○私が以前申し上げた理念案について、考え直した。
日本国は、国権の発動によって死没した人々を追悼する国立の施設をここに創設し、近代国家として、明治維新後、戦争のみならず広く国際社会の発展のために貢献して死没した国内外の人々を、ひとしく悼み平和を祈念するものとする。国営の窓があり、窓の向こうにある景色を見るのは自由という議論があったが、景色も全部自分で決め、事件、事変、戦争、及び個人名などを特定することなく、追悼の対象は個人の意に任せるものとする。
○これまで各委員から説明いただいた理念案や議論を踏まえ、理念や追悼の対象となるカテゴリー等について、一体的に御議論いただきたい。
特定の国権の発動に伴って死没した一定の者に対して追悼をする必要があること、また、追悼と一対のものとして平和を祈念する必要があることについては、大体意見が一致したのではないか。
追悼対象を戦前だけではなく戦後も含めること、戦前については、明治維新以降で、戦前の対象者に軍人軍属、一般戦災死没者、外国人を含むということは大体一致しているのではないか。ただ、戦犯については今後一番議論になるところだろう。
戦後の対象者については、自衛隊の防衛活動、国際平和活動を入れ、いわゆる不審船等の対応で死没した方も対象になるようにできないか。
自衛隊の防衛活動で亡くなった自衛隊員、日本の国民は当然対象となり、そのようなことが起こらないように希望するが、もし起こった場合には、自衛活動であるので相手国の外国人は含まない方が良いのではないかという考え方があり、この点については御議論いただきたい。事故死の場合はどうするかという問題もある。
国際平和活動については、国際活動は非常に範囲が広いので、国と死没者の間に一定の関係が必要ではないかということで、これについても御議論いただきたい。
追悼者の氏名は特定せずにカテゴリーとして扱うことについては大体御意見が一致しているのではないか。
一番根本にある新しい国の施設をつくる必要があるかどうかについては、大多数の方々は必要あるとしているが、必要ないとの立場の方もいる。しかしながら当面はこの施設をつくる方向で議論を進めることについては了解をいただいた。
以上の点を踏まえ、理念について次のように考えたので説明する。
「明治維新以降我が国が係わった対外紛争(戦争・事変)における死没者及び先の大戦後我が国の平和と独立を守り国の安全を保つための活動、我が国の係わる国際平和のための活動などによる死没者は、極めて多数に上り、今後、不幸にもこのような死没者が出ることも否定できない。
今日の我が国の平和と繁栄は、国籍・民族の別などを超えたこのような極めて多数の死没者の尊い人命の上に築かれている。
このため、国として尊い命を落としたこれらすべての死没者に対して追悼し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにすることを誓うとともに、将来に向かって我が国と世界との恒久平和を祈念する必要がある。これは、平和を享受し国際社会の一員として重要な位置づけを占める我が国にとって極めて重大なことであると言わなければならない。
我々は、以上の理念に基づき、国を挙げて追悼・平和祈念を行うため、国の恒久的施設を設置することが必要であると考える。」
特定の国権の発動については、戦前と戦後に分け、戦前については、「我が国が係わった対外紛争(戦争・事変)」とし、対外紛争なので内戦は入らないことになるが、これについても御議論いただきたい。
「対外紛争における死没者」の「おける」という表現で一般戦災者及び外国人も含むという考え方を出している。
「先の対戦後」以下の表現は、自衛隊法及び防衛庁設置法で「自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため」の活動をすることになっており、その言葉を入れた。
「我が国の係わる国際平和のための活動」とは、PKO等がある。この言葉の後ろに、不審船等への対応をカバーするため「など」という言葉を付けたが、これについては議論のあるところである。
戦前は対外紛争「における死没者」とし、戦後は「による死没者」としたのは、戦後については攻めてきた外国人を除外するためであるが、この点についてもよく議論していただきたい。
「犠牲者」よりも「死没者」とした方が価値観が入らなくて良いだろうということで「死没者」にした。
将来に向かっての問題については「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにすることを誓う」とし、憲法前文の言葉を持ってきている。
「公式に追悼の意を表す」という意見があったが、これについては「国を挙げて」という表現にした。また、施設ができた場合にどのように具体的に追悼の意を表すかは施設の必要性が認められた後に議論をした方が良い。
戦争犯罪人をどうするか、訓練中の事故によって死没した自衛官、その巻き添えになった一般人たちをどうするか、あるいは平和活動に行き交通事故等で亡くなった方を入れるかなど、細かく言うといろいろあるが、そういったカテゴリーも含め御議論いただきたい。
○「国籍・民族の別などを超えた」というのは、南京事件の犠牲者なども入るのか。
○そうである。すべて入る。「対外紛争における死没者」ということで、相手の国も、外国の方も入る。
○価値観のある言葉はなるべく避けるのであるならば、「誓う」より「願う」とした方が良いのではないか。
○「誓う」は憲法前文の、「・・・再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、」を参考にしたもので、「誓う」という言葉にはとらわれない。
○「これは、平和を享受し国際社会の一員として重要な位置づけを占める我が国にとって極めて重大なことであると言わなければならない。」という表現は不要ではないか。
○内容については全面的に同感だが、2か所ほど引っ掛かるところがある。
戦前と戦後を分け、死没者についても2つに分けているが、両方が一緒になっているため時間的な関係が少しおかしくなっている。
○その辺はもう少し直さなければいけない。
○「極めて多数に上り」という表現を「戦前の死没者は極めて多数に上り」とし、戦後については「不幸にもこのような死没者が出ることも否定できない」と結べばいいのではないか。
「今日の我が国の平和と繁栄」という表現は、戦前だけであればそうだが、戦後についても述べるとなると、「今日の我が国」ではなく、「将来の平和」も含むことになる。そういう点を考えると「今日」と特定できないのではないか。そこで、例えば「そもそも平和と繁栄というものはこういう尊い人命の上に築かれている」という趣旨でいいのではないか。
戦後の活動についていろいろ問題が残っているが、細かくすればするほど、これが入ればあれも入るべきだとか、ややこしくなる。できるだけ包括的にし、どちらかというと限定の方向で考えた方がいいのではないか。
○「における」と、後の「による」という部分の概念の相違については、聞かれればそこのところを答えるということか。それとも、そこも御想像に任せるという形になるのか。
○そこは、聞かれれば答えるつもりである。戦前は対外紛争におけるすべての死没者を対象とするが、戦後は、自衛活動あるいは国際平和活動には必ず相手がいるので、その相手は対象に含まないという考え方である。
○この新しい施設に祀る方々について、明治維新以降ということでほぼコンセンサスに近いような感じだが、まだ、明治維新以降か、支那事変以降かということが残っているのではないか。
○前回の議論ではほとんど大勢が明治維新以降だったので、そのように申し上げた。
○委員の中で、新しい施設をつくることについて必ずしも賛成ではないが、懇談会として大勢がそのように考えるならばいいと消極的な賛意を表した方がいるが、これまでの議論を注意深く見ていると、論議を尽くせば新しい施設は要らないということになりかねないが、靖国があるではないかということから起こる問題は諸外国の理解が十分得られない。それは外交的に解決される問題であるとか、国内的にも一つの宗教に偏っているというので異論もなくはないが、それも国内の啓蒙活動で乗り切れるかもしれないという感じがする。
しかし、これはあくまでも国内の論理であって、国際的な論理にはなかなかなり得ない。少なくともこの20年、30年、あるいはあと半世紀はそれを近隣諸国が支持することにはならない感じがする。だから、新しい施設をつくる方がいいと思うが、明治維新以降となって、靖国神社に祀られている人が根こそぎというか全部ここに移ってくるということになると、今でも靖国を支持してやまない人たちがたくさんいるわけで、そういう人たちの不安があるのではないか。
むしろ国際的に日本の戦争や事変が諸外国から批判の対象になったのは支那事変以降という感じがするので、それ以降の人で、しかも国の内外を問わず祀るということにした方が、多くの国民が靖国を支持しているということにもつながるのではないか。
○靖国とこの新しい施設との関係は、決定的なところで初めから違っている。まず、靖国は国家が守護しているわけではなく、新しい施設は国家が国営として持とうとしている点で、根本的に違う。祀られる対象も、靖国神社はいわゆる軍人軍属、戦争に積極的に参加している人だけだが、新しい施設は全国民を含む。沖縄の地上戦で亡くなった人たちも新施設には入るが、靖国神社には入っていない。軍人は入っているが、一般犠牲者は入っていないということである。
○靖国には一般の住民も入っているのではないか。
○入っている。対馬丸の人や電話局の人など。
○それは特定の者であり、全国民ではない。消極的参加者、要するに犠牲者と俗に言われる人も入る。また、今の趨勢から言うと過去の敵側の人たちも祀るのだから、対象の点でも主体の点でも根本的に性質の違うものであり、靖国神社との調整を考える必要はないのではないか。これは当初から繰り返して申し上げている。
○それを一般に理解してもうらためにはかなり解説が必要だと思う。窓の向こうに景色があり、その景色は見る人に任せるという前回の窓の考え方が非常によくわかる。
○そういう考えもあるということを申し上げたものであり、それは置いておいて欲しい。
○理念に付随して質問や疑念が出そうなことに対して、同時に発表する必要があるのではないか。そういう条件を並べてならば施設をつくるのは賛成だ。ただ、一般の人たちも靖国神社に代わるものができるのではないかという心配が非常にあるので、そこのところを上手に切り換えておかないと、国中を引っかき回すようなことになるのではないかと非常に心配している。内容はわかるが、それをどうやって付随して説明するかということである。
○一般国民の理解を得るには、理念だけでなく別に説明書のようなかなり詳細なものが要るだろう。それは別個になすべきことである。靖国と新施設とは理念の中では決定的に違うことはよく読めばわかるわけだから、理念は理念で良いと考える。
また、支那事変からとすると、その前の満州事変はどうだったのか、あるいは第一次世界大戦への参戦についてもいろいろと問題にする人もいるので、支那事変からと区切るのは、一つの区切りではあるが、やはり問題が起こってくる。
どこまでさかのぼるかというと、本当は秀吉の朝鮮出兵までさかのぼっていいと考えているが、近代国家の成立した明治維新以後というところで収めることに最終的には賛成したので、今はそのように考える。
○対外紛争ということは内戦、内乱は入らないので、賊軍がどうなるかという議論はここではしない。会津も長州も薩摩もないということになると、おそらく台湾出兵ぐらいから始まるのではないか。
○説明のあった理念でわかりやすい点は、いわゆる第二次大戦以前の日本が戦争というものを肯定していた、つまり、法的に認めていた時代と、それ以後とを分けたことであり、それにより戦前はすっきりした。
戦後は、今後あり得べき自衛のための死没者と、国際平和維持のための協力による死没者という2つの新しいカテゴリーが並んだ。整理して分ければ非常にすっきりする。
ただ、「平和と独立を守り国の安全を保つための活動」というと、その場合に一般国民は祀られないのか。
○巻き添えになった人は祀られる。
○それは「平和と独立を守るための活動」をしたと認定するのか。
○そうなる。
○それはどう考えても説明が要るだろう。
○また、「国の安全を保つための活動」というと、保つための準備的活動も含むことになり、いわゆる訓練中の事故死も入ることになる。
○自動車事故が多い。
○「我が国の平和と独立を守る過程での死没者」という言い方はあり得ないか。守っている過程でいろいろなことが起こるが、中には銃を取って戦う人もいるだろうし、座っていたら頭の上から爆弾が落ちてきて死んでしまった人もいるだろう。しかし、それはいずれも我が国の平和を守る過程で起こった死没者である。積極、消極を問わない。
○当然外国人は入れないことになるのか。
○それは置いて、守る過程なので練習中は含まれず、また、実際に守る過程で死んだ人は、たとえそれが消極的であっても祀るという二つの利点がある。
○練習することもいずれ守ることになる。
○本当に守っている過程である。
○個人を特定しないのだから、あまりそのようにしてもしょうがないのではないか。
○そう思う。カテゴリーなので。
○だから、詳しく書くか書かないか、どちらかである。
○準備活動で死んだ人の遺族は、きっと入っているだろうということでお参りする。それでいいのではないか。入るか入らないかということは我々が決めることではない。カテゴリーとして、やや漠然として範囲がはっきりしないが、ある意味でははっきりしている。
○その場合、追悼ということはよく意味がわからなくなるのではないか。
○「国籍・民族の別などを超えた」という部分に南京大虐殺の犠牲者が入るというのは、想像がつかない。南京虐殺の犠牲者を入れるというのは大事なポイントで、靖国神社との違いがこんなにはっきりしているものはないから説明として記述すべきである。
○「対外紛争における死没者」である。
○「消極的に関与し、生命を失った国民並びに外国人」と書けば、これで全部入ってくる。
この案は戦前、戦後を分けないという考えである。
○南京虐殺という特定をする必要はなく、「外国人」でいいのではないか。長く書くとかえって埋没してしまう。短く単純化しておいて「国民並びに外国人」と言えば非常にはっきりとしてくる。もちろん全体的な説明は付けなければいけない。
○書けば書くほどだんだん中途半端になる。「国籍・民族」とあるところに、仮に宗教とかを入れるとこの理念は全部がらっと変わってしまう。
○「国籍・民族」というのは外国人も入っていることを明示する意味で、非常に重要なので入れたいと思っている。
○恐らくこの理念が報告書の前面に出るのであれば流れとしては十分いいと思うし、南京大虐殺はどうかと、あまり特定していく必要は全くないと思う。
○理念には南京大虐殺は入れないが、説明としてはそれを想像させるような解説が欲しい。
○聞かれたらやはりある程度カテゴリーは言わないと。ただ漠然というわけにはいかないと思う。
○御霊を国がしっかり追悼していくことと、平和を願うということの2つがあるが、国のために亡くなられた御霊を追悼するというところがもう少し大きく前面に出て、理念としては個々のあまり細かなことに触れるよりは大きく構えていくべきだと思う。
○あまり細かな議論をする気は全然ないが、外国人が入っているかどうかくらいのことはわかるようにしておかないと。そんなに漠然とというわけにはいかないと思う。
○今、国籍・民族を超えたということが話題になっているが、これは戦後にも係わるのか。不審船に乗っていた相手国の軍人も追悼の対象になるということか。
○戦後は入れたくないと思っている。
○それは非常に難しい問題なので議論した方がいい。
○戦後は自衛活動や平和活動しかないから相手の……。
○自衛活動だから相手方は追悼する必要がないというのは少し無理があると思う。戦前の戦争でも東洋平和のために戦ったのであって、侵略するぞと言ってやった戦争は一度もない。戦後は憲法が変わったから一方的に日本が正しくて相手は悪い、したがってこれは追悼しない、という議論をすると、わざわざ紛糾を招くと思う。だから、不審船のあれが本当に軍人で立派に戦死したのならば祀ってやる必要があるだろう。
○でも、別にそこまでは説明には書かないで、窓の向こうの話になるのではないか。
○ただ、この理念を読んで、国籍・民族を超えたということが戦後にも係るという解釈も生まれるが、それでよろしいか。
○私は戦後も含むという含みの上で黙っているのがいいと思う。
○ここで外国人と言うときには、日本が係わった戦争で平たく言えば御迷惑をかけたという人、その犠牲になった人ならば日本人としても国民一人ひとりが追悼する気になるが、将来日本に対する侵略者に対して追悼をするような気には国民はなれないと思う。
○でも、元冦のときには明らかに侵略者だが、日本は祀った。だから、全く祀らないか、あらゆるケースを問わず祀るか、どちらかだと思う。例えば大東亜戦争だって自衛戦争だったと当時の政府は言っているから、戦争を分けるのは少し無理があると思う。
○細かいことを言ったらきりがない。8月15日以後一方的に交戦したソ連兵は祀らないが、それ以前は祀るという話になってしまう。
○戦後の外国人も含むという解釈の方が多数意見か。
○含むというより、分け方がよくわからないから、分けるわけにいかない。
○わかった。もう少し工夫してみる。
あとは、対外紛争ということで、内戦は入れないということはよろしいか。
○内戦を含めると、国の中のいろいろなやや公的な事故などが全部入ってくることになって、かなり意義が違ってくる面もある。この度の施設は国際社会の中の日本という考え方にやや力点があると思うので、そういう意味では内戦は含まない方がいいのではないか。
○第二次大戦以前と以後とを分けないで一貫してとらえる案もあって、分けないやり方だと内戦も含む。分けるという利点ももちろんあるが、分けるといろいろまた疑問が生じてくる。分けないなら内戦ももちろん含まれる。西郷隆盛も国家の安全と独立を考えて立ち上がったのであり、それを叩いた官軍も、やはり国家の安寧と秩序のために戦ったのであるから、敵も見方もともに祀るというので悪くはない。現実に国民感情は西郷隆盛の銅像を立てて尊敬しているわけだから、別にそれでもおかしくはない。
○おかしくはないが、やはりここは対外紛争というところに限った方がよい。最終的に微妙なところがあるが、どうもすべてが入るような感じにならない方がいいと思う。戦前に関してかなり限定的にしようというのであれば明治維新以降の対外紛争で十分だと思う。
○「国が係わった」とすれば、それ以前に近代国家としての国はないから、「明治維新以降」としなくてもよい。
○しかし、それを言うと説明が必要になるから、私はやはり明治維新以降ときちんと入れた方がいいと思う。
議論を蒸し返して恐縮だが、現に不審船の場合の相手方までも祀るということが明示的になった場合に、国民感情的には違うような気がする。だから、どうも戦前と戦後のところで、何となく感情の行き場は違うような気がする。
○それは言葉の中におのずから出てくるように思う。戦後の場合には、やはり我が国の平和と独立を守るということだから、そのために死んだ人ということにおのずと限定が加わってくるのではないか。だから、我が国の平和と独立を侵す人までは祀らぬのだ、入っていないのだというのは恐らく国民感情になってくると思う。ただ、入らぬと限定することはないので、その解釈を固定するのではなく、解釈はゆだねておいていいと思う。
○ただ、このままだといずれも死没者だから、論理的に読めば、当然、相手国軍も入る。
○「ための活動」で絞れるのではないか。
○目的の「ための」を入れると、今度は一般戦没者はどうなるか。活動しなかった人は祀らないのか。うんと広義に解釈すればただ座っているのもそれは「ための活動」かもしれないが、そこが少し引っ掛かる。しかし、それに係わって死んだ人というふうに限定すると、攻めてきた方も含むこととなる。
要するに、戦争という概念抜きで実際には戦争のことを考えているところに問題がある。我々は戦争という言葉を使えないが、実際には新憲法下でも敵が本当に攻めてきたら戦争をする。ところが、それを使わないからとてもややこしいことになっている。
○ここはあいまいで限定しないということで納得されるか。
○一般死没者は含まないということか。
○私は入ると思う。
○自衛官は戦うが、一般市民は何も活動はしていない。一般市民も含むように入れると、当然敵も入ってしまう。
○追悼を捧げる場合の感情としては、当然そうやって犠牲になった一般市民の方々にも追悼したいというのが自然の気持ちだと思う。だから、そこはやはりこの人を含む、こういう場合は含まないというふうに羅列しないで、一人ひとりの対象というのは自分の心の中で決めるのが本来の姿ではないかと思う。そうでないと、戦時中の連合軍も追悼すると明記すれば非常に違和感がある人たちもいると思う。
○それは必ず違うと思う人は出てくる。でも、例えば沖縄の慰霊碑に敵軍も入っているように、我々はある種の理想主義の立場で議論をしている。
○書けるだけのところまでは書いておいて、それでもう一項目「祈る人の自由である」みたいな項目を加えておけば、収まりがつくのではないか。結構、窓の向こうの景色というのは大事な話である。
○大体、日本の神道というのは本来そうである。お宮には何も入っていない。石ころがあったり、後ろにある山が御神体である。
○追悼の対象は個人の意に任せるものとすると、この上の議論は全部要らなくなる。
○A級戦犯については議論しておいていただきたい。
○この問題はそんなにややこしくない。というのは、あの裁判が非常に不公正であると専門家も言っているし、勝った方が負けた方を裁くわけだから裁判そのものが体をなしていないということ。それからA級戦犯は既に判決を受けて処刑されてその判決に服して魂になった、とにかくこの世での判決は受けた人だということと、日本の伝統として死者にむち打つことはしないで慰霊をするということ。この3つの点から言ってもA級戦犯を祀らないとか慰霊しないということはあり得ないと思う。
私は以前、一度国家として我々はA級戦犯を犯罪人とは認めないというぐらいのことを言ってもいいんじゃないかと申し上げたときに、そうするとサンフランシスコ条約を否定することになるとおっしゃったが、そういうことにはならないと思う。例えば1968年にニュールンベルグ裁判の関係で国連で戦犯たちを時効なしにするかどうかという議論を一遍やっているぐらいだから、日本で我々は犯罪人というカテゴリーの中には彼らを入れないということをきちんと声明を出しておく必要があるのではないだろうか。そういう意味で、等しくこの慰霊の中に飾って祀っておくべきだと思う。
どういう格好で慰霊碑、記念碑が立ったとしても、恐らく靖国神社とはどういう関係になっているか、A級裁判はどうなっているかということは必ず言われると思う。その場合に、やはりぴしっと答えられるような見解を国家として出しておくべきではないかと強く思っている。
○これは非常に難しい問題だ。
○日本人が個人として語ることならば何でもいいが、国家が積極的にサンフランシスコ条約に疑念を呈し、かつ……。
○サンフランシスコ条約ではなくて、A級戦犯の位置付けということだけである。
○条約に東京裁判の決定を尊重すると書いてある。
○それはそうだが、サンフランシスコ条約全体を否定することにはならないと思う。
○条約は部分でも変更するときには相手国と交渉しなければいけない。
○サンフランシスコ条約の義務はもう果たしている。サンフランシスコ条約でうたった判決の執行を占領が終わった後も勝手に変えたらいかぬということ。現に独立した途端に恩赦で放したわけでもなく、協議の上で20年が7年になったということだから、日本国はそれでサンフランシスコ条約の義務は果たしている。だから、祀るか祀らないかという話は直接サンフランシスコ条約に反するか反さないかという国際法的な問題ではなくて、単なる政治的問題である。
○いずれにせよ国際関係は政治的な問題である。だから、国家としてそこまでやるか。
○これだけ問題になっていることを無視するわけにはいかない。
○わだかまりの最たるものはそこである。
○だから、やはりわだかまりは外であろう。
○私は内にもあると思う。両方だろう。
○内向きというよりも、外向きではないか。つくるということは、やはり最初の出発点とは違って外の方に重点がかかっているわけで、結局これは外向きの話ではないか。日本国民の中のわだかまりではなく、外がうるさいということが動機となった議論だろう。
○あの裁判が公正でないことは天下の認めるところであろう。だから、それを口にもできないはずはないと思う。
○これは非常に難しく、最後の詰めかもしれない。私は、東京裁判という勝者の敗者に対する裁判というものが公正に行われていたのかについては十分よく知っている。それで、A級戦犯として規定されたからどうのという考え方は持っていない。端的にあの指導者は許せないという考え方である。あの戦争の意義とか、やったこととか、中国や南太平洋はどんなところで、アメリカの科学技術がどんなものかということを知るに及んで、やはり許せないという気持ちが今でもしている。戦犯として東京裁判の被告人や受刑者であったとかを超えて、あの指導者を許せないということである。そういう考え方の人は多いと思う。
○彼らは刑を受けて亡くなっている。また、あの7人が適切と考えているのか。
○7人が適切かという問題ではなく、あの指導者は許せないという考え方である。それを文章でどう書き表すかは、非常に微妙であり、あいまいなままで済めばそれでいい。例えば、小泉総理が仮にこの施設にお参りに行ったときに、誰にお参りに行ったのか、戦犯は入っていると考えているかと言われたときに、答えなければいけないのならやはりよくない。また、中国や韓国の指導者がお参りに行けるものでなければいけない。それをどう表すかというのが一番の問題である。小泉総理が「わだかまりなく」という言葉を使われたが、それこそ「わだかまりなく」行けるようなところでなければいけない。これをどうするかが一番の問題であり、「追悼」に重点を置くと、その対象が問題になってくる。私は、「追悼」は一つの手段として、「平和祈念」という前向きのところに重点を置きたい。しかし、「平和祈念」とはただ平和であって欲しいという単純なものではなく、その背後には「不戦の誓い」、過去の戦争をきちんと直視して、反省すべきところは反省をした上で、恨みとか恩讐の念を超えて平和を祈念するという心境に至らなければいけない。中国や韓国の指導者に対してもそうあって欲しいとさえ思う。そういう言葉を見つければできるのではないか。それを見つけるべきではないか。戦犯を除くとか除かないとか、東京裁判がどうしたこうしたという言葉は使いたくない。
○使いたくないが、使わないでできるか。
○使わないで明確にするのは非常に難しい。
○やはりこの問題も純論理的に考えると、戦前と戦後の2段に分けて議論をすることのコロラリーであり、はっきり戦争に言及して、その戦争の当事者の一部が入っているかいないかという議論をすることになる。分けなければこの問題は出てこない。特定しなければ、議論の対象にならない。
○議論しなくても当然聞かれる。
○だから、「窓」だと。
○「窓」で通じるだろうか。
○やはり「追悼」から出発したから、その対象を議論せざるを得ないが、特定の人となるのは避けたい。抽象的なカテゴリーは非常に意味がある。そういう意味で、窓論というのはあり得る。しかし、追悼・平和祈念のためにはやはり過去の反省がなければいけない。不特定の亡くなった人たちの追悼手段として、過去を忘れるのではなくて、その上に立って、恩讐を超える、恨みを超える。特に今、国際社会は恨みと恨みのぶつかり合いであり、それではいけないという日本の考え方を打ち出していいのではないか。そういう言葉を使うことによって、戦犯が入っているかいないかは議論が避けられるのではないか。
○1つだけ引っ掛かるのは、戦争を反省するという立場を我々は共有しているわけではないということ。仮に反省するにしても、悪いことをしたというのも反省ならば、まずいことをやったというのも反省であり、いろいろ違う。だから、過去の戦争を特定して、満州事変、支那事変からの一連の事件、東京裁判の対象になったことに対して反省するとか、おわびをするとか、そういう価値観はニュートラルにしておきたい。
○ただ、国民の誰もが一点も非の打ちどころがないとは考えていないと思う。合法化あるいは正当化するいろいろな理由があっただろう。いわゆる大東亜戦争も自衛戦争だったというものの考え方もできなくはない。けれども、それだけで済んでいるだろうかと思う。
○委員の御意見としては何ら反駁しないが、ただ、皆、意見が違うことは違っている。だから、それを結論にするのは難しい。
○私はおわびを出すことは避けたい、するべきではないと思うが、いろいろな意味で反省すべき点はあると思う。それがなければ、日本国民として将来に向かって平和を祈れない。
○平和の定義は戦争がない状態なのか。A級戦犯とかそういうことを入れないようにするには、平和の理念を、戦争がない状態を飽くまでも願っていくというよりも、最低限、人の命の尊さを大事にしていくとすれば、話が通じるのではないか。戦争がないのが平和だという定義にしてしまうと全部ややこしくなるのではないか。
○それはいろいろあると思うが、平和の最低のものは、戦争がない。戦争というのは人が死ぬことを前提にする事実なので、まず、最低人が死ぬような戦争がない、アフガン戦争やテロも含めて人が死ぬことを前提としたものを避けること。これが最低の努力すべきことではないか。
○よくわかるし、本当に上手に表現できたらいいと思うが、必ず靖国神社とどう違うのか、A級戦犯はどうなのかという2つのポイントに集中的に質問が出ると思う。そのときに、何だか訳のわからないものをつくったみたいなことにならないように希望する。
○個人名を特定しないことに賛成している。だから、そもそも戦犯が入っているかいないかは論外であり、およそ戦争のために死んだ人を悼むことは誰にでも必要なことで、それが平和を祈る出発点ではないか。だから、「平和祈念」に重点を置くことに何とか持っていけるような気がする。
○「対外紛争における死没者」は明快でいいのではないか。明らかにA級戦犯は戦争において死んでいないから、戦争における死没者ではない。
○しかし、戦後が入っている。
○戦後はまた別で、これからの話である。だから、以前の「対外紛争における死没者」にA級戦犯は入るはずがない。どんなに法的根拠がいい加減なのか私も認めるが、刑法犯、死刑囚であり、「戦没者」ではない。
○しかし、「先の大戦後我が国の平和と独立を守り国の安全を保つため」に処刑されたのではないか。やはり命を出して平和がきたのだから。これがなければ平和はこなかったと思う。平和条約はこの後だから。
○あの人たちの刑死をもって国の独立と平和を守る戦いであったと理解するのは非常に変わった議論だろう。
○これは第二次大戦後の新しく起こった行為に基づいたもので、別と考えていいと思う。
○理屈を言えば、講和条約までは戦争状態で、ポツダム宣言は単に停戦があったというだけである。占領下はやはり公的には戦争状態である。
○「祀る」という観念でなく考えるべきである。つまり、神社仏閣のような「祀る」ではなく、まさに「追悼」ということ、しかも「平和祈念」がむしろ主だと。戦犯が入るか入らないかを解釈で議論することも避けたい。つまり、戦争で死んだ人一般でいい。
○委員が言っているのは、恐らくこれがどういう形にしろ出た後で質問されるときに、答えられないとまずいだろうということである。
○それはやはり説明書をきちんと付けなければいけないと思う。
○だから、今、その説明書の中身をやっている。
○私は解釈ではなくて超えているのだと。論ずるものを超えているということを何とか説明すべきだろう。
○新しい施設をつくる意義というのは、今薄れかけている祈る気持ち、その心の密度を高める場を設ける、国民を挙げて祈りを捧げる気持ちを醸成する、そういう場のためだと思う。だから、誰々が祀られているということではなく、あくまでも一人ひとりの祈る側の心の問題だと説明できないだろうか。
○私もそのアイデアが一番いいと思う。しかし、ここが難しく我々が苦労していることだが、カテゴリーをあいまいにすればするほど何をやっているのかわからなくなる、厳密化すればするほど紛争、論争を招く。その中間点のどこに落ちつかせるか。
○私は戦犯を含めるかどうかは不問に付すと考えている。その方が望ましい。対象者を大まかにカテゴリーで示すとしても、戦犯というカテゴリーは設けない。戦犯が含まれているかいないかを匂わすことは避けるべきである。靖国神社の場合には名前が特定されているが、新しい施設では個人の名前は特定しない。戦犯が入っているかいないかに対しては、個人を特定しないでいると。だから、お参りする人によっては、戦犯の家族、遺族、友人が行けば入っているだろうし、それに対して異をとなえて祀るべきではないという人は、戦犯に対して手を合わせるという気持ちにならないと。それで通せるのではないかと最初から思っている。
○それが一番私も望ましいと思うが、追悼の対象は個人の意に任せる、事件、戦争も特定しないとなると、どうだろうか。
○一番初めの私の構想だと、特定を一切していない。戦前も戦後も分けない。そして、これに更に念を押すために、それぞれの具体的対象は国民の個人の意思に任せる。
○それぐらいはっきり書いておいた方がいい。あまり漠然としていると揚げ足を取られやすい。
○ただ、国家自体が国際社会に生きている以上、外国の反応あるいは外交関係を全く無視することはできないと思う。