1.教育という営みにとって大切な視点は何か。
教育の営みの基本理念は、知・徳・体をバランスよく備えた人間の育成にある。戦後50年の教育を振り返ってみると、教育におけるバランスは、大きく知育に片寄ってきた。
これは何も国の施策に誤りがあったためではない。文部省ではいち早くこの点を危惧して、昭和33年の指導要領の改訂で道徳の時間を設定し、教育内容の充実と調和を図ってきたのである。
しかし、教育現場ではこれに反対し、そのために40年を経た現在でも、未だに教育の中に浸透していない。このことが今のような不安定な人間社会を作り上げてしまう原因の一つになってしまったのである。
教育では、知育と同様に徳育が重視されなければならない。世界の歴史において、どこの国においても宗教、或いは道徳でもって人づくりを行ってきたのである。私は、教育における大切な視点は道徳教育の充実にあると考えている。子供たちに発言させたり、授業の手順を大切にしたりすることだけが道徳の指導ではない。大切なのは、歴史上の著名な人物のたのもしい生き方などを数多く話して聞かせて、生徒の心をゆさぶっていく、そういう道徳の授業が展開されていくことである。
そこから人間としての向上心が生れ育ち、知・徳・体のバランスのとれたたのもしい人物が生まれていくのだ。
2.学校・家族・地域社会のそれぞれが、どのような役割を発揮すべきか。
学校教育で弱かったのは道徳性の育成であった。徳性を育てるには、先ず教師自らが徳性と品性を備えていく必要がある。そのことが実は教育を正常な姿に変えていくのだということを自覚すべきである。学校の役割は教師が人間として高まっていく姿を作り出していくことではないのか。
家族の役割では、自分の子供を育てるのに他人まかせであってはならないということである。共稼ぎをするならば、よしんば保育所にわが子をあずけた結果、保育所に不十分さがあったとしても相手のせいにしてはならない。家族は、教育においても自己責任の自覚が必要なのだ。家族の役割は、自己責任の思想を築いていくことである。
地域社会については、近隣の子供たちに声をかけるなどのあり方も大切であるが、子供たちが置かれている地域社会、その環境に真剣に注意を向けるべきである。一部TV番組の堕落。市販されているヘアヌード週刊誌の氾濫。このような状態を社会全体の中で改めない限り、いくら学校や家庭が努力しても教育や家庭が崩壊していくことを止めることは出来ないだろう。学校、家庭はそれぞれ一生懸命努力をしている。だがマスコミ、特にTVは、表現の自由と称して勝手極まりなく、日本の国の将来を考えているとは思われない。日本の国の将来や、青少年の健全育成に努めるどころか、これに貢献していこうとする意識すらうかがえない。これは、教育にとって重大な負の影響となっている。地域社会は、これを払拭していくとの努力の一語に尽きよう。
地域社会の役割は、青少年の環境浄化である。
3.「個」と「公」について
戦後の教育の中では個性尊重が叫ばれる余り、公に対する教育がおろそかにされてきた。それだけではない。事あるごとに公を悪者扱いにし、「公」批判に明け暮れてきたきらいがある。
個を重視する余り公をおろそかにした教育から生まれてきたものは、他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいという個人主義、利己主義的な風潮である。
自由の行使には責任が伴うように、個の尊重には公への義務が伴う。この指導をおろそかにした。その結果、自己主張のみを身につけた大人が生じた。
学校が悪い、教員が悪い、あの親が悪い、役所が悪いと、自分の責任や義務は棚に上げて相手を攻撃する。
「個」と「公」については、道徳の指導の中で、徹底して指導していく必要がある。
4.教育改革を今後どのように進めていくべきか。
昔から教育は百年の計と言われてきた。また、教育は、先人が築いてきた文化・伝統を正しく継承させることであるとも言われてきた。
新しい教育方法を取り入れて改革を図ることも大切であるが、教育は本来、保守的なものであろう。故きを温ね、新しきを知るものであると思う。こつこつと積み重ねていく、時間のかかるものでもあろう。新しいものを追うときに注意しなければならないのは、そこに基礎的なもの、教育で失ってはならない原理的なものを見失ったり、落としたりしてしまうことである。新しいものを追いかけた戦後の教育の失敗もそこにあったのではなかろうか。
21世紀に育成されなければならない人間は、日本が古来から育くんできた、節度と謙虚さを持った人間、信頼される人間ではなかろうか。
私は思う。教育は学校を信頼し、学校にゆだね、学校は営々として知・徳・体の原理を児童生徒に積み重ねていく。このことが大切であると。教育は時代の流れに軽々しく乗ってはいけないと思う。
家庭や地域社会は(マスコミも含めて)学校を力強く支援していくことが大切である。
戦後50年で失ったまともな日本人をとり戻すには、今後、少なくとも50年は要することであろう。日本が有していた過去の日本人のための教育をもう一度見直し、急がずに、しかもあきらめずに改革を進めていくべきである。
今の子供達に不足しているものは、人と人との関わりの中でもまれて育つという体験です。かつては、大家族の中で兄弟で争い、夫婦で争い、親子で争い、それを他の家族が仲裁するという姿も見て子供は育ちました。人とのつき合い方を学ぶ第一歩でした。核家族の中では仲裁してくれる人もいないので、ぶつかり合いが決裂にまで進んだり、それがこわくて我慢していてストレスがたまり突然爆発したりという親の姿があります。親子や兄弟の関係にも幅がありません。
地域の近所 付き合いも弱くなりました。近所の大人に守られ怒られして育てられることもありません。親が近所の人達と協力したり、問題を解決したり、共に生きる姿を見られることも少なくなりました。子供も異年齢の集団の中で、年上の子に教えられたり守られたり、年下の子を叱ったりまとめたり、そういう経験をすることも少なくなりました。子供達の多くは、独りで遊ぶゲームに好奇心と時間を費やしています。ゲームの中での人と人の関係の多くは「倒すか、倒されるか」というものです。
その結果、学齢に達して人との関わりが避けられなくなったときに、人との関わり方がわからず、自分勝手な行動に出るとか、自分の中に閉じこもる子供が何人も見られるようになりました。また、自分の感情をうまく言葉で表現できなかったり、相手の反応を恐れるあまり自分を押さえ込んだまま集団生活を送ったりしている子供もいます。そういう子供達にとって、人との付き合いは決して楽しいものではありません。ストレスをためながら限界を超える度に突然キレる(感情を言葉で伝えて気持ちを整理することができず、暴力的な攻撃で表現する)子供もいます。
親や教員は、子供が手に負えなくなってから事態を改善しなくてはと思うことが多いのですが、幼いうちの働きかけこそが大切で、効果的です。
○子供達に必要なこと
子供達に必要なことは、「人との関わり」の方法を教え、その楽しさと重要性に気付かせ、積極的に交流する気持ちを持たせることです。そのための教育の一つが、人間関係トレーニングです。それぞれ子供の発達段階に応じた内容と方法があります。
私は、高等学校で5年前に「カウンセリング講座」という授業を創りました。これは、カウンセラーになるための授業ではなくて、「心を開いて人の話に耳を傾けよう」「受け入れられることがエネルギーになる」というカウンセリングの考え方を学び日常生活に生かすということを目標にした授業です。もちろん、その考え方を将来の子育てに生かすという内容も入っています。それらをいきなり教えるのではなく、まず「身体の触れ合い」から「心のふれあい」へと、信頼作りのワーク(例えば、一人の生徒をみんなで気持ちを合わせて持ち上げる等)や、表現と傾聴のトレーニング等から入っていきます。それは仲間作りの授業でもあります。
その中では、自分の感情を言葉で表現すること、それを全身で受け止めること、相手の思いに共感して相手の立場でも考えるようになれることを繰り返し体験します。例えば、グループの中で順番に一人ずつみんなに話をします。仲間にうなづきながらじっくり話を聴いてもらえた喜びを体験します。その喜びと満足をエネルギーにして、自分もまた他のメンバーの話をうなずきながら聴きます。逆に、自分が話をするときにみんなが勝手に私語をしたり顔を伏せて眠ったふりをしたりよそ見をしたりしていると、どんなに話がしにくいか悲しいかという思いを体験します。
それらのことから、自分の視線や表情や座り方などの態度や表現が人にどういうメッセージとして伝わるのかということを考えさせます。
それは、自分を表現することと自分勝手は違うことを知る、グループの中での自分の行動を振り返るなどの働きも持っています。これらの学習による具体的な行動変容もあります。親に対する見方が変わったとか、弟や妹への気持ちが優しくなれたとかの感想があります。
こういう取り組みを、幼・小・中の学習の中にも位置づけていくことが必要だと思います。「心の教育」というとやや抽象的ですが、人間関係の持ち方・あり方を遊びやワークの中からの「ふりかえり」で考えさせていくということです。総合学習の中にこういう人間関係トレーニングやエンカウンター(人と人の出会いのワーク)を取り入れていく動きはありますが、まだまだ現場では総合学習についての混乱も大きいようです。
参加・体験型学習というのもよく言われています。もちろん講義を聴くだけよりも実際に触ってみる試してみるというのは効果的です。しかし、今必要なのは、「人の輪の中に『参加』し、人とのつながりを『体験』する」という参加・体験だと私は色々な場所で力説しています。
「参加・体験」では、インターネットなどのコンピューター教育も例に挙げられていますが、「機械や科学の力を借りて人とつながるよりも、目の前の、隣の人と対話してみる」ことが基本です。インターネットやコンピューターに没頭して、家に閉じこもって生身の人間とは面と向かえない不登校・引きこもりの子供もいるのです。学校に充実したコンピューター教育機器を取りそろえることが、それだけで教育の充実にはつながりません。(アメリカの学校の実態を見てもそう思います)それよりは、「人とつき合う力を育てる」ための教育システム開発と学校現場の人的充実が大切です。
突然キレる子供や学校崩壊などには、子供の「人との関わり方の問題」「共感性の欠如」「愛情欲求」などが複雑に絡み合っています。それらに対応する方法として次の2点を考えています。
・学校と保護者のつながりの強化
・子供と一対一で関わる教員の配置
学校で保護者向けの「子育て」や「子供とのつき合い方」のセミナーや親同士の交流会の場を提供します。例えば、私の場合地域の小学校で保護者向けの「カウンセリング講座」を開設していただいて講師をしています。しかし、一番問題なのはそういう催しに参加してこない親達であり、その子供である場合が多いのです。子供の教育や成長に関心が薄い、学校に出向くのも面倒、子供の言動が気に入らないとすぐに暴力的な接し方をする、そういう親達です。そういう親に育てられてきた子供は「教員の話が心に届かない」「集団や他の子供への思いやりがない」場合がほとんどです。そういう子供には教員は「クラス集団の中の一人」として接するのでなくて、「一対一の人間として(親子のような関係で)」接する必要があります。その子供に信頼と愛情を基本とした人間関係を築く「育て直し」をするのです。しかし、担任がその子供に時間と関心を奪われてクラス集団から眼がそれると「崩壊」につながります。そういう子供に一対一で関われる時間と能力を持った教員を育成し、配置することが望まれます。スクールカウンセラーより、もっと能動的・活動的に「親」や「子供」の支援に動き回る「スクールペアレンツ」というイメージの教員です。(教員でなくても、外部の方でもいいと思います)「教育」の「育」の部分に、中心になって関わる人材です。
こうした報告書や答申の結果、文部省では「野外教育企画担当者セミナー」や「野外教育全国フォーラム」「自然体験活動に関連する調査研究」「インターネットを活用した情報公開」等に積極的に取り組んでいます。また、自然体験活動をキーワードにしている文部省、環境庁、林野庁、建設省、農水省の外郭団体や、民間団体が中心となり、全く新しい自然体験活動指導者登録制度の設立を目指し、現在検討をしています。まさに、官民、省庁間の壁を越えた連携による新しい動きが始まっています。このことにより、今までにない大きな力で、青少年のため、国民のために、より一層の貢献が期待されることでしょう。
さて、このような現状を見ると充実した状況にあると考えられます。しかし、実際にはまだまだ数多くの課題が山積しています。
最も根本的な課題は子ども達の生活体験や自然体験の機会を如何に増やすかにあります。なかでも、子ども達自身が、家庭や地域そして学校等で自らが体験しようとしないかぎり、大人である私達がその体験のできる機会を作らなければなりません。しかし、その大人達も今は忙しく、なかなか子ども達のことまで手が回らないのが実状です。
大人が機会を用意したとしても、その面倒を見てくれる大人や指導者が不足しており、そうした体験ができる場も不足しています。また、専門的に考える指導者が所属する組織や体制も十分確立されていません。さらに、そうした組織ができるための法的制度も確立されていません。
前述した中央教育審議会や生涯学習審議会等で答申されていても、現在の子ども達に生活体験や自然体験の必要性が全くといっていいほど、家庭や学校そして社会に理解されていない状況もあります。そのため、大人が何故体験できる機会を提供しなければならないのかという理由がわからないのではないでしょうか。
ドイツの教育学者クルト・ハーンは、「青少年に考え方を強要することは間違いだが、体験を強要することは大人の義務である」と言っています。私はまさにこの言葉通りのことが大切であると考えています。
そのためにはまず、以下のような提案をしたいと思います。
1.自然体験活動の機会を提供できるボランティアであれ、プロであれ、指導者の養成が急務で、特に大学等の高等教育機関でも専門的養成課程の設置が必要です。
2.指導者を束ねる組織づくりあるいはそのための支援が必要です。
3.体験活動ができる場所や施設の整備が必要です。
4.体験活動を推進する組織体が自立できる経済的支援が必要です。
5.体験活動をより推進するために現行法の見通しやあるいは新しい法制度の確立が必要です。
さらに
1.体験活動を通じて「生きる力をはぐくむ」ためには米国、フランス、ロシア等のように体験活動の長期化が必要で、できれば、オーストラリアのように学校教育の一環として1年間自然、生活体験のできる機会が必要です。
2.そのためには学校教育の中にしっかりとした位置付けが必要です。現在のところ総合的学習の時間が取り上げられていますが、まだまだ検討が必要です。
3.21世紀の課題とされている教育、環境保全、地域振興といったことを総合的に解決するための専門的指導者、施設、組織(自然学校)の充実が必要です。
4.日常的に自然とのふれあいが可能と思われる都市公園型自然学校の設立が必要です。
5.専門的かつ総合的な視点で検討することのできる審議会または検討会の設置が必要です。
以上のような提案ができる機会、そして具体的な施策提言のできる教育改革国民会議に大いに期待をしたいと思います。
One of the forces behind the current educational reform is a recognition among many leaders in Japan that something is lacking in Japan's ability to respond adequately on the world stage, to articulate its opinions clearly in public forums, and to respond quickly and appropriately to international crises. Some suggest that what is lacking is a solid understanding of and fluency in English. Critics call for reform in English language education, as well as enhanced emphasis on global education, implying that if a broader spectrum of Japanese society had the capability to engage in dialog with those from outside Japan, Japan would be more capable of participating as an industrialized nation in global discussions. However, there are already many specialists in business, government, education and other major professions with a high degree of fluency in English. To think that Japan can develop the transnational (or international/global) competencies simply by reforming its English language education curriculum or by increasing the number of people who are fluent in English is, I think, naive. This may, indeed, be necessary but it is not sufficient. If the leadership is unable, for whatever reasons, to give forthright and timely responses, no amount of English language fluency or "global sophistication" is going to solve the "problem". This issue goes deeply into the make up of Japanese culture and society. It is unrealistic to expect that the society will move toward a new social paradigm that encourages more self expression and that recognizes individual initiative simply by increasing the society's fluency in English. Given that the English language has become the "lingua franca" of today's global village, however, communicative competence in English is certainly one of the key elements needed to respond adequately to the needs of the 21st century.
The reformist goals recently suggested by the Prime Minister and Minister of Education are admirable in their scope and far-sightedness. In order to be realized, these goals require multiple strategies on many fronts. Because of limited space, I would like to focus my comments primarily on my area of expertise, the goal of increased and more widespread English language competency.
Secondary schools are the primary delivery points for English language education. For the amount of time and effort spent, the outcome of the current English language education system in Japan is not what it could be. For example, after six years of English, the majority of graduates appear not to be able to read with any degree of "fluency". Translate, yes; identify grammar rules, yes. But, communicate orally, probably not. Additionally, few high school graduates are able to carry on even relatively simple conversations in English. English language teachers are to be commended for doing so well within the present curriculum guidelines and within an environment where "natural" and necessary contact with the English language is almost non-existent. Typically, the current curriculum neither encourages oral/aural communication nor reading and writing fluency. It is basically a linguistic approach to language study, which is to say the curriculum provides a way to study ABOUT English but not to use it. Extraordinary time is spent memorizing grammar and pronunciation rules, and in tedious translation. I believe that the goals for the English language curriculum should be reading for fluency and an emphasis on a very defined core of aural/oral competencies. [Please see enclosed speech.]
Much of Japan's English language curriculum is ultimately driven by the English portions of the high school and university entrance exams. The guidelines from the Ministry of Education also have a tremendous influence on this process. Given the current highly centralized and entrance-exam-driven system of education in Japan, one way to quickly change the results is for the Monbusho to require all public high schools and universities to add an English language aural comprehension component to the entrance exams. As an alternative, the Monbusho could encourage the use of one of the recognized tests of English language proficiency such as the TOEIC or the TOEFL as part of the university entrance examination. Such a step by the government would immediately signal to teachers and students alike that studying English in order to communicate, not just to translate, is a priority and a necessity.
A serious effort to increase English language proficiency must be accompanied by a commitment to creating an environment in which language fluency is a necessity, not simply an option. For example, if more and more companies required English for employment, then one way or the other, candidates will start learning the skills necessary to reach the required level of competency. If public signs on highways, in train stations and other public areas were in Japanese and English, people would eventually learn to read them and become familiar with a wider range of vocabulary. By encouraging shops and restaurants to have signs and menus in English, at least in urban areas, more people would become comfortable and familiar with everyday, usable English. Proprietors could be given tax breaks as incentives to encourage them and their employees to learn basic oral English. All of these efforts would result in the acquisition of useful and usable English.
Companies, organizations and the government civil service should consider making English proficiency a requirement for employment and/or advancement. English proficiency tests (such as TOEIC or TOEFL) can be used in combination with interviews to determine a candidate's competency in English. Employment and advancement should be opened to non-Japanese who have the necessary language and inter-cultural skills. Employees should be strongly encouraged to spend significant time abroad with incentives provided to do so. Employers should create an environment where supervisors encourage, rather than discourage, employees to learn foreign languages and study abroad.
If mechanisms that require acquisition of language skills can be put in place, then parents and individuals will demand that they and/or their children be given opportunities to increase their proficiency in the English language. Without such an environment, measurable increase in the English language competence of the average Japanese will be extremely difficult. If the schools, universities and the workplace require communicative skills in English, then carrying out reforms in school curriculum will flow more naturally. I have enclosed a talk in which I suggest specific ways to modify the school English curriculum and pedagogy in Japan to better meet the needs of the 21st Century. I have also enclosed a brief description of the Fulbright Memorial Fund (FMF) Master Teacher Program which is being administered by the Japan-United States Educational Commission through generous funding from the Government of Japan. I think this program can serve as a useful educational model for carrying out sound and realistic educational goals while utilizing information technology, a second language (English) and educational exchange as effective tools to accomplish the goals.
Again, thank you for this chance to comment on the stimulating reform package that you have proposed. If I can be of further service, I would be honored to be called upon.
Samuel M. Shepherd
Executive Director
Japan-United States Educational Commission
March 10, 2000
When I came to Japan as a Fulbrighter in 1973, I was a teacher-trainer based at the Kanagawa Prefectural Education Center in Fujisawa. There I learned even more about the day to day demands of English teachers. Most often, I worked with teachers who came to the Center, but I also visited middle and high schools throughout Kanagawa Prefecture. I found the vast majority of English teachers to be very earnest, capable and committed to providing effective language instruction within the parameters laid out by the MOE. Many teachers were very creative and looked for every opportunity to develop themselves professionally so they could become more effective language teachers. During those years, and reinforced in subsequent years, I began to develop an understanding of the issues that seemed to perennially face Japanese teachers of English and those associated with English language education in Japan. I will first make some general comments on English language education, then look more specifically at the impact of internationalization on the teaching of language in Japan. In conclusion, I would like to make some comments looking toward the future.
The overarching policy and goals for language education in Japanese public education undergoes periodic scrutiny and debate. One of the more traditional rationales for teaching English was to expose students to another, contrasting language structure and in turn to expose students to the literature, often the "classics", of Western culture. This was most often done through a rigorous study of English syntax (grammar), memorization of vocabulary, and unending exercises in translation. In practice, this approach to language instruction didn't concern itself much with teaching language as a communicative tool, but as an end in itself, much as formal linguistics. These goals, and the influence of these goals on the entrance exam system of admission, resulted in a "grammar-translation" approach to teaching. Within this policy, exposure to another culture through the study of language structure and selected translations were quite enough and a perfectly valid reason to make the study of English mandatory throughout secondary education. IF, with hard work and some luck, some students came through with some degree of fluency in the language, then that was icing on the cake. However, the lack of oral/aural fluency was not something to be overly concerned about.
There was inevitably a reaction to this language policy from a number of quarters. For one, there were the native speakers of English who could quite predictably be counted on to complain loud and long about the quality of English language instruction in Japanese middle and high schools. This "astute" observation was more often than not based on an assessment of the oral/aural competence of the people these native speakers ran into on the street, or in their places of work. I must add that some of those commenting on the dire condition of English instruction here were (are) thoughtful observers of Japan. Many, if not most, were quite ignorant of both the rationale behind the policy goals of English language education in Japan, and of the challenges inherent in a policy (explicit and implied) that demanded universal foreign language education. I think some of this criticism began to wear on those responsible for the curriculum. This weariness was combined with a recognition that the trend world-wide, beginning perhaps in the 60's but definitely in full swing by the mid to latter '70s, was toward a more "communicative" approach to the teaching of languages. As the cry for more emphasis on oral/aural communication became louder, there was a noticeable shift in the guidelines coming out of the Monbusho. There was an attempt (I think a sincere one) to provide instruction that would result in high school graduates who had some communicative ability in English. In this forum, I am not really interested in either criticizing or debating the results of this shift. I have heard from some teachers that the so-called "oral emphasis" has led to a weakening in the "foundations" of the language such as syntax and vocabulary, all with very little noticeable difference in measurable communicative competence. On the other hand, there are teachers who feel that the new guidelines allow for more oral/aural practice in the classroom and this has made English more interesting for the average student.
I have often heard it said that even though the aural/oral skills in English of high school graduates may be low, at least the average high school graduate can read and write. I am not convinced that this is true. It used to be that one could say that high school graduates knew English grammar rather well, had a decent vocabulary and could translate English words and sentences; but could they really read "fluently", or write an English composition?
I have always been a strong advocate of an "integrated" approach to language learning/teaching. By this I mean that all of what we used to call the "skill areas", reading, writing, listening and speaking, should reinforce each other in the language curriculum, including the materials and resources, the teaching methodology and the techniques we use in the classroom. Where I perhaps differ from some of my colleagues is in advocating an emphasis on reading and writing fluency as the primary and most important goal IF the teaching of English is to continue as an important part of the secondary education curriculum in Japan. How many students will eventually use English orally? I would say relatively few. On the other hand, how many will be asked to read or write English? A considerably larger number, I imagine. What is the biggest value of learning another language for the average person? I would suggest it is being able to explore whole new worlds through reading in another language. But to do this, one must reach a point where one enjoys reading, or at the very least, can read without having to look up every word or decipher every grammatical structure. I am convinced that, with appropriate curriculum, resources, methodology, AND teachers with the necessary training, this could be done within the current time frame. Please don't misunderstand, I am NOT advocating the abandonment of oral communication. It must be an integral part of language instruction. Part of what I am saying is that the goals need to be realistic and do-able. IF the MOE were to decide that spoken English language fluency was THE primary goal of English language education in Japan, it would take a staggering amount of financial resources to provide the kind of teacher training and facilities that would make that a reality.
There are many more issues that come up regularly in discussions of English language education in Japan, including the very heavy influence of the high school and university entrance exams, not only on what is taught but how it is taught. Japan's highly centralized and standardized educational system also has its impact on what one can and cannot do in the language classroom. On a more practical level, there is the never-ending complaint that there just isn't enough time to do much oral work in the classroom; that there are too many other, more pressing matters, such a preparing the student to do well on the entrance exams to both senior high school and university. The introduction of an oral, or perhaps more realistically, an aural component to the admissions process would have a rapid and dramatic impact on the priorities of both the classroom and the supplementary, outside-the-classroom studies.
I will now more directly address the state of English language education in this climate of internationalization. First, we need to define "internationalization" since it is used in so many contexts and often rather loosely. Indeed, it is perhaps revealing that the concept is rather illusive and difficult to pin down. There really is no simple definition. What one CAN say is that if internationalization is going to mean anything at all, it must be more than a slogan or catch phrase that has no real impact on who we are as human beings, or more specifically, who we are as Americans, Japanese, Iranians or Koreans.
One way we could put meaning into the word "internationalization" is to define it in very functional, practical terms. For instance, an overarching goal could be to build citizens that have "trans-national competence". In a world in which countries are increasingly interdependent, we need citizens who can live and work across borders; who can do business, negotiate, and work with those from cultures different from their own. Broadly speaking, competencies necessary to be effective trans-nationally include professional competence, cross-cultural competence and linguistic/communicative competence. Putting in place educational policy that supports and enhances these broad objectives puts in practice at least some of what should be meant by internationalization.
In addition to these global implications, it is my firm belief that the spirit of true internationalization must also operate locally and among individuals on a day to day basis. In other words, internationalization is not only about our knowledge of and how we interact with "the other" out there somewhere where it doesn't touch us. We must bring it home to our own neighborhoods and places of work. In Japan, it may mean how we relate to the resident Koreans who live down the street, or about our attitude towards anyone who is "different" from ourselves. In other words, the ideals and goals of internationalization ultimately come down to socializing citizens - ourselves - to deal with all people regardless of race, color, country of origin or other differences.
So how does this environment of internationalization, imperfect though it may be in practice, affect English language education? For one thing, I think it provides an even stronger rationale for teaching English, and other languages, within the regular curriculum at least from the secondary school level if not from primary school. Although there are still some people who hold out for a "culturally neutral" global language such as Esperanto, most authorities recognize that English is currently, and increasingly, the "lingua franca" of the business, political and educational world. In this day and age it is difficult to imagine someone becoming "trans-nationally competent" without functional fluency in English. Within this context, it is now not so much IF English should be taught, but rather which variety of English and at what level of school it should be introduced. Indeed there is some movement to try to create a kind of "culturally neutral" English. Usually, this means trying to avoid teaching the culture of another country through language. Some language policy planners would go a step further and try to construct a version of English that is as "free as possible of lexicon that is culturally bound. There is, of course, considerable debate as to whether this is even possible. Let us explore this question a bit further.
These days we often hear the expression "varieties of English" or even "Englishes" to refer to the particular brand of English spoken in the many countries that either use the language as the primary language or as one of its official languages. English is, of course, the dominant language in such countries as the United Kingdom, Australia, New Zealand and the U.S. It is one of the official languages in such countries as India, Singapore, and the Philippines. Since English is spoken widely in so many disparate places, one of the major decisions of English language curriculum developers and policy makers is which dialect to use. I believe that the variety that most heavily influences English language instruction here is the American one. I understand in pre-war days, and perhaps in the years immediately after World War II, British English was dominant. Be that as it may, what is a reasonable approach as we move toward the 21st Century?
I submit that a policy that strives for some mid-point, or compromise between a culturally neutral English and a culturally bound English is in order. It makes perfect sense to create realistic Japanese settings for the materials and resources used in language instruction, while at the same time, introducing "culturally bound" English in various ways. For instance, situations can be created where the characters (players) are both Japanese and from other countries. The settings can also be both in Japan as well as in countries where English is spoken as a dominant or official language. In this way, English can be seen as a truly functional tool while, at the same time, a carrier of things cultural.
As for the question of which English to use for the basic grammar and vocabulary, I suggest choosing one variety and sticking with it. I am not sure it matters much. My inclination would be to use American English, perhaps for obvious reasons. After all, that's the variety I speak. But also, in the case of Japan, for the very pragmatic reason that this is the current influence. I think it is unrealistic and impractical to create an artificial "Japanese English". Some who argue for this say that there could be a Japanese English just as there is a Filipino or Indian variety of English. I find this a rather specious argument. These varieties developed naturally. At the same time, though, there could be some reordering of priorities, particularly in the teaching of pronunciation, but perhaps also in some areas of syntax. There are some distinctions that most native speakers of American English make that may not be necessary to emphasize in the teaching of English. For example, [i] and [e] in such words as pit/pet, sit/set, pin/pen. Not distinguishing between these two phonetic differences would not lead to much, if any, misunderstanding since in almost all cases context provides sufficient clues to the appropriate meaning.
Finally I would like to offer some thoughts for the future. The first is a suggestion to move away from the technique of translation and toward a mostly English environment. I mean this not only for classroom activities but also for homework and outside the classroom activities. Such an approach would build on using English to talk about the lessons, using English to ask questions about readings as well as using English as "warm up" exercises at the beginning of each class. This would be a part of an integrative approach to the teaching of reading and writing fluency.
Another goal complementary to the first is to agree on a "basic oral vocabulary" or an "Oral Core" as a part of the curriculum. This Oral Core would be presented gradually over the course of middle and senior high school, but what was presented at the beginning stages would be continually recycled. The desired outcome would be high school graduates who had a modest but WORKING aural/oral competency.
Integrating English and computer education is a "real natural" as we would say in American English. As more and more schools obtain computers and gain access to the Internet, this increasingly becomes a realistic goal. The Internet is particularly exciting because it provides a visible and on-going demonstration of language being used as a tool, not simply as an object of study. It can also put students directly in touch with people from other cultures and can do it in real time.
If there is to be increased priority given to higher levels of English language fluency, be it aural/oral, writing or reading, there must be massive and frequent opportunities for teachers of English to train and study abroad in an English speaking country. This would have a tremendous impact on the quality of language instruction in Japan. This is not to detract from or minimize the importance of the many ALT's (Assistant Language Teachers who are native speakers of English) who now work all over Japan. My observation is that, in spite of various difficulties, the so called "JET" program has had a positive impact on English language education in Japan, not to mention the extraordinary impact it has had on the young people themselves who have come to Japan on this program. I feel that without more opportunities for Japanese teachers of English to develop themselves professionally and to enhance their own language skills, the ambitious goals of increased English language proficiency for the average Japanese cannot be achieved.
I have had the privilege of being a member of the Central Council on Education for primary and secondary schools. One of the points I have stressed on the Council is the need to move toward placing students in language classes according to proficiency, not according to grade. In such a scenario, a typical middle school might have several proficiency levels of English classes. By doing this, the educational system would be able to respond to the increasingly diverse populations of its schools, particularly in the large urban areas. Now, a child who has come back to Japan after spending a few years abroad at an English speaking school finds him/herself put in a class with beginning level students. Such a "returnee" child often gets discouraged and stops using English. What a waste of opportunity and talent! Proficiency based classes could better accommodate not only the returnee but also those who have gained English proficiency in other ways. I recognize that such a radical change in policy runs counters to the conventional wisdom in Japan of "fair play" and that implementation would be challenging. But I think it merits careful consideration. In lieu of adopting such a policy universally, it could be applied selectively at specially designated schools.
There are many other issues that need to be addressed when addressing English language education in a climate of internationalization. I have truly appreciated this chance to air my perspectives. I look forward to a continuing dialogue on these and other matters close to the heart of all of us convinced of the value, indeed, the necessity of learning another language, and the very important role this plays in helping us effectively communicate in this increasing interdependent world. Again, thank you for the opportunity of addressing you.
(以下邦訳文)
このたび、21世紀に向けた遠大な構想に対して意見を求められたことを大変光栄に、またこのような大役を私が仰せつかったことを恐縮に存じます。お返事を差し上げるのが大変遅くなったことを心からお詫び申し上げます。なお、私の意見が私個人の考えを反映したものであり、日米教育委員会の見解ではないことをお含みおきください。
現在の教育改革の背後にある要因の一つとして、日本の指導者の多くのあいだに見られる。「日本が世界という舞台で適切な対応を取り、公開の場で自らの意見を明確に表明し、国際的な危機に対して迅速かつ適切に対応するには、日本の能力に何かしら欠けている部分がある」という認識が挙げられます。不足しているのは英語を確実に理解し流暢に話す能力だと主張する人もいます。評論家は、英語教育を改革し、国際教育をさらに重視していくことを要求しています。これは、日本以外の出身の人々との対話に参加する能力を持つ層が日本社会のなかにもっと広がっていけば、日本は先進工業国としてグローバルな議論に参加する能力を強化できるだろうという趣旨です。とはいえ、日本の企業、政府、教育その他主要業界には、すでに英語に熟達した専門家が数多くいます。単に英語教育のカリキュラムを変えるだけで、あるいは英語に熟達した人を増やすだけで、日本が国境を越えた(国際的な/グローバルな)能力を向上させられるというのは、私としては、素朴にすぎる考えであるように思います。確かにそれは必要かもしれませんが、十分ではありません。理由が何であれ、率直かつタイムリーな対応を取りうるリーダーシップが欠けていたら、どれだけ英語が流暢に話せようと、あるいは「グローバルな高度化」があろうと、少しも「問題」の解決には至りません。こうしたリーダーシップの問題は、日本の文化・社会に深く根ざしたものです。単に英語の能力を向上させるだけで、日本社会がもっと自己表現を促すような、個人のイニシアチブを重んじるような社会に移行していくと期待するのは現実的ではありません。とはいえ、今日のグローバル社会では、英語が「共通語」となっていますから、英語でのコミュニケーション能力が、21世紀のニーズに適切に対応するために必要な重要な要素の一つであるのは確かです。
総理大臣及び文部大臣が先日提示された改革目標は、その範囲・視野の広さという点で尊敬に値するものです。これらの目標を実現するには、多くの面で、多彩な戦略が必要です。紙数も限られますので、ここでは私の専門分野である英語能力の向上・普及という目標に絞って意見を述べさせていただきたいと思います。
最初に英語教育が提供されるのは中学校です。費やされた時間と努力の量の割には、現在の日本の英語教育システムは、本来可能であったはずの成果をあげておりません。たとえば、6年間に及ぶ英語教育を受けているにもかかわらず、高校卒業者の多くは、英語を「流暢に」読む力を持っていないように思われます。日本語に訳す能力はあります。文法の規則も分かっています。しかし、口頭でのコミュニケーションとなると、恐らく駄目でしょう。さらに、高校卒業段階では、ほとんどの者が比較的簡単な英会話すらできません。英語教師は、現在のカリキュラムの指導要領に基づいて、英語との「自然」かつ必要な接触がほとんど欠落した環境のもとで成果をあげるよう推奨されています。通常、現在のカリキュラムは、話す/聞くといったコミュニケーションを促すものではなく、すらすらと読み書きすることも重視されていません。基本的には語学学習に対する言語学的なアプローチが取られています。言ってみれば、「英語について」学ぶ手段を提供するカリキュラムであって、英語を使うことを学ぶためのカリキュラムではないのです。文法や発音の規則の暗記や、退屈な翻訳のために法外な時間が費やされています。私は、英語教育カリキュラムの目標は、すらすらと読み、聞き/話す能力のしっかりした基本を重視するものであるべきだと思います[同封した講演録をご参照ください]。
日本の英語教育カリキュラムのかなりの部分は、最終的には、高校入試・大学入試の一部である英語の試験をめざすものとなっています。また文部省の指導要領も、この英語教育のプロセスに非常に大きな影響を与えています。中央集権色と入試志向の強い現在の日本の教育制度を前提とするならば、すぐさま違う成果を出す方策として、文部省があらゆる国公立高校・大学に対して、入学試験に英語の聞き取りの要素を加えるよう要請するという手段があります。あるいは、TOEICやTOEFLなど、英語の実力試験として定評のあるテストの一つを大学入試の一環として活用することを文部省が推奨するという策も考えられます。政府がこうした措置を取れば、教師・生徒の双方に、翻訳のためではなくコミュニケーションのための英語学習が優先であり必須なのだという直接的なメッセージを送ることになるでしょう。
英語の実力増進のために真剣に取り組むのであれば、それに合わせて、流暢な語学能力が、単なる一つの選択肢としてではなく、必須の要素とされるような環境を作っていくことにも力を注がなければなりません。たとえば、英語の能力を採用条件の一つにする企業が増えていけば、何らかの形で、応募者は必要とされる能力水準に達するために必要なスキルを学びはじめるでしょう。国道や鉄道の駅、その他公共の場所の案内が日英併記になれば、人々もいずれはそれを読めるようになり、今よりも幅広い語彙に慣れ親しむことになるでしょう。都市部に限ってでも、店舗やレストランに英語の案内やメニューを置くよう奨励すれば、日常的な「使える」英語に違和感を感じずに接する人が増えることになります。
企業、団体、政府の行政サービスは、英語の実力を採用・昇進の条件とすることを検討すべきです。英語の実力試験(TOEIC、TOEFLなど)を面接と組み合わせれば、応募者の英語能力を判断できます。また、採用・昇進は、必要な語学能力と異文化交流スキルを持っていることを条件に、外国人にも門戸を開くべきです。社員には相当の時間を海外で過ごすことを奨励し、そのためのインセンティブも提供すべきです。雇用主側は、部下が外国語を学び留学するのを、上司が邪魔するのではなく奨励するような環境を作るべきです。
語学スキルの習得が求められるようなメカニズムが導入されれば、個人も子供たちの親も、自分自身、あるいは自分の子供たちのために、英語の実力を向上させるチャンスを求めるようになるでしょう。そういった環境がなければ、平均的な日本人の英語能力を目に見えて向上させることは非常に困難です。学校や大学、職場において英語でのコミュニケーション能力が求められるようになれば、学校カリキュラムの改革もずっと自然に進むでしょう。同封した講演録のなかで、私は、21世紀のニーズによりよく応えることをめざし、日本の学校英語教育のカリキュラムや教授法の改革に向けた具体的な方策を提案しています。またフルブライトメモリアル基金(FMF)のマスターティーチャー・プログラムについても簡単な説明を同封いたしました。これは、日本政府からの潤沢な資金支援により、日米教育委員会が運営しているものです。情報テクノロジー、第二言語(英語)、教育交流を目標達成のための有効なツールとして活用しつつ、健全かつ現実的な教育目標を実現するという面で、このプログラムは有用な教育モデルとして役に立つと思います。
閣下が提示された刺激的な改革プログラムに対して、このように意見を述べる機会を与えてくださったことを改めて感謝いたします。もし他にお役に立てることがございましたら、喜んでお力になりたいと考えております。
サムエル・M.シェパード
(日米教育委員会事務局長)
添付資料
私は皆様に、「情報通のよそ者」としての立場からお話したいと思います。と申しますのも、私は現在、日本での英語教育に直接たずさわってはおりませんが、小学校・大学院、そして神奈川県教育委員会の教員指導員として、これまでの人生において日本の教育システムには長く関わってまいりました。また、日本だけでなく韓国・米国でも第二言語・外国語として英語を教えた経験もあります。1971年から73年にかけては、平和部隊ボランティアとして、韓国の公立中学校で英語を教えました。また、学級人数の多さ、文部省が設定した画一的なカリキュラム、対象言語ときわめて異なる母国語を持つ生徒たち、そして入学試験のシステムなど、日本の英語教員が直面している課題についても、その多くを体験しています。
私は1973年にフルブライト奨学生として来日し、教員指導員として、藤沢市の神奈川県教育センターに着任しました。ここで私は、英語教員たちが日々課せられている要求について、いっそうよく知るようになりました。ほとんどの場合はセンターに来た教員たちとの交流だったのですが、神奈川県内の中学校・高等学校を訪問することもありました。私が見たところ、英語教員の圧倒的多数はとてもまじめで有能な教師で、文部省が設定した限界のなかで効果的な語学教育を提供しようと取り組んでいました。教員の多くはとてもクリエイティブで、より有能な語学教師になるために職業面で自らの能力を開発するチャンスを常に求めていました。この時期、私は日本の英語教員が長年にわたって直面している問題、また日本における英語教育に付きまとう問題について理解し始めるようになり、またその後の年月においてもその理解を深めていきました。ここではまず、英語教育について全般的な意見を申し上げたうえで、国際化が日本の語学教育に与える影響について、より具体的に見ていきたいと思います。最後に、今後のためにいくつか意見を述べさせていただきます。
日本の公教育における語学教育に関する全般的な方針・目標は、定期的に細かく検討され議論されております。伝統的に英語教育の根拠とされてきたのは、生徒たちを日本語とは対照的な別の言語構造に触れさせ、ついで西洋文化の、多くの場合古典的な文学に触れさせることでした。こうした教育はほとんどの場合、英語の統語法(文法)を厳密に学習し、単語を暗記し、際限なく翻訳を訓練するという方法で進められました。実際には、こうした語学教育へのアプローチは、コミュニケーションの道具として言語を教えるという点にはあまり関心がなく、形式的な言語学とほとんど同じように、教育自体が目的となってしまっていました。こうした目標、そしてそれが入学試験制度に与えた影響の結果が、「文法−翻訳」という教育アプローチでした。この方針のもとでは、言語構造の学習や限られた翻訳を通じた異文化への接触は十分に行なわれ、中等教育を通じて英語学習を必修とする理由としては完璧に成立していました。努力や若干の幸運があれば、ある程度英語を流暢に扱える生徒も一部には出てきたでしょうが、それはケーキに乗った砂糖でできた飾りのようなものでした。話す/聞くといった面での堪能さが欠けていても、あまり気にすべき点とはされていなかったのです。
こうした語学教育方針に対しては、当然のように多くの方面から反発がありました。まず、英語を母国語とするネイティブ・スピーカーたちです。彼らが、日本の中学校・高等学校における英語教育の質に対して、以前から声高に批判していたのは当然予想されるべきことでした。こうした「鋭い」観察は、多くの場合、こうしたネイティブ・スピーカーが街中や職場で出会った人々の話す/聞く能力に対する評価に基づいたものでした。さらに、日本の賢明な識者のあいだからも、日本の英語指導の悲惨な条件に対する意見があったことを付け加えておかねばなりません。しかし、ほとんどとは言わないまでも、こうした批判の多くは、日本における英語教育の政策目標の背後にある根拠についても、また普遍的な外国語教育を要求していた政策(明確なものであれ暗黙のものであれ)に付きまとう課題についてもまったく無知でした。私は、こうした批判の一部が、カリキュラム編成に責任のある人々を苛立たせるようになったと考えています。こうした苛立ちが、世界的な傾向として語学教育は「コミュニケーション重視」に向かっている(この傾向は恐らく60年代にはじまり70年代半ばから後半にかけて盛んになるのですが)という認識と結びつきました。話す/聞くコミュニケーションをもっと重視すべしという要求が高まるにつれ、文部省が発表する指導要領にも、目に見えて変化が生じてきました。高校の段階で英語でのコミュニケーション能力をある程度持った卒業生を送り出せるような教育を提供しようという試みがなされたのです(これは真剣な取組みだったと私は考えております)。私はこのフォーラムで、こうした変化がもたらした結果に対する批判や議論をやりたいとは実は思っていません。私は何人かの教員から、こうしたいわゆる「会話重視」は、文法や語彙といった語学の「基礎」が弱まる一方で、コミュニケーション能力という点では見るべき改善はほとんどなかったという意見を聞いております。その一方で、新しい指導要領によって、従来よりも話す/聞く訓練を教室で行なえるようになり、平均的な生徒にとって、英語がもっと面白くなったと感じている教員もいます。
また、「たとえ高校卒業の段階で英語を聞く/話すスキルが低いとしても、平均的な高校卒業生は英語を読み書きできるではないか」という意見も聞きます。しかし私は本当にそう言えるかどうか自信がありません。これまで、高校を卒業すれば英文法もかなりよく知っており、ボキャブラリーもそこそこ豊富で、英単語や英文を翻訳できると言われてきました。しかし、彼らは本当に英語の読み書きに堪能であると言えるのでしょうか。
私はこれまでずっと、語学学習/教育に対する「統合」アプローチを強く支持してきました。これはつまり、我々が「スキル分野」と呼んできたもの、つまり「読む」「書く」「聞く」「話す」といった分野は、教室で使用する教材・資料・教育方法/テクニックも含め、語学カリキュラムのなかで互いに強化しあうものであるべきだという考え方です。私が一部の同僚たちと違っているのは、英語教育が今後も日本の中等教育プログラムにおいて重要な要素でありつづけるとしたならば、スムーズな読み書きの能力をまず最も重要な目標として重視すべきだと主張している点です。最終的に、英語で会話するようになる生徒はどれくらいいるでしょうか。比較的少ないと言えるでしょう。これに対し、英語の読み書きの力を求められる人はどれくらいいるでしょうか。かなり多数にのぼるのではないかと私は思います。ごく普通の人にとって、外国語を学ぶことで得られる最大の価値は何でしょうか。それは外国語を読むことによってまったく新しい世界を探検できることではないかと私は思います。しかしそのためには、読むことを楽しめるというレベルまでたどり着かなければなりません。あるいは少なくとも、一語一語辞書を引いたり文法構造を分析しなくても読めるレベルでなければなりません。私は、適切なカリキュラム、教材、指導方法、そして必要な訓練を積んだ教員がいれば、現在の[6年間という]教育期間でも、このレベルに達することは可能だと確信しております。ただし、誤解しないでください。私は何も、会話によるコミュニケーションを捨ててしまえと主張しているわけではありません。会話も、語学教育には欠かせない部分です。私が言いたいのは、一つには、目標は現実的で実現可能なものである必要があるということです。もし文部省が、「英語を流暢に話せることが日本における英語教育の第一の目標である」と判断するのであれば、その目標を実現するために必要な教員の訓練や施設の整備には驚くほどの財源が必要になるでしょう。
日本における英語教育に関しては、他にもまだ定期的に論議の的となるテーマがたくさんあります。その一つは、高校入試・大学入試が教育内容だけでなく教育方法にも与えている非常に大きな影響です。日本の教育制度は非常に中央集権的かつ画一的であり、それが語学の教室でできること・できないことにも影響を与えています。もっと現実的なレベルで言えば、「教室でたっぷり英会話の訓練をやるにはとにかく時間が足りない」という不平がたえず出ています。生徒が高校や大学の入試でいい成績を取れるようにするなど、他にもっと切迫した課題が多すぎるというのです。入試のプロセスに会話、あるいはもっと現実的な可能性として聞き取りの要素を導入すれば、教室でも、あるいは学校以外の場所での補完的な学習においても、優先度という点で急激かつ劇的な変化が生じるでしょう。
では、国際化という今日の環境における英語教育の状況を、もっと直接的に取り上げてみたいと思います。まず、「国際化」とは何かという定義が必要です。というのも、この言葉は非常に多くの文脈で使われており、しかもかなりいいかげんに使われている場合が多いからです。つまりこれは、国際化というコンセプトがどちらかといえば幻想に近く、明確に定義しにくいものだということを明らかにしているのでしょう。実際、国際化について簡潔な定義はありません。一つ言えるとすれば、もし「国際化」がそもそも何かを意味するのであれば、それは単なるスローガンやキャッチフレーズではなく、我々が人間として何者であるか、もっと具体的には我々がアメリカ人、日本人、イラン人、韓国人としてどんな存在であるかという点に現実的な影響を与えるものでなければならないということです。
「国際化」という言葉に意味を与える方法として、非常に機能的な、現実的な側面からこの言葉を定義するやり方があります。たとえば、国際化の全般的な目標は「国境を越えた能力」を持つ市民を育てることかもしれません。各国が相互依存を強めている今日の世界では、国境に囚われずに生活し働くことのできる市民が必要です。つまり、自分自身とは違う文化出身の人々と取引し、交渉し、共に働くことのできる人々です。おおざっぱに言って、国境に囚われずに有能であるために必要な能力としては、職業上の能力、異文化交流の能力、言語・コミュニケーション能力があります。こうした幅広い目標の達成を支援・促進するような教育政策の導入は、事実上、「国際化」という言葉で意味されるべき内容のうち、少なくともその一部を表現しています。
こうしたグローバルな意味に加えて、私が固く信じているのは、真の国際化の精神とは、ローカルな場面で、各個人個人のあいだで日常的に生きていなければならないということです。言い換えれば、国際化とは、我々と直接触れ合いのないどこかにいる「他者」についての知識や、そうした相手と付き合うノウハウにとどまるものではないということです。我々は、国際化の精神を、隣近所や職場に持ち込まなければなりません。それは日本では、同じ街に住む在日コリアン人とどう付き合うかということを意味するかもしれませんし、我々自身と「違う」誰かにどんな態度を取るかということかもしれません。つまり、国際化の理念・目標とは、最終的には、市民(つまり我々自身)を社会化し、人種や肌の色、出身国その他の違いに関わらず、あらゆる人々と付き合えるようにするということなのです。
では、こうした国際化の環境は、実際には不完全であるとしても、英語教育にどのような影響を与えるのでしょうか。一つには、こうした環境によって、小学校とは言わないまでも、少なくとも中等教育レベルで、英語やその他の外国語を正規のカリキュラム内で教えることの根拠がいっそう強化されると私は思います。いまだにエスペラントなど「文化的に中立な」グローバル言語を支持している人々もいますが、ほとんどのオーソリティは、ビジネス・政治・教育の分野では今のところ英語が「共通語」であり、今後もその傾向が強まるという認識を持っています。こうした時代にあっては、実用的な意味で英語に堪能でない人が「国境を越えて有能になる」という状況は想像しにくいものがあります。こうした文脈では、英語を教えるべきかどうかよりも、むしろ、どのような英語を、どのレベルの学校で導入するのかが問題です。現実には、一種の「文化的に中立な」英語を生み出そうという動きも一部にあります。通常これは、語学を通じて他国の文化を教えることを避けようとするという意味です。語学政策の担当者によっては、さらに一歩進めて、「文化的に束縛された語彙をできるだけ排除した」英語を作り出そうと試みるかもしれません。もちろん、そんなことが可能かどうかという点についてさえ、かなりの議論があります。この問題については、もう少し後で考えてみることにします。
最近「varieties of English(英語の変種)」もしくは「Englishes(複数の英語)」といった表現をよく耳にするようになりました。これは、英語を第一言語として、あるいは公用語の一つとして使っている多くの国々で話されている英語の個々の種類に言及する言葉です。言うまでもなく、英語はイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国といった国々では支配的な言語です。また、インドやシンガポール、フィリピンといった国々では公用語の一つとされています。英語は、共通点のない非常に多くの場所で幅広く使われていますから、英語教育のカリキュラム開発者や政策担当者にとっては、どの「方言」を採用するかという判断が重要です。日本での英語教育に最も大きな影響を及ぼしているのは、アメリカ英語であると私は考えております。また、第二次世界大戦前やその直後の時期においては、イギリス英語が優勢であったと理解しております。それはそれとして、この点では21世紀に向けてどのようなアプローチが理にかなっているのでしょうか。
私としては、文化的に中立な英語と文化的に束縛された英語の中間点を探る、あるいはこの両者の妥協をめざすような政策が適切であると申し上げておきます。語学教育に用いる教材や資料に関して日本向けの現実的な設定を生み出しつつ、同時にさまざまな方法で「文化的に束縛された」エゴを導入するというのは、きわめて理にかなっています。たとえば、[教材に]日本人と他国の人々が登場するような状況を作ることもできます。状況設定は、日本国内でもいいし、英語が主要言語もしくは公用語の一つとして使われている国でもいいでしょう。こうすれば、英語はまぎれもなく実用的なツールであると同時に、文化的な事物を伝達するものとして捉えられるようになるでしょう。
基本的な文法や語彙という点で、どんな種類の英語を使うかという点に関しては、私は一つの種類を選んでそれに徹するべきだと思います。それが大きな問題になるのかどうか、私には確信がもてません。私としてはアメリカ英語を支持したいところですが、その理由は明らかです。結局のところ、私が話しているのがアメリカ英語だからです。しかしそれだけでなく、日本の場合は、さまざまな実用上の理由から、アメリカ英語が有力です。わざと「日本風英語」を作り出すことは非現実的だし実用的ではないように思います。こうした考えを支持する人は、フィリピン英語やインド英語があるのと同様、日本英語もありうるはずだと主張します。私には、これはかなり見かけ倒しの理屈のように思います。フィリピン英語やインド英語は、自然に発展してきたものです。とはいえ、その一方で、発音の指導や一部の文法分野を中心として、日本なりの優先順位の変更はある程度考えられるでしょう。アメリカ英語のネイティブ・スピーカーのほとんどがやっている区別のなかには、英語を教える際に特に強調する必要のないものもあります。たとえば、「pit/pet」「sit/set」「pin/pen」といった単語における[i]と[e]の区別です。この二つの音を区別しないために誤解につながるケースは、あったとしてもわずかです。というのは、ほとんどすべての場合、適切な意味を取るには文脈で判断すれば十分だからです。
最後に、将来に向けていくつか私の考えを申し上げたいと思います。まず最初に、翻訳のテクニックから離れ、英語中心の環境に移行すべきです。これは、教室での活動だけでなく、宿題や教室以外での学習についても同様です。こうしたアプローチは、授業について話す際にも英語を使い、リーディングについての質問にも英語を使い、授業の最初に行なう「ウォームアップ」のための練習問題にも英語を使うことによって成立します。これは、読み書きの能力を教える統合的なアプローチの一部にもなるでしょう。
この第一の目標を補完するためのもう一つの目標が、カリキュラムの一部として、「会話基本語彙」もしくは「会話コア」について合意することです。この「会話コア」は、中学校・高等学校の課程で徐々に提示されることになるでしょうが、最初の段階で教えられるものは、その後も繰り返し使われます。結果として望ましいのは、高校卒業の段階で、ある程度の、ただし「使える」話す/聞く能力を持つことです。
英語教育とコンピューター教育を統合することは、アメリカ英語風に言えば「real natural(まさに自然)」なことです。学校現場でのコンピューターやインターネット接続が普及するにつれ、これはますます現実的な目標となっています。インターネットが特にエキサイティングなのは、そこでは言語が学習の対象としてだけではなく、ツールとして使われている様子が、分かりやすく継続的に示されています。また、生徒たちが他の文化に属する人々と直接触れ合うこともできますし、しかもリアルタイムな交流が可能です。
話す/聞く、読む/書くのいずれについても、英語能力の向上という課題をこれまで以上に重視していくとすれば、英語教員が英語圏の国々で訓練を受け留学するチャンスが、ふんだんかつ頻繁に与えられなければなりません。これは日本における語学教育の質に大きな影響を与えるでしょう。これは、現在日本の各地で働いているALT(英語のネイティブ・スピーカーである語学補助教員)の重要性を薄れされるとか最小限にとどめるためではありません。私が見たところでは、さまざまな困難があるにもかかわらず、いわゆる「ジェット」プログラムは、日本における英語教育にプラスの影響をもたらしています(もちろん、このプログラムを利用して日本にやってくる若い人々自身に非常に大きな影響を与えているのは言うまでもありません)。日本の英語教員がプロとして自分を磨き、自分自身の語学能力を向上させる機会が増えない限り、平均的な日本人の英語能力を向上させるという野心的な目標を達成することは不可能だと私は思います。
私は、光栄にも小学校・中学校を対象とした中央教育審議会に参加させていただきました。私が審議会で強調した点の一つが、語学の授業に関しては、生徒たちを学年別ではなく習熟度別のクラスに分けるという点です。このシナリオのもとでは、典型的な中学校の場合、習熟度別にいくつか英語のクラスができることになるでしょう。これによって、特に大都市圏を中心に、ますます多様化の進む生徒・児童の構成にも教育制度が対応できるようになります。現在、海外に数年間滞在し英語を使用する学校に通っていた子供は、日本に戻ってきて、初級の生徒と同じクラスに入れられてしまいます。こうした「帰国子女」は、これにウンザリして英語を使うことをやめてしまいがちです。これではあまりにもチャンスと才能がもったいないではありませんか。習熟度別のクラスなら、帰国子女だけでなく、別の方法で英語の実力を身につけた生徒に対しても、よりよく対応できます。こうした過激な政策変更が日本における「平等」という一般通念に反するものであり、また実現には苦労が伴うことは私も承知しております。しかし、慎重に検討する価値はあると思います。こうした政策を幅広く採用する代わりに、特別な構想に基づく学校を選んで適用するという可能性もあるでしょう。
国際化という状況のもとでの英語教育に関しては、これ以外にも取り組むべきテーマがたくさんあります。私の見解を述べる機会をいただけたことを心から感謝しております。外国語を学ぶことの価値や必要性、また相互依存を強めつつある今日の世界において効果的なコミュニケーションを図るうえで外国語学習が果たす重要な役割を確信している私たちのあいだで、今私が述べた点や、それ以外に真剣な関心を抱いているテーマについて、さらに対話が続けられることを楽しみにしております。皆様にお話する機会を与えていただいて、改めて感謝いたします。ありがとうございました。
サムエル・M.シェパード
2.学校・家族・地域社会について
戦後、家族制度を廃して旧家族は解体され、住居の集合化によって地域社会は崩壊し、学校も、そのような家族・地域の親縁関係を失った個の集合体に過ぎないものとなった。本来はこの三者が、生長期における教育の場となるべきものである。 家族は単家族となり、両親ともに就労することが多く、家族としての生活を失った幼児・児童は孤立している。最も重要な時期に、倫理感・責任感を養う場を失っている。学校生活だけでこれを回復することは困難である。これを補完する方法がなければならぬ。
少子化の問題は、国の活力を維持する上からも、重要な問題であるが、教育の上にも大きな関係がある。そのことは近年来、少子化運動を進めてきた中国で、すでに経験されていることである。ただわが国の少子化は、国の政策の結果としてではなく、生活力の低下、あるいは個人的な恣意の結果としてもたらされたものであるから、問題は一層深刻である。基本的には、若い人々の生活力を高め、彼らに、次の世代に対する、意欲的な、積極的な希望をもたせる外にはない。
3.個と公
「個人が自らの意思で、社会に関わり合うことで、公を生み出す」という総理の年頭記者会見での発言は、民間のボランティア活動をさすものと理解される。官的な世界の他に、民的な世界の接点として、公的な場を認めることは、社会的な課題の多い現在において、殊に重要である。災害のような非常の時だけでなく、社会衛生、老人介護など、常時的な問題も多い。特に教育の場において、種々の経験を、実修的に習得させることが望ましい。
4.教育改革の具体策
いま世界は、急激な変革の中にある。いわゆるグローバル化、情報化の進展につれて、産業構造の上にも、社会生活の上にも、著しい変化が予想される。その変化は急速であり、その規模は巨大である。これに対処するために、適確にして有効な方法を必要としている。百年の大計といわず、10年・20年を期して、特別の対策を講ずべきである。
このような時期に、国立大学の独立採算制を問題とするのは、時宜に適切なものといいがたい。一時不急のものを整理しても、喫緊の分野に国力を投入すべきである。最近における、数度にわたる衛星打上げの失敗などは、科学立国を標榜するわが国としては、痛恨に堪えぬことである。
情報化の流れの中で、国際語としての日本語の地位が懸念されている。国語として用いる漢字には、文字としての効用の上からも、情報社会における適格性をもつことが証明されている。いわゆる電脳文化の推進については、漢字文化圏の連合も可能であろうと思う。
すべての分野において、国際化の動きは一層活発となり、急速となるであろう。広汎な国際化に対処するために、各国の間に、特に東アジア、東南アジアの諸国に対して、多くの留学生を受け容れることが望ましい。これらの諸国は、将来わが国が平和国家として自立する上に、最も重要な地域であるからである。
1 戦後の教育と責任感
教育基本法は、その第一条において、憲法の精神にのっとり、教育の目的が人格の完成をめざし、かつ、平和的な国家及び社会の形成者としてふさわしい国民の育成を期すべきことにあると明示しています。
戦後、わが国は民主的で文化的な国家の建設の実現には、根本において教育の力にまつべきものと考え、教育の目的を明示し、新しい日本の教育の基本を確立しました。
しかし、半世紀を経た今、こうした理想とは裏腹に様々な病理現象が散見され、日本の社会は混迷の度を深めています。
その原因には多くの事象が複雑に絡みあっているものの、やはり、根源は「責任感の喪失」にあると考えます。
「個人の尊重」という美辞のもと「自由」が一人歩きをし、「責任」が疎んじられてきたからです。私たちは今真剣に、失われつつある「躾」を回復するとともに、「自由には責任が伴う」という自覚を、子供のうちから身に付けさせる必要があります。
2 学校教育と責任感の涵養
少子化の時代を迎え、子供たちは社会生活の中で、己の責任を自覚する体験が大幅に減少しています。それゆえ、学校という集団活動を通して社会のルールや責任感を身に付けさせることが、最も現実的な対応であると考えます。
一見、自己主張が強く、聞く耳を持たぬかに見える現代の子供たちも、その多くは意外と素直であり、理を尽くして諭せば、耳を傾け、得心し、受容する資質を有しています。むしろ、大人が「責任」の持つ意味を正しく教えていないというのが現実の姿であります。子供たちは学習の機会を得ず、ただ無知でいるだけなのです。
その意味から、教育に関わる者が信念と勇気をもって「責任」について指導することが、今最も求められていることと考えます。
私は一つの実践として、「子供にも、その言動には子供なりの責任が伴う。」と主張し、日々の全ての教育活動を通して責任感を身に付けさせるよう呼び掛けてまいりました。市町村の教育委員長・教育長会においては、学校現場に「個性尊重に名を借りた放任やおもねりはないか」とも訴えました。マスコミも思いの外好意的な報道をしてくれました。
子供の幸せを願い、未来を輝かしいものとするため、私たち教育関係者は、まず、学校教育のあらゆる実践を通して、粘り強く子供たちに「責任感」を身に付けさせる努力をしなくてはならないと考えます。
3 家庭・地域社会と責任感の涵養
子供たちに「責任感」を身に付けさせる営みは、学校のみでできるものではありません。家庭だけでも難しいのです。教育力が弱くなったとはいえ、地域の理解と協力なくして子供の健全な育成は望めません。むしろ、それぞれの教育力が弱体化していればなおのこと、社会全体が一体となって子供の教育にあたらねばなりません。
かって、私たちは「規範」や「社会のルール」を、父親や社会から学びました。池田潔の『自由と規律』(岩波新書)は学生の愛読書でもありました。社会にはルールがあり、「自由」には「責任」が伴うことを、様々な場を通して徐々に身に付けていったものです。
家庭や地域の教育力の低下が指摘されて久しく、子供が父親から厳しく叱責されている光景を目にすることは殆どありません。まして、地域の人々から子供たちが注意をうける姿に接することは滅多にありません。
考えてみますと、駅などの周辺にたむろして喫煙する未成年の異様な雰囲気には、一般市民の忠告を寄せつけないものがあります。このような状況下では、人生経験の豊富な人たちの街頭補導が大変有効です。
幸い、青少年の健全育成に、教職員OBから「老人力の活用を!」との提案があります。教職のベテランは、諭すなかで、傍若無人な行動を振り返らせ、「自由には責任が伴う」ことを理解させる手法を身に付けています。大きな効果をすぐ期待することは困難であっても、身の周りの地道な実践を積み重ね、大人も子供も意識の改革を図っていくことが子供の未来を守る王道と信じます。
私たちは、新年度、教職員OBを中心に、現職教員、PTA、警察や地域に強力に働きかけ、新たな青少年の健全育成のための総合戦略事業をおこすこととしています。
おわりに
静岡県では、昨年秋、知事の諮問を受け、「人づくり百年の計委員会」(会長 草柳大蔵)から提言書『意味ある人をつくるために』が提出されました。
この提言でも、「自分らしく」「個性的に」生きるためには、自由と責任が背中合わせであることに触れています。
冒頭述べましたように、私は、自由に伴う責任を自覚した個人こそが自律した人間であると考えておりますので、教育改革国民会議においても、「責任感の涵養」について、御議論いただけたら幸いであります。
また、21世紀を間近に、国土も狭く、資源に恵まれない我が国が、真に豊かな国民生活が送れる国として発展していくためには、国際社会で知的リーダーシップを発揮できる人づくりが急務です。
そうした先駆性をもつ人については、国家・社会に対して、一般国民以上の大きな責任感を持つ必要があります。また、そうした責任感を身に付けたリーダーこそ、真のエリートと呼ぶにふさわしいのです。静岡県では中高一貫教育を推進していく上でも、こうした視点での人づくりを一つの柱に据えて研究しております。社会の「指導的立場の人材育成」を議論する際には「より大きな責任感」についても、お考えいただきたい旨申し添え、私の提言とします。
教育の基本理念は、子供達を「人生を豊かに楽しむ、幸福な大人へと導くこと」に尽きるのではないかと思います。そのような教育を、かつて(昭和40年代頃まで)は、学校・家庭・共同体が三位一体となり成果を挙げていたように思います。 いまもし成果を挙げにくくなっているとしたら、なぜかつては可能だったのだろう。そのあたりから考え始めてみたいと思います。
まず、子供を取り巻く人間関係がシンプルでした。「先生はエライ、お父さんはスゴイ、お母さんは優しくて家庭を守っていてくれる」という、戦前からの儒教的価値観が(善し悪しは別にして)かろうじて生き残っていた時代です。先生や両親の言うことをとりあえず聞くのが、子供達の基本スタンスだった。目上の人の話はちゃんと聞く、という教育に都合のいい人間関係のシステムが機能していました。人間教育と言う点では町(共同体)の果たした役割も大きかったと思います。かつての子供は、たくさんの大人達と町で日常的に交流しました。魚屋のご用聞きの兄ちゃんや肉屋のおっちゃんと毎日顔付き合わせて話をした。「魚屋もかっこいいな」「コロッケ揚げるのもいいかもな」。将来の職業と大人のモデルが周囲にたくさんいた。そんな人々とふれあいながら、子供はコミュニケーションの心を育てられたように思います。そしてなんといっても、世の中の指標がシンプルでした。経済は成長しつづけた。モノが豊かになることが、疑いようなく、人間の幸福そのものだった。給料の高い会社に入ることが絶対正しいとみんなが信じた。そのための受験勉強なら仕方ないとあきらめられた。「こんなこと覚えても将来なんの役に・・」疑問は感じても、なんとか押し殺せたのです。いい会社に入り、いい家庭を築き、酒は高級洋酒になり、いつか白いセダンと一戸建ての家を持つこと。「人生を楽しむ、幸福な大人」のイメージは明快でした。それに向かって子供達は、夜遅くまで鉛筆を握りしめることができたのです。
そして経済は最高度に発展しました。
いまの日本社会は「モノの豊かさではもはや幸福を実感できない」という、世界の中でも特異な、成熟したステージになっていると思います。それは、一人一人が、「モノでもない、便利さでもない、人間の真の幸福とはなにか」という哲学的命題を追求せざるをえない社会ということです。
幸福のイメージは、もうかつてのように単純ではありません。教育を取り巻く環境も大きく変わっています。
目上の話は黙って聞く、という教育に都合のいい人間関係は壊れました。
魚屋の兄ちゃんは姿を消し、いまでは一言も口をきかずコンビニでなんでも買えます。心を育ててくれた共同体もなくなりました。
いい会社に入る意味も薄れています。いい大学に入る意味も薄れています。
そしてさらにやっかいなことに、現在、価値観の多様化と転換に戸惑う日本の多くの大人は、子供達から見て、「幸福な大人」ではありません。こんなにモノは豊かなのに、誰もが幸福な顔をしていません。当然、子供達の身の回りにいる大人(親、教師、バイト先の店長etc・・)も冴えない顔つきなのでしょう。自分の生き方に確信が持てない大人、刹那的な快楽に逃避する大人、極端な現実主義に走る大人・・いずれにしても、子供達から見て、「幸福な大人」ではありません。
かたや、メディアに現れる人々は、才能のある特別な大人達です。松坂君はいい、中田選手はいい、でも特別な才能を持たない自分たちはどう生きればいいんだろう・・。いま子供達は大人になった自分の幸福がイメージできず、年をとる前に楽しむだけ楽しもうと、刹那的な気持ちになっているのではないでしょうか。「人生を楽しむ、幸福な大人」像が描けないことが、現在の教育の現場において、最大の問題なのではないかと思います。
これからの子供達に、どんな大人になってほしいか。そのビジョンから、これからの教育のあり方が見えてくると思います。
自分の人生を楽しむには、創造性や心の豊かさが必要なのに、受験のためにしか勉強をせず、自分のメンタリティを企業に預けてしまった。・・そこに、現在の多くの大人達の不幸があるように思えてなりません。これからの社会をどうイメージしていくか。これからの子供達に、どんな大人になってほしいか。その明快なビジョンを持つことがこれからの教育を考えるヒントになると思います。以下、思いつくままの私見です。
@ 文化を愛する心豊かな大人になってほしい。
数学でも、歴史、音楽でも、文学でも・・損得に関わらず、勉強する楽しさを一人一人が知っている。そんな大人達になってほしい。日本の文化と同じように、他国の文化も理解し、尊ぶ。仕事とは別に、生涯の勉強のテーマを、みんなが持っている社会であれば、これはハッピーです。経済がどうあれ、生き甲斐がもてます。市民レベルでの国際的交流もどんどん増えるはずです。
A 個性と能力で勝負できる、自己実現力の高い大人になってほしい。
ギスギスした競争社会に拍車をかける、ということとはまったく違います。一流商社でマネーゲームをするもよし、配管工として職人の技を磨くもよし・・自分を生かすという意味でどちらもまったく等価である・・そんな視点で、自分の個性を生かした自己実現をしてほしいのです。
B 市民意識、社会参加意識の高い大人になってほしい。
自分たちが社会をつくっているんだ・・一人一人がそう思える大人になってほしい。
たとえば、ボランティア活動等が盛んになれば、従来の自然発生的な地域共同体ではなく、明確な目的意識に支えられた新しいタイプの共同体が生まれる可能性も大いにあると思います。そこがもう一つの、ヒューマン教育の場になっていく。社会参加の心を幼い頃から育むことは非常に重要だと思います。
いまこそ学校は「SCHOOL」(暇)の本質に戻るべきです。子供達一人一人が、ゆっくりと時間をかけて、勉強する楽しさを知り、自己実現への道を探せる場所に。そこは、実のある「幸福な大人」への準備機関です。
受験の準備機関、世間の体面のために行くところ・・そんな学校はもう終わりにして、「幸福な大人への準備機関」となるべく、学校のポテンシャルを上げていきましょう。この場所で子供達は、勉強する楽しさを学ぶのです。自己実現のヒント、方法をじっくりと見つけていくのです。「SCHOOL」の語源は「暇」であると、以前、何かで読んだ記憶があります。その本質に立ち戻ることなのだと思います。以下、思いつくままに・・。
@ 「社会において個性的な自己実現をするための、情報と基礎能力」を子供達に きちんと与えられる場所になること。
社会のさまざまな職業、実際の業務内容、その仕事につくためのノウハウを子供達に紹介することもこれからの学校の役割であるべきだと思います。遅くとも高校2年ぐらいまでに、将来の職業プラン、人生設計の第一歩を、一人一人がイメージできるよう、導く必要があるのではないでしょうか。社会に出る前の準備期間として、ほんとうに有益な情報を子供達に提供してあげるのです。メーカー、商社、経営者、サービス業、デザイナー・・できるだけ多くの職業、それぞれに従事する人たちの価値観、モノの考え方を見せてあげられるといい。従来の卒業者懇談会というレベルではなく、レギュラーの授業として、社会人が教壇に立つ。魅力的な大人をたくさん見せてあげたい。社会での自己実現の道を、子供たち一人一人に見つけだしてもらいたい。もしも学校がそういう場所になれたなら、原宿やライブハウスに逃げ出した子供達も、学校に戻ってくるはずです。
A 勉強する楽しさそのものを教えられる場所であること。
試験のための勉強ではない、真の勉強する楽しさをしっかり教えてあげたい。生涯つきあえる自分の勉強のテーマを見つける手助けをしてあげられればいいと思います。
そのために、教師は、もっと専門性をもっていい。学問を楽しむ態度を、子供達に伝えられることが第一条件です。優秀な大学教授レベルの人が中学でも教壇に立つべきです。給料をドンとあげて、人間的にも能力的にも、先生のレベルアップを図ってください。もはや先生だからと言って、子供は話を聞きません。自分より豊かな経験と、豊かな情報を持っている人の話だけに、耳を傾けるのです。
B 細かいアイデアですが、毎日の新聞記事を(政治、経済、文化、社会すべて)ピックアップして解説する授業はどうでしょう。これは、社会勉強として役に立ちます。公共心とは、自分が社会に参加している感覚だと思うのですが、いま子供達に急速に失われているそのマインドを育むのに有効だとも思います。「社会に直結している学校」を象徴的に表現できると思います。
C 魅力的な大人がたくさん歩いている。文化や学問を楽しむ気配が満ちている。社会の現在を呼吸している・・それは、むしろかつての、人間味あふれる町の姿に似ているかもしれません。共同体が機能を失ったいま、全人格のポテンシャルを高める、教育の場としての共同体の役割を、学校が担う必要があると思うのです。
D たしかに受験戦争はすぐにはなくならないと思います。しかし、それは決して教育の本質ではありません。そしてまた実力主義になればなるほど社会は、試験のできる人より、即戦力の職能を身につけた人や、自己実現へのモチベーションの高い、人間性豊かなグッドパーソンを必要とするはずです。学校・塾・専門学校の役割分担も考える必要があると思います。
E これからの学校でなにより育むべきは、自分と社会の未来をイメージする力です。もう、たんなる受験生や消費者を育ててはいけません。子供がよい人間に成長する手助けをする。そのシンプルな原点に立ち戻って、すべての有りようを見直すべきだと思います。
以上、まとまらぬことを長々と書き散らしました。ご一読くだされば幸いです。