本日ここに、正二位大勲位、前内閣総理大臣、前自由民主党総裁、故小渕恵三先生の内閣・自由民主党の合同葬儀が行われるに当たり、謹んで追悼の辞を捧げます。
平成十二年五月十四日の夕刻、一年八か月にわたって庶民宰相として国民に親しまれ、愛された一人の政治家が四十三日間に及ぶ闘病の末、御家族や医師団の必死の看護や国民の祈りも空しく、帰らぬ旅の人となられました。小渕前総理、あなたの御遺体が病院から自宅へと向かわれる際に、総理官邸前を通り過ぎようとした時、千鶴子夫人が「官邸ですよ」と語りかけられたところ、にわかに雷鳴が轟き、激しく雨が降り出したとお聞きしました。あたかも天がその政治家の死を惜しみ、嘆き悲しんでいるかのようでありました。小渕前総理が余りにも突然に、六十二歳という若さで生涯を閉じなければならなかった非情さに、私は言葉もなく、ただただ痛恨の思いにくれるばかりであります。
二十世紀から二十一世紀へと時代が移らんとする激動の時期に、誰よりも我が日本の現状と未来を憂い、「改革者」たらんと内に秘めた不屈の闘志を燃やし、文字通り身命を賭して難局に立ち向かわれたのが、小渕前総理、あなたでありました。志半ばにして、不意の病に倒れ、成果を見ないうちに身を引かねばならなかったことは、さぞかし無念であったろうと思います。今はただ、我が国の最高指導者として国家と国民のために全力を尽くしていただいた小渕前総理に心より感謝を申し上げるとともに、御冥福をお祈りするばかりです。
小渕さん。あなたと私は同じ昭和十二年、丑年生まれ。早稲田大学の雄弁会でお会いして以来四十有余年にわたる長い友人として、「小渕さん」と呼ばせてください。
あなたは、昭和十二年に群馬県中之条町で製糸業を営む事業家の次男として出生されました。太宰治をこよなく愛する文学青年であったあなたが、政治家の道を志すことになった人生の転機は、衆議院議員であった父光平氏の突然の御逝去であったとお聞きしました。
早稲田大学に入学されたあなたは、政治家としての資質を身に付けるために努力を重ねられました。とりわけ政界に多くの先輩を持つ雄弁会へ入会し、書道や合気道、さらに本日友人代表としてお別れの言葉を述べられる堤義明さんと観光学会でも活躍され、大学院に進まれて、世界三十八か国を歴訪したことは、あなたのその後の政治人生に大きな影響を与えたことと思います。昭和三十七年二月、ロバート・ケネディ司法長官は大隈講堂で行った講演の中で、「兄、ジョン・F・ケネディ大統領は、米国民は米国政府に何かをして欲しいと要求するのではなく、国家、国民のために何ができるかを考える時がきたと、新しい民主主義の在り方を提唱している」と述べられました。小渕さん、あなたはこの感動的な演説を忘れることができず、翌三十八年七月、ワシントンでロバート・ケネディ司法長官にお会いになられました。ケネディ兄弟の新時代を築く強烈な改革者のイメージは、その後の小渕さんの政治活動に大きな影響を与えたことは確実であります。
弱冠二十六歳の若さで、見事、衆議院議員となられたあなたは、中曽根、福田の両元総理をはじめ有力政治家が競い合う旧群馬三区で、連続十二回の当選を重ねられました。
自由民主党の中にあって、あなたは佐藤栄作先生、田中角栄先生そして竹下登先生の指導を仰ぎながら、一貫して保守本流を歩まれ、着実に政治家としての地位を固めていかれました。昭和五十四年に総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣され、昭和六十二年には竹下内閣の官房長官に就任されました。昭和天皇の崩御に国民が深い悲しみにくれる中で、竹下総理を支える官房長官として、昭和から平成へと時代の転換期の舵取りを見事に果たされたのであります。あなたが新元号の「平成」を発表し、国民から「平成長官、平成おじさん」と親しまれたことは余りにも有名です。
平成十年七月、運命の時は突然に訪れました。盟友橋本元総理の後を受け、あなたは第八十四代の内閣総理大臣に就任されたのであります。時に我が国はかつてない経済不況、金融危機に直面しておりました。あなたは「経済再生内閣」と位置づけて、強いリーダーシップにより、財政や税制などあらゆる分野の施策を総動員した結果、我が国金融システムは崩壊の危機を回避するとともに、経済も自律的回復のきっかけをつかむなど、今日その努力は着実に実を結びつつあります。
また、あなたは二十一世紀を目前に控えたこの時期を、明治維新、第二次世界大戦後に続く「第三の改革」の時期と位置付け、内政においては、経済構造改革や、教育、司法、社会保障等の国家の基本を成す諸制度について抜本的な見直しに着手されました。とりわけ本年一月に「二十一世紀日本の構想」懇談会がとりまとめた報告書は今後の我が国の在り方を指し示す貴重な羅針盤となっています。あなたが目指そうとした「富国有徳」の国家目標につきましては、その精神・理念を継承し、発展させてまいりたいと考えています。
小渕さん。外交はあなたが特に力を注がれた分野であります。「国民と共に歩む外交」をモットーに、積極的な首脳外交を展開し、世界の平和と日本の安全の確保に全力を尽くされました。
そして九州・沖縄サミット。あなたが万感の思いを込めて決断したサミットの開催はあと一月ほどに迫っています。奇しくも私があなたの訃報に接したのは、あなたが一番気に掛けていたサミット会場である万国津梁館の落成式において、テープカットを行った直後でありました。後で分かったことですが、披露パーティが終わった午後四時七分ちょうどその時に、あなたは天国に召されました。何か運命的なものを感じてなりません。あなたは学生時代に幾度となく、仲間たちと浄財を募っては、長い船旅をして、沖縄を訪ねられました。政治家となってからも、佐藤総理の下で沖縄の本土復帰の実現に努力されるなど、沖縄に深くかかわってこられました。かつてあなたが「長い沖縄の歴史を知り、そして沖縄の皆さんの心を知って、本土の人たちと心を一体化できるようにしていくのが、自分の夢だ」と熱く語っていたことを思い出します。二月下旬に東京で開かれた沖縄舞踊の会で、あなたは飛び入りで沖縄民謡の唄を歌われ、万雷の拍手を浴びたそうです。沖縄に寄せるあなたの熱い思いがサミットの沖縄開催を決断させたのであります。先日G8各国を訪問した際、各国首脳から、あなたの国際平和や九州・沖縄サミット開催に対する深い思いに高い評価をいただきました。私は、そんなあなたに、沖縄サミットの議長として采配を振るっていただきたかったと思っています。誠に、無念の極みであります。
小渕さん。あなたはこのように数々の功績を残されましたが、あなたの政治家としての偉大さは、多くの人々の意見や批判をすべて受け止めた上で、将来を見据え、何が必要で、何を実施に移すかを見極め、「小渕流」と呼ばれた政治手法で、結果として自らの意志を実現させたことです。それを可能にしたのは、あなたの飾らない誠実な人柄と、周りの人を引きつけて止まない魅力ある人間性であります。また、他人の能力を適材適所で使いこなすリーダーシップではなかったかと思います。誰もが難しいと思っていた連立政権を樹立させたのも、誰にでも気さくに電話を掛けて「ブッチホン」と国民の人気を集めたのも、あなたのそうした類い希なる政治家としての才能、魅力があったからであります。あなたの病床には一日も早い回復を願う多くの方々から、見舞いの手紙が寄せられ、その数は数百通に上ったとお聞きしました。中には四歳の幼い、たどたどしい字の手紙もあったということです。小渕さんが多くの国民からこよなく親しまれていたことが偲ばれるエピソードです。
小渕さん。あなたは、家庭人としても、ほのぼのとした家族愛の素晴らしさを身を持って国民に示してくれました。休日にはしばしば美術館や劇場に家族そろって足を運ばれるなど、夫として、また三人の子供の父として家族を大切にされていたお姿が目に浮かびます。
我が国は今なお先行きが不透明な状況の中にあります。あなたが国会で全国民に向かって訴えた「確固たる意志をもった建設的な楽観主義」、「コップ半分の水をもう半分しか残っていないと嘆くのではなく、まだ半分も残っているじゃないかと考える意識の転換」を、私たちはあなたを失った今こそ思い出し、力を合わせて歩んでいく決意です。どうかあなたが限りなく愛された御家族とこの国の行く末を、温かく見守っていてください。
想い出は尽きませんが、小渕前内閣総理大臣、私たちはいつまでも、あなたを忘れません。どうか安らかにお眠りください。
平成十二年六月八日 「故小渕恵三」内閣・自由民主党合同葬儀委員長 内閣総理大臣 森 喜 朗