政治家としての実績コーナータイトル
 





 昭和44年(1969年)に衆議院議員に初当選した森総理は、昭和50年(1975年)、総理府総務副長官に就任しました。昭和52年(1977年)には、尊敬する福田赳夫総理の改造内閣で、兄事する安倍晋太郎内閣官房長官の下、内閣官房副長官を務めることになりました。また、教育問題には常に熱心に取り組み、その実績から、 昭和58年(1983年)には文部大臣に就任しました。政党人としても数々の要職を歴任。さらに、平成4年(1992年)には通商産業大臣、平成7年(1995年)には建設大臣にそれぞれ就任して、力を発揮しました。
 そして、平成12年(2000年)4月5日、初代伊藤博文総理以来85代目(55人目)の内閣総理大臣に就任。「日本新生内閣」がキックオフしました。


内閣官房副長官時代の写真


森総理大臣略歴

    
昭和12年7月14日 石川県能美郡根上町生まれ
昭和19年4月 根上町立浜国民学校入学
昭和25年4月 金沢市立高岡町中学校入学
昭和28年4月 石川県立金沢二水高等学校入学
昭和31年4月 早稲田大学商学部入学
昭和35年3月 早稲田大学商学部卒業
昭和35年4月 産経新聞東京本社入社
昭和38年4月 国会議員秘書
昭44年12月27日 衆議院議員初当選(第32回衆議院議員総選挙)
昭和50年12月26日 総理府総務副長官(三木内閣)
昭和52年 11月28日 内閣官房副長官(福田改造内閣)
昭和56年12月 衆議院大蔵委員長
昭和58年12月27日 文部大臣(第2次中曽根内閣)
平成3年1月 衆議院議院運営委員長
平成3年10月 自由民主党政務調査会長
平成4年12月12日 通商産業大臣(宮澤改造内閣)
平成5年8月 自由民主党幹事長
平成7年8月8日 建設大臣(村山改造内閣)
平成8年11月 自由民主党総務会長
平成10年 7月 自由民主党幹事長
平成12年4月 自由民主党総裁
平成12年4月5日 第85代内閣総理大臣(第1次森内閣)
平成12年6月25日 第42回衆議院議員総選挙
平成12年7月4日 第86代内閣総理大臣(第2次森内閣)
平成12年12月5日 内閣改造(第2次森内閣改造内閣)
森総理の動き

 

 

●教育改革に全力投球(文部大臣:昭和58年12月27日〜昭和59年11月1日)


 森総理の初入閣は、46歳の時。昭和58年(1983年)、第2次中曽根内閣の文部大臣に就任しました。戦後の歴代文部大臣の中で、2番目の若さでの就任でした。就任早々、当時の中曽根総理も期待をかけていた教育改革に積極的に取り組むことになりました。教育改革は、様々な難題を抱える大きなテーマでしたが、就任の翌年、昭和59年(1984年)には、政府全体の責任で教育改革に取り組むための臨時教育審議会を発足させました。これは、21世紀を目指して行われる教育改革の第一歩を示したものとして、高く評価されています。
 また、いわゆる偏差値問題や過度の受験競争など様々な問題点を抱えていた高校入試の改善や育英奨学事業の抜本的な整備改善、国際化・個性化教育などを念頭に置いた、新しい高等教育計画の策定にも力を尽くしました。
 さらに、文部大臣としては初めて中国と米国を訪問し、特に中国訪問では留学生交流の充実、日中大学長会議の開催などについて合意しました。

文部大臣・臨教審の写真

 

●世界の中の日本経済を見据えて(通商産業大臣:平成4年12月12日〜平成5年8月9日)

 平成4年(1992年)には、宮澤改造内閣の通商産業大臣に就任。日本の通商政策・産業政策を担う行政府の責任者として力をふるいました。
 当時は、バブル経済崩壊直後の深刻な経済不況に直面した時期でしたが、森通商産業大臣は、内需拡大・景気回復のための平成5年(1993年)4月の新総合経済対策の策定に積極的なイニシアティヴを発揮しました。特に、この新総合経済対策においては、資金調達の円滑化、下請企業への支援などの中小企業対策としては過去最大の規模の措置を盛り込むとともに、中長期的な社会経済の展望に立って、情報化、高齢化といった、それまでの公共投資の視野には必ずしも収められていなかった観点の重要性を「新社会資本整備」という構想として打ち出しました。
 一方、欧米やASEAN(東南アジア諸国連合)諸国など、世界各国を歴訪し、貿易不均衡の是正、経済協力、投資促進などにも意欲的に取り組みました。平成5年4月に東京で開催されたロシアを始めとする旧ソ連・東欧諸国の支援のための第2回東西経済・産業・貿易大臣会合では、議長として、6分野23項目の東西協力課題の取りまとめに大いに貢献しました。APEC(アジア太平洋経済協力)会議を通じて、アジア・太平洋地域の貿易の自由化、産業協力などにも主導的な役割を果たしました。約8か月間の在任期間中に、150名以上の要人と会見し、延べ10か国を訪問し、その飛行距離はおよそ地球2周半(10万キロメートル)にもなりました。
 また、ガット(関税及び貿易に関する一般協定)ウルグアイ・ラウンドに関する四極(米国、EC(欧州共同体)、カナダ、日本)の国際会議では、ウルグアイ・ラウンド交渉を早期妥結に導こうという決意の下で、市場アクセス交渉を始めとする諸課題の解決のためにリーダーシップを発揮しました。特に、東京サミット(平成5年7月)の直前には東京で四極会議を主宰し、米国とECの利害対立によって難航する交渉を大筋合意に導きました。これが東京サミットの各国首脳に報告され、同年末のウルグアイ・ラウンド交渉の実質合意に向けた重要な進展となったのでした。
 地球温暖化、酸性雨といった地球環境問題についても、これらの問題が顕在化する中で、経済成長、エネルギー、環境保全の三つの課題を一体的にとらえて解決していこうという総合的な視野に立って、先進諸国と協力した途上国支援などに取り組みました。

通産大臣・四極通商会議写真

 


●安心して暮らせる国づくり・まちづくり(建設大臣:平成7年8月8日〜平成8年1月11日)

 平成7年(1995年)1月の阪神・淡路大震災は、未曾有の被害をもたらしました。その傷跡がいまだいえぬ同年8月に、森総理は、村山改造内閣の建設大臣に就任しました。
 森建設大臣は、就任後、直ちに被災地に向かい、様々な声に耳を傾け、本格復興に向け陣頭指揮を執りました。
 また、同震災で多数の建築物が被害を受けたことから、耐震診断・改修を全国的に推進していくための新規立法として「建築物の耐震改修の促進に関する法律案」を速やかに国会に提出し、その早期成立を図りました。
 さらに、防災上危険な木造密集市街地を対象に、街路、公園等オープンスペースの確保を図る安全市街地形成土地区画整理事業を創設し、災害に強いまちづくりを推進しました。
 これら行政を行うに当たって、森建設大臣は、自ら率先して現場に出向き、常に、チーム全体を考えて歩むというラグビーの精神で取り組みました。
 一方、景気は、足踏み状態が長引く中、雇用面や中小企業分野で厳しい状況が続いていました。このため、森建設大臣は、総事業規模で過去最大の総額14兆円に上る平成7年9月の経済対策の策定に尽力し、これを受けた平成7年度第2次補正予算では、過去最大規模の公共事業費の追加や、土地の有効利用の促進等中心となる対策を取りまとめました。
 特に、土地有効利用は、資産価値の下落に伴い様々な問題が発生していたことから、緊急課題となっていました。一方、大都市では、依然として公共施設整備が大きく立ち後れており、防災、交通といった都市機能の改善と土地有効利用を同時に実現する方策が求められていました。このため、大都市を中心として、土地の有効利用の促進に資する街路や下水道事業の用地取得、防災拠点の周辺における多様な公園・緑地の整備を促進する公園用地の取得等を積極的に推進し、一般公共事業と別枠で約6000億円の公共用地取得促進対策を実施しました。
 また、森建設大臣は、豊富な国際経験を基に建設行政の国際化のための先鞭をつけ、平成7年9月に大阪で開催された「アジア太平洋地域建設事業トップフォーラム」では、議長として各国の取りまとめを行いました。同フォーラムは、16か国22名の閣僚クラスが出席する、我が国はもちろんのことアジア太平洋地域全体でも初めての試みで、建設分野での域内国際協力の大きな布石となりました。
 さらに、平成7年11月のITS(Intelligent Transport Systems)世界会議や自動運転道路システムの公開実験等、道路交通システムの高度化に向けた取組も強力に推進しました。

アジア太平洋・トップフォーラム写真

 

 

 

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写真提供 共同通信社 毎日新聞社  資料提供 建設月報