追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(第3回) |
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1 日時 平成14年2月26日(火)9:30〜11:00
2 場所 総理大臣官邸大客間 3 出席者
4 議事概要
(2) 討議 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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論点整理のためのたたき台を考えたので、説明する。私が全く個人として思い付くままに考えたものであるが、基本的な問題について間違いを犯していてはいけないと思い、委員の中で特に私よりも若い3人の政治学の専門家に若干のアドバイスをいただいている。基本的に大きな問題というのは2つある。
1つは「戦没者」という用語である。憲法によれば日本は戦争をしないことになっているから、戦没者というと第二次大戦以前、過去の人たちだけになるが、やはり非常事態、いわゆる有事において、国のためあるいは世界のために命を捨てた方というのはその後もおられる。例えば、カンボジアで亡くなった警察官のような人たちも追悼したい。戦争概念というものがすっかり変わった2つの時代をどうつなぐか。 もう1つは、「追悼する対象」をどうするか。亡くなった方は誰でも納めるということでは意味が薄れる。かといってそれを狭く取っていくといろいろ議論が出る。そのジレンマをどう片付けるか。 まず「理念」が必要であるが、私が考えたのは「国は、国権の発動に際して、その行為に積極的、消極的に関与し生命を失った国民に対して、公式に追悼の意を表し、恒常的、恒久的に祈念する道義的責任を有する」というものである。 この場合の「国」というのは抽象的には国民すべてであるが、具体的には政府あるいは政府に関連する三権のことを指している。「国権の発動」という言葉自体、論点として御議論いただきたい。なぜそういう言い方をしたかというと、「戦争」という言葉を使いたくないからである。国家が自己の権力あるいは権限を発動するに際しての行為というのは一種の騒乱状態であろう。それに「積極的、消極的に関与をし生命を失った国民」という言葉で、過去の戦争において従軍あるいは志願して戦った兵士、国内にいていわば受動的に戦争を体験した一般国民の死者、この両方を含めたい。実はこれには中間の段階がある。例えば、第二次大戦のときには本土の空襲があり、消防活動その他で亡くなった国民がたくさんいるが、この消防活動は明らかに防衛活動の一端なので、非常にややこしい問題である。ちなみに、戦争中一貫して戦争に反対して監獄に入っていた人はどうなるのかというマイナーな問題点もある。 そういう国民に対して公式に追悼の意を表し、恒常的、恒久的に祈念する道義的な責任が国にある。これは国民国家というものが成立したことを念頭に置いている。具体的に言うと、国民がメンバーシップとして固定されて、日本人であれば、例えば総力戦の中で殺されても文句は言えない。心の中で反戦だから爆弾を落とさないでくださいと言っても、国民の頭上に爆弾が落ちる。メンバーシップが固定されている以上、そうした被害者に対して国が総体として哀悼の意を表する道義的責任がある。だから、封建時代に大名同士が争ってたまたまお百姓さんが死んでも、これは被害者だが、原理的に言うと彼は国民ではなく、登録されていないから、この人たちは問題外である。 この点に関して、日本の国権発動に起因して死亡した外国人をどうするかという論点がある。これは当然のことながら中国人や韓国人、台湾人も含み、アメリカ人も含む。つまり、日本と戦闘を交えた敵方の外国人をどうするか。日本の文化伝統に従うと、敵、味方ともに弔うのが我が国の美風であり、これを今回生かすかどうかが大きな論点である。 次に、「国」及び「国権発動」という言葉の始まり。これは国民のメンバーシップが確定した以後というのが私の想定であるが、御議論いただきたい。私が今漠然と想定しているのは、国籍が明確になり、正式な近代的な戸籍が整備された明治以後、明治維新がおきて近代国家が成立した以後の犠牲者である。 3番目に内戦の「賊軍」。2・26事件の兵士たち、更にさかのぼれば、西南の役の西郷軍はどうするのかということが当然問題になる。 次に「国権の発動」という言葉自体、当然御議論があろうかと思う。私は、「国権の発動」を「日常的に発動され、国民の一部に影響を及ぼすもの」と、「特定の事態に際して発動され、可能性として国民の全体に影響を及ぼすもの」とに分けた。警察、消防、税関、防疫活動においては、常に国家の権限は発揮されていて、それを犯す者については日常的に取締りが行われている。そこで、当然殉職する警官とか、あるいは税関でもあり得るだろう。しかしこれはほとんど、例えば警官であれば職務権限法とかに従って自分の判断でその場でやっている。それに対して、もう一つの国権発動というのは、特定の事態に際して発動される。「特定の事態」というあいまいな言い方も「戦争」という言葉を避けたかったからである。要するに、可能性として国民の全体に影響を及ぼすような事態のことである。一定の地域の治安のために警官が倒れた場合は、この辺がだんだん微妙になってくるが、海外から何らかの組織的な攻撃を受けて戦う場合には、たとえ現実にこれが全国化しないまでも、可能性としては全国的な影響があるという意味で、これを「特定の事態」と呼ぶ。そういう特定の事態、具体的には自衛戦争、憲法の許している自衛、将来的にあり得るのは国際PKFあるいはPKO。この中で殉職者が現にあったわけである。それから、災害出動、例えば兵庫の震災のような場合に総理大臣が命令して自衛隊が出動したようなときにどうするか。そこで「特定の事態」とは何であるかをいい言葉で限定しなければならない。それでもなおあいまいな中間形態がある。ついこの間も不審船が九州沖合に現れたが、あのときにもし海上保安庁の職員がロケット弾に当たってたくさん亡くなったというような事態にどうするか。 次に、「追悼の対象」をどうするかという問題がある。私が提案したいのは、カテゴリーの明示にとどめ、靖国神社のように個人の特定は行わないというものである。なぜなら、我が国の歴史についての考え方は多様であり、要らざる論争を起こしたくないからである。特定の個人に関しては、そこへお参りする国民が自由に心の中で思い浮かべればよい。ただカテゴリーだけは決めないと、茫漠として何をやっているのかわからなくなる。 この論点だが、先ほど言った2つに分けて、「特定事態」だけに限るというのが一つの考えである。つまり、日常的な職務活動で亡くなる警官や消防士の人たちは対象にはならず、国全体に影響の及ぶような事態で亡くなった人に限る。具体的には、人の名前を特定せず、例示として何らかの形で明示を行うのも一つの考えである。全く何もしないのもあり得る。例えば、木の柱を1本立てるという象徴的なやり方もあるだろうが、諸外国に例があるように、全く無名の兵士を1人納める。例えば、千鳥ヶ淵に現在無名の戦没者がたくさんあるので、その中から1柱だけここに納めて一つの例にするという考え方もある。 最後に「追悼の形態」という問題がある。これは比較的大事なことであり、国は道義的責任があるという立場から、追悼の場所、施設を公費で建設し、維持管理を行い、尊厳の擁護の責任を持つ。「尊厳の擁護」とは、例えばこの前へ行ってつばを吐いたり、露骨に軽侮の意を表すような人は軽犯罪法か何かで当然罰せられるということを含む。次に、国家公務員は崇敬の義務を負う。この形をどうするかは別問題だが、国家公務員は就職するときにたしか幾つかの宣誓をしているはずで、その中で戦争犠牲者を敬うという宣誓を行う。天皇をどうするかは別問題として、文章に明記することではないと思うが、8月15日の全国戦没者追悼式には両陛下が参拝しておられるから、潜在的には当然天皇が参られるであろう。一応明示的には三権の長は制度的に儀礼を行う義務を要する。これは割と大切なことであり、過去の靖国問題に関する懇談会の中で、いわゆる公式参拝を3種類に分けて、最後にこれはやってはいけないということの中に、制度として総理大臣なり何なりが参拝の義務を負うのはいけないと書いてある。そこで今度は、これは別に靖国にあえて差を付けようというわけではないが、本来の精神からいって国が道義的責任に基づいてやるということであるから、三権の長には義務が生じるということを書いておきたい。 「追悼の形態」の論点として、主管官庁をどうするのか。従来、千鳥ヶ淵は厚生労働省だが、果たしてそれでいいのか。内閣府なりへ移すべきかどうか。また、法制化するかどうか。法制化といってもほとんど法3条のようなものを考えており、国に祈念する義務があり、そのためにかくかくしかじかの施設をつくるということを、2条か3条のちょうど国旗国歌法と似たようなものにするのか、一切法制化はせず、例えば閣議決定というような形でやるのか、御議論いただきたい。 以上、議論の方向を整理しただけで、今挙げなかった論点ももちろん無数にあるから、根本から御議論いただきたい。 |
| ○ | 議論の取っ掛かりを出していただいたので、いろいろ御議論を承り、それを追加した上でもう一回論点整理を行いたい。 |
| ○ | 説明を聴いていると、要するに国家は追悼する義務を当然持つから、これは必要だという。新施設が必要であるかどうかは今回の懇談会の一つの論点であるが、私の印象では、国家が当然祀る必要があるという前提から直ちに新施設だということになって、追悼の対象とか新しい問題を幾つか挙げられた。私が前回、理念の問題は大事だから、まずそれを論じるべきだという意見に賛成したのは、基本的には国家がどういう意味で追悼するのかをやはり詰めておかなければいけないからであった。やはりこの理念を専ら議論することが大事で、従来の追悼形式である、例えば靖国神社とか、そういう問題は一切括弧にしておいて専ら新しい施設を用いるということでは、私はそもそも新施設が必要かどうか疑問に感じているので、その辺から議論をしていただいた方がいいと思っている。 |
| ○ | 説明の中には、賛成するところと、私の考えと少し違うところがある。私は、この懇談会のテーマである「追悼」と「平和祈念」がセットになっていると考えている。したがって、これが実は一つの思想をなしているし、例えば碑を立てるという場合に歴史的意義がはっきりすると考えているが、説明の中で「平和祈念」の部分がないのはどういう理由か。 |
| ○ | 特に意図して落としたわけではない。ただ、21世紀の国家が平和を祈念するのは大前提・常識であり、まず議論の余地がない。特定の施設において平和を祈念することに反対ではないが、積極的な意味は余りない。私は、世界平和を祈念するということを併せて入れるのは最終的に賛成だが、今日ここで議論すべきことではないので、論点整理の中には入れていない。ここでいろいろ議論が起こりそうなことだけを整理したと御理解いただきたい。 |
| ○ | 平和を希望する、祈念するというのは当然のことだということだが、実は非常にのっぴきならない意味がある。というのは、少なくとも日本が主体的な戦争をしないという不戦の誓いが入るのか入らないのか、のっぴきならない問題を含んでいる。確かに自衛戦争がどうか、あるいは国家の正当防衛が認められるかどうかという問題はあるが、もう少し手前の段階で、日本としてはある種の不戦の誓いをする、そういう意味での平和を祈念することが必要かどうかが、理念の問題として出てくると考えている。脇の問題ではない。 |
| ○ | 御意見として承るし、私の方から何も反論することはない。ただ、例えば巨大災害による犠牲者、あるいは巨大災害に対処して亡くなった方、その場合も平和と言えるのか。平和というのが非常に漠然としているため、特に論点整理の中に入れなかったということである。 |
| ○ | 私は平和の意味というのは大事だと思うが、「国権の発動」との言葉は、何のために国権が発動されるのかという、もう一個その前のベースの理念が必要で、例えば日本国の憲法を守るためにとか、日本の国民を守るためにとか、いろいろ国権の発動の理念というか、平和の意味、またはその理念そのものも大事だと思う。国そのものが道義的責任において公式に追悼の意を表すというのは大賛成であるが、議論の流れの整理だけは必要だと思う。 |
| ○ | 今の点に関連して「国権の発動」とは、宣戦布告の場合だけには限らないということか。 |
| ○ | もちろんそうである。 |
| ○ | すると、例えば国が召集令状を出すような宣戦布告のない事変とかは含むということか。 |
| ○ | それ以上である。徴兵制とは何の関係もない。要するに、国民を国民として登録したということが根拠である。具体的に言えば、戦争中に国内で亡くなった一般市民も祈念の対象になるし、御議論いただければよいが、可能性としては敵方の外国人も追悼するということだから、とにかく戦争の形態や国権発動の種類については一切議論したくないというのが私の気持ちである。 |
| ○ | その点は私も賛成であり、外国人を含めることにも賛成だが、第二次世界大戦以後のいろいろな災害とか、その他のものを含めるかという点は、私は含めず、過去の戦争に限るという考え方をとっている。それは、平和祈念ということの意味が、いわば不戦という誓いを含むという点からして、そこに一つの日本としての思想的なものが表れていると思う。また国の追悼の方式として靖国があるのではないかということだが、靖国は大変大事な追悼方式だが、靖国では尽くされていないのが外国人への追悼ということではないだろうかと考えている。そういう点からすると、日本はこの段階で、範囲はいろいろ議論があると思うが、言葉は悪いが、過去に日本が外国に対して仕掛けた戦争とか事変についての戦没者の追悼を含めて不戦の誓いを立てる、それが平和祈念だと私は考えている。 |
| ○ | 今伺っていて、「国権の発動」というところは非常に難しいのだろうなという感じがした。それは、国権の発動というのが歴史的に在り方が違っており、戦前に限るとすれば、戦前の政府の発動によって行われた戦争について今どう思うかということから、当然平和不戦という話に多分つながってくるだろうと思う。ただ、事前に我々が議論したときは、戦後の政府も含めて、かなりラフに国権をとらえ、そうすると今に至るまでのものもすべて入って、その結果として平和というのは当然だという話になったような気がする。だから、そういう意味で言うと、「国権の発動」というものを見た瞬間に、みんな恐らくそれぞれのイメージを抱くのであって、その論点のところに内戦の問題もいろいろな問題があり、そのイメージをある程度きちんと整理して議論をする必要があるという気がする。 |
| ○ | 従来、靖国神社に首相が春、秋の例大祭に参拝されて、通常はこれが理念の最初にある恒常的、恒久的に国家として追悼をしているという理解に立った場合、今回の新しい施設というのは、靖国とは違った新しいものを造り、要するに、首相は専らこちらに代わって参拝するという前提での新しい施設なのか。従来の靖国では何かカバーし切れないものがあるから、靖国は靖国でちゃんと参拝をするが、別の施設も必要だという議論なのか。これは分けるのは難しい。 |
| ○ |
私は、靖国はそれなりの伝統があり、国内的に考えると憲法の問題もあるが、政府は当然靖国参拝をすべきだという考えだ。ただし、日本が近代国家になり、明治維新になって300年の鎖国から覚めてみると、他国がみんな非常に強いナショナリズムの時代であり、他国を植民地にしたり、あるいは他国に戦争を仕掛けたりするのが当たり前という意識があった。幕末の志士の中にもそういう考え方は現にあったわけだから、靖国神社はそういう国家観に立った考え方なんだろうと考えている。
ところが、1945年に時代が変わった。世界の中の日本、アジアの中の日本、あるいは他国との共生という考え方が非常に強くなり、地域紛争とか宗教紛争こそあれ、おそらく先進国間の武力行使はほとんど考えられない時代になった。世界の中における日本という考え方に立ってみると、追悼すべきは日本の軍人に限られるかという問題が出てくる。 確かに日本の政府が召集令状を発布したために国民が戦争に参加して、戦死し、家族が苦しんだわけだが、他方で、悪い言葉だが、日本の方が戦争を仕掛けたがために外国人の若者も兵隊に取られて死んで、家族が苦しんでいる。そういう点から言うと、外国人も全く同じなんだと考えている。したがって、日本国内の追悼の形式としての靖国神社のほかに、やはりそういうものを考えた追悼施設が要る。それが日本の今なすべきことではないだろうかと考えており、靖国を否定するのはよくないとさえ考えている。 |
| ○ |
理念的なことをきちんと整理するのは非常に大事なことだが、理念にいく前にやはり靖国をどうするか、現実的なことを考えると、靖国よりも別に造るのかどうかをもう少し議論した方がいいのではないかという気がする。
また、不戦の誓いを立てても戦争が起きないとは限らないわけで、もう少し戦争の問題を強く考えてみた方がいいのではないか。今、日本が仕掛けた戦争という話も出たが、別に日本が仕掛けたわけではなくてその趨勢があったわけであり、一つの趨勢として戦争が起きることは今後もあり得ると思うので、それらももう少し検討した上で理念に入った方がわかりやすいと思う。 |
| ○ | 前回、私は、新たな施設を造るとすれば、それは靖国に代わる施設として考えられるものではないかと発言したが、そこをきちんと整理しないと、毎年靖国公式参拝問題は起きてくると思う。靖国神社では祀られておらずカバーしきれていない人たちがいると同時に、総理の公式参拝は憲法違反ではないかという問題が片付いていない。きちんとその議論を尽くさないと、新しい施設を造るかどうかということに移れないのではないか。 |
| ○ |
この懇談会の趣旨は、「靖国神社や千鳥が淵戦没者墓苑に対する国民の思いを尊重しつつも、内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどのようにすればよいか」という総理の談話を受けて、官房長官が「何人もわだかまりもなく戦没者等に追悼の誠を捧げ平和を祈念することのできる記念碑等国の施設の在り方」について検討してほしいということである。靖国ではなぜだめなのか。おそらくわだかまりがあるからだと思う。
毎年戦没者追悼式をやっているが、あれは8月15日に造ってすぐ取り壊してしまうので、仮にああいうものを恒久施設にした場合にどこが悪いのかを議論した方がいいと思う。 |
| ○ | 国が、単にその犠牲者が国民であったが故に命を失ったというケースを全て祀るような施設は、日本には全く存在していなかった。そういうものが必要だという議論さえなかった。そこで、ゼロからそういう道義的責任が国にあることを認めて、国が法に従って義務として国民であるが故に死んだ人を弔う。国民であるが故に死んだということが重要な問題なので、戸籍、国籍、つまり国民のメンバーシップというものを理念として持ち出した。 |
| ○ | 今の憲法ではなくて戦前から言うと、当然靖国神社がそういう機能を果たしていたのではないか。 |
| ○ | 靖国神社は、国家のために命を捧げた人を祀っているのであって、国民であるが故に死んだ人を祀ってはいない。戦災者は現に靖国には祀られてはいないから、わざわざ「積極的、消極的に関与し」とした。 |
| ○ | 今8月15日にやっている全国戦没者追悼式は、310万人の、戦地でも外地でも命を落とした一般の人も入っているが、ああいう範囲をお考えか。 |
| ○ | ただし、あれには日露戦争も日清戦争も入っていないから、それを全部包括して、しかも未来まで包括できるような理念を考えた。 |
| ○ | でも、靖国神社には対馬丸も入っているから、趣旨としては広げようと考えた時期があるのではないか。 |
| ○ | 靖国神社にお祀りする範囲をどうするかという問題と、靖国とは別に造るかというのは別の論点である。 |
| ○ | それは全然ないのだから、比較の対象がない。 |
| ○ | ないのではなく、靖国神社がある。ただ、戦後宗教法人令が出て、占領軍が靖国神社をつぶすことになりかねなかったので、緊急措置として民間の一宗教団体という位置付けになって戦後ずっときているだけであって、靖国神社を一宗教団体だと一般国民がみなしているわけではないと思う。 |
| ○ | だから私は靖国神社の性格を議論しない。ないものを議論しようがない。 |
| ○ | でも、靖国神社に代わる施設を造るというならば議論をしなければいけない。 |
| ○ | 我々にそんな資格はない。つまり、靖国神社を信仰しているわけでもなく、しかもこれは官房長官の委嘱による懇談会だから、一応国の立場で議論している。国の立場で宗教法人に容喙するのはとんでもない話だ。靖国神社はそのままあっていいので、議論しない。 |
| ○ | 現実問題として総理がお参りして問題になっているわけだから、これが本当に必要なものか必要でないものかを議論する必要があるのではないか。委員の案は、非常に複雑である。この懇談会が非常に工夫したタイトルになっているから、靖国神社はもうなしにするとか、新しいものを特別に造るのではなくて、一から考えるのだろうと思って伺ったわけだが、靖国は無関係なら、なぜ総理大臣がお参りに行ったのか。 |
| ○ | それは、お稲荷さんにお参りされるのも靖国神社にお参りされるのも同じだと。 |
| ○ | それは違う。お稲荷さんに参って外国からがんがん言われることはないだろう。 |
| ○ | 例大祭に歴代首相が参拝されていたのは、首相個人が靖国神社教という個別信仰をしていたからだと、国民一般も理解しているわけではないと思う。 |
| ○ | 通念と理論的に考えたことは別である。 |
| ○ | 国民一般の通念と無関係なことを政府がやっているというのはおかしいだろう。 |
| ○ | どちらにしても、靖国神社に今まで参った実績があるので、この問題はもう少し掘り下げないと、いきなり飛ばして新しいものを造るというところへは行けないのではないか。今までなかったといっても国民に通らないのではないか。 |
| ○ |
閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会の1985年の報告書では、「新たな施設の設置」について、「人命救助や安全保障などに尽くして亡くなった人々をも併せ追悼する公的な施設を新たに設置し、この新たな施設においては宗教・宗派の別なく全く自由な追悼の方式が認められるべきである等の意見があった。しかし、この新たな施設の設置そのものは十分考慮に値することではあるが、かかる施設が設置されたからといって、大方の国民感情や遺族の心情において、靖国神社の存在意義が置き換えられるものではないし、また、このことは、我々に課せられた要請に必ずしも直接関係する問題ではないと思われたので、具体的な検討は行わなかった」というのがその結論であり、それで、公式参拝して問題になってやめてしまった。
今度は、靖国の存在が置き換えられるものでないことはわかっているが、総理の談話は「内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどのようにすればよいか」となっている。総理は施設のことを言っていないが、官房長官は施設を検討してくれと言っている。 |
| ○ | これは新しい「施設」を考えるというタイトルなのか。 |
| ○ | 「記念碑等施設の在り方」と書いてある。 |
| ○ | 靖国との関係は前も議論されている。総理がどういう形で今後靖国に参拝されるかは別として、内外の人がわだかまりなく行けるようなところが必要かどうかというと、これは必要ではないかと思う。例えば、ブッシュ大統領が来て明治神宮しか行かないというのはおかしいという気がする。 |
| ○ | 論議の過程で、日本はここまで検討したという意味ではわかるが、一般の国民感情としてこういう議論があって今日に至っているというのも通じないだろう。新たに結論を出す場合に、もう一回国民感情としてわかるようにやらないと納得されない、受け入れられないと思う。いきなり靖国はやめて新しいものを造るというのでは、私たちも参加しにくい。 |
| ○ | 先ほどのは十数年前の結論であり、そのときと今とで状況に何か本質的な変化があるのか。わだかまりはそのときからあったわけで、状況が大きく変化して十数年前とは違った結論になるという必然性があるのか。結局、問題は余り変わらない。 |
| ○ | 公式参拝を行い、問題が起こって中止になったのだから、当時から問題はあった。 |
| ○ | 靖国に参っても追悼の誠が果たされた気がしない、どこか別の施設を造ってほしいという国民世論があれば別だが、わだかまりというのは外交上の問題が起きているだけであって、外交案件で処理すべき問題がなぜこういう根幹に関わる施設の問題にまで移るのか基本的に疑問である。 |
| ○ | まず国民感情というあいまいな論拠で議論をすべきではないと思う。国が何らかのアクションを起こす場合には純粋な論理に従うべきであって、世論調査を本格的にやって議論するのであればこの懇談会は要らない。だから純論理的に考えて、今までになく、かつ論理的に必要なものを想定して、そこから議論を始めようと考える。結論は後から出てくる。初めに靖国ありきで議論をすると泥沼になってしまう。 |
| ○ | あえて言うと、特に去年の場合には総理が15日にお参りすると大々的におっしゃって、それが13日になって、そのつながりの中でこれができた。そうすると、やはり国民感情を無視しろというわけにはいかないと思う。 |
| ○ | 反対の国民もいれば賛成の国民もいるが、国民感情とはどちらの感情のことか。 |
| ○ | 今、検討して新しく打ち出すにはいろいろな配慮が必要だと思う。いきなり国家の方針としてこれを決めたからと出せばもめるもとになると思う。造るならば造ってもいいと思っているが、納得できるようなプロセスがないと紛争の種をつくることになるので、ここはかなり慎重にやらなければいけないと思う。 |
| ○ | 今は8月15日に全国戦没者の追悼式をやっていて、6,000人ぐらいお集まりになって、遺族の方を国費で2,000名お呼びしている。これは戦災で亡くなられた人も、外地で亡くなられた民間の人も入って、概念的にはA級戦犯も入っているという。靖国神社とは違って名前は特定していないから漠然としているが、天皇陛下も見えて、三権の長が参加する。外国人は祀っていないから外国の大使等は来ない。だが、毎年やっているが、終わったら取り壊してしまう。そういうものが常設としてあった方がいいとは考えられないか。私はそういうものがあった方がいいと思う。 |
| ○ | 結構だが、そのプロセスを丁寧にやらないと。みんなが納得できるプロセスの上でやるならば私は構わないと思う。 |
| ○ |
百数十年の歴史があり、靖国で会おうよという実態があるわけだから、その靖国神社をやめるとか、それに代えるというのは大議論であって、やるべきではない。それとは別なものが要るか要らないかということが問題であって、それとは別なものが要るということが大方の国民から理解されるものであってほしいと思う。その理論づけが一番難しい。
小泉総理は靖国に参拝したいとおっしゃっているが、その背後には当時の政府の代表者によって戦争に駆り出された兵隊たちを今の政府の代表として慰霊したいという気持ちがあったのだろう。それが靖国神社しかないから、靖国神社にどうしても行きたいと考えられた。その考え方はわかる。 ところが、なぜああいう反発が起こるのか。小泉総理が他国に遠慮もせずにわだかまりもなく参拝できる場所をやはり造るべきだと考えているが、それが何かを考えるに当たっては、なぜ反発があるかということを考慮しなければいけない。 例えば日中戦争で中国の兵隊、あるいは太平洋戦争でアメリカの兵隊は徴兵されて死んだが、靖国神社では日本の戦没者だけを追悼している。自分の方はどうしてくれるんだという考え方がきっとあるに違いない。日本の過去の戦争にはそれぞれ何らかの背景があったが、被害を受けた国民から見れば、それはほとんど問題になってこない。私は、不戦の誓いをした場合でも、正当防衛とか緊急避難に当たる場合は戦争もやむを得ないと考えているが、過去の戦争がそうであったとは思えない。まして、そこで被害を受けた国民からすればそういうことは問題にならないとするならば、世界の中の日本という時代になった日本の国の代表者としては、日本の戦没者あるいは戦災を受けた人たち、そして外国の戦没者も含めて慰霊をすべき時代になったのだと考える。 日本人の宗教観は元来が敵味方なし、例えば北条時宗が元冦の後に、戦争は向こうから一方的に仕掛けたにもかかわらず、あの戦争で死んだ日本の兵隊も元の兵隊も共に弔おうということで円覚寺が建っている。それに類する例は相当あるようだ。 8月15日は象徴的な日なので、憲法の問題があるし、戦犯合祀の問題が少し残っているが、国の代表者が例大祭に靖国に行くのと8月15日に行くのとでは外国から見ると意味が違うと考えている。両方を弔うという考えに戻って、8月15日には靖国ではなくてそこに参拝をしていただければ、小泉総理としても自分のお気持ちは済むだろう。 これを国民に提示したときに、もちろん特に遺族会の方々からは靖国の趣旨が薄れるから適当でないと言われるかもしれないが、一般国民としてはその考え方は理解できるのではないだろうかと希望し、また願っている。それを前提にするならば、そういう考え方による施設は靖国神社とは別にあった方がいいと考えている。 |
| ○ | それはどこまでさかのぼるのか。 |
| ○ |
カテゴリーだけ示して余り特定しないという考え方を取ろうと思うので、例えば太平洋戦争は入るけれどもノモンハンは入らないなどは言わず、悪い言葉であるけれども、何らかの理由があるにせよ日本が仕掛けた戦争とか事変というものによって命を失った日本及び外国の人々というふうに限定をしたい。それが日本の平和への意思を表すことになる。
我々が今享受している平和は、戦争で亡くなった方々の犠牲の上に成り立っているという側面はあると思うので、その人々を追悼も慰霊もしないで平和を享受していることに後ろめたさがあってならない。そういうことと、日本の平和の誓い、不戦の誓いとを併せて明らかにするためには、戦没者慰霊というものがセットになると考えている。 |
| ○ |
このたたき台は最初の段階としてはややでき過ぎである。つまり、「理念」のところから最後の「形態」のところまで見えてしまって、どうもスケジュール的にとんとんといくんじゃないかという感じが出すぎている。しかも、これまであったものをいわば前提にしながらもそれには触れないという形ですっと議論がきているのでちょっと待ってくれよという話に今なっているんだろうという気がする。
しかし、話を進めていく上では、靖国は何かということを一からここで議論することになると、議論は止まってしまう。だから、私もまずはこの理念が一番大事だと思うので、理念のところで少しずつ靖国の問題も「戦争」の問題もどうするかというのを一々やっていけば、それは比較せざるを得ない面が出てくると思う。そういう形で理念についてまず少し議論に入った方がいいのではないか。 |
| ○ | 私の感情として、どうもぱっとついていけないところがある。靖国に代わるものを造った方がいいかどうかを議論してから、「理念」に入った方がいいのではないか。 |
| ○ | 靖国に代わるものを造った方がいいかどうかということから入って、今議論をしているわけだが、ない方がいいというお考えか。 |
| ○ | 正直なところ白紙である。 |
| ○ | 靖国に盛り込むこともできると思うが、だめだろうか。 |
| ○ | 宗教法人で全然別なので難しいのではないか。 |
| ○ | 宗教法人であることが別の意味でかかわってくる。国民の認識の上では単なる宗教団体ではなく、公的施設だという認識はあると思うが、法制上は民間だから政府がどうこう言えない。これに関しては難しい問題がある。 |
| ○ | 靖国に祀る選定基準は靖国神社が権限を持っているので、国家が介入することはできない。PKOで亡くなった方や警察や消防の方々について、国家の方から靖国にこの人たちも追悼の対象としてほしいとは言えない。それを考えると、やはり理念から話をしていって、折々に靖国はどうなのかということが出てくるのではないかと思う。 |
| ○ | 靖国神社は、実際上厚生省の何かの規定によって自動的にやっているので、自衛隊員で訓練中に死んでいるのは入っているのではないか。 |
| ○ | それは通例であって規則とは違う。 |
| ○ | 8月15日という象徴的な日に行けるようなものがあった方がいいということには大体皆さん賛成なのか。靖国ではそうはいかないと。例大祭に行くのは全然問題ないが、今までの総理も例大祭などには随分行っておられる。 |
| ○ | 8月15日に総理が行くべきかどうかというのは、新しい例。従来は例大祭に行っていたのを15日に行ってみせたのは三木首相からで、しかも私的参拝だと余計な注釈を付けて、あれから問題が起こっている。だから、8月15日に戦没者の追悼式を行うことは全然差し支えないが、それを恒久化するのはどこまで意味があるか、私には疑問である。 |
| ○ | うちのはこうだと、これで気に入らないならばどうぞ、みたいなことを靖国神社の方から言ってもらえると一番いい。何かすっきり通る理屈がないと、私はやはりこだわる。国民感情ではなく、私の感情として。今までのいきさつもあるし、総理が8月15日に行くと言ったのを周りからあの日はいけないというような去年のこと一つを考えてみても、それでは今年これを造りますというのは何かすっきりしない。 |
| ○ | まさに場当たり対応という気がする。 |
| ○ | しかし、他国の例を見ても第一次大戦を一つのくくりにしている。今回の場合、もちろん最初の動機づけは去年の問題にあったにしても、ちょうど占領から独立して50年で21世紀に入ったところで、日本が近代の歴史全体を振り返って追悼を考えて議論をするというのは新しい試みであり、十分意味があると同時に、結構冒険的なやり方だと思う。その辺は何か靖国も包摂する形で議論ができるのではないかという期待を私は持っている。靖国の問題も、恐らく近代の初めからという話の中に全部入ってくるだろう。 |
| ○ | 包摂というのは無理ではないか。 |
| ○ | とにかくその折々で議論すればよいということである。 |
| ○ |
15日の戦没者追悼式に国際的視野も入れるとか、新しい理念で挙行するということはひとつ考えられると思う。
ただ、8月15日のあの儀礼の理念をいろいろ考えようという話はよく理解できるが、恒久施設となると靖国との関係はどうかという問題が起きる。 |
| ○ | 靖国の方にも言い分があると思うので、それが出てくると一番すんなりいく。うちはうちで宗教法人として祀っているから、そちらはどうぞ御勝手に、というような見解が出るといいのだが。 |
| ○ | もともとこの懇談会ができた時の流れとして、私は一経済人として、一国民として単純に考えたときに、国の総理の政策として道義的な責任において新たに公式に追悼の意を表す、21世紀のこれからの日本の全く今までなかったゼロからの新しい政策としてスタートしたという発想である。私はそのような全くゼロの新しい政策として考えるというところから議論すべきで、あとの靖国のような問題は補足としてついてくると考えている。 |
| ○ |
私もそういう考え方をとるべきだと思う。世界情勢として、1945年のあの第二次世界大戦が終わったときに、他国を植民地にしたり、他国に戦争を仕掛けるようなことはもうできなくなっていた。しかし、それがはっきりするのに50年かかった。その一つの大きな指標がヨーロッパ統合であり、少なくとも先進国はそういう方向にどんどん向かう。それは経済がこれだけ発達し、情報が飛び交うとどうしてもそうなるんだという歴史の変化を表している。したがって、世紀の転換点で日本もそういう立場を明らかにしようじゃないか。それが近隣諸国に迷惑をかけたことに対する償いという意味にもなり、また、近隣諸国とわだかまりなくやっていく政策にもなるという考え方である。中国や韓国から靖国神社参拝を批判されるからやめるという考え方は私はとりたくない。
靖国神社はやはり「靖国」という名前、明治以来のナショナリズムの一つの考え方があるし、神道という独特な考え方があるので、そういった新しい考え方を盛るのは相当難しいのではないか。新しい考え方を靖国の中だけで実現しようというのは、これは単に宗教法人だからというだけでなくて本質的な問題があるので、やはり別個な施設が要ると考える。 しかし、靖国を否定してはいけない。日本のナショナリズムがなくなるわけではなく、日本という国はあるわけだから、日本国内だけの問題として考えると、靖国は存続すべきである。何らかの形で、8月15日でなく総理ができたら公式参拝でなく私的に参拝されるとありがたいと思うが、例大祭のようなものには行くのが現実的ではないかとさえ思っている。 |
| ○ |
今のお話はよくわかる。19世紀のナショナリズムが現在相対化されているのは事実で、EUの問題とか、ナショナリズムだけでこの国際社会を乗り切る時代ではないことは明らかだが、一般に先進国を含めて戦没者の追悼施設、記念碑について、従来のいわゆる敬意を表する形態自体をこの国際化の時代であるから見直そうという動きが各国で出ていれば、それは遂に国際化もここに及んだかということだが、そういうことはないと思う。特に近隣諸国もそうで、韓国、中国でナショナリズムを超えた国際的な観点から戦没者を慰霊するような動きがあるわけではない。
確かに一般論としてはナショナリズムの時代からインターナショナリズムの時代などというのはよくわかるが、戦没者追悼の形態というのは個々の国家の固有のものが多い。そういうときに、戦没者の追悼形式あるいは施設に関して現に新しい趨勢が起きているのかを考えなければならない。日本だけが仮にそういう新しいものを出すということの理由は何か。その場合は、まさに理念の問題を考えなければならない。だから、私は国際化の一般論とこの追悼施設の在り方がというのは必ずしもダイレクトではないと思う。 |
| ○ | 新しい形がないというわけではなくて、ドイツなどは少し違うのではないか。 |
| ○ | ドイツは特別なものがあると思う。 |
| ○ | 先程説明した「理念」そのものは明らかにナショナリズムに基づいている。ただし、そのナショナリズムというのは民族主義という意味ではなくてむしろステーティズム。つまり、ステートというものができた、それだけを唯一の根拠にして、それ以外に文化的な、あるいは神話的な背景を一切加えないで、なおかつ国として追悼する根拠があるとしたら何だというつもりで考えたので、これは決して21世紀とか22世紀の理念ではなくて現状の世界的なということである。 |
| ○ | 国が国民に対して道義的責任を有する・・・ |
| ○ | 国民に対してではなく、命を失った国民に対してである。この「国」というのは国民。 |
| ○ | 「国」というのは日本国で、命を失った国民は必ずしも日本国民ではないのか。 |
| ○ | 外国人も含めるかどうかというのは論点。それで、たたき台の理念としては、一応自国民ということがスタートである。 |
| ○ | これは統治機構プラス国民ということだろう。 |
| ○ | 統治機構によって組織された国民ということである。 |
| ○ | たたき台の「理念」に関してそれぞれ皆さんから修正文を提出していただいてはどうか。 |
| ○ | この「理念」以前の問題として、もし靖国に代わるものをつくるということが前提ならば、なぜ今これをつくるかというのを議論すべきではないか。 |
| ○ | 靖国に代わるということが是非必要だと思われたらそれも書いていただければよい。 |
| ○ | でも、それは代わるものが必要と思わなかったらどうするのか。 |
| ○ | 私の主張としては、代わるものという話はこの中にない。だから、代わるものが必要だという方はそれを書いていただければよい。 |
| ○ | その修正文と同時に、コメントとして付ければよいのではないか。 |
| ○ | 5行くらいで、たたき台の「理念」を修正していただきたい。 |
| ○ | それをベースにして、「理念」のところをもう少し徹底的に詰める。そうすれば、その次のいろいろな形だとかが自ずとはっきりしてくるのではないか。 |
| ○ | この懇談会の課題は幾つかあったが、私などは必要か必要でないかがまず大事だと思っている。 |
| ○ | その場合は、施設が必要であるかないかであって、追悼することが必要であるかないかではないということか。 |
| ○ | そうではない。追悼するのは当然である。 |
| ○ | 官房長官からは初めから白紙でやってほしいという話だった。 |
| ○ | 当たり前のことだが、これは懇談会であって、ここで出てくる結論が一つである必要はない。少数意見が付記されていいし、仮に主な意見が出てもそれを政府が採用するかしないかは全く自由なわけだから、問題は我々が政府を支持しているとすれば、政府が考えられる上で武器になるような論理をセットとして提出すればよいのだと私は考えている。 |