(内閣官房内閣内政審議室)
| 日 時: | 平成10年4月2日(木)14:00 〜16:07 |
| 場 所: | 内閣総理大臣官邸大ホール |
○座長 ただいまから、次代を担う青少年について考える有識者会議の第3回の会合を開かせていただきます。
今日は総理、官房長官、総務庁長官が所用のために御出席いただけませんが、文部大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長、それから後ほど総務政務次官に御出席いただけることになっております。
また、氏家委員及び柴門委員が所用のため欠席されております。
今日は家庭、学校、地域社会の在り方、規範意識を始め心の教育の問題について意見交換を行いたいと思います。このテーマに関連しまして、去る3月31日に中央教育審議会が「幼児期からの心の教育の在り方について」という中間報告を公表しておりますので、まず、審議会の会長である有馬委員から中間まとめのポイントを御説明いただきたいと思います。その後、有馬委員の御説明を踏まえながら、自由に意見を交換していただきます。
会議の時間配分を申し上げておきますと、有馬委員からの御説明に約15分、相互に関係がありますが、便宜、学校教育や心の教育について30分程度、家庭や地域社会の在り方について30分程度、その後に残りました時間で前回、前々回などを踏まえた議論を交換してみたいと考えておりますので、よろしくお願い申し上げます。
それでは、有馬委員から中央教育審議会の「幼児期からの心の教育の在り方について」ということで中間報告を伺いたいと思います。
○有馬委員 (配付資料に基づき説明)
○座長 ありがとうございました。
中央教育審議会でおまとめになった中間報告を御説明くださったが、これはかなり徹底的に問題を取り上げて、そのお考えを述べておられると思います。
この会議としては、今の御報告を基にして更に御意見もあると思いますので、それを伺わせていただきます。どうぞ自由に御発言願います。
○有馬委員 当たり前のことがたくさん書いてありますが当たり前のことが行われていませんので、敢えて書かせていただきました。
○ 10年ぐらい前から早期教育のすさまじいブームがありますが、早期教育がお母さんたちに浸透していくスタイルは、かなり巧妙です。
例えば、個人的な体験ですが、当時、2歳で読書2万回読み聞かせ、幼児方程式、幼児英検と3つやっていたのですが、それが大衆化したのです。地域に乳幼児教室がたくさんあって、近所にもたくさん教室ができました。
少子化が進んでいますので、幼児にまでターゲットを広げないと商売をやっていけないという商業主義的考え方なのです。今は、3歳までに脳ができてしまうから、それまでにすり込んでおかないと遅いからという大変な風潮があり、子どもの能力はお母さんの能力でもあって、いいお父さんとは早期教育のために力を一生懸命入れるお母さんを片側でサポートする人なのです。
幼児からドリルを解くようなことが蔓延していて、幼児に対する早期教育が必要という雰囲気になっています。それが保育園にも幼稚園にも浸透し、保母さんや先生もマインドコントロールされています。昔は、子どもに字を教えたりということは、小学校1年生になってからやるべきことで、保育所でやるなどということは考えられなかったのです。45歳で子どもを生んだ友人がいますが、十数年の開きがある他のお母さんたちが、保育園でも字を教えてくれなければ困るというような問題が起きている。
中央教育審議会などでは、専らお母さんに知育偏重をやめましょうと提言をしているのですが、現実には何しろ毎日のように幼児教育を勧める電話がかかってきたりするわけです。幼児を商業主義のターゲットにしてはいけないというコンセンセスを教育産業の方に厳しく伝える、もしくは、発達心理の専門家たちが幼児教育に対する偏った考え方を指摘する提言をしてメディアに載せていかないと、このすり込みからお母さんたちが立ち上がれるのだろうかという危機感を強く持ちます。
家庭の問題ばかり言わないで教育産業などにも提言してほしいという希望です。
○有馬委員 同感です。これから3か月ほど審議を進めますが、それを具体的に提言できるかどうか。これは幼児教育だけではなくて入学検定にもあります。何かというと、大学の入学試験が悪い、高等学校の入学試験が悪いとなるのだが、幾ら変えてもお父さん、お母さん、特にお母さんが塾に行かせてしまったりする。今、委員がおっしゃったことは、我々も十分考慮しておりまして、もう少し具体策があれば考えたいと思います。
○ 若い子どもたちと比較的接する立場で今、共通認識としてたばこと酒の問題があるのです。海外から交流に来た子どもたちや、指導者が、なぜ日本にはこんなに自動販売機が多いのか、と言うのです。
特に酒とかたばこの問題に関して、日本人はもう少し考えた方がいいのではないかということを高校生、海外から来るリーダーも言うのです。いろいろな意味でいけないと言われているものについて、親も地域社会もあまりにも寛容過ぎる。そこから始めないと、スタートができないのではないかという認識が出てきています。
ですから、自動販売機の問題は、おそらく商売の関係があって簡単には言えない問題だと思いますが、ほかの国々との比較で見ましても日本は異常な状況ではないかと考えます。
後から出てきます書籍、ビデオの問題、その他のこと等もあると思いますが、現場を持っている者から見れば、そういう風潮は大きな問題になっていることは事実です。
○ 学校について、中間報告の中でも提言されております。私は学校現場におりましたので、学校の中でこれから特に必要なことは、今までの価値観を変えていくということです。
例えば、施設でも利用する率が低いからこれは必要なかろうとか、そういう物の考え方は今まで学校の中にもあったのですが、心豊かな人間を育てるにはそういう物差しで見ていたのではだめだと思うのです。要するに、一人ひとり、たとえ少数であってもその者が本当に欲しているのであれば、それがチョイスできる環境を整えていくことによって、一人ひとりが豊かになっていく。今までの物差しですと一見無駄に見えてしまうけれども、一人ひとり見ると一人ひとりの豊かさにつながっていく、そういう観点で学校の施設一つとっても、いろいろな面を考えても、そういう見方でいかなければいけないと感じております。一人ひとりを豊かに育てていくということは、今までの物差しでは無駄に見えることも出てくるかという気がしております。学校でもいろいろな問題がありますけれども、よく言われますことは、一つのクラスに生徒が多いのではないかということもあります。それは一つのことだと思いますが、全体の中でそういう考え方を導入していくことはこれからの学校では必要かと思います。
○ 「心を育てる場として学校を見直そう」という第4章は大変結構なことですが、私自身の経験で申しますと、家庭科の時間の中に家族、育児、生命の問題が一通り並んでいるわけなのですが、やはり体験的なものが必要ではないかという感じがしております。
私は田舎のある農業高校のボランティア講師として、家庭科の授業で育児というところをやらせていただいて、その後、生徒をその町の乳児健診に連れていきまして、だっこをしてもらったり、あるいはおしめを替えてもらったりということをやりました。そういうことによって、生徒諸君の目がかがやいているという経験から、非常に抽象的な言葉ですが、「命についての思い」とか、あるいは「いたわる気持ち」というのは体験から出てくるのではないかと感じております。
そこで、カリキュラムとなりますと、難しいか、やさしいか、あるいは今日の情報化に適するかどうかというところにいくわけですが、人の心を育てるカリキュラムを、学校教育の中でも精選、厳選すれば多少違うのではないかと考えております。
それから、父親の影響力あるいは一人親家庭も自信を持って子育てをしようといった続きに、悪いことは悪いとしっかりとしつけようと、初めて悪いということについての言葉が出ています。児童の権利は大変大事な問題ですけれども、同時に児童が権利を主張するに足るような生活態度をとってもらわないといけない。それが証拠に、ここに示されている意識調査などを見ましても、先生に反抗することとか、親に反抗することに抵抗を感じない者の割合が、アメリカや中国に比べますと日本は著しく高い。そういうことをしたら望ましくないということを、口で言うより、何かペナルティーを与える方法はないのかと考えます。例えば、3日間清掃に従事せよとか、あるいは低学年の子どもたちのために何かしなさいとか、何かあってもいいのではないかという気がするのです。よく気を付けて見ておりますと、中学生あるいは高校生で校内暴力その他をやった者に対しては、人権という立場と少年法という立場で、ある意味では寛大な対応が取られ、やられた者はやられ損だという批判をよく聞きます。そこに言及するのは避けますけれども、せめて一般的な中学生や小学生が、悪いことをやったら悪いということを感じられるような、体罰でない範囲の何かがないのだろうかという感じがしてなりません。中央教育審議会で時間をおとりいただけるのでしたら御議論いただければありがたいと思っています。
○ これは有馬先生にお尋ねですが、学校の先生の服装です。これは一見極めて外見的な問題に思えますが、私はそうではなく内面的なものと思っています。それは生きる姿勢であるし、教育に取り組む姿勢だと思っているのです。それで、中間報告の取りまとめに当たってそういう問題は議論されなかったのか。そういうことを言いますと、それは個人の生き方だとか、そこまでは言ってもらう必要はないと済まされてきましたが、我々の記憶をたどると、学校の先生というのは実にきちんとした服装で、端正ないでたちというか、姿勢で教育してもらった。おのずからそこには権威を感じるし、威厳というものを感じて、小学校時代からずっと学校の生活を思い出すことができるのです。
ところが、今そういうものが崩れて、権威だとか、威厳などというものは何か旧態依然とした古い殻の中にあるものだとか、服装などまで一々言ってもらう必要はないといったところがありますが、それは個人の生き方では済まされない問題があると思います。この点についての御論議はいかがなものであったのか、お尋ねしたいと思います。
○有馬委員 この服装の問題を含めて教え方の問題までは実はまだ入り込まなかった。これから議論するかもしれませんが、むしろ家庭とか地域社会にかなり時間を費やしたものですから、そこまでまいりませんでした。
私は大学時代、教授になってもネクタイもしなければ上着も着ないで講義をしておりました。白墨だらけになるものですからそうしておりましたが、アメリカで友達を見ていましたら、みんなネクタイをしてくるのです。普段はワイシャツもネクタイもしないのに、講義のときだけネクタイをするのです。
どうしてかと聞いたら、医者がきちんとした服装をしているのは、患者に対して信用を得るためであって、同じように、大学の教師も服装を正すべきであると教わったのです。それから私も少し実行するようになりました。そういう問題は確かにあると思います。
まだ議論しておりませんが、一度講義の仕方、授業の仕方などについてもやがて検討させていただこうと思います。ただいまのところ、そこまで入っておりませんでした。
○ なぜお尋ねしたかというと、私は、服装一つ取ってもそれは外見の形ではなくて内面的なものである、内面性の問題が基本になって今の社会問題があるし、教育現場の問題がある、という気持ちが強くするのです。
家庭の中においてもそうだと思うのです。人間生活にはおのずからお客様を迎えるときと家庭で生活するときと違うのは当たり前であって、いくら違ってもそこには毅然としたものがあってしかるべきだと思います。
○ 青少年問題について、あらゆる人があらゆることに取り組まなければならない時だと思うのです。そういう意味で、網羅的に御提言いただいて大変感銘を受けたわけです。
私自身は子どもを3人育てまして、子どもと非常によく話をしてきたのです。今は青少年という対象年齢より10歳ぐらい上になっていますが、今の子どもが昔の子どもと違うのは、大変な情報量を持っているためだと思うのです。ですから、子どもだから知らないだろうとか、年端もない子どもに判断ができないだろうとか、そう思うのは間違っている気がします。大変な情報、大変な判断材料を持っているのではないかと思います。サカキバラセイトとかという子どもが書いたものを読むと大変な内容です。判断ができないのではなくて、判断するけれども妙なことに入っていった。しかし、大変に能力のある子だと思います。
ですから、そういうことを前提にして考えたら、やはり子どもをしっかり認めてやらないといけない。ジェントルマン、ジェントルウーマンとして認めて、しかも責任を持たせることが大切だと思うのです。例えば、我々は今、一生懸命少年法改正とか刑法適用年齢の改正で議論をしているのですが、ニューヨークでは御承知のようにこれを7歳にしたのです。私も7歳にすべきだと思います。あるいは少年法を廃止して法の適用はだれでも平等にする。一人ひとりの人間にとって本当に判断能力があるかどうかは裁判で見るとか、そうすべきだと思うのです。ですから、ジェントルマン、ジェントルウーマンとして扱って、しかし罪を犯したら法で裁く年齢をできるだけ低くして、7歳というのは適当だと思います。
しかし、こう言うと、教育現場から大変な反対が来まして、選挙に負けるのではないかと思う人たちも多いし、本当に反対の人も多いのですが、ジェントルマン、ジェントルウーマンとして認め、罰を科すべきときには科することにする。もし法を適用しなければ、その人は法を逃れますが、その周辺にいる人たちも無法地帯に置かれるのです。学校の子どもが一番かわいそうです。警察に訴えるといってもなかなか訴えられないで、学校で自殺に追い込まれるほどいじめられるわけですから。そのあたりはどう議論されたのか、少し教えていただければ大変ありがたいと思います。
○有馬委員 この問題は時々出るのですが、まだきちんと詰めた検討は行っていなかったと思います。少年法の適応年齢をどうするかというようなことは、直接その会議自体で出ないまでも時々議論はしております。
しかし、今、おっしゃられましたように、特に現場の人たちのお話では、少年法は今のままでいいのではないかという意見が強いようです。
ただ、今、ジェントルマン、ジェントルウーマンという言葉をお使いになりましたが、子どもたちにそういう取扱いをするからにはきちんと責任を持たせるべきだということは常に議論が行われております。
具体的にどうすればジェントルマン、ジェントルウーマンでどうすれば責任かというあたりに関しての細かい項目までは立ち入っておりません。今後また議論しようと思います。
○ 学校と警察との連携について申し上げたいと思うのですが、例えば校内暴力が最近深刻化していながら、警察への通報は減ってきているのです。学校が認知している件数と警察が認知している件数の間には大きなギャップがあるので、要するに連携がとりにくいようなシステムがある。そこを変えないと連携は大事と言ってもうまく機能しないと思うのです。
1つは警察で何か問題行動を見たときに生徒指導に連絡をするわけですが、生徒指導の先生と担任の先生との連携が、まずうまくいっていないという問題がある。
れから、学校の方ですぐ退学とか、内申書に書くとなりますと、どうしても家庭の方は、学校にだけは言わないでくださいとなるのです。それを敢えて警察が行うのは非常にやりにくいことです。家庭も学校もみんながかかわって問題を解決していかなければいけないわけです。そこがうまくできなくなっているのは、やはり家庭が学校にもお知らせしてみんなで考えましょうという対応ができるように、学校における教育指導、生徒指導がもっと奥の深いものというか、心の広いものというか、短絡的にすぐ内申書がどうという話にならないような仕組みを考えていただかないと、実際の連携はうまくいかないだろうと思います。
それから、補導職員の方たちから伺ったのですが、学校にいつも遅れて来る子、いつも一番最初に帰る子を見ていると、かなり問題がつかめると言うのです。校門の外に先生が少しの間いらっしゃるだけでも、かなり問題が分かると言われるわけですが、こういう自治体のストリートワーカーである補導職員の人たちが蓄積しているノウハウをもっと生かしていただけると、それほど大げさなことをしなくてもかなり問題が前進すると思っています。
それからもう一つは、先ほどの中間報告の中で教員の養成というお話があったのですが、やはり先生には何よりも子どもが好き、それから教えることが好きという、とにかくその2つを備えていただきたいということを是非お願いしたいと思います。
○ 1つだけ言わせていただきますと、中央教育審議会の中間報告は非常に広範にわたっておりまして、このほかにどういう対策を考えるかとなると大変難しいだろうと思っておりますが、問題はいろいろな項目が具体的にどういう実行と結び付くのかというところで、それが難しいだろうと思います。
その理由は、この中にはすぐにでも手のつけられる問題もあるが、ある一定の期間実施してみないとなかなか効果が出てこないような問題もある。一体これを受け取ったときに戦略的にどういう順序でどれからやっていくかという発想をしないと、みんな同じように全部がやれるわけではないと思います。
例えば、この中で道徳教育の部分がありますが、その中でカウンセリングの充実は比較的早くできるかもしれないと思います。それから、例えば道徳教育を見直し、よりよいものにしていこうというのは、テキストから、あるいは授業教授法をしっかり考えなければいけませんから、時間がかかる。いわんや伝統と文化について理解を深め、未来を開く心を育てるというのは、教育課程全部の問題ですから、そう短い時間で簡単にはいかないでしょう。私はそういうことは難しいと申し上げているのではなくて、実行しなければならないとすれば戦略的順位とでもいうものを考えながら、是非実行に移していただきたいと思います。
それに続いて言いますと、この中で確かに家庭教育、地域社会の教育は学校教育と並んで子どもの成育に大変大事だと言われておりますし、それについての問題点も書かれていることに間違いないのですが、ただ、個人的に考えると、これからの日本社会の動向を考えると、果たして家庭教育と地域社会の教育を強化するというのはどこまで可能だろうかと心配をしております。社会の動きは逆の方向に向かっていますから、大変な努力が必要です。
その努力はしなければならないと思っていますが、それだけで果たしてこれからの時代は足りるだろうか。家庭教育とか地域社会の教育で養われるに不十分なもの、欠けるものをどこかで、ボーイスカウトなどもそうですが、補わないといけないのではないか。
そのためには、地域社会の中に、例えばある国のようにサッカーチームがたくさんあって、時間があれば子どもがそこに行ってサッカーをやっているとか、共同生活を営んでいるとか、あるいは自然塾のようなところに行って、かなりの期間そこで訓練を受けて、その中で思いやりとか技術とか体験とかを学んでくるというようなことを考えるとなると、そういったものをつくることに行政が少しイニシアチブをとるのも大事ではないかと思います。
そう考えますと、すぐできることと、なかなかできないこととあるわけで、そこをできるだけ早く考えて取り組まないと、間に合わなくなると考えます。
○座長 それでは、有馬先生の中間報告についてでも結構ですし、また、広く家庭、学校、地域社会全般についてでも結構ですから、御意見があればおっしゃってください。
○ その両方にかかわると思うのですが、一番基本的な観点としては規制と自由という非常に大ざっぱな話で恐縮なのですが、今の中学校の問題は規制が多過ぎるから問題なのか、それとも規律がなさ過ぎるから問題なのかという点がもう一つよく分からない。私は両方だと思うのです。中間報告でも言われているように、悪いことは悪いときちんと教えるというルールの明確化はやはり基本だと思います。
ただ、あまりにも細かいルールはやはり自由化すべきではないか。先ほど服装の例が出ましたが、私自身は中学、高校と服装が自由な学校に育ちましたが、と言ってそれほどひどい服装をした人もあまりいなくて、自由だから逆に自己責任が出て、それなりに判断能力ができるわけです。あまり細かいことまですべて規制してしまえば、自分で判断する能力を失わせてしまう。そういう意味で、ルールをきちんと明確化することが大事だと思います。
先ほど発言のあったことには大賛成で、「エイジフリー」ということが今後の時代は重要ではないか。これは高齢者について60歳定年の問題でよく言われることですが、同じように子どもも、例えば15歳までというような一定の年齢で区切ることにどれだけ意味があるのか。やはり、個々の自己責任とか、判断能力とか、そういうものを個別にみるべきであって、あまり年齢を重視するのはおかしいのではないか。
更にそれを敷衍させていきますと、なぜ15歳まで義務教育なのか。これは、しばしばこれまでの会議でも出てきた点です。と申しますのは、今の中学生はかなり難しいことを勉強しなければいけないわけで、場合によっては私も分からないようなことまでやらされている。そういうものについていける人がどれだけたくさんいるのか。学習能力だけが問題ではなく、職業能力も大事であって、ある意味で算数や英語ができなくても職業能力は非常に高い子どもも当然いるわけで、そういう子どもは昔は自営業で親の仕事を手伝っていたのです。
ややひんしゅくを買うようなことを申しますと、今、青少年の礼儀とか、能力を一番育てているのはコンビニではないかと思うのです。全く使いものにならない子どもが1週間ぐらいたつときびきびお客をさばいているのを目の当たりにして、ああいう職業教育、コンビニとかファーストフード店はマニュアルどおりではありますが実によくやっている。ある程度お金というインセンティブがあることは事実ですが、子どももぴたっと対応している。
今、中学生がアルバイトをすることは原則禁止だと思いますが、実態的には行われている。それをもう少し、例えば休みの間だけでも認めてもいいのではないか。中学生がお金を稼ぐと不良化につながるという見方があるのですが、しかし同時に、お金を稼ぐということはそれだけのルールを身に付けることであるし、昔は自営業でどこの子どもも親を手伝って自然と身に付けていたルールがあるわけで、そういう職業というか、アルバイトなどに対する制限はもう少し緩和してもいいのではないかと思っています。
それから、学校と警察との関係なのですが、私自身アメリカに留学していたとき非常にいいと思ったのは、やはりアメリカでもいきなり警察に頼ることにはいろいろ反発がある。しかし、だからと言って校内暴力というか、学校内の犯罪を見過ごすわけにはいかない。そのときに、学校が警察的な組織を持ち、学校の中にパトカーがいて、大学が雇っている警官がいるわけですが、同じように、今の中学校などの校内暴力も、警察にいきなり頼むのではなくてガードマンと言ったらおかしいのですが、そのような、学校が監督できる統治機能といいますか、そういうものが生徒を守り、先生を守り、直ちに犯罪記録にならないというようなことが日本ではできないのかどうか。その点を是非加筆願いたいと思います。
○ 「生きる力」を育てるために何をしなければいけないのかということが根本的な問題です。小中学生ぐらいに考える力を付けさせると言っても、非常に限界があると思います。
探検部の部長を務めていた頃、大変危険な所に学生たちを出すものですから、例えばアフリカに行くのだったら必ず現地語を勉強させ、一応会話ができるようにすることをまず前提としてさせました。そうでないと、いざというときにどうにもなりませんから。
要するに、さまざまな探検上の技術について基礎的な訓練を受けているということを全部チェックした上で派遣するというやり方をしていたわけですが、世の中へ出ていくためには、最小限度これだけは身に付けておかなければいけないということが必要でして、そういうものなしに「生きる力」を付けていくことはできないだろうと思います。
ですから、子どもたちにいろいろ考えさせたり何かさせなければいけないことは当然ですが、やはり「生きる力」をつけるためには、最も基本的なことを小中学校の間に学ばせるということだけは必要です。それが小中学校の本来の役割ですから。昔であれば読み書きそろばんという非常に単純なことでしたが、そういう基礎の上に考える力ができ、「生きる力」が大きく展開していくのだと考えます。
そういう意味で、これは言われているのかどうか分かりませんが、国語の力についてもう少し考える必要があるのではないかといつも考えております。といいますのは、例えばフランスの経験を申し上げますと、簡単に言うとフランスの初等教育は、国語力をどうつけるかということだけです。美しいフランス語を話させるということを目的にしているようで、同時にそれはフランスの文化を学び、伝統を受け継ぐ次世代の人間の養成に最も効果的な方法であるというのも確かでして、国語をしっかり学ぶことによってその国の文化、伝統を引き継ぐ力ができ、しかも自立していく力を身に付けることができると考えております。国語の重要性についてもう一回十分考えてみる必要があるのではないかとよく思います。
私の子どもが向こうの幼稚園へ行きましたら、文章とか、詩を徹底的に暗記させられるわけです。そういった基本的な力が、その後に彼の「生きる力」を付けるための基礎力になって、その上に「生きる力」が開いてくるのだろうと思っているのです。
もう一つ申し上げたいのは、やはり私も若いときはずっとボーイスカウト運動に取り組んでおりまして、大学では運動部の部長などをやっていたものですから、そのときに感じたことですが、理論は比較的簡単に教えられるのです。
しかし、強いチームをつくったり、子どもたちや青年たちを強く引き付ける力というのは理論だけではだめなのです。理論がなければいけませんが、もう一つプラスアルファーが要る。一種のカリスマ性ですが、そういうものを教員が持つ必要があると思っております。しかし、これはそう簡単にそういう指導者が養成できるわけではありません。
そういう意味で、地域社会の力を生かそうという観点から言って、地域社会における指導者養成についてもう少し本格的な取組が必要ではないかと感じております。知識というものは最近は非常に簡単に手に入るようになって、特にハウツー物などが流通するのはそういうことかと思いますが、それで世の中がうまく動いていくことは全くないわけで、それをどういう人が利用するか、うまく使うかというところで、全く違った知識が機能するわけです。そういう本当の意味で知識を機能させるためには優れた指導者というものが要る。この優れた指導者をどういう形で養成するかは一口で言えることではありませんが、そういうことを考えていき、社会的な権威のようなものを確立している優れた指導者を積極的に利用し、生かす工夫を考えていく必要があるのではないかと思っています。
○ 中間報告にも載せられている日米中の高校生の規範意識で、「本人の自由でよい」と回答した者の割合で日本人が非常に高いのに驚きました。それと、道徳の授業は楽しいか、あまり楽しくないかという統計が小学校低学年は55%ぐらいあるのですが、中学校へ行くと非常に低くなる。これもそうかというデータなのです。
それで、道徳というのか、公民というのか、この教科書の文書が非常に悪い。いろいろな人の書いたものをただ圧縮して編集したものなのでしょうが、非常に悪いと言われています。今、ご発言のあった国語を大事にするということと関係があると思うのは、我々は昔、道徳を修身と言ったのですが、修身には必ず民族の物語があったのです。ですから、修身で覚えた話とか、修身で言葉を覚えたぐらいでして、修身的な効果をねらったような文書がまた国語の教科書にもあったのでしょうが、何しろ言葉を大事しておりました。
そういう面から見た場合、今の教科書はどうなっているのか。その一例に、『誕生日』という文章があるのですが、うちに帰ると「おめでとう」と書いてあって誕生ケーキか、あるいはそれが食事なのでしょうね。つまり、お母さんはパートに行っていて、お父さんはもちろんまだ帰っていないのです。いわゆるかぎっ子でしょうか。お昼を一人で食べて、その1日の生活を書いているのです。これが現代日本における一種の家庭のモデルというようなことで、むしろポジティブに、つまり家庭というのはそういうものなのだと言わないばかりの文章だと、そういうのが公民の教科書の一つの章になっているので、これは何なのだろうということを言っている人がいました。
なかなか教科書の実物を見る機会がないから分かりませんが、その言葉がきちんとしたきれいな日本語でないということ、それから公民という教育理念というか、知育、徳育、体育といった場合の徳育であっても、言葉を大事にするということを考える形の教科書に対する意識も、少しあった方がいいのではないかと感じました。
現在は、市民、人権意識が全体に行き渡っています。市民と公民が対語になるのか知りませんが、責任に裏打ちされた人権、そういう公民意識を少し強めていくことが必要ではないかと思いました。
○ 今の御発言にも若干関連するのではないかと思って申し上げるのですが、私は古い教育を受けた人間として、やはり学校教育の中心は国を愛する心、そして日本人としての誇りをどう涵養していくかという問題だと思うのです。日本人としての誇りの問題につきましては、先ほどの中央教育審議会の中間報告の中にも、いろいろな観点から日本のよき文化、伝統を教育していくという点が出ておりますが、愛国心を養成するとしますと、どうしても関連してくるものが国旗、国歌の問題ではないかと思います。
昨日たまたま孫たちの家で話していたのですが、ちょうど一番下の子が小学校を卒業しました。卒業式の写真を見せてもらったら、演壇に日の丸が掲げてあり、君が代も歌いましたというので、これはいい学校だと思って感心して聞いていたのですが、君が代は自分で歌えるのかと聞いたら、よく分からないけれど、みんなと何となく歌っているだけというのです。学校の先生は教えてくれないのかと聞いたら、1度か2度か教えてもらった感じがするという程度の話なのです。上の子は私立高校の3年生ですが、横から口を挟みまして、音楽の先生が軍国主義につながるからそんな歌、教えてくれないということを申しました。
しかし、高校野球であれば、勝った学校の校旗を掲揚して校歌を斉唱し、そういうところに愛校心が生まれてくるのではないかと思うのです。日本人はみんなでそういう愛国心を大切にしようという雰囲気に欠けるのではないか。君が代の問題については、いろいろ大変な問題があるのだろうとは思いますが、今後どのように国歌を国民みんなが一斉に斉唱し得るような、それを通じて愛国心を養っていくかということは、国民全体で考えなければならないことだと思うのですが、いかがでしょうか。
○ 委員の言われた道徳教育の問題は、私もこれから重要な問題になると思っていますが、もともと道徳教育が戦後、生まれたいろいろないきさつがあって、ある意味で不幸な生まれ方をしたものですから、道徳教育をどうやっていいか分からないというところもある。
これはある意味では戦後の思想混迷の中から出てきたんだと思いますが、もうそろそろそういう時期は脱しないといけない。道徳教育の教科の中身を一体どうするかということは、やはり決めなくてはいけないでしょう。それをどう教えるかということも議論していかないといけないだろうと思っています。
それから、日の丸と君が代の問題ですが、かつて臨時教育審議会でも、それが問題になって、委員の中でほとんどの方は、日の丸はとにかく国旗として定着している、つまりオリンピックに行ってもどこに行っても日の丸は揚がって、みんなそれを見て涙を流すわけだからあれはいいだろうということがありました。
君が代はもう少し明るい歌にならないかとかいうことが結構ありましたが、全体として通じるのは、両方とも定着しつつある状況で、これはこのままにしておいても徐々に日本の社会に定着していく、そういう趨勢だろうと思っています。今はまだ、例えば東京都でも高等学校ぐらいの段階になると日の丸を掲げないところがあるようですが、小学校などはほぼなくなってきているようですから、そういう意味では定着していくだろうと思うのです。
○ たまたま私の子どもが入っていた小学校は、決して日の丸を掲げることもしないし、君が代を教えることもしない小学校だったのです。ちょうど小学校へ入ったときでしたか、子どもが帰ってきて、「お母さん、今度文部省だか何かが日の丸をこれから掲げなくてはいけないということでもめていて、先生はそれを学校に掲げなくてはいけなくなったときには教師を辞めると言うのだけれど、これはどういうことなの。」と質問を受けたりしたのです。
日の丸とかそういう問題は、日本の人々の中で、戦争に行った人間はまだ心の中にあるトラウマとして残っていたりするのですから、そういうことも含めて、なぜ先生は日の丸に抵抗感を感じるかというようなことを語っていかなければ、子どもはその問題を相対化できないのです。
子ども自身は体験的に日の丸や君が代で嫌な思いをしているわけではないのですが、テレビを見たり何かして自分の考えを徐々につくっていくのです。ですから、私は日本の特殊な問題としてふたをしない方がいいのではないかと思うのです。それは納得がいくまで延々と議論したらいい。過去に嫌な思いをしているわけだから、そんなにナーバスにならないで、本当の愛国心だとか、本当に自分の国を愛する心は、「言われたから歌います」とか、「日の丸を掲げます」では育たないと思うのです。
むしろうちの子どもをみると、そういうところで育ち、そういう価値観の中で教えられてきたが、どこかでそれを相対化して自分の考えを持っていて、そういう刺激があったことがプラスになっていたりもするのです。だから、この問題は日本の特殊な問題としてあまり簡単に解決しない方がよいのではないか。
日の丸を見たときに本当にいい思いをしている人もいるのかもしれないが、嫌な思いをした人、深い傷になっていて癒えていない人もいるわけです。それが日本の特殊事情だと考えて取り組んでいかないと、簡単に掲げましょう、歌いましょうでは本当の愛国心は育たない。むしろ、政治家とか、そういう人たちが本当に志を持って日本の国をきちんとつくっているのだということを生き方で見せてくれなければ、メディアから流れてくる官僚の問題などたくさんあります。中高生ぐらいになると、そういうニュースをメディアでどんどん受けて、そういうことの方がずっと影響が大きいのではないかと私は思っていて、それは学校教育の問題というか、社会全体の問題ではないかと思います。
○座長 誤解を生じるといけませんから申し上げておきますが、別に日の丸とか君が代の問題を今まで論争しなかったわけではないのです。非常に長い間掛かって、いつまでもどちらかに片づかないでずっと論争を続けてきているのです。
しかし、私が理解するには、今の社会は徐々にそれらを受け入れる方向に動いているということを言っているわけです。特別にこうしなければいけないとか、ああしなければいけないとか、そう圧力を加えなくても、徐々にそうなっていくと思います。
○ 掲げない学校があったり、掲げることが嫌だという先生がいることが、日の丸が嫌いな子を育てるとか、愛国心のない子を育ててしまうとかということではないのではないか。そういうことも抱え込んでの社会なのだからと思っています。私は別に日の丸を嫌だとか、掲げない方がいいと言っているわけではないのです。社会がその葛藤を克服していくプロセスに関して、子どもに明らかにして相対化していく以外に道はないと思うのです。それを強制的にしてしまうと、もっと問題が残ると思います。
○ その議論だけに突っ込み過ぎてもどうかと思いますが、一言だけ申し上げますと、学習指導要領では卒業式とか入学式とか、機会ある度に国旗を揚げ、国家を歌ってくださいということになっています。したがって、それを受けて校長先生はやろうとするわけです。
ところが、現実には今でも、まだまだ個々の学校、個々の先生、個々の地域では相当反対運動をやっています。教職員組合の文書に侵略のシンボルである国旗だということを教えようということをはっきりと書いて、現実にそれを実行しているような学校さえあります。さすがにそれは文部省が指導、助言をすることになっております。
ですから、日の丸がどうというよりも、むしろ日本の歴史の中でどういう見方をするかという議論は、現実にいろいろな見方で歴史はあると思いますから、それはそれで議論をすることはいいと思いますが、日の丸や君が代がいいとか悪いとかというところは、そのことだけを議論してもしようがない。むしろそれは歴史の見方だとか、そういう部分でしっかり議論をすべきであって、日の丸というのは非常に分かりやすいからついついそちらに目が向いてしまうのですが、それはこの中で議論しても生産的ではないだろうと思っています。
学習指導要領上はそうなっていますから、各教員もそういう指導をしています。現実に特定の地域を除くと、揚げるのは9割以上で、歌うのは少し低くなるのですがかなり歌っているというのが今の姿ですが、これは、主たるテーマではないし、これを突っ込んでもしようがないのではないでしょうか。
○ 私は、国旗がいいとか悪いとか、なぜ愛国心がいいか悪いかというのは議論した方がいいと思うのです。愛国心は大切なことだと思います。
しかし、愛国心が他の国を攻めていって取ろうというようなものだとだめだが、本当の愛国心は、よその国を攻めたら自分の国が傷つくに決まっているのですから、平和にいくのが最高の愛国心であると思います。今般NPO法が成立したのですが、市民活動と表現したらなかなか反発があったのですが、やはり一つの国の国民としての活動と世界市民としての活動と両方とも大切だと思うのです。
しかし、国民としての活動を無視したら、その国は決して進歩していかないと思うのです。ですから、なぜ愛国心が大切なのか、愛国心が大切だとなぜ日の丸がいいのか、なぜ国家を歌った方がいいのか、悪いのか、十分議論して両論を出して判断させた方がいいと思うのです。そこまでやらないと今の子どもは大変な情報を持っているのです。テレビも何も全然見せないで教条化しようと思えばできるかもしれませんが、テレビがあってこれだけの情報を持っているのですから、きちんとした判断の材料を与えて自ら判断させないと、表面的には従うかもしれませんが、決して従いません。
やはり本音で議論していかないと、塾がいいの悪いのと建前だけ言っていても、本音から塾に行かなければいけないと思っている人はたくさんいるわけですから、愛国心、国旗、国歌も本音で議論して両論で結論を出さないこともいいのではないかと思っています。
○ 少し問題から離れてしまうかもしれませんが、国旗の問題、国歌の問題をこんなに長く議論してきた国はないだろうと思います。おそらく日本の戦後とはそういう議論を、それは教職員組合と、教育にある指導的な人たちとの間の論争だったと思いますが、随分長くやってきた。それで、大きく時代が変化する中で、今、一定の方向に徐々に定着、収れんしていくというプロセスにあると思います。
それから、愛国心ですが、私はいつも思い出すのですが、ある憲法学者とテレビで討論したときに、その方はとにかく日本を誇りのある住みよい国家にすることが大事で、そういう国家ならば国を守ろうとする気持ちが出てくるから、愛国心はそれによって養われるのだという御意見だったのです。私はそれに少し反対で、むしろ愛国心というのは自分の国が悪ければ、その悪いところを直して何とかきちんとした国にしたい、そういう気持ち、より根源的なものが愛国心の根底には横たわっているはずだと思うのです。
そういうことを考えると、例えば生活環境がいいとか悪いとかということで確かに愛国心は促進、増幅されるかもしれませんが、しかし、それが愛国心の根源だとは到底思えないのです。それでなければ、アジアの民族主義運動など何も理解できなくなってしまいます。そういうことを言ったことがあるので、愛国心の問題は教育の中に取り入れられて悪いことはないと思っているのです。
○座長 それでは、本題へ戻ってお願いします。
○ 仕事柄、不登校の子どもとか家庭内暴力、校内暴力をふるうような子どもを扱っているのですが、彼らは、ここで議論されている規範とか、威厳というようなものから最も遠い距離にある子どもととらえられがちですが、どうもそうではないようにも思います。
前回も申しましたように、彼らが繰り返し口にする言葉に、「居場所がない。」という言い方がありますが、彼らは、既成の学校制度の中で成績という形で評価されたり、自分の能力を批判的にとらえられることに非常に反発を感じて学校に行かなくなったり、暴力をふるってしまったりするのです。こちらから見ると矛盾しているようですが、自分に合った自分の居場所と思えるような場所とか、動機のようなものが見つかれば、むしろ彼らは積極的に規範とか、威厳というものの中に身を置きたいと思っている節もあります。
先ほどのコンビニのアルバイトの例も一つだと思いますが、そういう中ではむしろ律義にルールを守ったり、尊敬する先輩のアドバイスに従順に従ったり、その中では評価されることに対しても非常に真摯に受け止めるような姿を見ることがあります。例は悪いのですが、多分昔の暴走族のような集団もその一つの姿だったのかもしれないのです。
それで、そういう彼らに合った居場所をどう用意するかというのは大きな問題になってくると思いますが、やはり学校と家庭だけでは少し足りない部分があるというか、むしろ彼らはそういう中での評価とか批判には非常に反発するところがあって、それ以外の部分で自分が評価されたり、認められるというところに身を置きたがる傾向があると思います。
アルバイトも一つだと思いますが、私が扱った例だとダンススクールのようなところに行って、そこでは大変に厳しくトレーニングされていろいろ言われても、まじめに受け止めるとか、あとはそういう人たちが今喜んで行っているのはボランティア活動です。自分も問題があるのですが、そういう自分が問題を持ちながら人にケアしてあげるということに対して、彼らは非常に積極的に、むしろその中では一生懸命やることができて、病院や老人ホームに行ってみたりして、喜んで取り組んでいる不登校の高校生などはたくさんいます。また、もう少し社会から引き下がった形になりますが、例えばインターネットのような中でグループをつくって情報交換をしたりとか、そういう中でもルールなどは几帳面に守って、規範に従って振る舞ったりすることもできるわけです。
だから、彼らは決して規範に従うことができないとか、そういうものをすべて拒否しているわけではなくて、適切な居場所さえあればそこに従う能力はあると思います。その居場所というのは、今やその情報量とか能力にこれだけ差があるわけですから、画一的なものを一つだけ提供して済ませるというのは無理で、いろいろ住み分ける形で個々に合ったものを探していかなければならないのかもしれません。
そういう居場所を探し当てたケースを私はたくさん経験していますが、ただ、その後で大きな壁に当たるのです。自分の居場所で少し立ち直った後に、例えば従来の受験戦争が待っているとか、就職しなければいけないとか、そういう問題が出てくると、学校以外の場所での活躍とか、そこでの振る舞いは評価されないということになってしまって、また挫折を味わうということがあります。今、保健室登校なども出席日数にカウントしていただける中学なども随分出てきまして、これは理想論かもしれませんが、学校外での活動が出席とか、成績とか、理想的に言えば企業で採用するときなどにも、その人の一つの価値として認めていただけるようになっていけばいいのではないかと実感することがあります。
○ 今、学校でのいろいろな問題が出ておりましたが、現実の学校では国旗、国歌の問題もですが、きちんと理解をしてやっているところもたくさんあります。問題点もありますが、問題点だけを取り上げて、これが全体の姿であるという考え方はこれからは通用しないと思うのです。きちんとした形は何かということと、問題点は何かということとをしっかり分けて考えていかなければならないと思います。
教師の服装の問題が出ましたが、体育の教員でも体育以外の教室の授業にはすべてネクタイをしているような教員はたくさんいます。教員の服装がだらしないと問題点を指摘した場合に、全部そのように見てしまうというのは非常に危険だと思います。何が問題なのか、本質的なところは何なのかということをしっかりと分けないと、しっかり自分で考えてやっている生徒、私よりも立派な生徒はたくさんいるのです。これから学校とか子どもたちを見るのにも一つの見方は絶対できないのだと思います。
問題点は問題点として取り上げ、しっかりやっている子をどう育てていくかということも忘れてはならない。これからたくさんのことを推し進めていかなければならないのです。
それからもう一つ、「生きる力」ということがよく言われていますが、自分で考えて自分で判断するということ、これは簡単なようでトレーニングが要るのです。自分で考えて判断させていくのは結果が問題なのですが、大人は面倒臭いものですから結果が悪いと子どもが自分で判断して考えたことまで否定してしまう。子どもに考えて結果を出させるトレーニングを学校で何回も何回もやらせる。自分で考えて自分で判断していい結果を出すまでに大変な時間がかかるのですが、その途中であきらめてはトレーニングできない。マニュアルを与えた方が結果は間違いないのですが、そういうトレーニングを、これから家庭の中でも学校でも時間をかけてゆとりを持ってやっていかないとその能力は育たないと思います。
どんなアンケートをやっても高校生が特に自分でなければいいと思うという考え方が多いのです。私流に分析しますと、自分で考えて自分で判断するというトレーニングはされているものですから、結果を考えないでそのプロセスはみんな認めるのです。しかし、そこから出た結果がどうかというところまでまだ考えていないのです。だから、例えば、覚せい剤をやっている人がいたらどうかというアンケートで、本人の自由ではないかという回答が多いのです。結果がどうというところまで判断していなくてまだ途中なのです。自分で考えて判断するというトレーニングはやらせているのですが、それが結果に結び付くまでもうしばらく時間がかかるのです。マニュアルを与えていけば結果はすぐ出るが、本人たちが考えて結果がよくなるまで、あきらめてはいけないと思います。
最後に一つ、スクールカウンセラーは現場でも非常に評判がいいものですから、是非これは至急に推し進めていただきたい。今もう現実に進められているものですから、高校も必要ですが、特に小中学校にたくさん導入していただきたいと思います。
○ 今、正しい結論に導くためにトレーニングが必要だとおっしゃいました。抽象論では分かるのですが、具体的な例で言うとどういうことですか。
○ 例えば、生徒会活動で生徒に自治を任せるということです。実質的な活動を任せて行事を行わせたりというトレーニングをやらせています。生徒が自分たちでそういう自治的な活動も運営も全部するのです。教員も結果が心配ですからどうしても手を出してしまうのですが、なるべくそうしないようにして、生徒だけで基本的にやらせようというものです。
○ 中間報告の中にも国際貢献が出ているわけですが、いろいろな状況から判断いたしますと、日本の中で国際理解あるいは国際理解教育のようなものが、学校なり地域社会の中で非常に弱いのではないかと思うのです。政治とか経済が動向を決めることだと思いますが、21世紀はどういう次代になるのかというと、少なくとも今、理解されている中では人口とか食料とか資源とかという問題がはっきり出ているのです。そういう社会の中にこれから子どもたちが出ていくという状況でして、他の国々はどういう生活をしているのか、他の若い人たちはどういう考えを持っているかということを先生が教えるのではなくて、子ども同士の交流の中から学ぶということが欠けていると思うのです。
一つ例を申し上げますと、日本に来たドイツの人が、なぜ日本人は子どもが生まれると神社に行って、結婚式には教会に行って、亡くなるとお寺に行くのか、日本人は何をもって人生としているのかと言うのです。それを聞かれた日本の子どもは、もう一回、日本の宗教とは何なのか、あるいはそもそも宗教とは何かを彼ら同士の中で問いかけられるわけです。例えば、湯島天神へ行ってみると、学校に入ることがそんなに神様にお願いしなければならないほどのことなのかということを問うのです。大人が教えてもとうとう分からないのですが、彼ら同士で話したときに何なんだろうと、そういう中でもう一回問い直されるのです。私は国際理解教育、あるいはグローバル教育のようなものを学校だけに任せることは無理だと思っており、もっとそういう視点を考えていかないといけないのではないかと感じます。
国際貢献、「貢献」というのは役立つことだと思うのですが、役立つという手前の部分として今回の阪神・淡路大震災その他で、若い人たちが行ってみんな感激していることは、自分が人のために役立ったという喜びを感じるのは初めてだと言うのです。いかに家庭でも、仲間の中でも役立ったという実感がないかということです。その喜びを感じたということで、貢献していく前の段階が非常に大事ではないかと思います。私は子どもたちに対するボランティアというのは、そういう意味を持っていくように、役立つことに喜びを感じるということは非常に大事なことだろうと思います。そのことから、ある意味において、心は教育するものではなく、育つものだと思います。心を育てる助けをするのが役に立つ喜びのようなものかと思いますので、是非もっと国際交流を、出すものも受けるものも、活発に行うことによって子ども同士の交流の中から学ばせることが必要だと思います。
はっきり申し上げれば、国旗の問題もそうなのです。彼ら自身、議論しているのです。なぜ日本人は国旗が揚がっているのに向かないのか、なぜ国歌を歌わないのか。それぞれの国で受けた教育が違うのですから、そうすると教育が違うことが分かるのです。歴史背景も違うということが分かるのです。やはり彼ら同士の中の話し合いの中から学ぶことがたくさんあるのではないかと思いますので、そのことを大事にしなければならないと感じます。
○ 2点申し上げたいと思います。先ほどキャンパスポリスの例が出たのですが、アメリカの大学でキャンパスポリスを置いているところを知っておりますが、これは広大な敷地を持っているような大学で、普通のポリスがどうしてもポリーシングできないから、自分から持たなければならないというようないろいろな要請があってのことだと思うのです。義務教育のレベル、中学校あたりで置いているということはないのではないか。
もう一つ誤解がないように申し上げておきたいと思うのですが、私は、警察が定期的あるいは随時に学校へパトロールするというのは極めて異常事態であると思っております。警察として異常事態のときにはもちろん出ていきますが、通常はこういうことをしようとは考えてもいないと思いますし、そういうことはすべきではないと思っております。
むしろ、この間から出ておりますが、ストリートワーカーである警察の少年補導職員の役割を強化することが大事ではないかと思っているのですが、大変残念なことに今この補導職員を減らす方向にありまして、やはり効率から考えているのだと思うのです。つまり。警察官を採ればほかのいろいろな警察の仕事ができるが、補導職員はいわゆる警察官ではないものですから、大量に採用できない中でやりくりするためには、どうしてもそちらの人数を減らしてという考えです。目先の効率のために大事なところが落ちていってしまうのでは非常によくないと思っておりますが、やはり警察としては補導職員がもっと全面に出て学校との間のつなぎをするということで考えた方がいいのではないかと思っております。
もう一点は、先ほどトレーニングということも出ておりましたが、子どもたちの居場所がないということで、その子どもたちの居場所をつくるという上でも、子どもたち自身を巻き込んでいくようなものでないと、親が、大人が用意してただメニューを提供するというのではうまく解決しないと思うのです。
実は、子どもたちを巻き込むというのは非常に時間がかかって、大人だけでやった方が簡単ということになりがちと思うのですが、アメリカの10代裁判、ピンコートとかユースコートと言われるものに少し興味を持っていろいろ調べてみたのですが、実は地球も、警察も、それから親たちも、大変な時間をかけて、子どもたちに子どもたちの問題を解決させるような仕組みをつくっているのです。企業も参加しているのですが、日本でこれだけのことをする人たちがいるだろうか。要するに、それだけ大人が手をかけるつもりであって初めてあれは機能し、非常に成果も上がっているのです。古いところは1976年あたりにでき上がっていて子どもたちにきちんと守秘義務を守らせるわけですが、それで問題が生じたことは一度もないというのです。問題を抱えた子どもも、そうでない子も自分がある重要な役割を担っているということが彼らの誇りにつながっているのです。それで自分自身の行動を律するようにもなるでしょうし、責任ある市民としての規範意識というのもそういう活動を通じてできていくところもあると思うので、問題は大人が汗をかく用意があるかどうかという、そこにいってしまうという気がいたします。
○ 他の国で最近日本で起こったような事件があった場合、果たしてこういう有識者会議は設けられたろうかと考えると、日本は誠に健全な社会ではないかと思うのです。
確かに今、我々が対面している事態は、決して大した問題ではないなどと考えているわけではありませんが、しかし、学校内で拳銃が乱射されているわけではありませんし、麻薬が世界的にはびこってもまだまだ日本の場合には、高校で売人がいるというようなことも聞いてはおりますが、決定的な状況を迎えているわけではない。まだまだ日本の社会は非常に可能性があると思ってます。
なぜそうなのだろうかというと、日本は非常にハイブリッドな社会だろうと思うのです。先ほど例が出ましたが、生まれたときには神社へお参りし、結婚式は教会で挙げて、お葬式はお寺へ行くなどというような、こんなハイブリッドな社会は例がないわけでして、逆に言いますと社会がハイブリッドですから、お互いに気を付けてお互いが責任をシェアしているという、そういう意味では誠に思いやりに満ちた社会なのです。逆に責任をあまりにもシェアし過ぎているところに、現在の日本の問題点があるのではないかと思うのです。
例えば、暴力行為があれば、これは少年であろうが何であろうが警察の問題なのです。そのあたりについての切り口を、要するに見識を持って対応すればいいわけです。
日本の社会は皆さんが非常に優しいものですから、お互いに責任の何分の一かは自分たちがシェアしようという意識があまりにも強過ぎるのではないでしょうか。
しかし、それが社会のシステムを柔軟にしている面があると同時に、逆に社会システム全体を非常に動きにくくしております。子どもたちが一種の閉塞感を持つのは、今の日本の社会がある意味で安定していることから出てくるのです。どういう形で閉塞感があるかと言えば、要するに人生におけるチャンスが非常に少なくなっていないかと思うわけです。
例えば、アメリカの大学生の年齢構成をみますと、皆様方も御存じかもしれませんが、30歳未満が52%です。逆に言えば、30歳を超える者が48%いるような、そういう大学です。日本は世界で最も高齢化が進んでいる社会であるにもかかわらず、全くそういう状況にはなっていない。それは社会システムとして、そういう点についてまだ十分な配慮が足りないからであって、そういうことを思い切ってやっていかなければいけない。例えば、キャリアでなければ出世できないというようなシステムは今やっと問題になって変えられようとしていますが、キャリアでなくても優秀な人は優秀なのです。そういう人を登用できるような社会システムに全体として変えていかなければいけない。似たようなことでこれからの高齢化社会の中、日本は直面している問題がたくさんある。そういうことを少しずつ全体として変えていく限り、日本の社会はまだまだ非常に健全であるし、また、子どもたちが閉塞感を持つことがなくなれば、少しずつ問題の根源が片づいてくる。そして、少々の事件があっても直ちに首相官邸に有識者会議が設けられるぐらいの対応が今後とも行われていくならば、おそらく私は世界でも最も進んだ、問題への対応ができるシステムになると思います。
つまり、非常に進んでいる側面と、ハイブリッドな社会システムが今のところうまく連動して機能していないところがあるのではないかというのが回答ですが、今いろいろな形で各委員が発言されている一つひとつが重要であると思います。そういう個別的なことはどれ一つ問題解決の根本的な回答にはなりませんが、一つひとつ積み重ねることの連動効果が非常に重要ですから、小さいことを積み重ねていただきたいとお願い申し上げます。
○ 先ほど国際理解、国際貢献の話題が出されましたが、総合的学習の時間を今回設けることにいたしました。そこで外国理解を扱うことになっております。そこで外国の子どもたちと交流するというところまではまだ踏み込んでいませんが、少なくとも国際理解を総合的学習の時間の一環にしようということにはなっています。それが一つお答えだと思います。
今日はVチップの問題まで踏み込むことはできなかったし、欠席の委員もおられるので議論を重ねることができませんでしたが、Vチップは多くの問題点の中の一つでして、それだけで解決するものではないし、新聞等々で御批評のあるように導入したからそれで問題が済むなどということでは全くないのです。
仮にVチップを導入しても、それを裏で破るようなことがたくさん日本では行われているわけで、例えば、ビデオなどは非常に自己規制されているというのですが、その裏側には規制に入らないようなものが堂々と売られている。例えば、ビデオを売っている店に行きますと必ずその裏側に大人用のものがあり、その大人用のものがうまくカムフラージュされて子どもが入ってもいいようなところまで入り込んでいる。このように、社会自体の中に自己規制する力が日本はあまりにも弱い。
アメリカであればそういうことはないので、アメリカでは大人だけが楽しむ表現は随分自由なのですが、田舎町に行って本屋に行ったときにそういう子どもに見せてはならないようなものを売っていればそのコミュニティーが非常に反対するのです。そういう自浄作用が日本の社会では非常に弱くなっているので、これは中央教育審議会としても議論いたしましたし、方策もいろいろ議論はしたが、具体的にどうやるかというと、これはとても我々の力ではできない。私はVチップの導入はということになっていますが、必ずしもそれだけで問題が解決するのだと思っていないということを申し上げておきます。
○ 1つだけお願いしたいのですが、せっかくこれだけ有力な皆さん方がお集まりですし、これは審議会会長に代わってのお願いなのですが、中央教育審議会では6月、7月ごろには最終答申をまとめたいと思って、今これを二、三百万部刷って皆さまに御意見を照会している最中なのです。
それでお願いなのですが、ここで非常に有意義な御議論がありますから、どう具体化していくかとか、アクセントとか、早い遅いの付け方とか、いろいろな視点、いろいろな考え方で賛成の向き、反対の御意見もあろうかと思いますので、御意見をいただければありがたいと思っております。是非、各委員のお知恵をお借りしたいと思っております。
○座長 まだ議論があると思いますが、予定の時間ですので、今日の会合はこれまでにしたいと思います。
次回の日程は4月21日午後4時30分、時間が変わっておりますのでどうぞお気を付けいただきたいと思います。初めの会合で予定しましたとおり、次回の会合ではこれまでの議論の整理をして、その内容を御議論いただきます。その結果は、関係審議会、関係省庁に持ち帰って御報告いただいて、更に議論を深めていただきたいと思っております。
それで、各委員でこれまでの御発言のほかに特に強調すべきと考えられるポイントとか、関係審議会あるいは関係省庁でこういう取り組みをしてほしいということがございましたら、今月の10日までに事務局まで文書でお寄せいただきたい。
今日の会議の概要につきましては、この会議終了後、私と事務局から記者会見させていただきます。
最後に、これは御相談でございますが、マスコミの方からこの会議について傍聴したいという希望が出ております。その点について皆さんがどう考えられるか、あるいは御了承いただけるか。それによって決めたいと思いますので、お諮りします。いかがでしょうか。
○ これは国民に訴えるような問題ですから、私は公開しても一向に構わないと思います。ただし、厳しい意見を言うことが多いと思いますが、その雰囲気をきちんと正しく伝えてくれるのであれば、もちろん公開した方がいいのではないかと思います。
○座長 いかがですか。よろしゅうございますか。私も公開の方がいいのではないかと思っています。
○ むしろいろいろな反応を新聞記者にも聞きたいです。
○座長 傍聴に来られる方は、その報告をなさる責任もあるということですか。
○ 確かにこの会議のことをテレビで聞いたり、ニュース、新聞で見たときに、何だろうと思ったのですが、そうしていただければ報道の仕方も随分違うと思います。
○座長 それでは、前回の議事録はでき上がり次第、公表させていただくと同時にもちろん皆様方にもお送りいたします。
それでは、本日は以上で会議を終了いたします。ありがとうございました。