教師の仕事は難しさを増してきたと思いますが、もう一方で、実は私たちが期待を寄せることができるのは学校でしかないという状況が強まってきたのだと思うのです。学校が何でも引き受けるのでなく、家庭や地域がきちんと責任を担うべきだというのは、その通りだとも思いますが、もう一方で、本当にそれが可能なのだろうかとも思うわけです。それができないからこそ、欧米諸国でも学校に期待を寄せる傾向が強まっているのだと思います。学校が問題だから変えなければいけないというのではなくて、学校にしか期待を寄せられないから、その期待に応えうるように学校に変わってもらわなければいけないということだと思います。

【江崎座長】 ありがとうございました。河上委員、その次にグレゴリー委員。

【河上委員】 私も今の藤田先生の話にかなり実感的に同感なんですよね。三十数年前に、私が教師をやっていたときの学校は、語弊がありますけど、ある意味でいい加減でした。教師はそんなにいっぱいいろんなことをやってなかったですね。授業が中心で、部活もほとんど出ていませんでした。生徒が自分たちで運営する能力がありまして、部活動は生徒がやるものでした。それから、いわゆる「生徒指導」なんていう言葉も当時なかったですね。簡単に言うと、生徒が学校の中でかなり自由にふるまう分野がたくさんあって、教師がいろいろ教えたり要求する分野は極めて少なかったような感じを持っています。

 それがほんの4〜5年で、1970年ぐらいから急速に、今、藤田先生がおっしゃったように、学校の中にいろんなものが入ってきたんですね。「生徒指導」という言葉が登場したあたりから、多分何でもかんでも学校が引き受けざるを得ないような状況になってきたようです。しかし学校が好んで引き受けたというふうに私は思っていません。教師もいろんなことを期待されてやらなくてはいけなくなって非常に窮屈になりましたね。そもそも最初からそんなことはできることでなかったものまで引き受けて、これまで頑張ってきて、それが多分破たんしたのだと私は思っています。ですから、もう少し長い期間、せいぜい30年か40年でいいんですけれども、日本の学校が何を引き受けてきたかということをきちんと後付けた方がいいのではないか、そんな感じがします。

 もう一つ言うと、「ゆとり」と「個性」というような言葉が登場してきたときに、これも先ほど石原さんがおっしゃっていましたけれども、義務教育の学校の役割は何かということがきちんと論議されないで、「ゆとり」と「個性」という言葉が急速に入ってきたために、義務教育の根本的なものまで崩してしまった、そんな感じを持っています。

 以上です。

【江崎座長】 何か藤田委員コメントございますか。

【藤田委員】 いいえ。河上先生の言われた通りだと思います。

【江崎座長】 それではグレゴリー・クラーク委員。

【クラーク委員】 梶田さんによると、問題は戦後教育なんですけれども、藤田さんによると臨教審の教育ということですね。臨教審は日本人がつくったものです、アメリカではなくて(笑)。

 私、全く石原さんの御意見には同感なんです。日本の学校はやり過ぎなんです。責任が重過ぎます。昔の日本は学校と家族だけでした、座長おっしゃったように。ところが今は両方とも比重は低下した。学校と家庭以外の影響、マスコミとかどんどん入っています。もう少し日本と外国の比較をやってください。外国も全く同じ問題あります。家族と学校は弱い。悪いマスコミの影響は入っていますけど、アメリカとかオーストラリアで援助交際が起こることなど想像できますか。ないです。なぜか。子どもは小さい時から、学校や家庭から社会に出ていろいろな活動しているんです。コミュニティスポーツとか奉仕活動・ボランティア、それで自然にわかっているんです。社会の中で悪いもの、変なマンガとかビデオとかポルノいっぱいありますが、同時にすばらしい面もあります。すばらしい大人もいる。それで頭の中でバランスをとって、理解する。日本の援助交際はけしからんのです。日本の子どもの場合は悪い影響ばかり入っていて、いい影響は入って来ないです。社会との接触が非常に弱いからです。だから社会のルールがわかってこないのです。22歳で社会に出て、やっと社会人。28歳の女性は援助交際しないでしょう、アメリカでも日本でも。その年令になって社会のルールがわかっているからです。けれども、18歳の女性はまだわかっていないのです、日本の場合は。

 石原さんの意見は全くそのとおり。問題あればいつも、学校がしっかりしなさい、親がしっかりしなさいといわれるが、もう無理なんです。こういう、親や学校の力の及ばない状態になってしまったんです。もうちょっと社会の責任を大きくすべきではないかと思っています。

【江崎座長】 ありがとうございました。それでは、田村委員。

【田村委員】 梶田先生、藤田先生に大変いいお話をいただいたのですが、藤田先生の御意見の中で、臨教審以降の日本の教育が武装解除だったという御指摘があったわけですが、実はアメリカとイギリスの例が出ていますが、アメリカとイギリスの変化というのは、これは例えばレーガンのときに、例の国際学力比較の数字がまだなかったのを入れてみたら、世界の半分以下だったというので仰天して、いわゆる3R's(スリー・アールズ))の強化をやろうという話が始まった。サッチャーも全く同じなんですね。つまり国際比較の中で、今“グローバリズム”という言い方されていますけれども、そういう改革のエネルギーが始まるわけですね。

 実は臨教審以降の改革もまさにそれなんですね。ユネスコをはじめとする国際的な社会での教育の改革の流れが日本に反映されて、それが藤田先生の定義によると武装解除だという定義になるのですけれども、実は当然の動きだと私などは考えているわけです。そうしなければ、これから21世紀に日本人が国際社会の中で生きていくという力がついてこないだろうと思いますので、この路線はきちんと守っていかないと具合が悪いと率直に私は思っております。その辺は藤田先生はどういうふうに判断されているか、これは価値判断おっしゃっていませんので、ただ、私の感じで誤解があるといけないので念のために申し上げたわけです。

 それから、もう一つ、そういう状況の中で考えていくと、現状では学校は負担しきれなくなってきているということがはっきり出始めているわけですね。名古屋の 5,000万恐喝事件なんていうのは余りにも事件が新しいから、こういう会議で取り上げるのはいかがかというようなお考えもあるかと思うんですけれども、しかし、あれほどひどい事件があって、この会議でその議論をしないというのは責任を果たしてないというふうに言われちゃうのではないかと思います。ですから学校教育というのがこの改革の中心であるとすれば、その部分はきちんと議論して、学校教育がやっている、いないみたいな話をするより、もっと重要なこととして、このことを取り上げて、問題点がどこにあるのかを検討する必要があるのではないか。

 そういうことを踏まえた上で、改革の議論をはっきりさせていくということが非常に重要ではないかという気がします。抽象的な議論だけしてもしようがないような気がしますので、そういうことをお考えいただいたらどうか。

 私は、ですからそういう意味で言いますと、グレゴリー・クラーク先生のお考え、石原先生のお考えに近いのですけれども、そういう提案を申し上げたいと思います。

【江崎座長】 ありがとうございました。

【森委員】 学校五日制時代で学校は何をすべきかという提案から議論が始まったと思うのですが、私は学校は何をするかだけではなくて、家庭が何をするか、地域社会が何をするか、三者を考えないと、学校だけ何をすべきかを考えても三者の連携協力はできないと思うんです。学校が何ができるかというときに、学校だけでしかできないことをまず考えるべきだと思うんです。家庭だけでしかできないこと、社会だけでしかできないこと、その次には学校ではできないこと、家庭ではできないこと、地域社会ではできないこと。

 私はアダムスミスの『国富論』を思い出すのですが、その中で公教育で税金を使って教育をするには二つの要件があると。一つは、社会の存続に不可欠なこと、3R's(スリー・アールズ)その他だと思うのですが、もう一つは、民間でやっていることはやらなくてもいい。これはちょっと極論でありますが、具体的な例として、社交ダンスとかフェンシングは学校で教えなくても伝わっていく、こういうことなんですけれども、そういう点でこれを現代的に翻訳して考えますと、私は学校でしかできないことは、「真理の代弁」機能だと思っていたのです。ところがメディアの発達で真理の代弁機能もだんだんできるようになってきたんです。お母さんにアインシュタインの相対性原理教えられないでしょう。だから先生教えるんですよと、胸を張って言えなくなってきつつあるのではないか、それが一つ。

 それから、学校でできないことは、学校の教師は「親の愛の代行」はできないんです。これを勘違いされまして、全部学校に押しつけられていますけど、親の愛の補完はできますが、そういうふうに学校・家庭・地域でできることとできないこと。そういうふうに考えていきますと、学校でもできないこと、家庭だけでもできないこと、地域だけでもできないこと、どこでもできないことは何かというと道徳教育ではないか。だから全部でやってもできない、それが道徳教育ではないかなと思うんですが、そのことをちょっと言いたかったのです。

 以上です。

【江崎座長】 ありがとうございました。

【藤田委員】 今、森先生がおっしゃられたように、私も家庭でできること、してもらわなければいけないことや、地域社会でできること、してもらわなければいけないことと、学校ができること、やっていいこと、しなければならないこととは、明確に区別する必要があると思います。その区別がこれまで曖昧だったと思います。例えば 5,000万恐喝事件ですが、学校を追及し学校に責任とらせるなどということは馬鹿げていると、今では大抵の人は考えていると思いますが、ごく最近まで、そうではありませんでした。神戸の酒鬼薔薇事件でも黒磯ナイフ事件でも、マスコミも政策担当者もみんな学校を追及したんですね。しかし、どちらの事件も、私には学校の在り方に原因があるとは思えませんでした。

 たとえばデンバーの事件ではアメリカの学校は追及されていないんですね。クリントン大統領は特別予算を計上して原因の究明を指示しましたが、学校のせいにされているわけではない。むしろ、社会に問題がある、銃社会に問題があると議論されています。日本では同じような事件が起こっても、これまでみんな学校のせいにしてきた。そして、学校を変えなければいけないというふうに議論してきたわけです。

 ところが欧米諸国では、そういう問題が起こると、社会や家庭に問題があるということになる。しかし、家庭や社会がなんとかできるわけではないから、学校に何とかしてほしいと期待を寄せることになるのだと思います。それがこの15年ほどの欧米の改革の一つの特徴だったと、私は見ています。

 もちろん、グローバル化の中で変わっていかなければいけない部分はたくさんあります。そのある部分は、臨教審以降の改革の中に取り込まれていると思います。特に内容面、カリキュラム面はそうだと思います。しかし、制度でありますとか、子どもが実際にどういうふうに時間を過ごすことになるかという点については、臨教審以降の改革は必ずしも合理的なものだったとは言えないと思っています。

 ちょっとエピソードを紹介したいのですが、フィラデルフィアでは、一昨年の10月から、午前9時から午後3時まで、学齢期の子どもが巷をうろついていたら、警察官が補導し、近くの学校に連れて行くということになりました。そして親に連絡をして、ピックアップに来させる。親が来られない場合は、その学校で時間になるまで自習させる、ということになりました。そこまでする必要があるのかと思われる方も多いと思いますが、そういう状況があるということを私たちは認識する必要があると思うんです。

 クラーク先生が言われたように、アメリカやオーストラリアをはじめ諸外国では、ボランティア活動が盛んで、そういう活動に参加していく中で、いろんな経験をし学んでいくというのは、一面の真実だと思いますし、日本でもそういう側面をもっと促進していくことは必要なことだと思います。しかしもう一方で、子どもの生活基盤そのものがどうなっているのかということについては、もっと的確な状況把握とそれに基づく対応を検討していく必要があるのではないかということを申し上げたかったのです。

【江崎座長】 ありがとうございました。

【浅利委員】 座長、分科会の検討に入らないと時間がなくなりませんか。次の回でおやりになるんですか。

【江崎座長】 まだ大丈夫です。6時半ぐらいから次の分科会の話に入りたいと思います。

【浅利委員】 30分では無理ではないでしょうか。

【江崎座長】 しかし、次、もう一度全体会議をやりますから。最初に申しましたように。十分そのときには時間をさきます。その前に、町村補佐官が若干コメントをしたいという話ですから。

【町村総理補佐官】 すいませんが、さっき藤田先生からナイフの事件のとき、学校だけが追及されたという話がありました。当時、私、文部大臣で非常に頭を痛めたものでございますから(笑)。確かに学校の問題点も私はあったと思うんです。要するにそういう持ち物検査なんかやっちゃいかんという常識が学校にはあったものですからね。そんなことはないんじゃないのと言ったら、ごうごうたる批判を受けましたけれども、実際やってみれば、どうということはなかった学校も多かったと思います。

 ただ、私はあのとき、親にも全部手紙を出して、あなたのお子さんを家庭の中でしっかり見てくださいねと。学校が持ち物検査をやる前に、まず家庭の中で子どもがどんな物を持っているのかよく見てくださいと。子どもにおかしな挙動不審があったりなんかしないか、親として当然払うべき義務があるのだから、それをしっかりやってくださいね、という二つのメッセージを、私の名前で全国の親に手紙が行きました。どれだけ効果があったかわかりませんが、そういう意識で私は当時取り組んだつもりでございます。

 その関連で、確かに森先生が言われた学校・家庭・社会、できること、できないことを明確にしていくことが非常に重要だと思います。教育基本法というのはほとんど学校教育基本法なんですね。中身を読むと、一部社会教育とか書いてあるのですが、ほとんどが学校教育基本法なんです。

 私は今度この教育基本法をもし改めるという面があるのならば、学校教育・家庭教育・社会教育それぞれの役割を明確にこの法律の中で書いて、三本立ての1章、2章、3章となるかもしれませんが、そんなような位置づけの中で、学校はこういうこと、家庭はこういうことということを明確にすることが大切なのではないかと思っております。

 ただ、大変厄介なのは、現実に家庭に期待することと、本当にそれが今の家庭ができるのかという更に突っ込んだ議論を河上先生しておられると思うので、そこをどうするのか、何かいい有効な政策手法があるのかなということを更に今後御議論いただければありがたいのかなと、こう思っております。

【江崎座長】 ありがとうございます。

【河上委員】 学校五日制度はかなり過激な方針だったと私は思っています。学校の機能を小さくしていって、ともかく外に任せよう、これは私は必要なことだと思っていますけれども、現実的には引き受ける家庭あるいは引き受ける地域はほとんどない状況です。そうすると警官をかなり増やすとか、社会的な治安を維持するための装置をつくらざるを得ないだろう。先ほど藤田先生おっしゃったようなことは日本でも当然起こるのではないか。

 学校のはたしていた役割を具体的にどうするのか、だれもおっしゃらないから、私なんか学校でやらなければいけないかなと思っちゃうんです。

【江崎座長】 私も土曜日は学校は休みのはずなんですが、芝浦工業大学へ参りますと、土曜日に学長の任官の式がございましたから、芝浦では土曜日も働いておる。それは冗談ですが。

 先ほどデンバーの話などなさいましたけれども、アメリカというのは、私の知っている限りのコメントを申しますと、1983年、『ネイション・アット・リスク』という本、危機です。これは学力向上一点張りなんです。学校というところでは道徳の教育は問題にしないということです。ここでは武装されるということは同一には論じられない面があります。道徳ということは、アメリカでは御存知のように、実業というものが大きな柱になっておりますから、実業というもので道徳というものは教えてもらう。アメリカの公立学校では宗教の時間もありませんし、問題にならないということを若干論議する前に申し上げておきたいと思います。

 それでは、木村委員と次に大宅委員、最後に梶田委員、それでは木村委員お願いします。

【木村委員】 今の藤田先生のお話ですけれども、現実にアメリカは先程のお話と少し違うんじゃないでしょうか。最近私どもの館教授と議論したのですが、アメリカというのはリベラルアーツ教育の中で価値基準ということを昔からきちんと教えていますね。ハーバードなどは17世紀からやっています。あそこは学部は文理学部しかなく、文理学部の時代に価値基準についての講義をきちんとやっています。

【江崎座長】 それは教養でしょう。

【木村委員】 教養です。高等学校でも、この間申し上げたように、職業観とか倫理観、その辺は厳しくやっていますね。

【江崎座長】 やってます。

【木村委員】 そういうことを通じて、道徳教育と言いませんけれども、人間のあるべき姿を教えているんだと思います。

【江崎座長】 それはやっています。教養教育は大いにやる。情操教育はやっている。

【木村委員】 日本はそこのところが完全に欠落してしまっている。そこら辺を工夫する必要が私はあると思います。

【江崎座長】 それはあるでしょう。

【木村委員】 私も石原さんの御意見に賛成で、藤田先生何と言われようと、日本は学校に任せ過ぎていますよ。どうやるべきかということについて、良い答えを持ち合わせていませんが、ヨーロッパの平均的な家庭を見てますと、子どもにしつけをする習慣はしっかりと残っています。その辺を今後我が国でどうしていくかということだと思います。

 一つの方策として、掛川市がやっているような、生涯教育を徹底してやることが考えられます。掛川市では、大人、親の教育をやっています。そういうふうなものも一つの方策としてあり得るのではないでしょうか。東京のような大都会でそれができるかどうかは分かりませんが、掛川市の試みは相当実が上がっていると思います。

【江崎座長】 ありがとうございました。それでは、大宅委員。

【大宅委員】 さっきから社会と家庭と学校と分けるという話は何となくわかりやすいんですが、実は社会の教育力というと、私には関係ない社会というものがあるようなふうにしちゃいますが、全部実は我々一人ひとりなんですね。そういう学校出てきた人が社会をつくっていて、家庭をやっている人が社会をつくっているわけで、問題なのは個人の力の低下だと私は思うんですね。例えば土曜日が休みになるといったときに何をしたかというと、どこへ行っていいかわからなくて、塾に行かすといけないからといって、カラオケ大会まで用意して全部やったんですね、博物館をタダにしますとか何とか、冗談じゃないと。

 私の感覚だったら、自由な時間になったら、しめたと、私はやりたいことがあるので、こんなことが自由になって良かったと思うのがまともな個人だと私は思うんですね。違いますか。自分がやりたいことがあるんだけど、学校にいっぱい時間とられていると。

 一番の問題は、一人ひとりが何がやりたいのかというのに全然口火をつけてない。私は何をやって、こういう人生を送りたいということを何も考えずに、させずに、はい、6歳でございますから、小学校へ行っていただきましょう。はい、中学へ行って、高校中退なんかしちゃいけませんよみたいなね。何にも考えずに周りであおって、ため込まれているというところが問題なんだと私は思うんです。

 だから、本当は自分で考えるチャンス、機会をたくさん与えること。そのかわり、考えて自分で選択したら、自分で責任をとることということをいかにやるか。今、何にも考えずにずりずりずりっといっているんだと私は思う。

 もちろん石原さんの意見に賛成で、今の学校にお任せなんかしたらとんでもないと。私はとってもじゃないけど、そんなことはできない。では、個人とか家庭にどうするかといったら、それはすごく問題なんですが、それはそこから論じて、ではこれを解決するのにどこに何をしたらいいかというのは次のことなのではないかと私は思います。

【江崎座長】 ありがとうございました。

【浅利委員】 町村さんのさっきおっしゃったことは重要だと思います。この会議ではなかなかいい議論が出ていて、臨教審以上の成果が上がりそうだなと感じる時があるんですが、私が危惧しているのは、世の中一般とこの会議とのあいだに距離があるのではないかということなのです。

 ここでどういう議論がなされているかということをマスコミの人々にも知ってもらえば、真剣にやってるんだなと理解してもらえる。ですからPRをどういうふうにやっていくか。時々広くマスコミの人々も入れて公開的な議論をした方がいいと思います。

 それから家庭を支えている一人ひとりの人たちをどういうふうに倫理化していくかという問題ですが、これはメディアの人たちの協力を得なければ無理だと思います。例えば、一つの方法として、「おしん」というテレビドラマがありましたね。かなり大きな社会的影響をもたらしましたけど、ああいう形でこのテーマの作品を制作してくれるような、プロデューサーであるとか、演出家であるとか、脚本家が出てきてくれて、問題をドラマなどにしてくれるといいと思います。雑誌で特集してくれるのも有り難い。

 分科会のなかで、マスコミと接触する部分というものをつくって、なるべくここの議論を世の中に流していく。制度や法律の改正は答申でできるわけですけれども、社会的影響ということになると、そういう手続きを進めたい。

【江崎座長】 ありがとうございました。私、今、浅利委員がおっしゃって思い出しましたけれども、私の子どもたちが行った高等学校にはドラマのデパートメントがありまして、ドラマをやることに高校生たちが必要に熱を上げたのを覚えております。私の娘も何か役をやった。大変ためになる。

 それでは、梶田委員。

【梶田委員】 私、皆さんのおっしゃっていることは誠にもっともだと思うんです。あるいは石原先生おっしゃることは。ただ、やっぱり藤田先生が今日提起された問題の大事さをもう一度お互い考えないといけないと思うんです。どういうことかというと、「ゆとり」だとか「個性」だとか「生きる力」だということで、何が何だかわからなくなっているんです。だから、今、本当に一生懸命やって学校が忙しいとは思っていません。何だかわからないようなことをやって忙しくなっているんです。そういう話とやはり混同しちゃいけないと思うんです。

 学校教育を大事にしなければいけないというのは、今日森先生がおっしゃったように、簡単に言っちゃうと、一つは基礎学力の問題と、もう一つは社会性の土台みたいなものですよ。それでほかのことは全部ほかのところに任せたらいい。ただし、任せるときに、家庭がしっかりせんといかんとか、社会がしっかりせんといかん、そんなこと百も言っても全く意味がないんです。それは分析として、認識としては意味がありますけれども、そんなことを言っておる間に日本はめちゃめちゃになるんです。例えば、今家庭がしっかりしなきゃいけないと言われましたけれども、大阪で言いますと、普通の公立の小学校、中学校で、40人のうちの5人ぐらいは片方だけの親ですよ。あるいは地域によってはもっと多いですよ。しっかりせよなんて言ったってどうなりますか。親だって、生きなきゃいけないわけですから、子どもと接触する時間ないですよ。

 だから、そういう分析をして認識しなければいけないですが、それを、家庭をしっかりしましょう、親はしっかりしましょうと言ったって、どうにもならわけでしょう。だからこそ、ここで何を議論しなければいけないのか。確かに町村先生がおっしゃった手紙を出すというのも一つあります。あるいはマスコミで、今、公共広告機構というのでやっていますね。あれは非常にすばらしい策だと思っています。直接ではないですね。つまり親を集めて説教したってだめなんです。社会に向かって、社会の教育力どうのこうの言ってもしようがないです。大体社会がどうのこうのと、そういう集まりに来るのは目覚めた人ですから、そうでしょう(笑)。

 それだったら、浅利先生もおっしゃっているマスコミとの対応をうまくもっていき、そこで間接的にもっていかざるを得ない。例えば、ヘッド・スタートをアメリカがやったときに、小さな子どもたちの中で、社会的に恵まれない地域の子どもたちは全く捨て育ちだと。知的な刺激もなけれは道徳的な土台もない。御承知のようにシカゴやロサンゼルス、ニューヨークは、生まれる子どもの半分以上は家庭の外で生まれるわけですから。どうしたか。説教する代わりに放送番組を買い占めてセサミストリートをやったわけです。これがポリシー・政策というものであって、与件、与えられた条件でしようがないものを踏まえなければいけない。そこへいって、みんなで嘆き合ってもしようがないんですよ。それを与えられた条件として、その上で、何ができるのかという変数を我々が考えていく。

 そこで、私はここにおられるいろんな分野の方々はいろんなアイディアがあると思いますので、是非そこに持っていっていただきたいなと思います。

【江崎座長】 ありがとうございました。

【浅利委員】 今、NHKの朝ドラマでかなりきわどいテーマを取り上げましたね。あれなんか梶田先生の今の御議論とかなり密接に結びつくのではないでしょうか。

【大宅委員】 シングルマザー。

【浅利委員】 シングルマザーですね。

【町村総理補佐官】 ちょっと1点だけよろしいでしょうか。藤田先生から、特に臨教審以降の在り方のおかしさといいましょうか、御指摘があって、かなり河上先生も含めて、どうも「ゆとり」云々というのはまずかったのではないかと。これはこの会議として、これを皆さんそうだとお受け取りになるか、あるいは田村先生のように、いや、そうじゃないんじゃないかという、ここはある種、明確な対立点といいましょうか、議論の分かれるところだろうと思うんですね。

【江崎座長】 そうですね。

【町村総理補佐官】 これをどっちの方向にこれから進めていくのかをもし御議論があれば、もうちょっと賜ればと思うのですが。

【勝田委員】 私は藤田先生のお話、コメントしようと思って時間がないのでやめたのですけれども、今おっしゃった「ゆとり教育」というのは、藤田先生がおっしゃったように、はっきり言えば、学力低下に導くだろうと、そういうおそれが非常にあります。そういった点を私は危惧いたします。ゆとりというのはどこから出てきたんだろうと思うんですけれども、一つは、日本が豊かになったから、そう余りガリガリ猛勉強せんでもいいではないかという考えもあるかもしれない。

 2番目に、ゆとりということで、もう余り暗記ものを詰め込む教育やめましょうと。もっとゆとり持って、芸術や芝居を見たりとか、そうすれば創造性が生まれるだろうと、だが私は必ずしもそうは思いません。アメリカに私も若いころですが、大分長くおりました。アメリカの学生で、特に医学部と法学部の学生たちはガリ勉ですよ。ものすごく勉強しますね。今のシリコンバレーの連中だってものすごく勉強していると思いますよ。

【江崎座長】 ありがとうございました。それでは河合委員。

【河合委員】 私はむしろ「ゆとり教育」の方に賛成していた人間なのですが、ゆとり教育は、私は今でもいいと思います。ただ、日本人がゆとり教育というと、すぐ「緩み教育」をやるので困っているんです(笑)。これはいつも言っているんですけど。だからゆとりの教育をするのはなかなか難しいんですね。だから「ゆとり」を「緩み」にさせない、そうしないと、また逆に振れますと、また昔の怖い教育になると、これは非常に心配なんです。そう思っています。

【江崎座長】 それでは金子委員、なるべくはしょってください。

【金子委員】 「ゆとり」がいいか悪いかという設問に対しては、なかなか答えられないと思うんですね。もっと根本的には、何か制度をつくことによって何かをやらせるとか、こういう結果にするということ自体が難しいと思います。ですから、こういう制度をやったから創造性が上がるとか、こうしたからゆとりが出るというのではなくて、逆に創意工夫を妨げないようにすべきだと思います。

 これはこの間、発言したので繰り返しませんけれども、国とか教育委員会が全部やるというチョイス以外に、全くの自由化、全部ゆとりということではないと思うんですね。ですから地域の力とか一人ひとりの力をどうするかということで、全体としてはいい関係をみんながつくる、自発的にどんどん参加するという環境をつくるようなことをどうするかということにお金を使うようにしたらいい。

【江崎座長】 これも私のニューヨークの経験ですが、小学校の先生が言っておりました。ニューヨークのあたりは割に日本人の子どもたち・学生がいるんです。今日は休校だと、この時間をあなたは何をやっても構いません、こう言ったときにアメリカ人は大変喜ぶんだけど、日本人は戸惑う、それが典型的な日本人でしょう。

 それでは上島委員。

【上島委員】 親としては「ゆとり」と聞いたときに二つのとらえ方をしました。ただ、単にゆとりで学習時間が少なくなって学力低下する。これは困ると思った人が一面と、反面はゆとりイコール、例えば円周率3.14を3にするという話がありましたね。でなくて、3.14に今まで10時間かかって教えていたのをバーチャルなパソコンなどを使って、5時間で教えてくれると、そこでゆとりが出てくるのではないかと理解した人がいるわけです。だから、いかに教え方にゆとりを持たせてくれるのかというふうに理解してくれると、ここにゆとりということは私は賛成だと思うんですね。

 先ほど町村補佐官の質問の答えは、私は「ゆとり」教育でいいと思うんです。いかにわかりやすく教える、今まで10時間詰め込みでかかっていたのをどう教えるか工夫して創造性を育み、自発的に生徒が授業に関わる教え方にやり方を変えることによって、5時間でそれが今の子どもたちが得る中身にすれば、「ゆとり」というのは賛成です。前者でしたら反対です。

【江崎座長】 大分この次の時間については大変重要なので(笑)、それでは短くお願いします。

【森委員】 「ゆとり」は、「ゆとりある、しかも充実した教育」という形でセットで出てきた言葉だと思うんです。ですからゆとりの批判だけしていてもいけないのではないかと思うんです。といいますのは、当時私はNHKの国際放送でゆとりの教育の話をしてくれというので日本語で放送したのですが、それは英・独・仏に訳されるというので、英・独の訳をもらったのですが、英語はたしかeducation with more breadth、幅ですね。ドイツ語では、mit mehr ruft zu atem、呼吸をするためにたくさんの空気が必要だという訳があったんですけれども、アメリカの教授と議論しまして意味がよくわかったんですが、言いたかったことは、ゆとりと充実というのはセットになっていた。

【江崎座長】 ありがとうございました。いろいろまだ論議があるかと思いますが、先ほど一番最初に申し上げましたように、今後の会議の運営について、あと25分ほどございますから、御検討いただければ幸いだと思います。

 前回の会議におきまして、三つ程度の分科会を設け、各委員にはそれぞれの分科会に所属していただきたい旨を申し上げましたところ、分科会の審議事項等につきまして、皆様からの御意見を踏まえまして、私なりに案をお届けし、いろいろ御意見を伺ったところでございます。

 本日は皆様方の御意見を私なりに整理いたしました「教育改革国民会議の審議事項(座長案)」を資料5として配布しております。この座長案につきまして御意見を賜りたいと存じます。分科会の名称、検討事項、審議内容につきまして御発言よろしくお願いします。

【浅利委員】 はい(挙手)。

【江崎座長】 浅利委員、お待ちになったようですが。

【浅利委員】 私はこの三つの分け方は賛成だし、内容的にも大体こういうことなのかなと思います。私は第1分科会のほうをやらせていただきたいなと思っているんですが、ただ、「『心美しい活力ある日本人を育む会』に僕は出ているんだけど」と言ったら、みんなに笑われちゃうように思うんですね(笑)。何をやっているんだということになるので、もうちょっと具体的にストレートに、「おっ、そんなことやるの?かなり危険だね、君」って、「いや、内容見てよ」というふうな形になるようなことがいいので、座長さんがお選びになった言葉に文句言って誠に申しわけないんですけど。

【江崎座長】 これは私というよりも森総理の話の中にあったこと。

【浅利委員】 総理大臣は余りこういうことの適任者ではないと思います(笑)。この意見は森さんがいらっしゃっても申し上げたと思うんですが。

【江崎座長】 それでは、その副題はどういう副題つければいいんですか、浅利委員。

【浅利委員】 分科会に任せていただいて、分科会で案つくって、それを全体会議に出して、皆さんの選択に任せてきめる。

【河合委員】 委員さんの書いておられる表現とちょっと違うんですね。

【江崎座長】 そうです。そのほかにこの分科会の名前はちょっと美しすぎますから(笑)。

【河上委員】 私も第1分科会に参加させてもらいたいと思ったんですけれども、今の浅利さんと同じように、どうも現実とそぐわないかなと。私、前にも少しお話しさせていただきましたけれども、例えば、基本的な生活習慣がついてない子どもが大量に出てきているとか、社会性のない子どもたちが大量に生まれているとか、当然倫理観の欠如も含めて、そういう子どもたちを何とかしなくてはいけないというのをこの分科会で話していただきたいと。「心美しい活力ある日本人」というと、ちょっとギャップが激しいかなという気がします。

【江崎座長】 私が皆さんに出したお手紙の中にはそういうことを十分書いたと思います。

【河上委員】 そうですね。あれは江崎さんの提案を見ると、これは私は第1分科会だなと思ったのですけれども、分科会の検討事項例を見ると、ここへ私参加しちゃうと、ちょっとしゃべれないかなと、そんな気がしました。

【江崎座長】 これは総理の言葉からとっただけの話でございまして、皆さんがいろいろ第1分科会の方で勝手に決めていただければいいと思います。そのほかに。黒田委員。

【黒田委員】 分科会に関する意見を事務局に聞かれたときに、「学校制度をどうするかなどをディスカッションする前に、現在学校の位置づけというものが大分変わってきているなかで、学校でしかできないことは一体何かということをまず議論してそれから制度をどう変えるかをディスカッションしてほしい」ということを意見としてお送りしてあります。それを今日実際ディスカッションしていただいて非常にありがたいと思うんですが、そのようなことはもう分科会に入ったら全然ディスカッションされないんですか?もうひとつ、第2分科会にいくと「学校教育の充実を図る分科会」、になってしまいます。第3分科会の「創造性の高い人材……」、これはもうちょっと広いのかもしれません。それから第1分科会の「心美しい……」になると、もう少しわからなくなったんですが、分科会の間の関係はどうなのでしょうか。

【江崎座長】 分科会の間の関係。

【黒田委員】 ええ。それで、早く分科会に入りなさいという意見もあるのですけれど、私には心配です。先ほどの「ゆとり」に関しても、実際に具体的にゆとりというのが何かということのコンセンサスがないままに、言葉だけが走っているので、いろいろ弊害も生むし、皆さんの認識も違ってくるのではないかと思うんです。コンセンサスがなくて、分科会でゆとりをどうしたらいいだろうとか、教員制度をどうしたらいいのか、飛び級をどうしたらいいんだろうかとか、そういう具体的なことを話すのはまずい。その前に、もうちょっとちゃんと学校の位置づけや言葉の意味するところのコンセンサスがないと、結局はうまくいかないのではないかということを非常に心配しています。

 ですから、その辺をどういうふうにやっていくのかということを、よくディスカッションしてから分科会に分かれていただきたいと思います。

【江崎座長】 その点、配慮いたしまして、5月11日だったと思いますが、もう一度全体会議をやりまして、その後、分科会。この次、もう少し細かいことを論議していただきます。

【河野委員】 私は第3分科会にできれば入りたいと思うんですけれども、国際性というようなことからいって、海外からの留学生を日本びいきにして返す必要がある、そのための対応策が必要ではないかとの趣旨で出したんですけれども、その辺も論議をする必要があるのではないか。外国から日本に来た留学生は、むしろ日本が嫌いになっちゃうというようなことでは、これからの日本が国際社会に出ていく場合にまずいのではないか、その辺も併せて論議できたらと出したのですけど、それはこの中には入ってないです。

【江崎座長】 それが書いてございませんか。

【河野委員】 と思いますが。

【黒田委員】 一番最後に書いてあります。

【河野委員】 書いてありますか。

【町村総理補佐官】 一番最後の最後に。

【河野委員】 そうですか、すいません。

【江崎座長】 一番最後の「国際性ある教育の充実」の「留学生への対応策の充実」、最後の最後に書きまして失礼しましたが、一応。

【浅利委員】 大平内閣の政策委員会のときに、「田園都市国家構想委員会」という中核委員会がありました。全部で九つの委員会があったんですが。九つの委員会でやるテーマは、メインの委員会に反映して議論されてました。

 今、私は黒田先生のおっしゃることはそのとおりだと思うんです。中核的な会合をつくって、そこはだれでも、いつでも出て来れるようにして本質的な議論をするというのはどうでしょう。

【森委員】 余りしゃべってはいけないのではないかと思うんですが、発言がなかったので。共通的審議事項と三つの分科会との関係がはっきりしないことが一つ。

 それから、共通的審議事項で三つ目のマルで、「国民運動、『教育の日』の制定」とありますが、これは私も賛成なんですが、たしか森山真弓さんが文部大臣のころ、私大臣と対談しまして、「教育の日」をつくっていただきたいということを申し上げたことがあるんです。産経新聞の「正論」にちょうどそういうことを書いていたものですから。そしたら、森山真弓さんが「栃木県ではもうやってますよ」とおっしゃったんです。それで後で資料をいただいたのですが、最近、大宮市でも「教育の日」というのをやっておりますので、地方自治体が先行しているときに国としてどうするかということを考えなければいけないなという感じを持っています。

【江崎座長】 分科会をやりまして、その分科会を踏まえて、もちろん全体会をするわけです。中核的という、それをつくるほど、それほど大きな数の人数ではございません。ここの26人ほどですので、三つに割りますと8人程度ですから、8人程度のものを三つで、そのほかに中核的というのをつくるのは技術的にちょっと難しいように思うのでございます。

 何かほかに、はい、どうぞ。

【勝田委員】 私、個人のことで大変恐縮ですけれども、一番最初の会合で、文部省の役人は嫌がるかもしれないけれども、教科書検定の問題、それをいっそのこと廃止して、教科書を自由化したらどうか論じたんですが、その意見は全然書いていませんね。それはオミットしますか。

【町村総理補佐官】 いや、5ページの上から4〜5行目に、「教育内容・方法の改善」で、「教科書検定廃止(勝田)」と。

【河合委員】 5ページに入っていますよ。

【江崎座長】 入っていますね。

【勝田委員】 やっぱりちゃんと書いてあるんだ、すいません(笑)。

【江崎座長】 この会議の担当室、後ろにおられる方々は大変細かくやっておられますから。

【河上委員】 先ほど黒田さんがおっしゃったことと同じことなんですけれども、現場の学校の教師としては、義務教育の役割というのはどういうものなのかということをはっきりさせてほしいというのが最大の要求です。先ほど石原さんがおっしゃったことは、私は反対ではないんですよね。学校の役割は何かという共通理解を求めなければいけないと。ともかく学校はいっぱいいろんなものを要求されて四苦八苦しているのは事実ですから、義務教育というのは一体どういう役割を持っているのか。

 私なんかの現場で言うと、今学校は権限が全くありませんから、その中で立ったまま崩れていくような状況があります。そういう意味で言うと、義務教育ということが、ある種、国なら国の、社会の強制的な力も発揮すべきではないかという感じを強く持っているんですよね。そういうものがないと教育ができない状況がありますから。そういうことも含めて、義務教育の学校の役割と学校の権限というのでしょうか、そういうものをどこかである程度ちゃんと議論してくれないと、先へ進めないかなと思います。

 例えば、自由にしてしまえというと学校の教師は楽なんですよね。やらなくていいんですから。ですから、その点をどこかではっきりさせてほしいと思います。

【町村総理補佐官】 私も若干彼らと相談したのですけれども、学校の役割は第2分科会で、今おっしゃったような、一番上に「学校の権限、義務教育の役割の明確化」というところに書いてあって、他方、家庭教育の役割、親の意識改革、地域社会というのは第1分科会の2ページの下の方に書いてあって、これがバラバラであるからきちんとした議論が統合できないということでしょうから、今日は皆さんの御意見をおあずかりして、また江崎先生中心に考えますが、学校の役割と家庭の役割、さっきの地域の役割というのは、第1分科会にまとめて、そこで議論するということも一案かもしれませんね。あるいは、おっしゃるとおり、全体会議でももちろんやっていくということかもしれませんですね。

【江崎座長】 1、2、3と分けましても、当然オーバーラップの分野があるわけですね。オーバーラップは当然するのですが、どういうふうに分けるか、技術的な問題で、今、町村補佐官がおっしゃったように、細かく見ますと、第2分科会と第3分科会がオーバーラップするところも諸々あるわけなんです。ですから余り一つの分科会にいろいろ多くではなしにできるだけ分散したいというのが一方でございます。

【町村総理補佐官】 これは検討します。

【江崎座長】 金子委員。

【金子委員】 三つぐらいに分けるというのはいいと思う。私は、具体的テーマを設定して、そのテーマはどこでやるかということよりも、どういう性格の分科会かということを考えた方がいいと思うんですね。家庭の役割は1で、学校の役割は2といったら、それはおかくなるので、分科会1はある意味でそもそも論というか、理念とか、どうしたらいいの、こんなになっちゃって、というようなことかと思います。

 第2は、もう少し枠組みというか、具体的な枠組みの問題で、それには当然学校制度の話もかなり入ってくる。

 3番目は、創造性を伸ばすための超制度的な方法論というか、どういうふうにしたら、創造性を伸ばすような人を育てられるかということです。必ずしも方法論ということでなく。大学なんかは制度はかなり緩いけれども、実際創造性のある人がなかなか出てこない。家庭とNPOと地域と学校の役割、義務教育をどこまで強制して、どこまで自由にするかという話は1でやってもいいし2でやってもいいけど、視点が違う形がいいのかなという気がします。3は、江崎さんがずっとおっしゃっているような、ある種、スペシャル・タスクフォースというか、そういう形でやる。

 そういう形にすれば、三つでよくて、テーマはある程度重ね合う。2と3もかなり重ね合うところがあると思うんですね。余りテーマをここというふうにやってしまうと窮屈になってしまうと思います。

【江崎座長】 ありがとうございました。大変サジェスティブなことです。

【浅利委員】 ちょっと一言申し上げたいのですけれども、さっき芸術とかドラマは軟派なものだというふうな発言があったように思うので、芸術家として一言申し上げたいんです。

 芸術と子どもたちの心という問題について、実は私、日生劇場で1964年に始めて以来36年間、「子どもたちのための名作劇場」という仕事を続けております。毎年東京50回、全国で数百回。過去1,000万人以上の子どもに見せることができました。今年はケストナーの名作の『ふたりのロッテ』を6月から7月にかけて日生でやります。これは両親が離婚して一人一人ひきとられて育てられた双子の子どもが、林間学校で出会うんですね。そこで自分たちが双子だということを知る。二人が入れ替わって帰って、父親と母親、離婚した二人をもう一度出会わせるという家族の愛情物語なんです。これを観て泣かない子は少ないと思います。かなり強い働きかけが子どもたちの心にあると思います。

 今ドラマのことを申し上げたんですけれども、映画でもそうですし、美術関係でもそうですし、芸術はかなり子どもたちの心に働きかけるというふうに教育の御専門の方々に是非ご理解いただきたいと思います。

【江崎座長】 ありがとうございます。欧米の大学ではどこでもドラマのデパートメントがありますけれども、日本の総合大学には比較的ドラマを持っているところは少ないですよね。何かほかに御意見。

【浅利委員】 今年はみなさまを御招待さしあげますので(笑)、50日やっておりますから、どこかでご覧いただくと、なるほどなというふうに思っていただけるのではないかと思います。

【河合委員】 みんな見に行くべきですね。本当にすばらしい。

【江崎座長】 それでは、グレゴリー・クラーク委員。

【クラーク委員】 第3分科会のネーミングの問題なんですが、「創造性の高い人材育成」、創造性と道徳は同じなんですけど……。

【江崎座長】 創造性と?

【クラーク委員】 「創造性の高い人材」、創造性は、座長の方が私よりも詳しいんですけれども、学校で得られるものではないですね。いろいろ経験を重ねて、得られるものでその点は道徳と同じなんです。いろいろ経験を経て、それで創造性は湧いてくる。例えばアインシュタインは余り学校へ行けなかったとか、もしかして学校をやめた方がいいのではないかということさえいい得る。その意味で「充実している教育」の方がいいのではないか。

【江崎座長】 内容が充実した教育。

【クラーク委員】 「創造性の高い」はカッコいいんです。それに反対していないけれども、実際には創造性を養成するのは非常に微妙なことなんです。場合によっては大学に行かない方がいいんですけれどもね。

【江崎座長】 自分でつかみ取るわけですね。トーマス・エジソンも4カ月しか小学校へ行かなかったという話もありますから。

【クラーク委員】 そういうことなんですね。

【河合委員】 ただ、「創造性の高い人材」ということは、特に日本ではどうしても考える必要があると私は思っているんですね。だから、どこかやっぱり絶対、分科会で話をしていただかないと。これは日本の問題ですので、どういう格好にするか、私はこういうのは絶対だと考えております。

【江崎座長】 ありがとうございました。木村委員。

【木村委員】 今の「創造性」の話なんですが、文部省で協力者会議をやりましたときに、非常にうまい解釈が出てきました。エジソンとかアインシュタイン、あの方たちは習わなくても創造力を発揮できる人ですね。それが一つのタイプ。もうひとつタイプがあって、非常に広範な知識を持って、それを総合して高い創造性を発揮する人。ビル・ゲイツは多分そうだと思うんですが。

 教育で育てられるのは後者の方であって、前者の方は教室では育てられないだろうと思います。我が国は後者を育てる教育がうまくいってない。

【江崎座長】 うまくいってないです。

【木村委員】 英国などを見ていると、その辺についての教育は比較的機能しているような気がします。

【江崎座長】 「ゆとり」という問題もいろいろ解釈あるように、「創造性」というのもいろんな解釈がありますから。ありがとうございました。何かほかにございますか。

【石原委員】 恐れ入りますが、よろしいでしょうか。4ページの1番のところ、上から5番目、「学校設置の自由化」で、その下に「市町村の裁量権限の拡大」とございますけれども、市町村が学校を設置するというのは義務的でありまして、自由化ができるというふうには思えませんので、この項目の中での「市町村の裁量権限の拡大」は、管理運営において、もっと市町村の自主性が出るようにという意味で、前に申し上げたので、設置の自由化の枠組みとはちょっと違う。もしつくりたくないと言って、つくらないというわけにもいきませんし(笑)。

【江崎座長】 それは確かに石原さんのおっしゃるとおりだと思います。設置の自由度は市町村が持っているはずございませんね。

【町村総理補佐官】 おっしゃるとおりです。

【江崎座長】 訂正しましょう。

 今日は残念ながら、総理はいらっしゃらなくて……。

【町村総理補佐官】 予算委員会が長引いて、申し訳ありませんでした。

【江崎座長】 それでは、また次回におきまして、各分科会の審議事項について、分科会の審議が始まる前に、全体会としてもう一度検討を行ってはどうかと考えております。全体会で分科会の審議事項について論議を行っておくことにより、今後の分科会審議の参考にしていただくようにしたいと考えております。

 時間が参りましたので、本日の御審議はこのくらいにさせていただきたいと思います。 なお、次回の全体会の日程につきましては、5月中旬、皆様から出席が可能であるとの回答が最も多い5月11日午後3時から5時まで開催する予定をしております。それでは、よろしくお願いします。

【町村総理補佐官】 今、お話申し上げたように、5月11日3時から5時と、この時間が皆さん方の一番出席可能性が高い日時だということでございますので、ひとつよろしくお願いを申し上げます。

 なお、次回、今、江崎座長言われてましたように、分科会におきます、お手元にお配りしたこの資料5の検討事項、審議内容、それぞれの委員さんがどこに所属をしていただくか、あと主査をどなたにお願いをするかというようなことを含めて、座長と先ほど申し上げた企画委員の皆さん方で少し御相談をしていただいて案を作成して御提示をしたいと思っております。

 なお、さっき黒田先生はじめ大勢の方々から、出発点におけるゆとりとか共通認識を持っておくための議論ももう一回必要だろうということで、次回の会合ということにさせていただきたいと思いますので、まだ、しかるべきどなたかに、特に臨教審のコンセプトと言いましょうか、最近動いているコンセプトと実体論が本当にこれでいいのかどうかというあたりは、もうちょっと共通認識を持っていただくための議論も併せて次回お願いをしようかなと。その後、次々回から分科会に分かれると、そんなふうに取り進めさせていただければと思いますのでよろしくお願い申し上げます。

【浅利委員】 ちょっと一言申し上げます。3時〜5時というと一日つぶれちゃうんですね、ど真ん中に置かれるので。5時〜7時、そんな悪い時間じゃないんですよ、4時まで仕事できますから。だから5時〜7時はだめなんだというふうにお考えにならないでください。朝でもいい。8時から10時とか。

【町村総理補佐官】 すいません、予算委員会から総理が皆さんのお顔をちょっと見たいということで、もうすぐお入りになるそうでございますので。

(森総理入室)

【江崎座長】 ちょうど今終わったところなんでございます。

【森総理】 ちゃんとそれを計算して来たみたいです(笑)。

【江崎座長】 何か一言。

【森総理】 いや、終わったのですから。

【町村総理補佐官】 時間は改めて、もう一度事務局から大至急御連絡をさせていただきます。若干の時間の後ずらしにするかどうかですね。大至急、時間は明日にでも御連絡をとらせていただきます。

【江崎座長】 今日は戦後教育の総決算ということで、二人の委員に話していただきまして論議して、それから、やがて三つの分科会に分かれて、もう少し濃厚な議論していくという準備になっておりまして、この次は5月11日全体会議をやりまして、何時からやるということは微妙なことになっておりまして。

【町村総理補佐官】 総理、臨教審を立ち上げになられた文部大臣として、今、臨教審のゆとり教育等々が良かったか悪かったかということが主たる論点になりましたので。

【江崎座長】 ちょっとやり玉に挙がっているんです(笑)。「ゆとり」という言葉の解釈の方法でございますね。ゆとりが緩みになるといかんというのが河合委員の。

【河合委員】 ゆとりはいいんです。

【江崎座長】 ゆとりはいいんですが、どうも緩みに。

【町村総理補佐官】 何か総理。

【森総理】 いや、本当に御苦労さまでございます。

【江崎座長】 それでは、どうもありがとうございました。

【町村総理補佐官】 よろしいですか。

【森総理】 結構です。

【町村総理補佐官】 どうもありがとうございました。