教育改革国民会議

山 崎 正 和
(劇作家・東亜大学教授)

 お問い合わせの件ですが、私の意見は総理の「21世紀・日本の構想」懇談会の報告書(第5分科会)で尽きていますので、それを御参照ください。

(以下、「21世紀日本の構想」懇談会、第5分科会報告書)

T.はじめに
 社会や国家の未来を考えることは、これから生まれる人間、今、育ちつつある人間を考えることにほかならない。21世紀の日本を構想することは、広い意味での教育、教養と活力ある人材を育成する仕組みを構想することに帰り着く。世紀の変わり目にあたって、知識と情報の普遍化と高度化が見られ、諸文化の相互交流が進み、産業の構造も大きく変わろうとしている今、日本にとってはこの変化に対応し、時代を導く人材が必要なのである。
 とりわけ産業構造が変化して、新しい技術の創造、新しい情緒的な価値の生産が急務となっていることから見て、日本には世界標準でそれに適応できる人材が不可欠となっている。また、世界に60億の人口がひしめこうとしているとき、先進国は単に明日の自国の国民のためだけではなく、大量の人類を限られた宇宙船地球号の上で生存させることに寄与しなければならない。そのためには、創造の意欲に溢れ、透徹した理性と豊かな想像力を兼ね備え、未知の問題と取り組む先駆的な才能を育てなければならない。
 一方、そうした先駆的な人間を生み出すためにも、また国民が堅実で安定した生活を営むためにも、社会全体に聡明な共通の認識能力が分け持たれていなければならない。それとともに、日本という社会が世界の人々から尊敬され、愛されるためには、国民が単に知識や技術で人類文明に貢献するだけではなく、社会を挙げて文化的な向上心を堅持し、気品と魅力のある暮らし方をしていることが求められる。
 今日、世界は自由市場の活性化とともに、国境を越えた大きな変化の流れの中に置かれている。時に市場は従来の国民国家の統治力を制限したり、社会に必要以上の混乱をもたらすことは、近年広く見られた通りである。しかし、自由市場の世界化は歴史の趨勢であり、人類がそこから受ける恩恵も計り知れない以上、国家は市場と協力し、それにしかるべき軌道修正を加えながら共生していくほかはあるまい。
 市場とは、一つの巨大な独特の評価システムである。それは、おびただしい取引を積み重ねる過程で、物に対しても人に対しても無記名の大衆投票による選抜を行う。国家やその他の社会機関の評価システムとは違って、市場では評価する主体の顔も見えず、評価過程の意見対立の構造も見えず、評価の結果だけがあたかも自然現象のように現れる。市場が時に国家と対立するというのも、国家とは異なる評価システムが国家に挑戦し、国家そのものをも評価するということにほかならない。その際人間に対する評価をも含めて、市場はそれが働くそれぞれの時点において、最も合理的な選択を見せるという点で優れている。市場は惰性的慣習、情実に基づく閉鎖的な集団、及びその集団による評価を打破するという意味において、人間に利益をもたらす。それは絶えず地域を超え、因襲的な共同体を超えて普遍的な公正を目指すという点で、他に代え難い利点を持っている。
 その反面、商業的取引は常に現在という時間の中で行われることから、市場には歴史的な時間を超えられないという欠点がある。一見してわかるように、市場は時間を超えた社会的公正、すなわち相続の不平等の緩和をめざして、富の再配分を行う機能は持っていない。また、未来世代との富の配分とも言うべき、資源や環境の保存のためにも有効な力を持っていない。同様に、それは個人の当面は見えない人間の知的情操的な能力を評価し、長期にわたって育成しうる可能性を評価する力も持たない。また市場の評価は無記名の大衆投票によることから、その時々の大衆の目に触れにくい専門的能力、将来においては高い評価を受けるべき才能を予見することができない。
 市場が有効かつ健全に機能するためにも、人類はその限界を補うために、国家をはじめとするさまざまな社会機関、非市場的な制度と人間関係の仕組みを持たなければならない。人間の評価と育成について言えば、それを直接に行うものは、必ずしも国家に限られない。私的な学校、企業、職業集団、非営利団体、さらには批評機能を持つジャーナリズムも、教育に貢献することができる。しかし、法に基づく強制力を許され、それによって社会諸機関に安定を保証しうるのは、予見できる未来にわたって国家のほかにはない。市場と拮抗して教育制度の根幹を支え、民間諸機関の活動を援助し、調整する役割は国家にのみ期待される。教育のあるべき姿を考えるさいにも、それを決定する力として、市場と国家という文明の二大要因の緊張関係を前提としなければならない。

U.教育のもつ二面性
 いうまでもなく、教育の場では人間が成長することが前提とされ、その時々の個人に対する価値判断は常にその個人の将来への展望の中で行われる。また、教育が世代から世代へ受け渡す価値も、それが知識であれ、美意識であれ、倫理感覚であれ、長い時間の中でその正当性、有効性が確かめられるべきものである。
 他面、人間についての理想像や文化的なもろもろの価値も、歴史の中で変化していてこそ生きた価値だと言える。そして、そうした文明的、文化的な価値は余りにも惰性的、因襲的な共同体の中に閉じ込められていれば、必要な革新の力を持つことができない。文明的、文化的価値とは一言で言えば時の変化に抵抗する同一性と、時の流れに刺激される流動性の両面から成るものである。人間の教育を考える場合に必要なことは、この二面性を巧みに両立させる方策を立てることにほかならない。あえて言えば、教育の国家的な運営と、市場的な運営の両面が併用されなければならないと言い換えてもよい。
 ところで、広義の教育、すなわち人材育成にかかわる国家の機能には、質的に異なるいくつかの側面があることに注意しなければならない。第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。共通の言葉や文字を持たない国民に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。 義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。
 しかし、同時に教育は一人ひとりの国民にとっては自己実現のための方途であり、社会の統一と秩序のためというよりは、むしろ個人の多様な生き方を追求するための方法でもある。この第二の側面においては、国家の役割はあくまでも自由な個人に対する支援にとどまり、近代国家が提供するさまざまなサービスの一つに属すると考えるべきであろう。この側面における教育については、国家は決して強制権を持つべきではないし、また持つことは不可能である。
 しかしながら、近代の国家がよい意味での個人主義を奨励しているとすれば、こうした多様な自己実現に間接的に協力することも、国家の機能の一つとして認められてもよい。さらに、このサービスの充実の結果、さまざまな有能な個人が自己実現に成功すれば、それが逆に国家あるいは国民の利益につながることは自明の理である。したがって、先駆的な才能を持つ人々を国家が支援し、そのために財政的な支出を行うことは、それ自体が国益にかなうものとして国家の機能のうちに数えられるべきであろう。
 もちろん、具体的な教育の内容に即してどこまでが共通の認識能力を要求する統治であるか、どこからが多様な自己実現に資するサービスであるかを機械的に指し示すことはできない。しかも、その2つの領域は文明の進展とともに移り変わり、必要な政策がいつか不必要になることも避けられない。例えば、文明の一定の段階においては子どもに手を洗うことを教えることが必要とされ、社会防衛の上で、言い換えれば統治行為の上で重要とされたことがあった。他方、ジャーナリズムを始めとして、多様な社会的教育機能が充実した文明段階においては、これまで義務教育として与えられた多くの知識が余分なものになるということも考えられる。このように教育の内容は流動的であるが、まさにそれゆえにこそ国家は常に注意深く、統治行為としての教育とサービスとしての教育の境界を明らかにしていかなければならない。そして、必要最小限度の共通認識を目指す義務教育については、国家はこれを本来の統治行為として自覚し、厳正かつ強力に行わなければならない。同時に、サービスとしての教育の分野においては、その主要な力を市場の役割にゆだね、あくまでも間接的に支援の態度を貫くべきである。

V.日本の教育をめぐる現状と課題
 振り返って日本の教育の歴史を見ると、それは統治行為としての教育が目覚ましい成功を見せ、その勢いに乗って内容の拡大に次ぐ拡大に努めた過程と見ることができる。そして、現在ではサービスとしての教育の多過ぎる分野をその中に取り込み、強制とサービスの境界がほとんど見失われた段階にあるといえる。明治の近代化とともに、日本は他に類を見ない教育政策の充実に努め、当初から公立の学校を全国に展開し、教員の資格を標準化し、教科内容、教科書そのものに至るまで制度化し、均質化することに努めた。多額の国費が教育に注ぎ込まれ、過疎地の寒村にまで学校教育は文明をもたらす先駆者として普及した。また、国民の側も子どもの教育に極めて熱心であり、それを国民の義務として理解することをためらわなかった。百年の教育の成功は日本の近代化、とりわけ工業化に必要な高度で均質の人材を大量に供給した。識字率の高さ、科学的常識の広がり、初歩的な計算能力の普及、さらには潔癖、几帳面さといった国民性は日本の近代教育の勝利の証しである。
 しかしながら、20世紀の終わりにあたって多くの人々が指摘するように、まさにこの国民教育の大成功が幾つかの問題を生み出している。最も目立つ問題は、日本が工業社会からポスト工業社会に移る中で、それを支える先駆的人材が他の先進国に比べて育ちにくいということである。この場合、先駆的能力を持つ人間とは、単に競争に勝ち社会的成功を収める人材のことではない。そうした競争能力が正しく発揮されるためには、人はまず未知の世界を恐れない冒険心を持ち、目先の功利性を超えた無償の好奇心に駆られ、同時に結果として起こるかもしれないリスクに対して自ら責任を取る精神が必要である。
 だが、そうした精神の美質は余りにも均質化され、制度化され過ぎた教育環境の下では育ちにくい。単に教育技術や方法論の多様化のみならず、教育を授ける人間の個性、生徒が教師と出会う社会的な環境、それらさまざまな条件が多様化されなければ、こうした強い精神力は生まれてこない。この点から見ると、成功した日本の教育は余りにも至れり尽くせりの教育条件を用意し、結果として教育し学習する人間に緊張感を失わせたと言えるかもしれない。そこでは、生徒にとって教育の環境、教師や学校を自ら選択するという刺激もなく、教える教師にとっても自ら選んだ生徒に出会うという興奮はあり得ない。
 言うまでもなく、統治行為としての教育には均質性が必要であり、最低限度の教育の制度化は不可欠とさえ言える。しかし、もし先に述べた2種類の教育が安易に混淆され、サービスとしての教育が生徒にとって義務となり、統治行為であるべき教育があたかもサービスであるかのように見えるならば、そのどちらも本来の機能を発揮することはできない。統治には強い権限が必要であるし、サービスには提供者の企業家的な熱意が求められる。しかし、両者の混淆は、一方で学校にあるべき権威と権能を与えず、サービスから市場的競争を排除してしまう結果になりやすい。まさに成功の皮肉と言うべき現象であるが、現在の学校においては教える側にも学ぶ側にも、進んでそれに従事するという動機と意欲が低下していると言わざるを得ない。統治とサービスの混淆は、結果として授業内容についていけない子どもには過大な負担を与え、それを消化してより広く好奇心を満たしたい生徒には足踏みを強いる結果を招いている。
 そして注目すべきことは、この日本の学校教育の充実が実は広義の社会教育、文化行政の貧困と背中合わせにあるということである。先進諸外国との比較において、我が国の文化行政予算、言い換えれば学校外におけるサービス的教育への支援がいかに乏しいかは、統計が物語っている。制度的な学校を終わった人々が自らの動機に基づいて学習を反復し、あるいは芸術やスポーツを通じて自己実現を目指すことへの国家的な支援は、はなはだしく乏しい。
 このことが、明らかに外国人の目に映る日本社会の魅力を損なっているのであるが、問題はそれだけではない。我が国では個人の人生が輪切りにされ、教養の上で自己を充実するべき時期と、その能力を単に消費して労働に従事する段階が分断されている。子どもと大人は違った存在であり、生活のさまざまな側面で異なった処遇を受けるのは当然であるが、しかし、自己実現という一点を取れば、人生には一貫した連続性がなければならない。勤勉に文化的果実を「義務」として吸収する子どもと、文化的関心を満たす機会を奪われた大人が構成する社会は、どこから見ても何と貧しく見えることであろう。
 もう一つ恐るべきことは、統治がサービスと混同されたことの別の弊害として、子どもたちが教育を国民の義務として理解し、それに畏敬の念を持つことを忘れかけていることである。義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務であるという観念を復活しない限り、教師の自信も回復されず、昨今さまざまに憂慮される教室の混乱が起こるのも当然だと言える。何よりも急がれるのは、これまで漫然と混同されてきた2つの教育を絶え間ない注意と努力によって截然と分け、区別を意識化していく政策を立てることである。

W.改革のための提言
 21世紀の初頭、ほぼ2010年辺りの実現を目途として、ここに示唆した努力を刺激するため、一つの具体的な方向を提案してみたい。それは、従来も繰り返し教育関係者が口にしてきたことではあるが、義務教育の教科内容を真に徹底的に精選することに尽きる。健全な社会人として生きるために何が必須最低の学習内容であり、義務化されるべき教科内容は何であるかを、この際根源的に見直すことである。もちろんこれを機械的に決定することは難しいが、しかし、その難しさを口実にしてそれぞれの学科の専門家、教師や教科書編纂者の声に従って教科内容の検討を放置しておけば、その量は増える一方であることは過去を見れば明らかである。
 ここであえて一見、過激に見えるゴールを設定し、それぞれの専門家が自らの分野の精選に当たるよう促す方途を考えたい。すなわち、10年間の検討時期と必要な経過措置を置いて、現在の義務教育の教科内容を5分の3にまで圧縮し、義務教育週3日制を目指すことを提案する。
 もちろん、登校日を週3日に削減すること、教科内容を5分の3に圧縮することについてその数字を形式論理に基づいて説明する根拠はない。それを言えば、現在週5日制の学校教育はどのような根拠を持っているか、かつての週6日制からの縮減がどんな根拠に基づくか、だれも語れないはずである。提案したいのは、週7日のうちの半分以上、すなわち少年期の半分以上を、生徒と親の自由選択、自己責任に委ねて見ようということである。同時に5分の3を目指して、絶対に必要な教科内容を洗い出してみる過程のなかで、その厳しい努力によって改めて教える側の強い教育意欲をかき立てることがこの改革の目的である。
 週3日制を実現すれば、当然これまでの学校制度に比べて、生徒には2日間の余裕が生まれることになる。この2日間は生徒たちの自発的な、社会の良識に照らして健全な目的のために自由に使わせることにしたい。しかし、5分の3にまで削減した教科内容は、国民が国民として身に付けるべき最低限度の義務であるから、これを達成できない生徒には別途の援助を与える必要がある。この2つの目的を実現するために、一方には公的な制度にのっとった補習授業教室を開設する。この補習授業は従来の学校の教師が残った2日間に施してもよいし、場合によってはその教師たちが学校の外に出て自ら開いた塾で行ってもよい。この部分は義務教育の延長であるから、国家はその費用を100%負担する。
 一方、週3日の教科内容を十全に消化し得た生徒は、それぞれの関心に従ってより高度の専門的な学業、芸術、スポーツなどの教養、あるいは専門的な職業教育の基礎に向かってもよい。この部分は民間の既成の教育機関、あるいはこれから生まれる教育集団、さらには従来の学校が自らの教室を開放して行う教育の場にゆだねられる。そして、この部分は国家から見ればサービスとしての行政であるから、それにふさわしい程度の財政的支援を行う。その方法については、今後、社会各方面の議論に期待したいが、例えば考えられるのは、生徒一人ひとりに対する教育クーポンの支給である。もちろん新しい制度にはさまざまな問題もあろうから、その悪用を防ぐ周到な検討は必要であろう。例えば、クーポンの転売の禁止、あるいは民間の教育機関ないしは、指導者の資格認定など、論議すべき問題はおびただしく残っている、しかし、ここでそうした問題に拘泥し、それを口実にして入口で改革を怠ろうとすれば、何もすることはできない。
 この制度は、ある意味において教育への市場原理の導入であるが、他面から見れば、これまで市場に放置されていた文化活動への国家の支援を促進することでもある。劇場、音楽ホール、博物館、美術館、図書館、生涯学習の講座、またボーイスカウト、地域振興の運動などの指導者は、互いに市場の競争にさらされながら、しかしこれまでよりは手厚い国家の支援を得て教育の場に参加することができる。従来の学校教師の側から言えば、仕事の基礎的な部分は公的に保証された上、努力と熱意によっては、この自由な教育市場に飛び込むことも許される。
 この結果、恐らく国家の教育費の総額は、現在よりもむしろ増えるであろう。それがどのぐらいの増額になるかは、制度の細部を検討する過程で決定される。すなわち、教科内容が5分の3に減じられ、授業時間数が5分の3に減っても、現在の学校教師の俸給はそのままに据え置いて、補習授業の分はそれに追加するという案もあろう。あるいは、基本給を一定限度減額して、補習授業ないしは学外の自由授業でより大きな収入を確保してもらうという案まで、さまざまに考えられるであろう。この提案は、あくまでも教育界に一石を投じ、真剣な議論を促すためのものであるから、ここでこれ以上の細部に立ち入ることは控えたい。

X.最後に
 義務教育修了後の教育は、現在の高校をも含めて一層の自由化と多様化と、そして相互競争にゆだねるべきであろう。最終的には、大学院、大学が、それぞれの理念と学風にしたがって個性化し、それが求める学生像を明確に表明することである。高校教育は、それを半ば目指す形で、同時に実社会の多様化する目的に合わせて一層の複線化に努めるべきであろう。社会にそれだけの準備ができれば何を選択するかは、子どもとその親の自由な、しかし緊張ある選択に任せられることになる。この多様化は一方で若者と、それを育てる社会全般に活力を与える。他方では生涯にわたって文化に親しみ、冒険心に富み、自己責任の観念に目覚めた気品ある人間をつくり出すであろう。
 また、義務教育の時間的な削減は、子どもの集団への帰属感覚を変えるに違いない。どこで学ぶかを選択することは、決して自堕落な放任を認めることではない。従来と違って生徒は自己の属する学習集団をより積極的に選択することになり、学校、民間の教育機関、市民運動の団体など、多様な集団に属することによって、自発的な参加、帰属の感覚を養うことができる。一方でまた若者は自分と異なる環境、年齢の他人と知り合うことにより、より豊かな精神的充実を得ることが期待される。
 もう一つ付け加えるならば、今後の日本は国際化と文化的な多様化を求められるはずであるから、それを先取りし、促進するために、精選された義務教育の内容は、なるべく民族的、文化的に中立性の強いものが望ましい。もちろんそれは、公正で普遍的な人間性に基づく国家を愛することとは矛盾しない。法と制度を厳正に維持し、社会の秩序と安全を保証し、世界化する市場に適切な補正を加える国家の重要性は自明であり、生徒に対してそれを敬愛することを教えるのは義務教育の範囲の中にある。しかし、たぶんこの教育は狭義の教室の中での説諭のみに期待できるものではなく、今後、我々の国家日本が、その振る舞いによって次代の若者に教育すべき事柄であろう。
 本来、教育とは社会の全体が主体となり、社会の全体を対象として行うべき、終わりのない自己改善の過程である。学習は万人の生涯の仕事であり、その場所は社会のあらゆる機関に用意されているのが、あるべき姿である。この提案の本旨は、単に制度的な学校教育の量を制限しようということでなく、そのことを刺激材として、社会全体の教育機能を活性化しようということにある。
 子どもの教育機関が多様化されることをきっかけとして、子どもと親、若者と年長者がより多くその選択をめぐって語りあうことが期待される。競争する教育機関はそれぞれ学ぶことの魅力、教育内容の意義についてより強く社会に訴えることが期待される。芸術家、科学者、宗教人は本来の教育者としての一面をより鋭く意識し、積極的に社会に語りかける努力を増すべきである。特に望まれるのはジャーナリズムの参加であって、それ自体が独自の教育主体として、また教育の批評機関としてより有効な力を発揮するべきである。なかでも放送は自己の影響力の強さ、社会から与えられた特権的地位を忘れず、教育のために一層の寄与をしなければならない。
 この際、注意喚起したいのは、一般に規制の緩和、制度の自由化とは、さまざまな専門家にとって自己責任の増大を意味しているという事実である。個人としての教育者、教育機関、さらにはジャーナリズムは知的専門職業としての自覚を強め、自律的な相互批判のための機関を設けるべきであろう。制度の自由化が市場メカニズムの導入だとすれば、次に求められるのは、市場への非市場的な評価機能の導入である。放送における視聴率、教育機関における入学者数、出版物における販売部数などだけが支配する社会には、およそ教育も文化も成立しない。社会の知的能力と品格を維持するために、専門家の権威と信用の確立、それを援助する国家の努力はますます必須となる。そしてそれこそが逆に自由市場社会の死活を決め、「富国有徳」社会の成否を分けると考えられるのである。


山 本   巌
(西日本新聞論説委員長)

学校と地域を結び付けるために

 私がいま最も関心を持っているのは、学校と地域をどう結び付けるかという点です。私も新聞記者として、若いころ学校の取材をしましたが、学校の驚くべき閉鎖性についてはいやというほど体験しました。最近になって随分よくなっていると聞いていますが、やはり依然として、外部に対して防御的になる体質は濃厚に残っているように思います。そのことが、学校の在り方を歪める重要な要素になっていることは疑いのないところでしょう。
 その意味で、文部省が一定程度、学校の主体性を強め、学校評議員制度を導入したことは評価してよいと思います。ただ、いま示されている評議員制度が果たしてどの程度の改革に結び付くのか、あまり期待できないのではないでしょうか。設置するのかどうか、どういうメンバーを選ぶのかなど、結局は校長の恣意的な判断に任される可能性が強いように思います。文部省が上から枠組みを押し付けるのも問題がありますが、少なくとも、設置を義務づけること、メンバーの選び方も教職員や地域の人々の意見が反映されるような仕組みにすることなどは明確にしてよいのではないでしょうか。
 現実にはいろいろ難しい問題があるだろうと思います。もっとも心配されるのは、学校現場に対する過剰な、あるいは不当な介入です。しかし、それを恐れていては、学校を地域に開く道筋は見えてこないのではないでしょうか。まず、地域に開くことを大胆に実行すること。試行錯誤しながら、地域の人々と学校が接点を持つ努力をすることで、学校側はもちろん、地域の人々も鍛えられてゆくのだと思います。もっと言えば、学校を中心にしてさまざまな人々の関係ができれば、地域のコミュニティーが再生するという可能性もあるのではないかと思います。
 中教審が出した青少年意識の国際比較をみると、いま日本が抱えている問題は、学校だけでなく家庭も地域社会もひっくるめて、日本の社会全体が「教育力」とでもいうべき能力を失っていることです。それを回復することは容易ではありませんが、まず、学校と地域との関係を作り直すことが有効ではないかと思います。
 福岡都市圏の若い人達が組織する「九州文化芸術ネットワーク」というNPOがあり、一昨年秋に「芸術を楽しめる街づくりのために」と題して提言をしたことがあります。福岡都市圏には、さまざまな芸術分野で、プロ的な活動をしながら、しかしそれだけでは生活できないようなアーチストがたくさんいます。こういう人々を地域がもっと生かして、もっと気軽に、もっと多様に「芸術を楽しめる街」にしようという提言です。そのためにはアーチスト、文化団体、行政、各種施設、企業、メディアなどがネットワークする必要があり、「九州文化芸術ネットワーク」がそれらを結び付ける接着剤の役割を果たしたいという内容です。
 さまざまな具体的な提言をしているのですが、その中で学校と地域のアーチストを結び付ける部分があります。「ネットワーク」が地域にどのようなアーチストがいるかをリストアップし、音楽、演劇、美術など、学校の要請に応じて適当な人材を紹介する、ということです。単純なことですが、案外こういうことが大事なのではないでしょうか。これを単にアーチストに限定せず、地域のさまざまな人材と学校を結び付けるシステムとして構築すれば、結構おもしろいのではないかと思います。NHKが放映している「課外授業」のような教育シーンが、地域で多様に実現できるのではないかと思います。
 このとき大事なのは、その機能を教育委員会などに任せるのでなく、NPOや、少なくとも民間の知恵を生かす方法を考えるべきでしょう。とくに文化芸術の分野は主観的な評価が伴います。行政が主体になると、公平とか健全性とかにこだわって生き生きしたものにならなくなる恐れがあります。
 以上、学校と地域というテーマに絞って意見を述べさせていただきました。よい改革になることを期待します。

山 本 伸 夫
(北海道新聞論説委員)

文部省を「教育支援省」に

 <「登校拒否」ってゆー誰も許してくれない、許されない罪に捕らわれどうする事もできずにいた。そうやって絶え間なく「罪」の意識は俺を責め続けてた。『俺が生きている事で親族を困らせているだろ。俺が死んでも困らせる事になるんだ。そーなるとさ、俺の「生」も「死」も罪になるわけだ。生きる事も死ぬ事も俺には許されねぇんだ』と、その時は、そう思っていた>(北海道新聞社刊「自分さがし」から、原文のママ)
 この文は、14歳の少年が1年前を振り返って書いたものである。「自分さがし」は、札幌で10年前から活動しているフリースクール「さとぽろ」が「わたしたちの不登校体験記」として編集した。
 15歳の少年のこんな文もある。
 <学校の中で「勉強、勉強」そればかりで競争してきた。成績で順位ばかりつけて何の意味もない。一体、何のために勉強しているのか。高校受験、大学進学、そしていい会社に入ってということなのだろう。実際に自分自身、学校で教わった事よりも自分で本を読んだり調べたりして学んだことの方が多いし、役に立った。学校の教科書にはあらかじめ答えがのっていたり、結果がわかっているからつまらない>(同)
 登校拒否・不登校の子供たちの手記は数多く出ているので、この2つの文も、もはや目新しいものではない。
 しかし、少年たちが学校教育によって自殺を考えるまでに精神的に追い込まれていること、そして、学校教育はもとより社会のありように「異議申し立て」をしていることは、肝に銘じて置いていい。

   ◇

 前期の二人の少年ばかりでなく、多くの子供たちを通してうかがえる公立教育の現状は、すでに「破産」に近いものがあるといわざるを得ない。
 不登校・登校拒否の児童生徒、中途退学する高校・大学生は年々増加している。いじめ・校内暴力も日常的な出来事となり、青少年の非行・犯罪もとどまるところを知らない。自殺も多い。
 小、中学校のいわゆる「学級崩壊」のみならず、高校や大学でポケベル、携帯電話、友人同士のおしゃべりで授業が成立しない状況をいかに考えるべきだろう。
 さまざまな分析はある。
 核家族化や少子化による家庭の教育力の低下、消費・情報社会に伴う価値観の多様化で教師や学校が明確な目標を設定できなくなったこと、地域社会の崩壊による人間関係の希薄化の影響などなどだ。
 これらが現在の教育問題をより複雑にし、解決を難しくしていることは間違いない。
 しかし、問題なのは社会環境の変化に、現行の学校制度がまったく対応できない、解決能力を持っていないことである。学校はすでに当事者能力を失ったように見える。
 この現状は変革されなければならないが、学校だけに改善を求めて済むような話でない。ものごとに柔軟に対応できない学校の現状は、現行の制度、その発想に起因している。

    ◇

 現行の学校を貫徹している論理は「画一」「効率」「管理」の3つに加え、「競争」(選抜)に要約される。
 これらは明治以降のわが国の近代化の原理であったことを思い起こす必要がある。
 「西欧に追いつき追い越せ」のわが国の近代化方針が、「国家社会に有為な人材」を送り出す役割を課された学校教育に最も強く表れた。それは戦後の教育改革を経ても、教育行政の根幹だった。
 戦前の「富国強兵」、戦後の「企業戦士」の言葉にあるように、文部省が主導してきた学校教育は、均等な能力を持った「画一」的な国民を「効率」よく育てることであり、そのための「管理」と「競争」であった。
 この方針は明治以降つい最近まで、国民に基本的に受け入れられてきたことも事実といえよう。異論はあるにしても、国民の多くは、豊かな社会が生み出す生活と、個人的な欲望の達成に向け、技術の習得と学歴の獲得に邁進してきた。
 不自由ない豊かな社会はある程度実現したが、そこに待っていたのが、一連の事象の根底にうかがえる子供たちの心の荒れ、その結果の「学校の荒廃」だった。これは社会の写し絵でもある。
 この荒廃は、これまでの学校の在り方、教育行政の根幹にかかわっているが故に、より深刻といえよう。
 不登校や校内暴力などの事象は、意識的であれ無意識的であれ、画一、効率、管理と競争の原理に貫かれた学校に対する、子供たちの拒否である。近代化として「上から強制される教育」に対する異議申し立てである、と言えよう。
 その背景に横たわるのは「学校は、精神的のみならず肉体的にも『押しつぶすところ』」という恐怖感情にまで膨らんでいるといっても過言ではない。この恐怖感は、教師の指導だけでどうにもならないことは、子供たちがもはや教師の言葉に「聞く耳」をもたないことに表れていよう。

    ◇

 21世紀の「教育百年の大計」が、この歴史と現実を踏まえ、検討されなければならないのはいうまでもない。まして真摯に歴史と現実を検討するとすれば、方向はすでに見えているのではないか。
 その第一歩は、教育を「国の近代化」という枠組みでとらえる発想、さらに教育を国民を統治する手段とみなす発想をまず放棄することだろう。
 21世紀に生きる人々が、国民というより「地球市民」として存在するならば、次の点も至極当然のことだろう。
 教育を「国家社会に有為な人材を国民として育成する」という従来の位置づけに代え、「社会(地球)の担い手であり、世界に生きる市民を育てる」と構想すべきだろう。
 市民を育成するには、市民が担当することにこしたことはない。とすれば、教育改革の具体策はおのずと見えてくる。
 教育をまず、子供たちが生きている社会にゆだねることだ。その地域社会が子供たちの教育の責任を負う仕組みをつくる必要がある。地域の住民が教育委員会はもとより学校に参加し、その決定に従って学校が運営されなければならない。“官”主導から“民”主導の教育である。
 市民の教育の自主性を尊重するには、市民が選択できる多様な学校の形態も保証されねばならない。公立、私立はもとより、NPOや組合が運営するスクール、民間の私塾なども考えられる。もちろん、家庭で行うホームエデュケーションもあり得るだろう。
 これらを実現するには、教育の中央集権を排し、文部省を「教育支援省」に衣替えするほどの改革が必要だろう。
 従来の公立偏重の教育予算を改め、私学はもちろん他の教育機関にも必要な資金が行き届くシステムも求められる。
 「市民として生きていく力の育成」が教育とすれば、子供たちの自主性が根幹になければならない。子供たちが自ら学び、市民に成長していくのだ。大人たちは教師も含めて、「学び」のお手伝いをし、環境を整える役目を負うに過ぎない。
 入試改革、学力向上など当面する問題は確かに多い。しかし、それらは技術的にどのようにでも解決可能だ。
 画一、効率、管理と競争の学校から、子供たちをいかに解き放ち、生き生きした活力を発揮させることができるか。このことこそが、教育改革の目標であらねばならない。


山 脇 晴 子
(日本経済新聞出版局編集委員)

「教育百年の計」

 いま、子供たちが荒れている。それは子供たちを育む家庭が荒れていることであり、学校、社会が荒れている証左でもある。子供たちの姿は社会、大人たちの鏡であることをまず、肝に銘じるべきである。教育とは自分たちの生き方を正すことである、と自覚することを前提に議論を始める必要があろう。
 とすれば、子供たちの親の世代、さらにその親たちを育てた祖父母の世代にはおおいに反省すべきことがらがある。
 その第一は物質文明ばかりを追い求めて来た、ということである。敗戦、貧困の時代を考える時、物質文明の追求はおおいに理解されることである。しかしそこで失ったものはあまりにも大きい。一つに父親の育児参加をしにくくしたことがある。企業戦士として組み込まれた父親たちは、「稼ぐのは父親、育児は母親」という分業を強いられた。しかし子供たちの親は、父であり母である。父親にできないことは、子供を産むことと母乳を与えることだけである。もし両親が揃っているのならば、子育ては父母がするべきことであるのは議論を待たない。いわゆる「お受験」が生む悲劇も、父親の存在がないことから起っている。外で働く父(そして母)も十分に子供に接し、子育てができる企業環境、これが求められる。
 物質文明の追求は、日本、特に都市から自然を奪った。遊具の何もない自然の中で遊び、考えること。これは本来子供だけでなく、人間にとって必要欠くべからざることである。そこから健康な体、知恵、さまざまな工夫が生まれる。いま行政が自然というと、遊具や遊歩道を設置した公園の建設を想定することが多い。大きな木があり、でこぼこの道があり、コンクリートに固められていないちょっと危ない川があること、それが自然だ。
 第二に、倫理観の喪失が挙げられる。「他人に迷惑をかけさえしなければいい」という消極的な倫理観があまりにもまかり通ってはいまいか。他者のために生きること、それが人間として生まれてきた目的であるはずである。この大前提を家庭、学校、そして社会が再確認する必要があるのではないか。
 さらに、多様な人々を認めることも求められる。様々な考え方、様々な生き方、様々な見目形。障害者も健常者も、日本人も外国人も、老人も子供も、勉強ができる人もそうでない人も、自分の子も他人の子もいて、厚みのある社会ができあがるのである。幼稚園など小さな時から健常者、障害者、外国人などの区別なく一緒に過ごすようなことを考え、真にユニヴァーサルな社会を作っていきたいものである。そこから「自分の子」だけをかわいがるのではなく、社会全体が「宝」である子供たちを大切にする気持ちを生み出すことができるのではないだろうか。

養 老 孟 司
(北里大学教授)

 教育百年の計を短く論じることはできません。現在の社会がどうであり、将来どうなるか、さらにどうすべきかをいうためには、全体を一貫する視点が必要です。それを絶えず考え続けています。以下の記述では、むろんそうした基礎は略してあります。

 教育とは知育、徳育、体育です。基本理念は、義務教育では「よき社会人を養成する」ことだと思います。国費を遣うのは、そのためでしょう。さもなければ親に教育をまったく任せる、つまり塾を含む私立学校だけでよいわけです。そこを明瞭にすれば、教育がなにもかも抱え込む必要はないことがわかります。だからかつては読み書きソロバンだったわけです。知育についてはほとんどいまでもそれでいいと思います。
 体育は重要です。これがただの一専門科目になったことに問題があります。身体を含めて人を理解すること、これが広義の体育です。当面の急務は、たとえば朝食をとってこない多くの子どもたちの面倒をだれがみるのか、ほとんど身体を動かさない生活をだれが変えさせるかです。子ども自身についての評価はうるさいほど行われますが、いまや必要なのは親の評価です。朝食をとってこない子どもの親は、成績不良として、社会が注意を与えるべきです。
 徳育ですが、若者の反社会的行為が注目されています。こうした子どもが幼いときからどういう状況を示していたか、それを研究することは、将来にとってきわめて重要です。これは膨大な数の家庭を、長期間にわたって観察するという、たいへんな労を伴います。国はこうした地味で着実な研究に力を入れるべきだと思います。真に有効な手を打つためには、長い辛抱と努力とが必要です。

 学校、家族、地域社会の役割分担は、頭で考えた分割です。だれでもが何らかの形でそれぞれに属しているからです。分担を区別しても、それは技法の問題にすぎません。この問題はお役所がいちばん熱心に考えるでしょう。役割を分担することは現代の都市社会では当然と見なされています。それが本質的な無責任を生んでいることは、だれでも気づいているはずです。入試の成績で「客観的に」学生をとれば、点数のせいで入るわけですから、その学生が入学したことに、だれも責任を持つ必要はない。それを考えれば、よくわかるはずです。教育を含む人事に客観主義、業績主義をあまりに持ち込むと、まったくの無責任体制になります。「あいつのせいだ」といわれるのを、いまの都会人は徹底的に嫌うのです。だからリーダーが不在になります。

 公と私の問題について、私は論じることができません。ボランティアは形式は私でしょうが、しかしその行為はまさに公的です。いま私がこれを書いているのは、総理と文部大臣からの依頼ですし、原稿料なしでしょうから、実質的には公でしょう。しかし形式としては私的文書でしょう。公私の別が問題になるのは官僚だけです。それを考えるのは官僚の役目ではないかと思います。私の知ったことではない。

 教育改革は議論ではなく実行の問題です。しかし私の狭い体験でも、東京大学在任中から、こうすればいいと思っていて、実行できたことはほとんどありません。自分のできる範囲で、ともあれ人々を説得し、わずかづつでも実行していくしかない。この国の社会はいままでなかったものを創ることについて、驚くほど保守的です。たとえば脳死問題をお考えください。なにかが実質的改革の邪魔をするのですが、それはおそらく既得権、変化に対する漠然たる不安、その二つでしょう。それに社会の問題に関する無知が加わるかもしれません。この場合の無知とは、潜在意識にとどめて、意識的には考えないということです。じつは考えるにも勇気がいると私は思っています。
 私はすべて私費で勉強会をやっています。そこに多くの方が喜んで参加してくださるのです。私はそのために働いているようなものです。個人ですらそうですから、国が本気で実質的になにかしようと思えば、簡単にできるはずです。


横 山 英 一
(教職員共済生活協同組合顧問)

子ども・青年の課題を見据えた改革論議を

教育改革を今後、具体的にどのように進めていくべきか

教育改革を論議する場合、子ども・青年の課題を明確にして論議することが重要。このため、実証的で追跡的な調査を行う必要がある。
今日的課題からすれば、4分の1の子ども・青年がドロップアウトしている可能性があり、セーフティーネットの共同の張り替えが喫緊の課題。

 教育改革の論議は、ともすると百家争鳴になる。そのため、議論は百出しても合意がとれない。まず、実証的で追跡的な調査をきちんと行い、子どもや青年の課題を明確に認識することからはじめる必要がある。
 日本労働研究機構が学校基本調査をもとに推計したデータによれば、1990年3月に中学校を卒業した198万人中、実に54万人の子どもたちが「無業・中退+不明」となった。若年者の「自発的失業」が増えていることと考えあわせると、社会の持続可能性を揺るがすような事態が進行しているのではないか、と強く危惧する。
 ここからは、学校教育から職業社会への円滑な接続が、システムとして破綻しはじめていることが一見しても感得できる。それだけではなく、人が人間として成長していく基盤的な営みとしての教育、その社会化されたシステムとしての学校教育制度がほころび、セーフティーネットから子どもたちがぼろぼろと落ちていく構図が見えてくる。しかも、落ちていく子どもたちを支える社会システムは、どこにも存在しない。
 大事なことは、政治も行政も、教職員も保護者も、未来社会の担い手である子どもたちをも含め、共同して改革・改善していく課題を明確に提示することである。学校教育というセーフティーネットを張り替えていく共同の事業を提示することである。

教育という営みにとって大切な視点

教育の成果を個人と社会に分けて帰着すべきではない。よりよき市民を育てることは、よりよき社会をつくりあげていく。
問うべきは、日本社会は本当に子どもを大切にしているか、である。貧しい施設・設備に、依然として詰め込まれた学級。子どもの学ぶ環境を早急に整えたい。

 人の育ちや子育ては、親(保護者)一人の責任に帰するものではなく、どのような社会にあっても支えあいと分かちあいによる共同化が行われてきた。社会の持続可能性をもっとも担保するのが教育という営みであり、教育の成果や果実を、個人に帰属するものと社会に帰属するものとに二分する考えについては容認できない。多くは市場原理主義の危うさと折り合いを付けようとする意図から唱えられるが、その実際は、市場原理主義のもつ基本的な問題点を糊塗する以外のなにものでもない。
 よりよき市民を育てることは、よりよき社会をつくりあげることであり、個人に帰属する成果や果実は、その集合的な果実として社会を持続させ、発展を深化させる。問うべきは、日本社会は「子どもを本当に大切にしているのか」ということである。電話の回線が2本しかなく、空調施設も入っていないなど、社会のなかでもっとも遅れた施設としての学校、依然として詰め込まれた画一的な学級。これらを一見しても、日本社会は「子どもを大切にしている」とは言いがたい。一クラスあたりの子どもの数を、せめて小学校低学年は20人程度にするなど、子どもの育ちと学ぶ環境を、早急に整えることが重要である。

「個」と「公」について、どのように考えるべきか

市場原理主義は「公」の意義を掘り崩し、強い個人をめざして支えあいや分かちあいを寸断していく。自立と共生の教育、いいかえればインクルーシブな社会と教育をつくりあげる共同の営みは、新たな「公」を創出していく。

 なにゆえにモラルハザードが生じるのか。その要因の大きなものに、いわゆるグローバリゼーションを名目とする市場原理主義がある。市場原理主義は、「公」の関与を嫌い、「公」を掘り崩していく。人間のつながり、支えあいや分かちあいを寸断し、強い「個」のみをひたすらめざしていく。これに危機を感じ、「義務教育は国家の統治行為」などと叫んでも、危険なナショナリズムを呼び寄せるだけである。
 冒頭に述べたような子ども・青年の現実的な課題からすれば、「公」によって支えられた体験なくして、子ども・青年は「公」を感得し、自ら参画して「公」をよきものたらしめようとするであろうか。否である。セーフティーネットからこぼれるがままにしたのでは、「公」は醸成されるはずがない。
 自立と共生の社会は、「個」と「公」を分立させずリンクさせていく。同様、自立と共生の教育は、新たな「公」を創出していく。子どもの育ちを支える「公」のシステムを共同して張り替えていく営み、具体的には、インクルーシブな社会と教育をつくりあげることを喫緊の課題としてすすめることである。そこに「公」は、新たな政治的・社会的概念として実態をもってよみがえるのではないか。

学校・家庭・地域社会の役割。生涯学習をどう進めるか

子どもの存在感ある街づくりを中心に、子どもの育ちを縦に見守り支え、学びや活動を社会に広げる学校改革が重要。生涯学習では、学校教育と職業訓練を結合する施策をたてることが必要である。

 子どもの育ちをしっかりと見守り支えていたのは、かつて家庭であり、地域の共同社会であった。しかし今日、家庭は孤立して支えを得ることができなくなり、地域の共同社会は人間的なつながりをほとんど喪失している。所属意識は生活の場ではなく、企業社会に移行したが、企業社会もまた、グローバリズムのなかで不安定度を増幅している。
 「街づくり」は、新興住宅に見られるように、ほぼ均質な人々が住む環境を生み出し、一時の子どもの増加と急速な終焉を繰り返している。学校は増築されるが、あっという間に廃校の憂き目にあい、高齢化問題がその地域を包んでいく。すべてが大人社会の都合にあわされるなかで、「学校・家庭・地域社会の連携」を百万回唱えてもむなしい。
 子どもの存在感ある「街づくり」をすすめることである。学校を地域コミュニティーの拠点として、地域の参画によって再生していくことである。加えて学校は、家庭や地域社会が失った子どもの育ちを縦に見守り支える役割を担うとともに、地域社会に学びの場、育ちの場を広げ、親(保護者)や住民の参画をすすめ、ほころんでいる地域社会と学校教育を再生していくことである。
 生涯学習のあり方に関していえば、学校教育と職業社会への円滑な接続ができなくなってきている、ということに着目すべきであろう。その意味では、学校教育における職業教育のあり方とともに、基本的な施策として、学校教育と職業訓練を結合した施策を講じていくことが求められる。


渡 邊 恒 雄
(読売新聞社社長)

子ども・青年の課題を見据えた改革論議を

 知的リーダー層の養成と、子どもたちの社会性の育成を今後の教育の基本理念に据えるべきだと考える。

 21世紀は知的能力の国際的な競争の時代となる。自然科学の分野だけでなく、経済、法律など様々な分野で世界レベルの活動を展開していく人材を育成することは、焦眉の課題である。それは、環境問題など地球規模の課題解決に貢献するためにも必要なことだ。

 また、今、個性的な生き方が強調されており、それは望ましいことだが、反面、学級崩壊の問題などで、今の子どもが社会性に欠け、自立が遅れていることが指摘されている。新しい時代に応じた社会性を育てる必要がある。

 これらは、ともに時代的な背景を持つ。知的リーダー層の養成は、欧米の知識をキャッチアップすることに重点を置いた時期が終了し、知的な価値を自ら生み出さねばならなくなったことを示す。社会性の育成が必要とされるのは、農耕社会的な共同体が崩壊し、都市化の進展と相まって、子どもたちが他人とつながらなくても生きていける消費文化に漬かっているという事情による。

 こうした課題に学校だけで立ち向かうことはできない。家庭、地域との連携が必要となる。かつて学校は地域の文化センターであり、教師は地域のリーダーだった。しかし、今、学校は地域の助けがなければ成り立たなくなってきている。学校の運営や授業に、地域の人が参加する試みをさらに進めるべきだろう。
 家庭、地域の教育力の低下が指摘されて久しい。学校の教育活動にかかわることで、家庭や地域の力が回復していくことも期待される。

 また、日本で生涯学習はともすれば、趣味や生きがい探しといった面からとらえられてきたが、リストラや産業構造の変化によって、再就職やキャリアアップのためという現実的な要請が広がっている。この機をとらえ、どの大学に入ったかで人生が決まるかのような、既に現実とはかけ離れた意識からの脱却をはかる必要がある。

 もともと近代教育は、国民国家に有用な構成員を育成する目的から始まった。日本も例外ではなかった。それが教育を立身出世の手段ととらえる風潮を呼び、激しい受験競争を生んだ。受験過熱の解消が教育施策の最大の課題だった。しかし、少子化による受験競争緩和を迎えた今、教育の新たな座標軸の設定が求められている。

 大学生の学力低下問題に象徴される、学びの目的の喪失からの回復が求められる。受験に勝ち抜くことが勉強の目的として位置づけられていた間は、全体的な学力レベルを維持することができた。しかし、受験が学力維持装置として働きにくくなる今後は、何のために学ぶのかという根本的な事柄が問題になる。

 そこに、「個」と「公」の問題が浮上してくる。受験は本来的に個人のためであり、社会性を持たない。今後は、学ぶことの社会的な意味が問題になる。イギリスで大学の新入生に1年間の休暇を与え、社会体験を積ませたうえで大学での勉強を始めさせるワン・イヤー・オフの制度、アメリカで大学生に企業での体験学習をさせるインターンシップ制度があるが、ともに学びの社会的な意義を考えさせる方策と言える。先進諸国に共通の課題を我々も引き受けなければならない。

 これは、中学、高校での科目履修や進路の選択拡大とも関連する。選択拡大は当然の流れとも言えるが、浅い自己認識による選択は力を生まない。今、子どもたちは自由を前に、呆然とたたずんでいる様相すらある。

 選択の主体となる、自立した個人を育成しなければならない。そのためには、選択の基礎となる基礎・基本の教科の学習、生徒の選択の根拠を質す厳しい指導を重視する必要がある。また、「公」の感覚を養う必要がある。
 若者にボランティア活動への意欲が高まっていることは、社会から切り離された自分に不安を抱いていることの現れとも言える。自発的な活動に期待するだけでなく、様々な体験と学びの場を、意識的に設けなければならない。

 社会や国についての体系立った教育も求められる。戦後、国を否定的に見る風潮が続いたが、自分も国の一員であることの理解がなければ、社会性の育成にはつながらない。そうした論議を積み重ねたうえであれば、教育基本法の見直しもタブーではあり得ない。

 将来の知的リーダー層の育成には、時代の先端を走る専門教育が求められる。それは、幅広い教養教育の土壌の上に築かれなくてはならない。
 そのためには、初等・中等教育段階で、基礎・基本を重視し、社会性を養う教育を行い、高等教育段階で専門性を養うという仕分けを明確にしなければならない。
 また、学校体系に複線的な構造を導入することも考えるべきである。受験で細切れにされている現行の学校体系では、落ち着いて教養を身につけ、思索する時期が確保されていない。戦前の旧制高校は、学生が哲学などを自分で学び、思索する時間と場所を保証した。その上に大学の専門教育があった。
 中高一貫校を公立にも大胆に押し広げ、教養を重視した教育を行うことも大切である。社会の評価も実質も異なる様々な大学を形の上でだけ同等に扱うのではなく、大学院と連動し、質の高い教育を提供する研究的要素の強い大学を設けていくことも必要ではないか。現在論議になっているルースクール構想は、その先駆けになる可能性を持つ。

 これらは「エリート教育」との批判を呼ぶかもしれない。しかし、社会の中核となる部分の育成を避けては通れない。結果の平等主義ではなく、21世紀の社会のありようから教育制度を考えなければならない。

 現在の教育の個性化・多様化の理念と現実の間には落差がある。教育改革はばら色の夢を振りまくだけでなく、そうした落差がなぜ出ているのか、十分な検証を行いつつ進めなければならない。
 今年1月、首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会が、義務教育週3日制の導入、英語の第二公用語化を提言した。学校への過度の依存を排し、英語教育の充実をはからなければならないことは当然だが、提言の方向で望ましい教育が実現されるかどうか、疑問がある。基礎・基本の学習を保証し、子どもが共に過ごす場である学校の役割を重視しつつ、現実的な改革を進めることが望まれる。

 今後、IT革命に日本社会が対応していくためにも、すでに国際語化している英語の学習の強化、もしくは、一層の普及が必要であるが、日本人にとって英語学習場の困難の一つは、日本語と英語間の発音学習上の困難であり、そのためには初等教育の段階から、英米両国の初等教育者を多数迎え入れる必要がある。明治期、文部省は公費留学と同時に、外人教師を積極的に受け入れるために、文部省予算の相当部分を使った。今日では、対外給与格差の縮小などを考えると、明治期よりはるかに容易になっているはずである。

 英語教育の強化と比例して、古典読書の奨励にも力を入れるべきである。たとえば、教師が100冊前後の古典的書籍(文字・哲学・科学等を問わない)を提示し、そのうち10冊以上を読んだ上でレポートを書くことを必須単位取得の一つに加えるなど、読書の習慣をつけるための制度化が望ましい。このことは、青少年がインターネットやTVゲームなどに、過剰な時間を割いてしまうことによって失う文字文化上の教養を回復する上でも必要である。専門分野エリート教育も大事だが、その前段階でどうしても一般教養を身につけることによる人格陶冶の時間を重視しなければならないと思う。