首相官邸 首相官邸 トップページ
首相官邸 カテゴリーなし
 トップ会議等一覧皇室典範に関する有識者会議開催状況


(鈴木正幸神戸大学副学長入室)

○吉川座長 御紹介します。神戸大学副学長の鈴木正幸先生です。御専門は日本近代史学です。
 それでは早速ですが、鈴木先生、よろしくお願いいたします。

○鈴木副学長 神戸大学の鈴木でございます。よろしくお願いいたします。
 日本近代史に即して見ますと、皇位継承方式というものは、天皇・皇室が我が国において果たしてきた役割と密接な関係があると思いますので、近代日本における天皇・皇室の位置についてお配りいたしておりますレジュメの順にお話をさせていただきたいと思います。
 日本国憲法に、「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であ」るとあるように、戦後、日本社会に関する象徴的機能を天皇・皇室は果たしていると思うわけであります。
 一方、戦前の天皇・皇室の役割は、まず統治権を総攬することにございましたが、レジュメ1をごらんいただきますと、下の方でございますが、社会を維持し、それを象徴的に体現する存在でもありました。
 これから戦前のお話をいたしますので、統治権者たる天皇のレーゾンデートル、すなわち天皇統治の正当性がいかなる論理によって説明されたか。それが天皇・皇室の社会的機能とどのように関係していたかについてお話をしたいと思います。
 そこで「2.帝国憲法体制における二つの国体論(天皇統治の正当性論)」ということでございますが、西欧近代では、当初でありますが、市民社会の基本原理である契約の原理に基づいて国家関係が説明され、いわゆる社会契約説でございます。それによって国家の正当性が確保され、君主制国家の場合には、君主と国民の契約によりまして、君主制国家の正当性が担保されたわけであります。
 我が国でも明治の初年の自由民権派の私擬憲法いわゆる憲法私案でございますが、その多くは、いわゆる君民協約憲法、当時の言葉で申しますと、国約憲法、国が約する字を書きますが、その案が多うございました。
 例えば、福沢諭吉系の兵庫国憲講習会の「国憲私考」という明治14年7月につくられた私案がございますが、それに「皇帝ハ国約憲法ヲ守ヘキヲ誓ハセ給フヘシ」とありました。
 また、政府内部でも、後に欽定憲法主義に転じまして、帝国憲法作成に活躍をいたしました、井上毅という切れ者の法制官僚がおりますが、彼は明治9年に、これは資料がございませんが、「全国人民ノ代議士ト協議セスシテ「コンスティチュシオン」(すなわち憲法でございますが)憲法ヲ創定スルノ理ナシ」と明言をしているわけでございます。
 君民が協約して憲法をつくりますと、君主に統治権の総攬権を与えたといたしましても、契約によって成立したのでありますから、君主の統治の正当性は憲法制定形式そのものによって担保されるわけであります。
 しかし、実は大隈重信ら急進派が政府から追放された明治14年の政変というのがございます。この政変後、政府は君民協約を否定いたしまして、欽定憲法方式を明確にするわけでございます。
 欽定憲法は、当然君主のみが憲法を制定するわけでありますから、君主の憲法制定権の根拠は何ぞやということになりますけれども、これに対する回答というのは、憲法制定以前から君主は統治権者だからだという回答が用意されるわけであります。そういたしますと、なぜ君主は統治権者なのかという存在証明が必要になってくる。
 既に民権派が国約憲法を主張しておりましたし、政府内部でも一時君民協約ということを是認しておったわけでありますから、改めて欽定主義になるためには、この証明が不可欠ということになってまいります。
 しかも、当時、我が国最大の課題であった条約改正、これに対して欧米列強が日本は文明的な制度が成立していないので改定できないという口実を使ったわけでございますが、そう言われますと、早急に「文明国一般ノ法」を公布する必要に迫られまして、御存じのとおり刑法、民法、商法等の近代化が図られたわけであります。
 憲法も例外ではございませんで、近代法の原則であります公権と私権の峻別、したがって、統治権と所有権の峻別の上に成り立つ欧米近代法理に即したものでなければならなかったわけでございます。
 天皇の統治権も純粋公権でなければなりませんから、以前からあったような王土王民論的な、いわゆる前近代の論理はここでは適用できないということになってまいります。しかも、我が国においては超越的な神の存在が国民に普遍的に認識されておりませんので、いわゆる王権神授説に基づくこともできない。そういたしますと、結局は伝統、すなわち歴史の中にその根拠を求めるということになってくるわけであります。
 先ほど申しました井上毅は、神代史、つまり神代の歴史でございますが、その皇祖神の神話の中にそれを求めたわけでございます。
 井上は『古事記』を引用いたしまして、これは資料の1.の中段辺りに太字になっているところがございますが、いちいち読み上げませんけれども、要するに大国主神らの豪族が「ウシハク」すなわち土地人民を私的に所有し支配するというのとは異なりまして、歴史の始原から皇祖皇宗の統治が「シラス」という純粋公的な統治をしてきた。その伝統を持っているがゆえに、近代国家の統治権を天皇が持つことは正しい、ということを言うわけであります。
 これは、1つの議論でありますが、資料の4.をごらんいただけますと、最初のところに書いてございますように「シラス」国体論というものは、帝国憲法の基礎的原理とされているわけでございます。
 ところが、明治14年の政変によりまして、10年後に国会を開設するということになりました。国会開設をいたしますと、当然予算審議権は国会に付与する。そうなりますと、皇室費を含む財政審議を通じまして、皇室運営に国会が容喙する危険性というものが生じてまいります。
 このために、皇室財産を設定して、いわゆる経済上の皇室自律主義、自ら律するということでありますが、これを確立するという政治的課題が急速に浮上いたしまして、政府要人の皇室財産設定建議が14年政変後に相次ぐわけでございます。
 先ほどの井上毅は、天皇に私なしと、したがって皇室は私性、私有財産性を持ってはならないという「シラス」国体論が近代国家たる我が国の天皇統治の正当性原理に不可欠であると主張いたしまして、資料の5.にございますように、皇室財産設定に反対するわけでございます。資料は読みませんけれども。
 しかし、政治的必要性がもちろん優先されまして、明治23年の国会開設までに御料地を含む膨大な皇室財産が設定されるわけであります。
 こうなりまして、憲法の統治の根本原理と、政治的措置とが原理的に齟齬を来すという事態が表われてきたわけであります。
 ところが、井上毅自身にとりましても、おのれが持っておる原理の修正を迫られてまいります。
 資料の7.をごらんいただきますと、実は井上毅は教育勅語の起草に関与いたしております。そのときに、山縣有朋首相に対して資料の7.のように、大変私はこのことで苦労しているんだと言いまして「立憲政体ノ主義ニ従ヘハ、君主ハ臣民ノ良心ノ自由ニ干渉セズ。今、勅諭ヲ発シテ(教育勅語のことでございますが)教育ノ方嚮ヲ示サルヽハ政事上ノ命令ト区別シテ社会上ノ君主ノ著作公告トシテ看ザルヘカラズ」と言っております。
 そういたしますと、「シラス」国体論では、政府すなわち官と皇室は一体であるということを前提にしておりますから、その国体論ではあり得ない社会上の君主の側面を井上自身が認めざるを得なくなってきたわけであります。
 更に、その直前に資料の6.にございますけれども、神祇院設立問題というのが内閣で起こってまいりますが、全部は読みませんけれども、井上は祭祀、すなわち「礼典ハ宜ク王家ノ内事ニ属スヘクシテ」と、国務ではありませんということをここで言って反対するわけであります。
 王家の内事というのは、皇室の私事でございまして、したがって井上は、私性を内包した社会上の君主としても天皇を位置づけ直さなければならなくなったわけでございます。 皇室財産設定とこの問題の出現によりまして、天皇統治の正当性論としての国体論は、何らかの補完的説明が必要となり、時代状況に合った新しい国体論が要請されたわけでございます。
 そこで、家秩序的国体論というところに入ってまいりますが、実は日清戦争を境にして重大な転機が訪れるわけでございます。
 なぜかと申しますと、先ほど申しましたように、日清戦争前後に条約改正が実現をいたして、治外法権が撤廃され、我が国の対外的自立が基本的に達成されるわけでございます。 こうなりますと、欧米的な法理に合わせて、天皇統治の正当性を証明する必要はなくなります。新しい国体論の展開が可能になってくるわけでございます。
 大正10年の内務省神社局編の『国体論史』という非常に面白い本がございますが、これは日清戦後の国体論について、資料の8.をごらんいただきますと「数年前に於て国粋論者が、我上古の制必ずしも西洋の代議制に矛盾するものにあらずと述べて以て我国粋を弁護せるものと地位相転換せるものにして、驚くべき変化というべし。」とあります。その驚くべき変化によって出現した国体論というのは、次のようなものでございました。
 資料の9.の太字のところをごらんいただきますと、日清戦後の国粋主義でございます日本主義の主導者でありました高山樗牛は明治30年にこういうことを言っているわけでございます。
 「皇室は宗家にして臣民は末族なり。(中略)吾人は信ず、我国体の特性は此君臣一家てふ国民的意識に起源せることを」と、その他幾つもございますが省略をいたします。
 このように、日清戦後に隆盛を極める国体論は、我が国を、天皇を宗家すなわち総本家の家長とする巨大な同族団体に擬するものであったわけでございます。私は、これを家秩序的国体論と名づけておるわけでございます。
 この国体論は、国体論としての完成形態でございました。なぜかと申しますと、これによりますと、まず第一に皇室も一つ家となりますから、家産を持つことは当然であり、皇室財産設定とは何ら矛盾しないということになります。
 第2番目に、「シラス」国体論のように、当時、まだ必ずしも国民の共通理解とはなっていない神話に依拠する必要がないということであります。
 第3番目に、いわゆる社会契約説と対立をし、当時、我が国に興隆してまいりました社会有機体説、すなわち社会は人体と同じような有機体であり、人体の頭部に相当するものは君主であり、手足が国民である、こういう考え方でございますが、これと実に符合するわけでございます。
 そして何よりも天皇は国民の総本家の家長たる資格において国民を統治するということでありますから、社会契約論とは全く違った意味でございますが、社会関係上の根拠から政治上の天皇統治の説明ができるようになったということであります。
 これは、このすぐ後に申し述べますが、「家」社会でありました近代日本の社会秩序に根差し、それにフィットするものであったからであります。これが完成形態ということの意味であります。
 そこで、次の「3.『家』社会と天皇・皇室」のところに入りますが、憲法を審議する場でございました枢密院におきまして、資料の10の太字のところをごらんいただきたいと思います。
 伊藤博文はこう言っております。「欧洲ニ於テハ(中略)宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ、深ク人心ニ浸潤シテ人心此ニ帰一セリ。然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者、其力微弱ニシテ一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ。(中略)我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室ニアルノミ」と言っているわけでありますが、当時、家社会でありました我が国にありましては、皇室は家的秩序の機軸となることによりまして、「深ク人心ニ浸潤シテ人心此ニ帰一」することになったわけでございます。
 我が国近代における家の社会的広がりというものは広範なものでございました。明治の初年の国民の8割は農民でございますが、その農民経営は家族労働に依拠し、家長が労働の指揮を取っていたわけでございます。家的経営をやっておるわけでございます。
 都市でも大正末期まで社会の底辺に向かって家形成が実は行われていたわけでありまして、家というのは明治期で終わって、あとは崩壊するものでは決してございません。
 大正末年に全国3,500 人の労働者の意識調査をいたしましたところ、仏壇、神棚があるものは94%に達しておりますし、祖先や父母の霊を祭るべしとするものは実に93%に達していたのであります。
 祖先崇拝は、家社会にとって重要なものでございます。家というものは、家産、家業、家名の一体となった団体でございます。その一体性の源泉である祖先を崇拝し、その儀式を行うことは、家を維持する上で不可欠のものであったからであります。このように戦前の日本は家的でございました。この家社会の家督相続の理想型を体現したのが皇室でございました。
 資料の13.をごらんいただきますと、典範には、第1条に「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあり、第2条に「皇位ハ皇長子ニ伝フ」とございますように、長男の皇位継承、すなわち皇室の家督相続が明示されております。しかも、第42条に「皇族ハ養子ヲ為スコトヲ得ス」とございますように、血族以外の相続は不可能でございました。
 一般国民の場合は、家は経営体でもございますから、経営能力の有無によって養子など非血族による家督相続も多々行われてきたわけでございますが、祖先崇拝という観点からいたしますと、直系血族による家督相続が望ましいことは言うまでもございません。
 また、家秩序の一つであります長幼の序ということからいたしまして、長子相続が望ましいことも言うまでもございません。
 そこで、明治維新政府は、資料の12.の中段辺りをごらんいただきますと、明治6年に華族、いわゆる昔の貴族です。華族、士族に対しては必ず長男相続とせよと。やむを得ない場合でも血族による家督相続をせよという布告を出しておるわけでございます。
 そういう意味からいたしまして、皇室は家社会の最も理想的な家督相続を実現していたと言えるわけであります。
 更に、家にありましては、家長の家族への指揮権も重要でございます。資料の13.の中段には、第35条に「皇族ハ天皇之ヲ監督ス」というふうにありまして、その下にその意義を典範義解が書いてございますが、省略いたしますけれども、傍系血族を含む皇族すべてに対して家長たる天皇は生活費とか、結婚、外国旅行等に関しても指揮権を持っていたわけでございます。
 これと関連いたしまして、家長が家族を統合するには、家族がその恩恵に預かっております家産、家業、家名の源泉である祖先の祭祀を家長が執行することが必要になってまいりますが、この点でも皇室は天皇による皇祖皇宗の祭祀が最も厳格に行われていて理想的であったわけでございます。
 加えて、天皇は終身在位制でございますから、在世中は皇位すなわち家長の地位を人に譲ることはできない。
 一般国民の場合には、父親が隠居し、子どもの家長の指揮に入ることもあったわけでございますが、これは親子の道徳という点からいたしまして、必ずしも望ましいことではない。この点でも皇室は理想的な家の秩序を体現していたわけでございます。
 大正期に入りまして、民法の親族篇が臨時法制審議会で審議されましたときに、ある議員は(14の資料はちょっと違うところの引用でございます。)「上ノ為ス所ハ下之ニ倣フ。其倣フ所ノ美シキ俗ガ結晶シテ家族制度ノ確立ヲ期スルコト」ができるんだと。要するに、皇室は家制度の模範であるべきことを主張しているわけでございます。
 さて、第一次世界大戦後になりますと、大戦中から後にかけまして、ロシア、ドイツ、オーストリアそしてトルコの王朝が崩壊いたしまして、いわゆる君主制の危機というようなことが言われるわけでございます。我が国はもちろんそういうことはございません。
 しかし、大正デモクラシーの展開に対する対応が必要とされ、さまざまな皇室改革が行われるということになってまいります。
 また、これもその一環でございますが、大正天皇の病状が進行いたしまして、摂政問題が浮上し、後の昭和天皇でございます皇太子への期待が高まってまいります。
 そこで、大戦後の欧州視察のため、皇太子が初めて洋行するということになったわけでございます。
 この洋行で、英明なる皇太子の評判が非常に高まるわけでございますが、同時に、皇太子の「平民的御態度」ということにマスコミや一般国民の注目が集まったわけでございます。 資料の15.にございますように、『国民新聞』という当時の新聞は、これだけは読ませていただきます。「東宮殿下の今次御渡欧中各地に於ける平民的な御態度は彼我共に等しく御賞賛申上げつゝある所で、いづれ御帰朝の上は必ず我が皇室と国民の間にも何事か改革が行はれるだらうとは亦等しく期待し奉る所」と報じております。
 また、15.の下段の方に、皇室を我々の生活様式に近い形で報道したいということについて、宮内省の了解が得られたというようなこともございました。
 これらは時代状況の変化に伴う、国民の期待に応えるべく、国民の生活スタイルに皇室がある程度接近しようとした証左であろうかと思います。
 最後になりますが、今、言いました洋行の成果につきまして、原敬は資料の16.の太字のところをごらんいただきますと「御帰朝後、我国民の皇太子殿下に対し奉り、衷心より如何にも感動し、将来の御為此上なき事(中略)今回御洋行の御成功は上下融和の上に於て、如何程有効なりしや知るべからず」と記しておるわけでございます。
 原敬は、なかなかこういう感情を表わすことは少ないんですが、珍しくこういうことを言うわけでございます。
 この原敬の述懐からもわかりますように、天皇・皇室は其の時代の社会秩序を理想的に体現し、変化する社会に対応して、社会のあるべしとされた姿を象徴することによって、社会と政治の秩序の安定に寄与してきたわけでございます。
 現在と戦前とでは天皇が統治権者であるか否かによりまして、皇室の位置は根本的に異なりますけれども、「社会の師表」という機能から見た場合の共通点は考えるべきであろうかと思います。
 歴史の教えるところから、今日の天皇・皇室の在り方を考え、そしてその中から皇位継承の在り方を考える必要があろうかと思うわけでございます。
 また、伝統ということがいろいろ言われるわけでございますが、伝統というものは、前時代に発生したものが、後の時代時代によって選択されて残ってきたものでございます。つまり、時代の試練に耐えてきたものでございます。
 したがって、今日、新しい伝統をつくろうということになれば、当然次の時代、世代に伝統として選択されるべきものでなければならないと思うわけでございます。
 すなわち、次世代、次の時代と価値観を共有できるものでなければならないというふうに考えるわけでございます。
 ちょっと早口になりましたが、これで私の報告を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。

○吉川座長 どうもありがとうございました。何か御質問はございますか。
 どうぞ。

○園部委員 どうもありがとうございます。園部でございます。
 御承知のとおり、福沢諭吉は帝室のことは政治社外であるということを述べていて、またそのことが原因かどうかわかりませんが、明治皇室典範は欽定皇室典範になったと。法律ではなかったわけですが、戦後、新しい皇室典範が法律になったということと、それから皇室に関する明治時代以外の、あるいはその前も含めて、歴史との関係で、法律としての皇室典範の改正について、どういう点を考慮すればよろしいのか、その点は先生いかがお考えでございましょうか。

○鈴木副学長 これは天皇の国政上の位置という問題と関係いたします。しかし、皇室典範というものは、皇位継承にわたる公事、公の事柄と同時に、しかし先ほど申しましたように、皇位継承は皇室の家督相続という側面を当然持ちます。
 したがいまして、私は、法律は国会で議論すれば済むことなのかもしれませんが、前から私は申し上げておりますように、皇族の方の意見を、つまり家督相続の側面ということを何らかの形で考慮していただくことが必要かと思います。
 御存じのとおり、戦後、皇室典範は戦前の皇室典範の家範に相当する部分は削除いたしましたけれども、皇位継承が家督相続であることは否定できないわけでございます。その点を御考慮いただければありがたいというのが私の考え方でございます。

○園部委員 どうもありがとうございました。

○吉川座長 ほかにございますか。よろしいですか。
 それでは、先生どうもありがとうございました。大変貴重なお話をありがとうございました。

(鈴木正幸神戸大学副学長退室)