それから、早急に考えねばならないことは、「暗記」教育の再評価です。目下、「暗記」教育は、何処へいっても、批判の槍玉にあがっていますが、その殆どが、真面目な議論としては到底受け容れられないような、軽薄な主張ばかりです。「自分でものを考える」といいますが、その為には、先ず、考える材料が必要です。それは、様々な知識を「暗記」しなければ、決して得られないものです。知識も無く、ものを考えろというのは、粘土を与えずに、粘土細工をやってみろという禅問答のような話と同じです。嘗ての日本人は、四歳や五歳の頃には、すでに、漢文の素読を始め、意味も分からずに、四書五経などを「丸暗記」していました。それが、どれほど、当時の知識人たちの教養を豊かにしていたかは計り知れません。意味は、成長すれば、自ずと分かってくるのです。そして、その時にこそ、本当に彼を助けてくれることとなるでしょう。繰り返しとなりますが、成長した後に、何の意味も持たぬような教育は、意義が薄いといわざるを得ません。私は、確信をもって断言しますが、何時の時代においても、最も革新的で、独創的な思考を持っていた人は、例外無く、豊富な知識を持っていた人達でした。彼らは、自分の「暗記」して覚えた様々な知識や問題を考え合わせ、それによって、批判的に自説を検証して、独善主義の危険を免れました。何一つものを知らずに、ひとりよがりで、実は何ら目新しくもないことを無知ゆえの幸福に浸って考えることが、本当に、「自分でものを考える」ということになるのでしょうか。私は、是非とも、「暗記」することの重要性が、再検討されるべきだと考えます。これは恐らく、最も緊急の事案でしょう。
@ 教育の基本理念
「21世紀日本の構想」懇談会が報告書の中で示した考え方を基本的に支持する。
報告書は、教育に「国家の統治行為としての教育」と「サービスとしての教育」という二面性があり、ポスト工業社会を担う人材を育成するには後者の比重をますます大きくする必要がある、と主張している。
義務教育の内容を今の五分の三に圧縮し、週三日制を目指せという評判を呼んだ提言も、義務教育をくびきとみて、そこから児童生徒を解き放つことによって生徒一人一人の自発的、能動的な自己啓発を促そうというものだろう。
この報告書が「教育改革国民会議」とどのような関係に立つのか私は知らない。同じ小渕首相が設置した諮問機関なのだから、無関係ではありえないと常識的に判断することもできる。
しかし小渕首相が作った経済戦略会議の結論が無視同然の扱いだったこともまた事実だ。改革が切実に叫ばれているのは、それだけ現状維持の力が根強いことでもある。
週三日制のように、現実と余りにかけ離れていて文部省や教職員など現場関係者からまともに反応が見られないのも、ある意味では当然かもしれない。
しかし、「国民会議」が臨時教育審議会など既存の諮問機関とは別個に設置される意味を重く受けとめたい。
これから起きる社会全体のパラダイムシフト、革命的な大変革に適応していくには、教育の抜本改革は不可避である。
初等・中等教育に限っても学校制度、文教行政、現場慣行など教育を巡るもろもろは一大転換を迫られる。
明治維新以来、教育がほとんど全面的に統治行為として行なわれ、だれもが何ら疑いを持たなかったのは、「富国強兵」「殖産振興」政策の一環だったことが大きい。
日本の近代教育の出発が国家の近代化そのものに重なったという特殊事情である。
21世紀は国際化がいっそう進展する、国境なき時代である。すべての面でグローバル化が進み、個々人が自己責任において身を処することが当たり前となる。
ある年令からある年令までを国家の強制のもとに教育を受ける、という義務教育の観念そのものが問い直されるべきだ。「21世紀」懇の理念もそれでこそ、より明快になるのではないか。
A 学校・家族・地域社会
義務教育自体を見直すべきだ、というのは平たくいえば「行かなくてもよい」という選択も制度の中にあるということである。
いじめ、不登校、自殺と学校現場で教育の意図とは正反対の現象が続発して、フリースクール実践者などから反射的に義務教育への不信感が表明されている。
そういう対症療法的な発想にとどまるのではなく見直しは国と地方公共団体が運営する学校制度を「統治行為」から解き放ち、「サービス提供」に切り替えることを意味する。
例えば高校、大学の入学試験準備の場として公立学校はとっくに予備校にその位置を奪われている。
あるいは、学齢期のはるか以前に早期の才能教育を独自に始めている例を考えてみよう。そうした児童が公立学校へ通うのは、社会性を養うなど補完的な意味しか残っていないだろう。その人の人生にとってもっとも大切な能力は学校の外で養われる。
もちろん最大多数の生徒たちは公立学校の枠内にとどまるだろう。カリキュラムを必要最低限に絞り週三日制にするという考えは、特別な才能に恵まれた人だけでなく、普通の生徒たちも多様な人生コースに向け学校の外で自己啓発に励む余裕を与えよう、との趣旨であろう。
主体は生徒個人であり、それを取り巻く家族になる。学校教育の役割は明らかに現在より限定されたものになる。
学校を支える地域社会の役割は、道徳教育や情操教育の面で依然期待されよう。
問題は教育への家庭の関与がさらに大きくなると期待される一方で、将来の経済情勢からみて雇用の流動化が進み、家庭の空洞化がいま以上に深刻になるのが懸念されることである。
B 「個」と「公」
日本の初・中等教育の目的は明治維新以来、一貫して国家に役立つ人材の養成が主であった。人格の形成、能力養成という個の充実はあったとしてもしょせん二の次だった。
第二次大戦直後、米軍の日本占領により民主的な改革が加えられ、文部省も長年、改良に努めてきたことは間違いない。
近年、「総合学習の導入」や「隔週土曜休校」、「学区内での通学校選択制」など画期的な動きが見られる。
それでもまだ、原理としては教育における国家と個人の関係は旧態依然だということができる。教育は国家が個人に施すもので、個人は教育の対象であるにすぎない。
21世紀に国家はどのような存在になるのか。国境なき時代が本当に実現するのか。国民の同質性が極端に強い日本ではあるが、現在の国際化の勢いからすると、想像以上の多民族共存が起きるかもしれない。
EUのように、日本が国家主権の一部を放棄して他国との連合国家に進むとは考えにくいが、国家という存在が希薄化することは避けがたい。
強力な企業はいま以上に、国境を越え自由自在に活動するだろう。個人も同じだ。各人各人の能力、好み、生活様式などに応じ、国家の制約を離れて行動し、生活する人がふえるだろう。
教育とは自由な個人が自ら選びとる人生のある過程であり、国家はそうした人々に教育の多様な選択肢を与えうるサービス主体たるべきだ。
もちろん防衛、社会保障、納税、秩序維持など国家の最低限の役割が必要なくなることはない。国民としての義務も消えるわけではない。
大事なことは教育を考えるに当たって、先験的に国家の地位・役割を認めるのではなく、あくまで個人を主体に検討すべきだという点である。
その過程で個人といえども、社会的な存在なのだから、国家を含めた〈公〉への帰属意識をいかに高め、自己規律を養っていくかという観点から検討を加えるべきだろう。
〔2〕地域から「文化」の創造と教育の再生を
今の子どもたちの傾向である「志の喪失感」は、現代の若者たち全体に漂う元気のなさや刹那主義、自立心の欠如に繋がっている。これらの原因としては、前述した教育のありかたについての問題があるが、さらにその奥に、文化的、経済的な背景が広がっていると思う。
「地方の時代」といわれて20年以上たつが、わが国の中央集権的な政治・経済の構造、東京中心の文化構造は全く変わらない。むしろ交通網の発達や東京発信のメディアの巨大化などで、ますます強化される傾向さえある。そのため、若者のファッションにしても、その他の流行現象にしても、個性や創造性とは程遠い、全国的に同調性の強い画一的なものになっている。
地方の都市やまちも、規格化された駅や、コンビニエンスストアやファーストフードのチェーン店が雑居する、どこも似たようなまち並みに急速になりつつある。新築の家屋はどんどん建てられるが、一方では同じスピードで破壊され続ける。ヨーロッパの都市やまちづくりに見られるような、歴史と伝統を現代に生かしながら、美しさや楽しさを追求するという、自分たちの「文化」を大切にするまちづくりの中・長期ビジョンはあまり見られない。
ここでいう「文化」とは単に文化財などをいうのではなく、その場所と事物と人々が関係するところで生まれる「物語(ものがたり、エピソード)」の創出であり、そのための「創造的行為」のことである。そうした「文化」の創出力が、住んでいるまちから薄れると、そこで生きる子どもや若者も、日々の刺激や興奮を求めるだけの、刹那的な生き方にならざるを得ないだろう。
現在はまた、IT革命の時代、インターネットの時代とさかんに喧伝されているが、それぞれの場所における「文化」の創出なくしては、ただ記号としての情報が浮遊し渦巻くだけの、うっすぺらな「情報化社会」になるであろう。
そうした流れに対抗するには、地域に住む人々が、まずは自分たちの住んでいる場所に目を向け、そこに新しい「文化」を育んで行こうという気概を持たなければならない。
それは、単に「歴史的建造物や、文化財を大切に保存しよう」ということではない(もちろんそのことは重要であるが)。歴史的建造物にしても、現代に生かされてこそ意味がある。祖先が創った善きものを隔離し、あるいは破壊するのではなく、どのようにして今の人々の生活とつなげ、豊かなものにしていくかということがもっと重要なことである。
一例をあげると、現在、岡山市では、市民の手で、市内の要所や歴史のあるまち並みを、環状の路面電車でつなぎ、岡山市の「文化」の再生と発展を願うまちづくりが進行中である。何も破壊することなく、また壁などで囲い込むこともなく、それぞれの場所を、電車という、心に安らぎを与えるリングでつなぎ、まち全体に楽しさやエピソードを与えようとしている。これもひとつの「文化」の創出といえるのではないだろうか。
地域の「文化」こそひとりひとりの個性を育む土壌である。そして、この「文化」は市民ひとりひとりが参画し、何世代にもわたって育んで行かなければならないし、そこにおいて、教育の果たす役割は極めて大きい。
〔3〕「文部科学省」から「文化教育省」へ
2001年1月に中央省庁が改変され文部省は「文部科学省」になるとされるが、これまで述べてきた主旨を徹底し、「文化」を中心とした文部行政であることを内外に示すためには「文化教育省」と改称し、目的や機能も大きく変えて行くべきであろう。
わが国の文部行政は、戦前、戦後を通して、強力な中央集権制のもと、経済および技術の発展に重点がおかれてきた。しかし、これからは教育行政は、経済発展の手段としてではなく、わが国の、そして地域の「文化」とは何かを真剣に考え、そのアイデンティティを保持しかつ創造する事業とならなければ、現在の国民全体にひろがる精神的閉塞感は解消しない。この転換こそが21世紀の日本の再生のスタートである。
次善の案であるが、現在「文部省」の外庁である「文化庁」を「文化省」として独立させ、その機能を強化することも、現実的には考えられる。
また、現在の中央集権的な「文化」政策から、地域文化中心の、循環的、持続的、長期的な「文化」政策への転換を図るためには、その具体的な表現として、「文化教育省」または「文化省」を京都に置くなど大胆な試みがなされてよい。
〔4〕結び
わが国の教育のありかたは、明治の学制の発布から、戦後そして今日にいたるまで、国家としての教育の最大の目標を、「欧米先進国に追いつき、追い越せ」としてきた。そのためには、文部省が中心となって、国民を教化し、導くという基本的なスタンスをとってきた。多くの人々もそのことに馴れきってしまい、中央すなわち文部省の政策や指示を常に待つという受動的な存在になり、教育はまさに上から与えられるものとなってしまった。このことは今日においてもわれわれ日本人の精神のありかたや、行動様式にも深い影響を与えている。
21世紀においては、このような、「上意下達的な精神構造」から、日本人ひとりひとりが、よりよく生きようとする「志(こころざし)」をもち、自立した個人として振る舞い、他者も同じ「志をもつ人」として尊敬と信頼感を抱き、互いに責任を分かち合うといった「尊敬と信頼と責任の精神構造」へと転換しなければいけない。そのように考えれば、冒頭に述べた今の子どもたちの三大傾向とは、新しい時代への過渡期に見られる、変化の兆候と見ることもできよう。
(1) 社会の未来をつくる教育
教育は、豊かで明るい社会の将来を育むうえで最も重要な、私たち大人に課せられた使命であると考えます。教育をどのように行うかということ、それはすなわち日本の未来をどうするか、ということと密接につながっています。その意味でまさしく、「国家百年の計」であります。
(2) 教育に対する社会全体の意識の高揚を
教育についての当事者は、児童・生徒や親、教師だけではありません。社会全体が教育について考え、行動しない限り、教育改革は真の改革たりえないのではないでしょうか。教育が社会の未来に関わる問題である以上、一人ひとりが当事者であるという自覚のもとに、みんなで考え、みんなで推進することが大切であると思います。
(3) 結果の平等ではなく、機会の平等を
全員が同じ授業に従いてこられることを重んじる教育は、結果として悪平等をもたらします。
一人ひとりの可能性を最大に伸ばすためにも、それぞれの能力と個性に適応できる柔軟な教育制度、あるいはカリキュラムの構築が必要であると思います。
(4) 以上の考えのもとに、教育について大切と思われることを、私なりに挙げさ せていただきます。
@児童・生徒の可能性を見つけ、最大限に伸ばす教育を
−昨今問題視されてきた知識詰め込み型の教育は、明治政府の「教え」「育てる」という根本的な考え方に端を発します。それはあくまで欧米列強に追いつき追い越すための、良質で勤勉な労働力確保のための方針でありました。しかし、変化の連続となるであろうこれからの時代において必要なものは、自分の目でものを見て、自分の頭で考えることのできる能力ではないかと考えます。そのためには、子供の隠された力を教師が見つけ、適切に導きながら、子供自身が自分で伸びていく環境づくりこそ大切ではないでしょうか。
A知識とともに、それを活かす知恵を育む教育を。また、知識を正しく活かすための倫理・哲学の教育を
−やや極端な言い方ですが、知識偏重の思想が、20世紀における核兵器の悲劇をはじめとする科学の暴走を生んだと言えはしないでしょうか。人間のために、また地球のために、「正しく」活用されてこそ、知識は価値を持ちうると思います。そのためには、「正しく」考えるための道筋、すなわち倫理・哲学の教育がこれまで以上に重視されてよいのではないかと考えます。
Bゆたかな人間性を育む教育を
−明治以降、暗黙のうちに行われてきた、知識は学校で、人間教育は家庭で、という役割分担は、今日においては既に機能し難い状況となっています。残念ながら、今や家庭における、「躾け」を含んだ教育の機能は、時とともに低下の一途をたどっていることを認めざるをえません。学校、およびそれを補完するものとしてのコミュニティにおける活動等を通して、適切な人間教育を行うしくみづくりが急務となっています。
2.学校・家族・地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮すべきか、生涯学習をどのように進めるか。
上でも述べたように、子供の教育については、共働き世帯の増加等により家庭の位置付けは大きく変わってきており、家庭でできない部分を学校、地域社会でどのように補うか、ということが大切になっていくであろうと考えます。また生涯学習については、昨今増加傾向にある、大学の社会人対象の講座等、既存の教育インフラの有効活用・開放に加え、国や自治体でのさらなるしくみづくりが不可欠と考えます。
@地域社会と学校の連携の強化を
−ますます失われつつある、地域社会のつながりを取り戻す意味でも、特に人間教育という側面において、学校との連携を図りながら、自治体のバックアップのもと、地域社会の役割を増大していくことが必要であると思います。
A豊かさを実感できる社会づくりのための、生涯教育のしくみづくりを
−昨今増えつつある大学講義の一般開放をさらに推し進め、大学と地域・社会のつながりを強化していくことがまず望ましいと思います。そして、さらに各自治体においても、ぞれぞれの地域の特徴を活かした教育を行っていくべきであろうと思います。
3.「個」と「公」についてどのように考えるべきか。
サン・テグジュペリの「公益は私益の集合」という言葉に表現されているように、広く社会全体の利益につながるような個人の利益を考えて行動できる個人の育成が大切であろうと思います。
@地域社会の活性化を
−個人にとって、「社会」の最初の窓口である地域社会を活性化することが、個人の公共性涵養の第一歩であると思います。戦後の地域社会衰退とともに日本人の公共心は薄れ、言わば「勝手な個人」が生まれました。戦前に戻すという意味ではなく、新しい地域社会のあり方を探っていくことが必要であろうと思います。
Aより良き「市民」となるための学校教育を
−「社会全体の利益」をそれぞれの児童・生徒に内面化できるような学校教育のあり方が求められると考えます。カリキュラムのなかに、たとえばボランティア活動等、社会とのつながりを実感できる場をつくっていくことが望ましいと思います。
4.教育改革を今後具体的にどのように進めていくべきか。
(1) 教育の問題は、そのまま社会の問題であり、国民の一人ひとりが当事者である、という認識を社会全体に広げ、子供を持つ親はもちろん、教育に対する国民の意識を高めていくことが大切であろうと思います。そのうえで、頻繁に公聴会等、多くの人々の意見を取り入れる場を設けて、具体的な政策に反映させるしくみづくりが必要であろうと思います。
(2) 具体的には、みんなで考え、みんなで話し合う「場」づくり、環境整備がその第一歩
−単に有識者や専門家の意見交換の場ではなく、現場の教育者、あるいは親、そして学生や一般市民、そして児童・生徒等、様々な人々の意見を活発に出し合う場をつくり、教える側にとっても、教えられる側にとっても、さらにはその親、地域等、教育にかかわるすべての人々に納得され、受け入れられる方向を模索すべきだと思います。そのためには、全国各地でそうした場を頻繁に設けていくことが望ましいのではないでしょうか。またそのことが、教育関係者にとって、関心を持たれていることの自覚を促し、よい影響を与えることも考えられます。
2.学校における経営と運営の役割の明確化
学校教育については、文部省の各審議会で答申が出され、実施に向けて歩を踏み出したところであるが、これら答申の実現には、国民全体で共通の認識を持てるような告知が必要である。特に、学校、家庭、地域での共通認識は不可欠である。
学校経営について提言したい。現在、学校において経営と運営の概念が曖昧である。経営と運営を明確にするためには、公立小中高等学校における校長と教頭の役割を明確に学校教育法に明示すべきと思う。現行の学校教育法は学校長の補佐として教頭を位置づけているが、学校長と教頭の役割を明確に分離すべきである。すなわち、学校長は学校の経営にあたる。学校長は住民等の納税者の理解を得て、明確な学校教育目標を掲げ、その実現のためにあらゆる計画を練る。予算、人事、施設等経営に必要な事項に専念し、学校の経営にあたる経営者である。一方、教頭はその名の通り、先生の頭である。教頭は教育目標の具体的達成のための学校教育運営の責任者とすべきである。学校長は教育の専門家である必要はないし、外部から期限を定めて任命することもできる。しかし、教頭は教育の専門家として、先生として児童・生徒から信頼されなければならない。教頭を中心に学校教育の専門家集団として、児童・生徒の指導に専念できるようにすべきである。現行の学校教育法のように「必要に応じて児童の教育をつかさどる」では困る。学校教育に専念し、どのような教育が学校教育に必要なのかを日夜研究し、先生方と研鑽する。学級崩壊に対応する。不登校に対応する。学校教育の専門家としての最高の立場が教頭であるという位置づけが必要である。教頭は一人に限定する必要はない。一つの学校に多くの教頭が生まれることが、教頭を中心とする専門家集団の学習グループの切磋琢磨のために必要であると思う。学校長が経営に、教頭が運営に専念することにより学校の機能が発揮でき、経営における大きなビジョンと運営におけるきめ細かい教育指導ができると思う。
直接児童生徒と接する先生の質の向上は教育には不可欠であるが、先生が自分の理想や夢に誇りを持って教育に当たれるように、教頭を中心とする専門家集団のピラミッドが必要である。
3.先生の高齢化について
小中学校の先生の平均年齢が40歳を越している現状及び新規採用の少ないことから、先生の高齢化が進む。これの対応策として、教職の免許を持った人を、地方自治体において地方公務員として一括採用する方法は検討できないであろうか。年齢や先生としての適否を定期的に行い、必要に応じ、例えば学校から公民館や福祉施設に職員として配転し、新たな先生を教職を有した公務員から学校に配転することにより、学校現場の人事の流動化が図れると考える。法的検討が必要と思われるので検討をお願いしたい。
4.家庭やコミュニティーの教育・学習の制度的構築
家庭の教育力や地域の教育力の低下が嘆かれている。幼児期における教育が人間の人格形成に重要なことは周知のことであるが、特に家庭における教育については個々の家庭に任されており、国民が等しく体系的に家庭教育を学ぶシステムがない。コミュニティーについても同様である。家庭の在り方やコミュニティーの在り方について、生涯学習社会のベースとして家庭や学校や地域での教育や学習を制度的に構築する必要性を提言したい。
5.生涯学習時代における教育の在り方 −バリアフリーの教育−
生涯学習のコンセプトはいつでも、どこでも、だれでもが学べるということである。このことは、健常者は勿論、障害を持つ人もその意思があればバリアフリーで享受できるものである。具体的なことを述べれば、視覚障害者は普通の学校や一般の図書館では今は学べない。盲学校や点字図書館で学習する。これは本来おかしい。21世紀はバリアフリーの時代であり、例え視覚障害者でも近くの学校や図書館で健常者と一緒に学べるような教育の在り方を国として指向しなければならない。人の身体的なハンディーにより学ぶ場所が異なるようでは、教育後進国であろう。今後、高齢化に伴い福祉が重要な国の政策となろうが、福祉は教育がしっかりしていてこそ成り立つものだと先進諸国が考えている。そのためには、日常的に健常者も障害者も一緒になって学べる学習の機会が学校や地域社会において不可欠であり、今後の我が国のあらゆる教育の中に制度として構築する必要を強くお願いしたい。
6.教育改革の一本化を
国の教育改革が文部省を中心に進んでいる。また、教育改革国民会議も予定されている。一方、経済界もそれぞれ教育に対する提言を行っている。結構なことと思う。しかし、各種審議会の答申と経済界の提言も、主張の相違点についての論議がなされていない。
改革は実践されてはじめて改革であるが、相違点を論議しないまま国として、経済界として心を一にして改革に取り組んで行けるのかどうか。相違点を論議しないままの改革は国民の不安を招く。
同じように青少年の問題について異なる省庁から異なる答申が多く出される。国において、総務庁や文部省がそれぞれ青少年問題について論議しているように、県においても知事部局と教育局がそれぞれ論議している。その対象は児童生徒であり、その活動を推進している団体も現場では同一である場合がほとんどである。できれば、省庁や県においても審議会を一本化して目的の明確化と実践の実効を図るべきではなかろうか。
2.「学校教育」の役割の転換−社会の変化と学校の役割
学校教育は、その始まりから伝統的に、その国や地方の文化や知識を集団で効率よく子どもたちに伝える、習熟させるという文化・知識伝達型のスタイルを取ってきました。現在の日本の学校教育では、生きる上での価値観や人とつき合う力は、道徳の時間に取り上げる程度で、学級活動や友達関係などの普段の生活の中で自然に身につくと思われてきたように思います。しかし、現在の子どもたちは、テレビやコンピューターなどにより大人と変わらないような圧倒的な情報の洪水の中で、友達関係においても自然との関係においても、自分の手足を使い、皮膚感覚を通して感じる直接体験をしないまま大きくなっています。さらにこれからの子どもたちの時代は日常生活でもっとグローバルな交流が増え、言葉や文化をはじめとして政治や宗教なども違う人たちと一緒に住むことが多くなってくるでしょう。高齢者や障害を持つ人々も社会参加ができるようなバリアフリーの社会を造る必要もあります。同時に男女共同参画社会を実現していくための意識改革も考えられなければならないでしょう。このような今までにない社会の変化の中で、学校教育の場は、今までのように既存の知識を伝達するだけではなく、自分のアイデンティティーをしっかり持ち、かつさまざまなあり方をする人を認め、尊重し共存できる力を育てる場としての必要性が高まっています。学校教育で伝統的に果たしてきた役割に加えて、その子ども自身のアイデンティティーや価値観、倫理観などはどう育てるのかをもう一度考え、家庭、地域社会、および生涯学習との関係の中で、学校教育の持つ役割を再構築する必要があると考えます。
3.学校教育の新しい役割−知識伝達から価値創造へ
2.でふれたように日本の今までの教育は、知識を教えてきて、その量で大学受験に挑むというあり方で、その弊害も多く語られており、現在AO入試、各種推薦、センター入試の回数を増やすなどさまざまな改革が行なわれようとしています。それらは単に知識の量だけでなく多様な学習経験を評価するものとして今後も位置づくことでしょう。
しかし、ここで強調したいのは、2.であげた変化の激しい社会において学校教育がそれら学習面だけではなく、「人間」を育てる場としての役割をどう担っていくかを真剣に考える時だということです。日本の子どもたちは、諸外国の子どもに比べて、自己肯定感が低いと聞いたことがあります。自分が評価されるのが学習成績だけになりがちだからです。まず、自分に自信を持つこと、自分を愛することを実感として感じられるような学校環境であることが必要です。自分に価値があり人生を肯定的にとらえることができるならばいじめや引きこもりなど今問題になっていることもずいぶん変わってくるのではないかと思います。
4.具体的な提言
では、2、3であげた「学校教育」の新しい役割を推進していくためにいくつかの具体的な提言をいたします。
1)ひと学級の子どもの数を減らす
幼稚園で20人、小学校で25人程度とする。知識伝達型の教育ならば40人でもできるかもしれないが、一人一人の子どもの人間性を育てようとするならば、思いきった改革が必要。
2)複数担任の導入
教科によっては複数で担任し(2クラス合同で複数担任でも良い)、知識伝達といえどもきめの細かい指導により習熟度を高める。また、複数の目で子どもたちを見て、多角的に育ちをとらえる。
3)保護者の学校参加(保護者の意識の変革)
授業に直接入るのではなくても、絵本の読み聞かせ、工作指導、植物栽培、コンピューター指導など、いろいろな形で保護者の参加を呼び掛け、子どものさまざまな姿を見て我が子だけではなく、広く社会の子供達の育成という観点を持ってもらう。
4)統合教育の展開
「障害」を持った子どもも、学校の設備をバリアフリーにする、複数担任にするなどで、「障害」が障害でなくなるということを実際に子どもたちと共に体験していく。必要ならばその子どものニーズにあった教育も同時に保証するが、この考え方は「障害」のあるなしにかかわらずどの子にも通用することである。
5)直接体験・自然体験を増やす
動物も飼えない、庭もないというような住宅環境にある子どもたちにできるだけ生の本物の自然を体験させたい。しかし、学校で飼育されているウサギなどの小動物が劣悪な環境に置かれていることも事実なので、その分の予算もきちんと計上する。また、欧米などの博物館、美術館などで5〜6人の生徒が床に座って大きな絵の前で先生の話を聞いていたり、ワークシートに書き込んでいたりするのを見ることがある。このように子どもたちを町や野原に連れ出して、直接本物に触れさせる経験をさせたい。キュレーターなどとの連携が望まれる。
6)学校外教育の充実
5)で述べた自然などに直接触れる体験は、学校教育だけでできるものではない。学校外での団体で、例えばサマースクールやサバイバルキャンプ、農業実習などさまざまな体験ができるよう、行政や私企業でプログラムを用意する。
7)教員養成の中の実習を増やす
デンマークの就学前教育の教員養成では、3年半の全課程のうち実習が実に1年3か月を占めている。学校での理論的な学習と現場での実習が交互に組まれており、効果的な学習ができる。また、教員養成校への入学の平均年齢は25歳であり、入学試験では学力と共にそれまでの職業経験、外国在住体験な どが加味される。よって、学生は子どもだけでなく、さまざまな職業の保護 者とも大人として、職業人としての関係を築いていく資質がある。
8)保護者の労働時間を短く、子どもを家庭に返す
これは教育改革で扱うべきことではないかもしれないが、子育て期における両親の(父親もということ)労働時間を短くし、少しでも子どもとすごす時間を作ることが大切である。学校に出かけて参加するもよし、子どもとともにスポーツをするもよし、家庭で愛されて育つことこそ、人格形成の基礎となることは周知のことである。
以上、具体的な提言を行ないました。日本の教育はどの方向へ向かっているのかということをよく考えて、小手先の改革ではなく、どのような人間を育てたいと思っているのかという原点に立ち返って、本気で大胆な改革をする時期であると考えます。
第一は、教育の在り方についての国民的合意の必要性です。
教育は学校だけで完結できるものではなく学校、家庭、地域がそれぞれの役割を果たし連携協力して取り組まなければその効果は望めません。今日、家庭、地域の教育力が低下し、基本的生活習慣、善悪の判断、社会性、集団性等これまで主に学校以外の場で担われてきた内容まで、学校教育の場で対応せざるを得なくなってきています。そのため、本来、学校が担うべき役割である基礎的知識、技術の教育にも支障を生じてきています。学校がかかえ過ぎているというだけでなく、本来、家庭や地域で第一義的に担われるべき教育があるのではないでしょうか。
これまでの教育改革の議論等において、これからの教育の「目標」については、「個性・創造性の尊重」、「生きる力」の育成などが共通の認識となりつつあります。しかし、これを実現するための、学校、家庭、地域それぞれの果たすべき役割や具体的な連携方策については広く国民的合意が形成されている状況にはありません。これらについて幅広い議論がなされ国民の共通理解が得られるようお願いします。
第二に、道徳教育の在り方についてです。
21世紀の我が国を担う子供たちが身に付けるべき資質は基礎・基本を踏まえ、自ら考え、行動する主体的な力と併せて、正義感や倫理観など豊かな人間性です。この両者がバランス良く身についてはじめて自立した「個」が育ちます。しかし、豊かな人間性を育てる心の教育、とりわけ道徳教育については、教師も社会全体の関心も極めて低い状況といわなければなりません。青少年非行、いじめ等の問題が議論される場合でも、道徳教育の在り方まで遡って議論されることはまれです。21世紀の日本の国家像には、それに相応しい価値体系や倫理規範がなければなりません。経済的価値が優先されてきたシステムが見直されるつつある今こそ、これまでの道徳教育の在り方を抜本的に見直し、その充実を図るべき時期です。
第三に、我が国の歴史認識に関する教育の在り方についてです。
明治維新、第二次大戦後に次ぐ、第三の変革期といわれる今日、21世紀を担う子供たちに、我が国の歴史についての認識をきちっと理解させる必要があります。これまで自国の歩んできた歴史を体系的に理解してはじめて21世紀の航路が定まります。特に、明治維新以後の近現代史について、個別の事例、事件だけではなく、時々の国際情勢の中で、どう先人たちが生きてきて、今日のわれわれがあるのかを正しく認識する必要があります。そのためには、教科書の内容の在り方、近現代史の指導方法等について抜本的な見直しが必要です。
第四に、行き過ぎた平等主義の見直しについてです。
これまでの我が国は、教育における平等性を重視しながら、教育水準の維持、向上を目指してきました。その結果、我が国の教育は著しく普及、発展をしました。しかし、「機会の平等」のみならず「結果の平等」を求めすぎました。子供の主体的な選択や個性や能力の伸長を図ることに必ずしも十分ではありませんでした。「21世紀を動かす原動力は個人であり、個人の先駆性である。」といわれます。そのためには、使命感を持ち、創造性あふれる人材の育成についての国民の共通理解を図るとともに、こうした人材育成の制度や教育システムを創出しなければなりません。
第五に、学ぶ「意欲の低下」にどう対応するかについてです。
子供たちの「学力低下」が叫ばれています。これについては、十分な調査データがないので、今後の調査を踏まえて検討すべき課題です。ただ、その原因として「ゆとりの教育」だけでなく、「学ぶ動機、やる気の低下」が指摘されています。「ゆとり」問題が原因とすれば対応策は考えられますが、「学ぶ意欲の低下」への対応の問題についてはどう考えたらよいのでしょう。日本青少年研究所等の韓国、中国、米国、日本の中・高校生を対象に実施した「21世紀の夢に関する調査」の中で、「学校生活において大切だと思うことは何か」を高校生に聞いた結果によると、勉強をすることと答えた割合は、日本の高校生が一番低い割合となっています。本県の高校生の意識調査の中でも「高校生活で悩んだこと」について、「授業に興味がわかない」が約30%で最も多い結果が出ています。こうした状況から考えると、これは、進路選択のミスマッチの問題だけではなく、学習への動機づけ、意欲の低下、更には、学習することに対する価値観そのものもゆらいでいるのではないかという危惧の念を抱きます。どのような素晴らしい未来の社会を想定しても、それを目指す子供たちの意欲がなければ実現は不可能です。「学ぶ意欲」をどう育てるか、社会全体の教育観、価値観の問題として十分検討する必要があるのではないでしょうか。
最後に、「個」と「公」についての感想です。
「21世紀日本の構想」懇談会の報告書によると、21世紀は「個人の世紀」となるとされます。そこでは、個が自由で自発的な活動を行い、社会に参画していくことにより、従来の上からの「公共」ではなく、個人を基盤とした新たな公が創出されます。またそのような個を確立し、公を創出するには、これまで十分でなかった「自立」と「寛容」の精神を育てる必要があるとされます。これまでのシステムの壁を解き放ち、個人の潜在力を引き出そうとする提言の趣旨は理解できるものです。しかし、学校教育の最終段階である大学生の二割が進路未定のまま卒業しているという現状を考えるとき、まず、「自立」の精神等の育成方法そのものが大きな課題となってきます。また、会社や自分の所属する場から自由になった個人は、いかにして「公」としての社会に参画する使命感と意欲を持つに至るのか。個人の利益だけ求めて競争する社会になる恐れはないのか。そのためには「公」に貢献することに誇りを見い出すような価値観が社会的に醸成される必要がありましょう。また、その価値観が、学校、家庭、地域などのあらゆる場で教育される必要があるのではないでしょうか。
以上、数点にわたり申し上げましたが、今後の「国民会議」の成功をお祈り申し上げます。
@教育という営みにとって大切な視点(教育理念)は何か。
目標は「自立」ではないでしょうか。親と子、先生と生徒の関係においても、この自立が目標になければ、面倒をみているにすぎないと思うのです。もちろん子供のためを思っていない人はいないと思いますが、大人側の満足感だけだと「過干渉」「教えすぎ」ということになります。その結果考えることのできない人間になるのではないでしょうか。
外国のコーチが日本の選手を見て「自立していない」と言われたことがあります。コーチの言うことをよく聞くし、そのとおりの行動をとれるが自分で問題を提起し解決する方法を知らないと言われました。だから日本選手はいざと言う時力を発揮できないのだと・・・。
これと同じようなことが様々な場面で見られるのではないでしょうか。大人がいなくなればやらないし、サボる。または課題を与えられないと、自分では何もできないし、動けない。
社会に出ていかに役に立つ人間を育てていくのかが大人の役目であって、いか にたくさん手をかけたかお金をかけたかが大人の役目ではないのだと考えます。
A学校・家族・地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮するべきか、生涯学習を どのように進めていくか。
@に重複するところは省きます。
よく地域でも子供を叱れないといけない、と言われます。以前は近所に怖いオヤジがいて叱られて、これからそうならなければいけないとテレビで発言される方もいらっしゃいます。確かにとても大切なことだと思いますが、それを実現するためには親が変わらないといけないのではないでしょうか。自分の子供が他人に叱られていることを素直に受け止めることのできる親がどれほどいることでしょうか。電車やレストランで騒いでいる子供に注意すれば「あの人怖いからやめましょうね」だとか子供のけんかを仲裁したために近所で仲間はずれにあったとかそんな現実があるのです。子供は親の所有物であるという考えがこうなるのでしょう。
今、地域総合型のスポーツクラブが模索されています。この中で大人と子供が一緒になってスポーツをすることで、いろんな年代の人と触れ合えるのはとても素晴らしいことであると考えます。とかく同年代としか触れ合うことがないために、狭い価値観しか作れないのではないでしょうか。いろんな年代の人やいろんな価値観の人の中で、育つことは大人にとっても子供にとっても有益な環境だと思います。
B「個」と「公」についてどのように考えるべきか。
よく高校生や中学生が「自由」という言葉を使います。間違った解釈をしているような気がします。彼らが使うのは「わがまま」であり「勝手」なのではないでしょうか。わがままを通すということを自由にする、と思っているのではないでしょうか。その為に「個」と「公」の区別が全くついていないような気がします。
ある時学生に言いました。
「そこに落ちているごみを拾って捨てて」
その学生はこう言いました。
「これ僕のじゃありません」
家庭で、「勉強だけしていればいいから、自分のことだけやればいいから」と育った結果なのでしょうか。自分さえよければ、自分のことだけしていればいいという環境に育てばこういうことにもなるのでしょう。
人種差別や階級制度の制約の中で育って「自由」を求めたアメリカ人や戦前の人たちと現在の子供達の叫ぶ「自由」はまったく別もので、ルールの中で自分の最大限の能力を発揮することを改めて教える必要がある気がします。
Cについては、申し訳ありませんがそこまで考えが及びません。
私自身、教職についてもう15年になりますがいろんな子供がいることは確かです。一人一人をキチンとみることははっきり言って不可能です。だからこそ家庭が重要な場になってくるのではないかと思っています。朝ご飯を一緒に食べなくても、片親でも立派に育つ子もいれば、そこそこの暮らしをしているのに曲がっちゃった子もいます。何が原因なのかと考えると、やはり大人側の価値観や環境作りがあるのではないでしょうか。物やお金を与えればいいのではなく、子供が今何を求めているのかを大人側がキチンとキャッチできなくてはいけないのでしょう。また「必要なものは用意するが、欲しいものは我慢させる」という大人側のきちんとした態度も大事なことでしょう。それも子供にとって必要なものであり、大人が必要なものではないことを十分理解する必要があると思います。学歴や成績を欲しいと思っているのはもしかしたら大人なのかもしれませんね。大人も子供も欲しいものを我慢する!
2 例えば、学校が騒乱状態になる「学級崩壊」という現象があります。
新聞、テレビは大きく報道し、さまざまな分析を加えました。
しかし、絵空事の分析でした。ただの一例も「学級崩壊」を建て直した記録を 示せなかったからです。
「ガン病棟に入った50人の記録」と「ガン病棟からの生還50人の記録」と、どちらが大切かといえば 後者だと思います。
私たちは『学級崩壊からの生還』(扶桑社)を出版し、50名の教師の記録を 載せました。
私たちは「学級崩壊」した教師の駆け込み寺の役目もしています。
小さい時から教師を夢みて、せっかく教師になった人材が「原因不明」のま ま、心を病み、教職を去っていくのは、つらいことです。
学級崩壊する原因は授業が下手だからです。よかれと思ってやった方法は、す べて我流で悪い結果をもたらしたのです。
なぜ「授業が下手」かといえば 大学で習ったことがないからです。大学で習 うのは「外国」のことと「歴史」のことでありこの二つが学位をとる主流だから です。
現場に出てからも「授業」について教わっていません。
今の日本に「授業」について論じ、実証できる人は、数名しかいません。
この根本原因は、戦後、師範学校を廃止し「教育の技術・方法」の系譜を絶ち 切ったことにあります。
現在もなお「教育の技術・方法」は軽視、蔑視されています。
「技術・方法」が軽視され、そのかわりに建て前の美辞麗句がまかり通っています。
3 算数の学力低下が大きな問題となっていますが、この原因も同じです。
私たちは「教科書を忠実に、リズムよく授業する」ことを主張しています。
こうすると、クラスの平均点が「80点・90点」と急上昇します。子どもたちは授業に熱中し、算数が楽しいと言います。
それまで、テストで10点、20点しかとれなかった子が、90点、100点ととるようになります。
子どもはとびあがって喜び、親は涙ながらの感謝のことばを言ってきます。
全国で、何十となく何百となく生れている事実です。
ところが、一部の校長先生、指導主事先生は「このやり方を止めろ」と強要するのです。
一時間に一問だけ、じっくりと問題を考えさせ、話し合わせなさいと言います。
こうすると勉強のできる子は2、3分で解いて遊びはじめ、できない子はずっとできないのです。
何よりも、練習問題をやる時間はなく、宿題にされます。子どもは算数嫌いになります。平均点は50点、60点と低くなります。
この方法は、「子どもの考え方を伸ばす」のだそうですが、そんな事実はありません。
算数嫌いと低学力をつくり出します。
これを、算数熱心な校長先生方が、日本中でやっているのです。
「文部省検定の算数教科書」を大切に扱って、すばらしい事実が生れているのに「それを止めよ」と強要する校長、指導主事先生が多くいる所に、算数の学力低下の根本問題があると思います。
4 二つの例に示しましたが、教育の営みにとって大切な視点は「子どもの事実」であると思います。知性と心と体が、いかなる授業によって、どのように向上的変容をしたのか(しないのか)という視点です。
あわせ、その授業(教育)内容が、子どもたちの未来社会に対応できるのかどうかも大切です。
ケルンサミットでの小渕総理のご発言こそ、今の教育界で最も大切な点なのだと思います。
5 父母の愛を得て子は育ち、友との絆の中で、子は学びます。
そこには順序があります。
親の愛を基礎に「してはいけない」等の定義を学び、幼稚園で「順番待ち」のルールを学び、小学校に入って「社会的規範」を学びます。これが内容の順序です。
年齢の順序(適時性)もあります。以上のことを身につけるのは、乳幼児期から始まって8才ぐらい迄と言います。脳科学のドクターの意見です。すると、小学校の低学年が、最後のチャンスと言えます。
然るに日本では、幼稚園の時に「自由保育」の名のもとに、自由放任が横行し、小学校でも最後のチャンスの意識はありません。
家庭でも「幼児期の大切さ」を忘れている(知らない)親もいます。
乳幼児期の「教育の内容」と「順序」の大切さを明らかにすべきと思います。
6 公(みんな)の中で、個(自分)も生かされるということを、もっと明確に教 育すべきと思います。
「お母さん、何のために勉強するの」と聞かれると「それはね、自分のためなのよ」と、日本中の家庭で答えていました。
戦争中の「滅私奉公」への反省でしょう。しかし 針は180度にふれすぎました。今や「滅公奉私」の「自分さえ良ければいい」という人も出ています。
私は6年前「ボランティア学習」を提唱し「ジュニア、ボランティア教育」誌を創刊しました。しかし、教師の多くは「ボランティア学習」に反対でした。
6年前には、日本で「ボランティアの授業」をした教師は皆無に近かったのです。
ボランティアクラブが細々とあるだけでした。
時は移り、あれほど反対していた教師もボランティアの授業をやるようになりました。
「人に役に立つことの学習」(ボランティアの授業)は、子どもを変えます。子どもが優しくなるのです。
7 教育改革は「具体的事実」をもとに実施していくことが大切と思います。
いくつかの方法を認め、異なる方法で実践し、子どもの事実を検証し、事実と納得をもとにすすめていくことが、実をあげる方法と思います。
2.新しい教育観のすすめ
私たちは、これまで長きに亘って、生きる手段である文明化と経済活動的発展を追求し、競争原理を煽り立てた。その方法の一つとして、合理的な知識修得主義があった。
我が日本国においては、その教育原理による学校教育が、明治5年から昭和40年代初めまでの約百年の間に見事に成功し、今日の経済大国の礎となった。しかし、昭和40年代後半から機械化、合理化が進み、自由で豊かな文明社会になると、学校教育が徐々に色褪せてきた。特に、昭和50年代末以後は、コンピューターによる情報化社会に突入し、急速にゆき詰まってきた。それは、発展のための知識、技能教育から、当り前のこと(基礎、基本)を身につけさせる教育への発想の転換となった。
文明社会の子どもたちは、生まれた直後からテレビを観、インターネットに接しているので、肉体的成長よりも、精神的発達の方が早い。そのせいで、十数歳になると物知りになりすぎて、大人になった錯覚に陥り、精神的成長が止まりがちになる。そして、少年少女の精神年齢のまま成人する人が多くなる。
知的、技術的に早成する子どもたちに、理屈を説いても効果は少ない。その反面、彼らは生活の現場や自然を具体的に知ってはいないので、自然の中での生活体験や素朴な遊び、労働などを体験させることが、最も効果的に感動する心や道徳心、社会性、人間性などを豊かにさせることである。
世界で最も早く、画一的な科学文明社会に突入した日本で、生まれ育つ子どもたちを教育する見本はもうどこにもない。私たちには、これから新しい教育観を形成する、生みの苦しみを味わう努力と工夫が必要である。
3.大人が伝えるべきこと
いつの時代にも、大人は子どもたちが自分たちと同じようになることを望んで、社会人の基本的能力を伝えてきた。それは、一人前の社会人になるために必要な心得でもあった。
社会の諸事には四つのとらえ方がある。それは、@変えてはいけないこと、A変わらないであろうこと、B変わるであろうこと、C変えなければならないこと、である。
大人が子どもたちへ伝えてきた、社会人の基本的能力とは@とAである。私たちにとって変えてはいけないことは、社会人としてよりよく生きることとお互いの信頼である。変わらないであろうことは、生きぬくことと道徳である。
テレビやインターネットなどによって生活の仕方が変化してきたが、文明化や経済活動は、生活をより便宜的にするための手段であって、生きる目的ではない。
子どもは、いつの時代にも大人の真似をして遊びながら学習し、迷いつつ成人して、自分たちの時代性を形成してゆく。6、7歳から12、3歳までの子どもが、野外でよく遊ぶのは、心身を一人前にする準備として必要な訓練である。それをさせないで、言葉や文字、視聴覚機器などで生活の知恵や道理(道徳)などを伝えることは至難の業である。
文明社会においても、大人が伝えたい社会人の基本的能力は、これまでと同じように野外で2人以上が共に活動する、野外伝承遊びなどの体験学習によって身につくのである。
4.教育改革の具体例
(1) 小学低中学年に野外伝承遊びを
人類は古代からより多くの人の心を豊かにさせ、共通性をもたせ、生き方を納得させる手段として、幼少年時代に大人の疑似体験的な遊びを許してきた。本来は、家庭や地域社会の伝統教育としてなされてきたが、今日では衰退しきっているので、まずは小学低中学年に取り入れ、指導は、地域の人々によることが必要になっている。
小学1〜2年生には規則や競技性の弱い遊びを、3〜4年生には規則や競技性の強い遊びによって、心身の基礎を培うことである。
野外伝承遊びの実例
1年生=草、泥、水、雪、木の実などの遊び。
2年生=縄跳び、鬼ごっこ、かくれんぼ、きもだめし、おしくらまんじゅう、陣取り。
3年生=風車、水鉄砲、紙飛行機、お手玉、石けり、石当て、ビー玉、馬乗り、相撲。
4年生=竹とんぼ、竹馬、竹笛、こま、たこ、遊泳、遠足、騎馬戦。
(2) 10日間の学校外教育の制度化
これからの情報化社会で生まれ育つ子どもたちは、間接体験が多く、個人的な世界に埋没しがちになるので、知識や技能を合理的に伝えると同様に、他と共に行動する合理的な体験学習の機会と場が必要である。
12、3歳までの子どもは、同じ所で10日間も共同生活をすると、その体験は記憶の中にすり込まれる。これからは、教科書を使う学校内教育と、教科書を使わない学校外教育としての生活体験等を、人づくりの両輪とする教育政策が必要である。
そのために、中長期的教育改革の一つとして、小学校5年から中学2年の間に、1から2度、10日間の野外生活体験(欧米式ではない)を、学校外教育として教育制度の中に導入すべきである。
@ 戦後教育は、戦前の教育の「負」の部分を否定するあまり、その全否定から出発し、形式的な平等の名において個を画一化してきました。
そこでは、「子どもたちは皆、無限の可能性を持っている」という前提から「従って、子どもたちは、皆、同じところまで、到達できる」という誤った結論が導かれ、子どもたちに「違いがある」ということはタブー視されました。
子どもたちの可能性は無限であるとともに多様であり、従って、その到達点も多様なはずであります。
しかしながら、多様に伸びようとする枝を同形に剪定することによって、「平等の名において個性(可能性)を萎えさせてきた」面があったことは事実であり、この克服が何よりも肝要であります。
A 戦前の「臣民」育成教育への反動から、「あるべき日本人像」が提示できず、教育の分野においても臨教審の「期待される人間像」が具体化されずに終わって以後、具体的な提起はありません。
このことによって、価値観の「多様化」というよりも「混乱」が生じ、日本人として誇るべき資質や、伝統・文化の継承に断絶が生じています。
今次、教育改革が提起している「生きる力」も抽象的にすぎ、方向性の提示ではあっても、その内実は明らかではありません。
従って、改革の論議にあたっては、「21世紀の世界の中の日本人はいかにあるべきか」から始める必要があります。
B 「個」の尊重は、「ちがい」の尊重でもあります。
「ちがう」ことを前提として、それを尊重し合い、学び合い支え合う人間関係が構築されなければなりません。
それは教育の場のみにおいて可能なのではなく、社会全体の意識改革が必要です。即ち、「個」の「ちがい」が社会関係において「上下」を伴って評価されがちな現状が変革されなければなりません。
この意味において、教育改革は、まさに我が国社会全体の改革の重要な一環であり、両者は統一的に進められる必要があります。
1 教育という営みにとって大切な視点(基本理念)は何か。
@ 子ども一人一人の、良さや可能性を最大限に伸ばし、いかなる社会の変化にも対応できる生きる力を身に付ける。
人々が教育の機会を公平・平等に活用し、個人の有する能力・個性を十分に生かせるよう、一人一人の能力に応じた教育機会を用意し、それぞれの良さを最大限に伸ばす。
いかなる社会の変化にも対応するためには、基礎・基本の定着と自ら課題を見つけ、自ら考え、主体的に判断する資質や能力を育てるとともに、ライフステージに応じいつでも学びたいことを学べることを保障することが大切である。
A 我が国が誇る伝統や文化を次代に継承する。
伝統や文化の継承と発展は、教育の本質である。残念ながら、戦後教育は、戦前の教育の全否定から出発したため、この点での断絶が生じている。明治の学制以来の我が国の教育を改めて主体的に総括する必要がある。
その上にたって、臨教審の「期待される人間像」に相当する「目指すべき子ども像」の提起が不可欠である。
B 子どもが社会の一員として国家や社会に貢献しようとする態度や能力を育成す る。
教育は、子どもの能力・個性を最大限に伸ばすという側面と、その結果として社会の発展に寄与する人材を育成するという側面がある。この両側面が統一的に追求されなければならない。
教育を通して、個人の能力・個性を最大限に開花させるとともに、不易の価値観や規範意識を育み、社会や国家の発展にも、進んで貢献しようとする態度や能力を育成することが大切である。
2 学校・家族・地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮すべきか、生涯学習 をどのように進めるか。
@ 学校・家族・地域社会の役割を明らかにし、有機的な連携を図る。
学校・家族(家庭)・地域社会は本来それぞれが固有の役割を担っている。即ち、学校では基礎・基本の学力を確実に身に付けるとともに集団生活を通して調和のとれた発達を図り、家庭は人として支え合いながら生活する最小単位として、基本的生活習慣等を身に付ける場であり、地域社会は生活の安全の基礎の場所であり、公共心や奉仕の精神、地域への愛着心等を身に付ける場である。
しかし、最近は家族(家庭)・地域社会が自らの役割を果たせず、家族(家庭)・地域社会の役割までも学校教育に求められている。
完全学校週5日制実施を目前に控え、今後より重要となってくるのは、それぞれが担う本来の役割を明確にすることであるが、そのために、過渡期において必要なことは、学校が学校の教育目標や内容を説明するなど開かれた学校づくりを推進し、それぞれの役割と責任を再確認し、学校・家族(家庭)・地域社会が連携し、各々が何をなすべきかの共通理解を深め協力・連携して互いの教育力を高められるよう働きかけることである。
A 生涯学習を支えるためのシステムを構築する。
国際化・情報化・少子高齢化等が進む中、人々のライフスタイルの変化や価値観の多様化の中で、教育は学校教育で完結するのでなく、必要に応じて、いつでもどこでも誰もが自由に学べることが求められている。
学校はすでに子どもたちの教育に取り組むだけでなく、市民の学習の場として一定の役割を果たしつつあるが、今後より一層その役割の拡大が期待されている。
また、学ぶ側の市民は、単に学習するだけでなく、その学習成果を地域社会の発展やボランティア活動に生かしたいとする人も増えてきており、今後、学校教育のみならず、生涯学習の場面でも、地域の人材の協力を得ながら推進することが必要である。
今後、生涯学習を進めていく上では、教育機能を有する機関が、何にどう取り組めるのかを明らかにしつつ、社会全体として生涯学習をいかに支えるかを検討することが必要である。
3 「個」と「公」についてどのように考えるべきか。
今までの日本社会における、個人と公の関係は、個人が政府に負託し、政府は国民に負託されるという関係を結んだうえで、実態は、公が決めたことを個が受け入れるというものでしかとらえられず、両者が十分に対話をし、情報伝播をしたうえでの真の意味での託す・託されるという関係が築かれていると言い難い面がある。今後は、個人と公を好ましい協力関係へ切り換えるために、情報の公開による開かれた個と公の叡智を汲み上げパートナーシップの徹底を図るなど、仕組みを見直すことと人々の意識改革を図ることが必要である。
また、これからの日本社会に必要なのは、個人が自分の能力と個性を最大限に開花させるとともに、その個人が自分の意思で、積極的に社会に関わり、新たな公を創出することである。そこで実現される公は、自立した個の自主性に基づき築かれる公であり、公の中で、個は自らの存在基盤を確かめ、より主体性を発揮していくことが可能となる。
即ち、個人の可能性の開花と、社会への貢献(世の為、人の為に尽くす)が統一的に実現されなければならない。
4 教育改革を今後具体的にどのように進めていくべきか。
教育とは、子どもたち一人一人がもつ能力や個性を十分に発揮できるよう育てることであり、そのために家庭・地域の叡智を結集し、学校・家庭・地域の三者がパートナーシップのもとで、取り組むことにより実現できるものである。
教育改革を実施する上で忘れてはならないことは、今までの知育偏重による画一的な価値観で子どもたちを判断しがちであったことを改め、一人一人の多様な個性を真に尊重する価値観への転換を図ってこそ、真の意味での改革につながるということである。
@ 形式的な平等主義を排除し、一人一人の個性を正しく評価する。
学校は子どもたちにとって、学びの場所として意欲のもてる場所であると同時に、一人一人がかけがえのない存在として尊重され評価される場であるべきである。
しかし、知育を偏重しすぎた結果の弊害も生じていると同時に、できる子を十分に伸ばせなかったり、できない子の可能性を萎えさせてきたことがある。今後は、一人一人の個性を尊重することや多様な人材を輩出する点からも複線型の教育システムの再構築が必要である。
その際、子どもたちの多様な個性が公平に受容されるよう受験制度をはじめ社会全体の価値観の転換が同時に必要である。
A 心の教育の充実を図る。
社会生活を営むうえで社会の一員として共通の規範を身に付けることは基本的なことである。しかし、そのことが今十分に子どもたちに身に付けられていない現状がある。
人間として社会の発展に貢献する態度や、美しいものや自然に感動するなどの柔らかな感性、生命を大切にし人権を尊重する心などの基本的な倫理観等をしっかりと身に付けさせることが必要である。このことは、学校・家庭・地域社会が連携して体験活動・ボランティア活動等を通した心の教育として子どもたちに培うものであり、実践に際しては大人たちが自らを見つめ直し、子供たちの範となる姿勢が必要である。