写真で振り返る「明治」の記憶

松山

写真をクリックすると拡大画像をご覧いただけます。

  • 明治時代の大街道のにぎわい

    明治時代の大街道のにぎわい

    一番町から大街道の入り口あたりをとらえた写真。右手に見えるのは、芝居小屋「新栄座」(明治20年落成)である。新栄座は1957(昭和32)年に閉館するまで、松山の演劇・映画の殿堂であった。芝居がある日は屋上の櫓から太鼓が鳴り響いた。日露戦争時、松山に収容されたロシア兵捕虜の姿もみられる。

    出典元:
    坂の上の雲ミュージアム
  • 三津の朝市

    三津の朝市

    松山の海の玄関口として栄えた三津。江戸初期から魚市が立ち、松山藩の魚市場として体裁が整えられていき、三津の名物となった。ここで仕入れ、魚を売りさばく女性は「おたたさん」と呼ばれ親しまれた。1888(明治21)年には、三津のランドマークともなった丸屋根の大型魚市場が建設され、昭和30年にコンクリートに改築されるまで使用された。松山の名所・名物を詠んだ民謡「伊予節」の中でも、三津の朝市は道後温泉などと並びうたわれている。

    出典元:
    坂の上の雲ミュージアム
  • 道後温泉“神の湯”

    道後温泉“神の湯”

    「日本書紀」にも記され、日本で最も古い温泉と伝わる道後温泉。木造の温泉施設のため、熱と湿気で傷みが早く、何度も建て替えがくり返されてきた。1894(明治27)年に改築された三層楼(三階建)の神の湯の建物には、トラスやギヤマンなど洋風建築の要素が用いられた。明治28年に松山中学の英語教師として赴任した夏目漱石もこの温泉を愛した。正岡子規とともに道後界隈を吟行した際にも訪れている。漱石の小説『坊っちやん』では、「住田の温泉」として取り上げられている。
    平成6年には温泉施設として初めて国の重要文化財に指定されたが、神の湯を含む道後温泉本館は、今も現役の公衆浴場として営業を続けている。

    出典元:
    坂の上の雲ミュージアム
  • 道後温泉“養生湯”

    道後温泉“養生湯”

    右側が道後温泉の養生湯、左側が神の湯である。
    1889(明治22)年の市町村制により道後湯之町が誕生し、温泉の経営は町営となった。初代町長の伊佐庭如矢は、厳しい財政難のなかでも老朽化していた温泉の大規模改修を行い、湯治客がたくさん訪れる観光地・道後の発展に尽力した。明治25年に二層楼(二階建)の養生湯、明治27年に三層楼の神の湯を完成させた。その後、明治32年には霊の湯や皇族専用の御召湯・又新殿が完成した。これらの総体から成る道後温泉本館は、百年以上を経た現在も、松山の観光名所として市民・観光客に親しまれている。

    出典元:
    坂の上の雲ミュージアム
  • 道後駅構内

    道後駅構内

    明治後期、道後駅を発車する道後鉄道七号蒸気機関車。算盤玉に似た煙突と、そこから立ち上がる黒煙が目をひく。左側奥には稲荷大明神の幟が立ち、秋の祭礼であることがわかる。道後鉄道は明治26年に創設、明治28年に開業した。主として道後温泉浴客の便をはかり、乗客者数は多かった。明治33年、南予鉄道とともに現在も続く伊予鉄道に合併された。

    出典元:
    坂の上の雲ミュージアム
  • 道後公園で開催された自転車競争会

    道後公園で開催された自転車競争会

    道後公園にあった馬場(現在のグラウンドにあたる場所)がトラックとして整備され、競馬や人力車競争、自転車レースが盛んになり、地元の人々が楽しんでいた。1904(明治37)年、松山市に初めてロシア兵捕虜収容所が開設。翌年4月にロシア兵捕虜の自由散歩制度が始まった後も、兵卒は自由に外出できなかった。それに同情した道後湯之町の御手洗商店が自転車競争会開催を願い出て、収容所側から許可が下りた。明治38年8月5日に実施、十数回のレースが開催され、市民3,000人が見物に訪れたといわれる。

    出典元:
    坂の上の雲ミュージアム
  • 松山中学校

    松山中学校

    松山中学校は、藩校明教館洋典科に起源をもつ。1875(明治8)年に英学所が設置され、翌年変則中学校となり、同11年に松山中学校となった。全面の長屋は旧明教館養成舎の建物、左端の建物は同館の講堂。その後ろの2階建ての一棟は寄宿舎である。当時の松山中学校では、草間の母校慶應義塾にならい英文の教科書による授業がおこなわれた。日本海軍の知将として知られる秋山真之、明治を代表する文学者のひとりである正岡子規もこの学校に通った。

    出典元:
    坂の上の雲ミュージアム