○ 私から論点を整理させていただいた上で御討議いただきたいと思う。
「国は、特定の国権の発動に伴って死没した一定の者に対して追悼を行う必要がある」という点、もう一つは、「国は、追悼と一対のものとして、平和を祈念する必要がある」という点については、大体御意見は一致したのではなかろうかと思っている。「国権の発動」については「公権力の行使」との言葉もある。
まず、追悼の対象として戦前と戦後を区別するかしないかという議論があったが、一応区切って考えた方がわかりやすい。
戦前の問題として、まず、明治維新以降か、あるいは支那事変以降かというような期間の問題がある。それから、対象として、軍人軍属に限るか、一般戦災者を含むか、外国人を含むか、戦争犯罪人を含むか、それからいわゆる賊軍を含むかという問題。
戦後も追悼の対象とするかしないかという議論があり、含める場合には、自衛隊の防衛活動をどうするか、その場合、自衛隊員に限るのか、一般戦没者、つまり戦前のいわゆる一般戦災死没者も含むのか。次に、国際平和活動はどうするか。その場合、国権の発動など国と死没者との間に一定の関係を必要とするのか、もっと社会貢献やボランティアまで含むのか含まないのか。また、国の国際協力活動の中で犠牲者となられた方をどうするのか。次に、これはあまり議論されていないが、多分国際的な紛争ということで国内は入らないという方の方が多かったかもしれないが、国内の治安維持活動、災害救助活動等によって命を落とされた方、あるいはこれらの民間協力者の方をどうするか。これを除くと不審船の問題等をどう位置付けるのかという議論が今までも出てきている。
それから、追悼と平和祈念を行う具体的な在り方として、新しい国の施設をつくる必要性があるのかないのか。ないという意見もあるかと思うので、この辺を議論する必要があると思う。また8月15日の全国戦没者追悼式との関係も整理する必要があると思う。
このほかに隠れている問題として、靖国神社の問題が当然あると思うが、これは議論の中でいろいろ意見を出していただければと思う。
では、まず、「国が特定の国権の発動に伴って死没した一定の方に追悼を行う必要がある」という点、及び「追悼と一対のものとして平和祈念する必要がある」という点については、概ね意見が一致したということでよろしいか。
(特段の異議なし)
では、対象の議論に入ることとする。大体近代国家成立以降という御意見の方が多いが、これは抽象的に近代国家成立ということで細かい議論を一切しないということでよいか。そこのところは靖国神社の例等から見ても難しいが、要するに吉田松陰までさかのぼるのかどうかという問題もあるし、蛤御門で賊軍だったのが官軍になって祀られるというような問題もある。この辺の近代国家という概念はあまり特定しないで……。
○ 追悼と平和祈念を行う具体的な在り方として、新しい国の制度をつくることの必要性は別に議論するということだが、すると追悼の対象の議論はどういう位置付けになるのか。私としては、追悼の対象を改めてこういう形で議論することになれば、これは新しい国の施設をつくることが必要だということが確定されてからではないかと思う。追悼の対象を独自に議論するという意味ならば議論してもよいが、それはどういう位置付けになるのか。
○ 今のお話は、靖国神社があるからもういいではないかということか。
○ 国として追悼の必要があるという点はよいが、だから直ちに新しい施設が必要だという議論には進まないだろう。しかも、これはもともと小泉総理大臣の談話から始まっている訳だが、4月21日の靖国神社参拝後の首相の所感を見ると、要するに「国のために尊い犠牲となった方々に対する追悼の対象として、長きにわたって多くの国民の間で中心的な施設となっている靖国神社に参拝して」という発言がある。そうすると、首相御自身の頭の中では靖国神社がやはり追悼の施設だと。そして、国民の間で中心的な施設となっているから、私はこれは公的なものだと思う。もちろん御意見の中には政府が管理しているのが公的で、民間がやっているのは私的だという区別もあるが、私は最近のNGOなどを見ていて、民間団体だからといっても完全に私的な存在だと思わない。靖国神社は法制上は私的存在だが、現に国民の中で中心的な施設になっているというのは首相のおっしゃるとおりであって、公的施設が既にあるという認識に立たなければだめだと思う。
ただ、首相の認識がこうだとすると、我々の懇談会は何をどのように議論すればいいのか。これでは不十分だからつくれという話なのか、その辺がよくわからない。だから、首相自身に来ていただいて、真意は一体どこにあるのか伺った方がいいような気もしている。
○ これは総理のお気持ちを推察するしかないわけだが、私は今の委員の発言との関連で、靖国神社がこれまで全く国家的な施設ではないが、かなり公の性格を持っていたという事実はあると考えている。それで今のところそれしかなかったからそこにお参りするしかないというお気持ちがあっただろう。
私は近隣諸国へ配慮して今度の施設をつくるという考え方はとりたくないが、そもそもこの懇談会が設立された趣旨の中に、わだかまりなくという言葉があり、これはその辺を配慮しなければいけないようなことはあまりよくないとのお気持ちが総理にあったであろう。つまり、断固それだけでいくというのなら懇談会をつくる必要はないわけで、わだかまりなくという言葉を使われるということは、小泉総理の信念としては今のところそれしかないからそこに行くが、本当は困るんだよと。もう少し近隣に遠慮せずにお参りできるものがあったらそれが望ましいが、それがあるかないかをよく考えてくださいという趣旨だろうと推察しており、矛盾はないと考えている。
○ このわだかまりという意味は福田官房長官の方から最初の会合で内向きだという御発言があり、では一般国民の中に靖国神社に参ったのでは追悼の念が捧げられないというわだかまりがあるかといえば、そうではないと私は何度も申し上げている。これについて私は何度も皆さんにお伺いしているが、それに対して明快な御返事をいただいていない。外国がいろいろ何か言ってきて国民がうっとうしいなというのはあると思うが、追悼施設として不十分で、何かあれだなということなのか。現に昨年の夏でも、新聞によると約8割の国民が総理大臣に参拝してほしいといっている。そういうことを見て、内向きということで限定したときに一体わだかまりがあるという意味は何なのか。それは外交問題ではないかと私は理解している。
もう一点。小泉首相が首相の立場からわだかまりがあるというのはそうかもしれない。しかし、それは国の政府のトップあるいは政府の方々がその立場上わだかまりを感じているので、一般国民が参るというよりは外交問題を配慮して政府の方々が忌憚なく参られるような施設をつくるということならば、私はそれ自体にも反対だが、それはそれとして一つの立場であり、一つの御意見かなという気はする。だから、国民の間ということと政府の間というのは一体どういうふうに考えるか。これは度々問題になっているが、国というのは政府を言っているのか、国民とは違う国なのか、その辺の議論に関わってくると思う。
○ 国民と国家とを分けるわけではない。ただ、ネイションとステートとは違うわけで、靖国神社はネイション、あるいは、その大多数に支えられているかもしれないが、ステートは支えることはできないし、支えていない。これは明快であろう。わだかまりについて言えば、率直に言って、かなりの国民が靖国神社そのものの存在にわだかまりを感じている。いわゆる左翼系の人とか、一部の新聞のリーダーたちだけではなくて、私も私の友人もはっきりと公的な場所でわだかまりを表明していることを念のために申し上げる。
○ それはどういうわだかまりか。
○ これは靖国神社の批判になるのであまり言わないが、まず、これが藩閥政府がつくった極めて党派的な宗教であって、しかも神道の伝統から見ても疑わしいのに、神道を名乗っている等々。だから必ずしも左が反対していて右が賛成しているというような議論ではなくて、わだかまりを持つ人は相当数いる。
○ 実際に左とか右とかの議論では必ずしもない。しかし、その国民の8割に聞けば首相に参ってほしいと答えているときは、やはりこれは公的な施設であろう。8割がことごとく右、左を意識してそういうことを言っているとは思えない。
○ 8割というのはどういう数字か。
○ 去年、毎日新聞か何かでは4月の段階で小泉首相に靖国参拝してほしいというのが確か80%ぐらい。資料を今日持ってきていないが、去年の新聞ではそうだった。
ところが、だんだん大騒ぎになってくるからうっとうしいなと思って、参っていただきたいが慎重にやってほしいという意見が出てきたのだが、それを朝日新聞が慎重論42、賛成論40という分け方をしたが、よく読んで見ると慎重論というのはやめてくれというのではなくて慎重に参ってくれという意見である。
○ もちろん民間の団体がパブリックな役割を果たすということは当然あるわけで、靖国神社にもパブリックな側面があるというのは私もそのとおりだろうと思う。
それから、この議論は一義的に日本国民のことを考えてということだが、私が1回目の会合で申し上げたように純粋に国内問題というのは今や世の中にない。パブリックを考える場合には、パブリックを促進する側面とパブリックを阻害する面があるが、それがさまざまな歴史的経緯によってパブリックな面を阻害する面がどんどん出てくるということは事実としてあると思う。だから、靖国神社にお参りするということに対して8割の国民が総理大臣が行っていただくのは結構だと言うが、質問を変えてみれば、やはり諸外国のことも気にしなければいけないと答えるわけである。そもそもこの機関の公共性に関して何がしか国民が疑念を抱いていることにほかならない。その点から言えば、やはりできる限り国民にとってその公共性についてあまり疑念を抱かないような組織が別につくれるのであれば、そちらの方がネットバリューが高いと思う。
○ 国民の大多数というのは、確かに去年の新聞の調査によると8割ということだったのかもしれないが、非常にあいまいであって、どういう人たちを対象に調査をするか、どういう状況のときに調査をするかでかなり数字は変わってくると思う。
現時点で確かに法律上靖国神社が一宗教法人と定められているのは事実であって、それを拡大解釈して実は感情的にはこうだということで論じると、それこそ千差万別な意見や感情があると思う。事実はどうなのかを基にして話を進めていかないと、一人ひとりの実感というのは非常にあいまいで、議論の基本にはなり得ないのではないかという気がする。
○ 今の御意見は、国としての公の施設がないというところから始めようということか。
○ 靖国神社に総理が参拝してほしいという人が多いから、大多数が靖国こそがその施設だと思っているということは、その時点で調査のときには確かにそうだったかもしれないが、ではどういう根拠で参拝してほしいのか、例えば、どちらでもいいけれどもいいんじゃないのという人もいるだろうし、あまり深く考えていない人もいる。犠牲になった人に追悼の気持ちを捧げるのは当然だということだけで、靖国神社の抱えているいろいろな見方、問題点などを全く度外視したところで、手を合わせるのは当然じゃないかというぐらいの気持ちで賛成と答えている方もいるだろうし、その賛成の中身が非常に多様だと思う。
○ 確かに多様である。ただ、例えば比較の問題で言えば、私はそれ自体好ましいと思わないが、千鳥ヶ淵墓苑というものがあり、これに参っている人はほとんどいない。それに対して靖国神社は年中賑わっている。その程度のレベルのことである。一人ひとり聞いていけば、身内に戦没者がいる人もいればそうでない人もいるし、多々あるが、総体として見てアンケートで参ってほしいかと聞けば8割参ってほしいと言っているというような、そのレベルのことを言っているので、それ以上に更に詮索をしてどの程度に靖国神社のことを一般人が思っているかということを聞き出すのは意味がないのではないか。
それで、私は、現に靖国神社が本当に国民の間で参る人もいないし、靖国神社の関係者自身は何か頑張っているけれども国民はほとんど問題にしていないという話になれば、まずこれが本当に公的施設かということが問題になってくるが、現状のみたま祭とかその他の例大祭などの賑わいを見ていて、私もたまに行ったときに若い茶髪のお兄さんにどういう神社か知っているかと聞くと、戦没者を祀っているということは知っているわけである。そのレベルの定着はあるので、これを更に個人個人でどの程度に靖国神社を大事に思っているかということを聞き出してもそんなに意味がないという気がする。
○ だから、最初から私は靖国神社問題に関する、社会心理的な根拠を議論の出発点にすべきでないという立場をとってたたき台をつくったわけである。世論調査がいかに流動的であるかと言えば、自由民主党は30%の支持がないのに国会で多数を占めているわけである。あるいは、総理が去年参拝されたときの国民の支持率は80%あった。だから、国民が支持しているからとか、支持していないからという議論の進め方をすると堂々巡りになってどうしようもないだろう。これは国の委嘱を受けた懇談会だから、国という公的な立場に立って論理的に議論できるところで話を詰めたい。
そうなると、形式論理上は国が公的に戦没者を追悼する場所はないので、必要性についてはもちろん改めて議論になるが、それだけは出発点にしないとどうしようもない。
○ 国が管理している施設はないということである。
○ 管理だけでなく、国が設置している施設はない。
○ 国が管理、設置する施設ができた場合には、そこに行く人と今までどおり靖国神社に行く人と二手に分かれて行けばいいということか。
○ それは両方行ってもいい。総理の靖国神社参拝について朝日新聞から意見を求められたが、対象は私的機関であるから何ら問題はないと述べた。
○ 靖国神社を意識しなくていいならば、何もないから一つつくろうということだけに限られていると気は楽だ。
○ 靖国神社に何かしらの公的法人的な準政府管理資格のようなものを与えて、その在り方をここで議論するということも論理的には出てこないか。
○ それは現実的に不可能ではないか。
○ そうだが、理念的に論理的に考えていくならば、そういう選択肢も当然出てくると思われる。
○ それはあり得る。
○ 祀る対象などを考えたときに、まさにそこに私的団体と公的機関とのギャップが出てくるので、靖国神社が公的資格を得れば、国民一般も今の靖国に祀られている祭神の範囲が狭いからもう少し広げようというような議論がしやすくなるということはある。
○ だが、公的資格を得るためにはまず宗教性を排除しなければならず、それは不可能だ。
○ それはあくまでも宗教性である。靖国神社に参ることは特定の宗教行為ではない。
○ しかし、宗教でないと言ったら靖国神社の神官は怒るのではないか。
○ 公的法人化したときには、そこは問題になると思う。
○ そういう議論は論理的にはどちらでもいい。
○ ただ、ホワイトホールやアーリントン墓地の施設はキリスト教儀礼かというと、そうだと答える人もいるだろうし、政教分離だからそうではないという人もいるだろう。ここはそういう微妙な問題である。要するに、各追悼の様式には当然その国の伝統的要素が入ってくるので、その伝統の中で、例えばたまたまこの国はキリスト教だからどう見てもキリスト教だということになるのだろう。
○ それを分けようというのも近代国家の原理であろう。フランスなどはそれで小学校までやっている。なぜイスラムの女の子はベールを付けてきてはいけないのかというと、それはイスラムを批判しているのではなくて無宗教を原則にしているからである。
○ どこまでを社会心理的な要素というかはともかく、それを一切排除せよというのも現実的ではないような気がする。靖国神社には相当の政治性が付いていて、日本国のさまざまな活動に対して公共性の面で一定の積極的な側面を持つと同時に、相当程度の制約要因にもなっていることは事実だろう。宗教法人というカテゴリーをある種の団体に与えることは、優遇措置をしているわけだから、そもそもある種の公共性を認めている。
ただ、だからと言ってその宗教法人がすべての公共性を独占できるわけではなく、その公共性というのは国家全体の観点に立ったときの公共性であって、政治的な問題になる以前においては靖国神社の公共性はそれなりにあったかもしれない。しかしながら政治的問題となり、その度に日本の国際的活動が損なわれる。
今度の総理の靖国参拝に対する朝日新聞の質問に対しては、宗教的行為として何も言うことはないが、日本国の総理大臣が今回活動したことによって日本国の総理大臣はどういうことをする人かという世界的なメディア、あるいは世界の国民から見られるときのことを考えると、これは相当問題が多いと言わざるを得ない。8月15日に行くと言い、それを8月13日に変え、そして今度は行くか行かないかは黙っていて、中国に行っては蘆溝橋に行き、様々なところに行っては戦争については反省したと言い、4月に中国の会議に行って朱鎔基さんと仲よくなり、帰ってきた途端に靖国神社に行くというのは、政治的行為として見ると、国際的なインテグリティに与える影響は相当大きいと思う。
そういう国際的なインテグリティに影響を与える存在は、かつていかにパブリックな要素があったとしても、今やそのパブリックな価値は相当低くなっていると個人的には言わざるを得ない。したがって、新しい今の日本国民の公共性を代表する施設が必要だと思う。
○ 国際情勢というのは、非常に転変するものであり、その時々の国々が日本の様々な国内の慣行や政府要人の行動に対していろいろと言うが、今の話だと、その都度、それに比例するかのごとく国内の仕組みを変えるということになりかねないのではないか。
○ その問題は根本的に日本が戦争に負けたということがある。負けたのは事実であり、それ以外に理由は何もない。
○ 負けたからといってもそういうことにはならないだろう。
○ 負けたから我々は平和条約を結んだ。負けたから東京裁判があった。それは仕方がない。
本当に心配しているのは中国や韓国ではなく、アメリカである。我が国の国益につながらないような問題でよその国を怒らせるということ自体、外交として下手である。利益を得て怒らせるならばまだ意味がある。
○ 国際的な日本に対する評価はもちろんたびたび変わるが、この問題で日本に対して批判的なのは何も韓国と中国だけではない。欧米系の論調でこの問題に関して日本に同情的な論調はほとんどなく、なぜこういうことをするのかという論調ばかりである。少なくとも1985年以後一貫してそうであると認識しており、その状況はそれほど有為転変していない。そして、これについて新たなシンボルを得ないとすれば、延々とこの問題は続き、ある段階で欧米の対日世論につながる。そうなると欧米の人たちがそう思うに至った経緯がいかに間違ったものであったとしても、日本の国家として見ると不利益にしかならない。
○ 1985年以降というのは何か分析を得ているのか。
○ それは、中曽根総理の靖国参拝でこの問題がシンボライズして以来のことである。私の分析なので間違っているかもしれないが、中曽根総理が公式参拝すると言って参拝し、中国がA級戦犯が合祀されているではないかと非難し大騒ぎになった結果、中曽根総理は参拝をやめたが、やめたということのシンボル効果は非常に大きい。そして、秋と春の例大祭にも行かなくなり、その後、日本の総理はすべて行かなくなった。その結果、この靖国参拝という行為の意味は国際的メディアにおいて固定化された。したがってそれを前提に考えざるを得ないと思う。
○ 最後のところは確かに大事な話だが、この問題は1945年からの国際情勢がダイレクトにきているのではない。要するに、三木総理が公的だ、私的だと言い出し、それ以来日本のメディアが公的だ、私的だと言い出し、その流れがあり、中曽根総理が靖国に参ってもよいという結論を出しながら行かなくなったのであり、結局この問題は日本発の問題である。
○ 半ばそうだと思うが、そういったことの背景にやはり靖国神社が持っている固有の問題もある。それは外国との関係を排除しても、なおかつ日本人の間に論理的に疑念を抱かしめるに十分なものである。抱かない人はもちろんたくさんいるだろうが、抱く人がいることは事実で、それは当然わだかまりがあることの一つにはなっている。したがって、対外的なものと対内的なもの、両面がある。
○ 靖国神社があるから新しい施設は要らないと言うと議論が進まなくなるので、やはり新しい公的な施設をつくるという前提で話を進めさせてもらえないか。
○ 新しい施設ができたからといって、靖国神社に対する国民的支持がなくなり、靖国神社が何らかの損害を受けるということはあり得ない。我々に与えられている課題というのは、国が公的に戦没者を追悼する施設をつくるかつくらないかという話で、つくることによって一部といえども国民が被害を受けることはない。
○ 新しい施設をつくることについては、明確に反対する。他の方のご意見を伺いたい。
○ 靖国神社は今までどおりとして、一方で様々な議論も起きるから、この際もう一つ国家的なものをビジネスライクにつくり、ビジネスライクに拝むというのであれば、非常に整理される。
ただ、その場合、サンフランシスコ条約は未来永劫にこれを受けていかなければならないのか。半世紀も経っているのだから、この問題はこの問題で、A級戦犯は永久に日本としては犯罪者として認めないというような言い方をし、歴史の線を一遍引いてから新たな施設をつくるならばいいが、A級戦犯がいるところに参拝してはいけないと言われて何となくつくるというのは釈然としない。
○ 永久にとは誰も言わない。我々は当面の政治的課題に取り組んでいるので、現状として、それがまだ問題だということは、価値の問題ではなくて客観的事実である。
○ サンフランシスコ条約はもう五十何年も前の条約だから時効だというのは、そういうようなものがあればいいなという感じもするが、やはり依然としてこれは政治的なドキュメントであり、アメリカの中でのクラスアクション等で、日本に対して賠償請求をすべて放棄したというサンフランシスコ条約の規定に対して異を唱える勢力はアメリカの中に相当いる。したがってここでそういうものを全部忘れようと言うと、向こう側も、ではすっきりと忘れてもう一度賠償の話をやろうという話に多分なる。
○ その部分は重大な国際問題であるから、声明というものではなく、条約の一部の破棄となので、大変な問題となる。
○ A級戦犯については、刑が執行された人を靖国神社の方で普通の戦没者のように祀ったということであるのだから、東京裁判の判決を否定したことは意味しないのであり、そこはそのように理解すればいいと思う。
○ その理解はいいが、世界に向かって宣言するなどの儀式をやらないと、寄り切られてつくるという気がして釈然とせず、今後尾を引いて日本にとって国家にとってマイナスの結果になると思う。
○ その問題は問題点として残ると思うが、その前に、今日の意見交換の中では、靖国神社の社会的な意義とか役割を否定せずに、別の追悼・平和祈念施設を国が設置することができるのではないだろうか、そういうものを考えるためにはどうしても追悼の対象とかその他のことを検討しなければいけない。それを検討するということは、必要性を先取りすることではなく、議論として当然やるべき筋だと思う。戦犯が入れられるのか、入れられないのかはそこで議論をすると考えた方がいいのではないか。
○ 一応追悼の対象の方に議論を移させていただけないか。
○ やはり靖国神社と本質的なところで違う。しかし、靖国の意義を損なわないものはあり得る。本質的に異なるところは、単に中国や韓国への配慮というだけではなく、日本国民の新たな立場からの決意表明という積極的意義を持ったものを考えればいい。
○ 小泉首相の内心の話だが、小泉首相の意向は本当にそうなのか。靖国神社は認めるが、これでは不十分だから新施設をつくるのが適切かどうかを懇談してくれ、という趣旨なのか。
○ この懇談会は、小泉総理にではなく、官房長官に頼まれてやっている仕事である。去年の8月13日の談話にわだかまりなくということがあったから、それをベースに官房長官が懇談会をつくったということであり、総理から直接ではない。
○ どちらにしても、靖国神社と施設と2本立てというイメージでいけるのか。
○ 2本立てだと解釈している。
○ 公的なものが一つで、それ以外の宗教法人のいろいろなものは無数にあってもいい。靖国神社をつぶせとか、A級戦犯の合祀をやめろと言っているわけでもない。靖国神社がA級戦犯を合祀したのは靖国神社の宗教法人としての見識であり、それに対して国家がけしからぬという立場ではない。
○ それは当然だが、今までの靖国の地位というか、維持というか、それを損なわないようにもう一つの施設をつくることが実現可能ならばいいと思う。
○ 私はできると思う。例えば、靖国で会おうと言って死んだ人がたくさんいて、その遺族にとっては、旦那や親父の霊は施設ではなく靖国にいるということで、施設ができても靖国に参られる。それは当然のこと。ところが逆に言うと、例えば、かつて朝鮮人で徴兵されて死んだ人の場合、靖国には今までは行っていないが、そういう施設ができたら行きたいという人がいるかもしれない。そういうことで、靖国の意義は損なわれることはない。
○ 私もそう思っている。靖国神社を軽んずるような気持ちは毛頭ない。
○ それを何らかの表現でできるか。
○ 新しい施設に靖国神社の人が入るか入らないかという議論があるが、今度は名前を書く問題ではない。靖国神社は全部名前を書いてある。だから、そういう意味では全く違うので、こちらに靖国の方が概念として入っても、靖国神社の価値は全然変わらない。
○ その辺がよければいい。
○ 新施設は依然として必要ないと思っている。国の三権の長が行くというのは、国家・国民を代表して行くということであり、国民の多くに靖国神社は施設だということがあって、小泉総理が行くのは、別に小泉総理個人で行くとは誰も思っていない。総理大臣小泉純一郎として参拝したとおっしゃっているし、総理大臣というのは公的な職務であり、当然国民の意向を受けて行っていると理解すべき。それが従来の靖国神社ではなくて新施設に参るということだと、依然として国民においては靖国神社があると思っていながら、国民の間に定着するかということである。靖国神社と2本立てで、靖国神社にも行き、こちらにも行ってというのは、国民感情の中で成立するのか。国民がほとんど参らないような施設は一体何なのか。国内向けと言ったけれども、実際のところは外向けであって、外交配慮でつくったということになるだろう。そういう状態は果たしてノーマルなのか。これが最後まで消えない疑問である。
○ 私は一貫して施設が必要だということで議論をしている。ただ施設ができたら、一般的な国民感情から考えると、外圧に負けたと感じる方はたくさんいるだろう。しかし、国家が初めてきちんと追悼の意を表す施設をつくっていくことをしっかり訴えること、靖国を虐げるものではないということさえ明確にし、日本国として逆に戦後からの呪縛から取り払われたという投げ掛けをするような持っていき方もあると思う。
○ それは、解消したのではなくて括弧に入れただけだと思う。総理が公的施設に参りつつ、依然として私的施設に参拝されて、これは総理の私的信仰だと言ったところで、恐らく外国メディアは騒ぐから、その点は解消したかどうかはわからない。
○ やはり施設をつくる方がいいという意見の人が多いように思う。
○ 確認するが、最後に報告書を出すときに、私のような意見を別意見というか、少数意見という形で述べることはできるか。
○ そうせざるを得ないと思っている。
○ 前回、靖国神社の人を呼んで聞くという意見があったのに対し、カトリックの人もみんな聞かなければいけないことになるという意見が出たが、やはりこの問題は靖国神社だけだから、靖国神社の人の意見を聞いて、これはとても国の施設とは言えないという言質をしっかり収めて、その上に立ってつくるというのも一つの方法ではないか。
○ それは靖国の問題だけではないと思う。政教分離の問題にさかのぼっていくことになる。
○ 先に靖国神社の言い分をここで聞いてはこの話は進まない。
○ 私は別に靖国神社を管理している人たちの利益のことを考えているのではない。靖国神社の管理者の話を聞くことも大事だが、それは国民一般の靖国神社の位置付けとは区別しなくてはいけない。多数の国民が常時靖国に参って追悼しているという事実が大事。聞いても意味がないとは言わないが、その位置付けを考えて、靖国神社の管理者が何を考えていようと、多くの国民が追悼しているということの方が大事。
○ 先に進むが、戦前と戦後の問題とを分けるという意見もあったがどうか。それとも戦前に限るべきか。
○ 一つのけじめとして、つまり、日本として自衛はあるかもしれないが、戦争はやらぬのだという平和への誓い、決意表明を追悼とともに兼ねる。しかも、これまでのように単に日本のことだけではなく世界の平和も考えているということで、すべての戦争犠牲者に対する追悼と平和祈念を合わせて行うことを鮮明に出すという点から、戦前に限った方がはっきりしていると思う。ただそうすると、今後国権の発動としていろいろな出来事の中で亡くなった方について別の施設をつくらなければいけなくなるとすれば、戦前の総括が趣旨の中にぴしっと入っていれば、同じ施設の中に戦前戦後を含めてもいい。ただし、議論は分けた方がわかりやすい。
○ 近代国家成立以後という説の方が多いようだが、明治維新か支那事変かは飛ばして、一般に国のために戦って命を落とした人というのが靖国神社の基本的な考え方なのに対し、今度は国の特定の公権力の発動によって死没した一定の方を言い、一般の戦災者を含むと、ここのところはほとんど意見はなかったようだが、よろしいか。
○ それは皆さんのコンセンサスではないか。
○ それから、外国人を含むというところで若干の異論があったが、そこはどうか。
○ 各国の追悼施設で相手方の兵士もすべて追悼することはどこまで一般的なのか。
○ ないからやるというところに意義があるのではないか。
○ 沖縄にはあるが、今までは結局ナショナリズムの世紀だったから、自分の国の英雄しか祀っておらず、外国人を一緒に祀ることは戦前的な考えでは考えられなかったのだろう。
○ 戦没者を追悼することに限ってナショナリズムを出さずに相手方までというようなことが、どこまで本当に各国の間で常識になっているのか。いろいろな意味でグローバリズムだというのは当然。しかし、相手方の戦没者も等しく祀ることは一つの理想かもしれないが、各国が実際に行っている公的施設ではどこまで一般的なのか考えないと駄目かと思う。
○ しかし、いろいろなことが抽象化された方がいい。例えば、南京大虐殺とか何かで死んだ人も祀るということか。
○ それは当然そうだが、特定はできない。では何人と言っても全然数を特定できない。
○ 概念があればいい。やはり日本人というか東洋人の宗教観の中に、例として元冦の後の円覚寺があるが、敵、味方を問わずという考え方が東洋にあったのだろう。靖国神社はやはり幕末から1945年まで続いたある種の西洋の影響を受けたナショナリズム的な考え方であって、今それを捨てるのではなくて元へ戻るという考え方はあってしかるべきだ。
○ そういうことなら、私が概念として描いていた慰霊碑と大分違うので、私も理念をつくり直す。今までは靖国に代わるものみたいな考えがどうしても抜けなかった。
○ 当然日本の亡くなった兵隊も入る。だから、靖国を排除するわけではなく、それを含む。含むから、排除することにはならない。
○ 新しい施設をつくるというときに、靖国に代わるようなものであってはいけない、靖国に代わるものはあり得ないという感じがする。だから、新しい施設はできても靖国はいつまでも残るだろう。そして多くの国民がそこにお参りする。靖国を否定しないでつくるというのは、発想の転換と言うか、敵、味方の区別なく祀り、そこで平和を祈念するということでないとなかなか通らない論議ではないか。
○ それは必ずしも東洋だけではなくて、戦闘能力を失った敵兵は赤十字の思想で扱うという考え方が世界的にある。
○ あともう一つ、戦後の方の中で、やはり理念から言って国権の発動が一つの定義になっていて、国権の発動と関係のないNGOとかの人たちは別だと。これはよろしいか。
○ 国権の発動に伴って死没した人とする場合の「伴う」はかなり幅の広い考え方である。NGOの場合もすべてとは言えないだろうが。
○ 国と死没者との間の一定の関係を必要とするかということである。
○ アメリカとかヨーロッパを見ると、NGOは草の根の部分で、実は国益で情報収集なりいろいろしている部分がたくさんある。それで、日本でも、例えば日本政府が支援している地域にNGOが行った場合、それを含むということはこれから起こり得ることだろう。
○ そうすると、今までのいろいろな意見の中で、やはり国権の発動にもいろいろあって、国内の事件に対して命を落とした人は除くということで大体よろしいか。
○ そうでないと範囲がはっきりしなくなる。確かに例えば浅間山荘事件で3人の警察官の方が亡くなっている。このような例はほかにもたくさんある。それから、戦争の場合とかなり違いが出てくる気がするので、「国が行った国際的活動」という辺りで絞っていいのではないか。「国で行った」というのはやや広く理解はするのだろうと思うが。
○ 純粋な国内治安維持活動は除くということ。
○ 不審船等の問題は、国際的活動というのは国と国との間に関する活動だから、不審船を引き揚げてみたら全部日本国籍の人がやっていたとなれば国内問題であるが、そうでないとなれば、国際的な活動である。
○ ちょっとややこしいのが麻薬取締官である。密輸はほとんど外国人だから。だから、やはり「平和を維持」という大枠をかけておいた方がいいのではないか。
○ しかし、このごろは麻薬取締りがある種の安全保障だという意識があるから、現実には難しい問題。今後の安全保障問題で言ったら、ある種のテロ活動は国際的活動なのか、国内的活動なのかは不分明で、そのテロ活動に対処された方は純粋に国内なのか。実際にオウムも純粋な国内問題かよくわからないところがあり、ロシア等多数の拠点があると、国際的なテロリストネットワークということになる。その辺の問題はあり、少し微妙である。
○ ただ、いずれにせよ名前を挙げて祀ったり合祀したりするわけではないから、何年か経って事態が明らかになったときに、祀ってあるものと考えればいい。
○ そうすると、この犠牲者はここへ祀ることとする、とは一切言わないのか。お互いの判断の材料というだけか。
○ もっと厳密に言うと、もう一つの考え方として、国は国民一人ひとりが戦没者を追悼し、祈念する場所を公的に維持する、という言い方もあり得る。そうすると、国は祀っていないし、何も祈念していない。私はこれを主張しているわけではないが、よほど困ったらこういう逃げ道もある。そうすると、A級戦犯論がなくなる。しかし、私の予想では最終的にA級戦犯論で決断しなくてはいけなくなり、そのときには多分遠回しな言い方ではなくて、ずばりと言わなければいけないと思う。要するに、東京裁判で死刑判決を受けたA級戦犯は国は祀らないということを入れるかどうか。
○ 戦犯が祀られているどうかは不問に付した方がいい。結局、戦争に関わってそのために命を落とした人としておいて、特定はしない。戦犯は入っているかと聞かれたら、それはお参りする人の心の問題だと。そこにいる、祀られていると思っている家族とか、友達はお参りすればいいし、それが困るという人は戦犯は入っていないと思えばいい。
○ その意見をもう少し教条的にしたのが、先ほどの私の意見。要するに国営の窓だけつくり、向こうにある風景は誰のものでもない。こちらの心の中にあるものだというふうに。