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首相官邸 追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会
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追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(第7回)
議事要旨(速報版)





1 日 時 平成14年11月18日(月) 15:00〜16:30

2 場 所 総理大臣官邸南会議室

3 出席者 

(政府側)
福田 康夫内閣官房長官
安倍 晋三内閣官房副長官(政務・衆)
上野 公成内閣官房副長官(政務・参)
古川 貞二郎内閣官房副長官(事務)
(委 員)
今井 敬日本経済団体連合会名誉会長、新日本製鐵株式会社代表取締役会長
山崎 正和劇作家、東亜大学長
上島 一泰株式会社ウエシマコーヒーフーズ代表取締役社長、元社団法人日本青年会議所会頭
上坂 冬子ノンフィクション作家、評論家
草柳 文惠キャスター
西原 春夫学校法人国士舘理事長、元早稲田大学総長
御厨 貴政策研究大学院大学教授

4 議事概要

(1) 冒頭

○ 冒頭、皆様に悲しいお知らせがある。御承知のように、坂本委員におかれては去る10月29日午前8時18分に御逝去された。誠に残念でならない。心よりお悔やみ申し上げる。


(2) 討議

○本日は、理念、追悼対象について議論をし、それらの議論を踏まえた上で新たな国の施設の必要性、施設をつくるとした場合の性質などについて議論いただきたい。
 まず諸外国の主要な戦没者追悼施設について、事務局で更に詳細な調査をしたものを報告してもらい、議論の参考にしていただきたい。

○(事務局)16か国について、資料1にまとめた。詳細はこれを見ていただきたいが、この中のドイツについて数点説明する。
 旧東ベルリンにあるノイエ・ヴァッヘは東西ドイツ統合後の1993年1月、閣議決定で中央追悼施設に定められ、神殿風の建物内に死んだ息子を抱く母親の像が設置され、天井の真ん中から差し込む自然の光が照らすようになっている。像の前には「戦争と暴力支配の犠牲者たちに」との文字があり、屋外のプレートに設立経緯、追悼対象者が具体的に記載されている。
 この施設は、閣議決定で戦争と暴力支配によるすべての罪なくして犠牲になった者を追悼対象とし、これらの者を悼むとともに思いをめぐらし、熟考し、沈思する施設となっている。この像の母親は、悲しみの時期を超えて涙は流れず、母が息子の死の意味、親の責任などについて問いを深めている姿となっている。
 追悼対象は、第一次世界大戦の死没者、ドイツの国家権力が不正を働いたことによる第二次世界大戦及び東ドイツの全体主義支配の犠牲者と解釈されている。特定個人を対象としていなく、軍人、民間人、国籍の別はないが、ユダヤ、シンティ、ロマなどについてはプレートで特に言及されている。
 戦争の犠牲者は、ドイツの関わった戦争のすべての死没者を対象とし、敵の軍人、ドイツと直接関係のない先の大戦で亡くなった日本軍の軍人、原爆等で亡くなった日本の一般戦災死没者も含まれている。ナチの指示を受けて戦闘を行った軍人の死没者は、罪なくして犠牲になったものとして対象に含まれ、またベルリンの壁を越えようして亡くなった者も対象に含まれている。国際テロやPKOの死没者は、ドイツの国家権力が不正を働いたことによる犠牲者ではないので対象には含まれない。戦犯は加害者であり、犠牲者ではないと解釈されているので、対象から除外される。
 罪ある加害者とは、裁判で有罪判決を受ける必要はなく、一般的、抽象的にドイツの国家権力の不正の罪を犯した者と考えられる人のことである。具体的な個人が対象から除外されるか否かを検討することは死者の尊厳に反するので行わないとのことである。
 ドイツでは、ユダヤ、シンティ、ロマなどの犠牲者のグループ同士で、「我々だけを単独で追悼すべきだ」との意見の対立があったため、妥協策として「我々も入っているということを個別に明示してほしい」ということになり、対象についての詳細なプレートが掲げられている。
 政府主催の式典では演説はなく、単に献花、黙祷、音楽演奏が行われている。

○それでは、理念と追悼対象について議論いただきたい。前回の懇談会で議論した理念を、前回の議論等を踏まえ修正した。追悼対象は、理念と非常に密接な関係があるので、理念の議論の中で合わせて議論いただきたい。それでは、修正した理念の考え方について説明する。
 理念については、「明治維新以降我が国の係わった対外紛争(戦争・事変)における死没者は極めて多数に上る。また、戦後、我が国は、日本国憲法に基づき、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、我が国と世界の恒久平和を希求するようになったが、その後も我が国の平和と独立を守り国の安全を保つための活動及び我が国の係わる国際平和のための活動における死没者が出ている。このため、我が国は、過去の歴史から学んだ教訓を礎とし、国として、国籍・民族の別などを問わず、これらすべての死没者を追悼し、不戦の誓いを新たにした上で、我が国と世界の恒久平和を祈念する必要がある。これは、21世紀を迎えた今日、平和を享受し国際社会の一員として重要な位置づけを占める我が国にとって極めて重大なことであると言わなければならない。
 我々は、以上の理念に基づき、国を挙げて追悼・平和祈念を行うため、国の恒久的施設を設置することが必要であると考える。」と修正した。
 戦前は明治維新以降を追悼対象としたが、これは日本という国の体裁ができた近代国家以降を対象とするのがよいという意見を踏まえた。
 戦前の追悼対象については、「我が国の係わった対外紛争における死没者」としたが、この「死没者」は、我々の議論の中では大体、我が国の軍人軍属の死没者、国籍を問わない一般戦災死没者、我が国に対する戦闘行為の過程において死没したいわゆる敵国の軍人等も含めて考えている。この点については、後ほど議論いただきたい。
 また、我が国は日本国憲法により不戦の誓いをし平和を希求することになり、この憲法の下でPKOなどの国際平和のための活動を行うようにもなったので、戦前と戦後を分け、戦後については日本国憲法の理念を示した。
 戦後の追悼対象の考え方としては、「我が国の平和と独立を守り国の安全を保つための活動」と「我が国の係わる国際平和のための活動」における死没者、この二つに分けている。
まず「我が国の平和と独立を守り国の安全を保つための活動」は自衛隊活動が中心になる。自衛隊の防衛活動は様々な場合が考えられるので、例えば防衛出動、領空侵犯措置、不発弾処理のように、いわゆる自衛隊の固有の防衛活動における自衛隊員の死没者、また、こういう行為の途中で巻き込まれた日本国内における国籍は問わない一般死没者、これらを追悼の対象にしてはどうかと考えた。ただし、防衛のための調査活動中の事故や訓練による死没者は、特定の国権の発動に伴って死没したと言えるのか疑問があるので、追悼対象とは考えていない。
 いわゆる不審船等への対応を行う海上保安官の活動も、これも広い意味で考えると我が国の平和と独立を守り国の安全を保つための活動と言えるので、この不審船等への対応における死没者も対象に含まれると考えている。
次に、もう一つのカテゴリーである「我が国の係わる国際平和のための活動」はPKOなどの活動を指す。この活動に関しては、国と死没者との間に一定の関係があると考えられるが、我が国の意思に従って行動、活動したものであるのならば、NGOのような者であっても、死没者の所属とは無関係に追悼対象にしてはどうかという考え方である。また、海外青年協力隊の活動などのいわゆる国際協力活動については、活動の目的が我が国の意思による国際平和のための活動と評価できる場合には、死没者の所属とは無関係に追悼対象としてはどうか。
 また、現在、テロ対策特別措置法に基づいて自衛官が派遣されているが、このような者が万一死没したような場合には、我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に努める活動に従事していたということから、追悼対象に含めてはどうか。
 ただ、例えば政治的要求をする者による犯罪やいわゆる国際テロにより死没した者については、特定の国権の発動に伴って死没する者ではなく、犯罪行為による死没者であるので、追悼対象としない方が良いのではないかと考える。
 それから国内の治安維持活動、災害救助活動における警察官、海上保安官、自衛隊員、消防士、これらの民間協力者の死没者は、我が国の平和及び安全の確保に努める活動に直接関係しているわけではないということで、追悼対象には含めないと考える。このように戦後についてはいろいろな活動があるが、カテゴリーとしては大体そのようなことを頭に入れて理念を考えた。
 「過去の歴史から学んだ教訓を礎として」は、過去を踏まえての追悼・平和祈念であることを明確にするためである。
 「死没者を追悼し」という部分は、前回の理念の議論では「死没者に対して追悼し」としていたが、追悼の意味を、「死没者を悼む」、「死没者に思いをめぐらせる」、「死没者を追憶する」という意味でとらえ、「慰霊する」あるいは「顕彰する」ことではないと考えたため、「に対して」という表現を「死没者を追悼する」とした。この関係で、追悼の意味については一度議論していただきたい。
 前回説明した理念の中には、「今日の我が国の平和と繁栄は、国籍・民族の別などを超えたこのような極めて多数の死没者の尊い人命の上に築かれている。」という内容を入れていたが、これについては、外国人も含むという考え方に立った場合に、外国人の死没者の上に我が国の平和と繁栄があるように誤解されるおそれがあるので削除した。
 以上が修正した理念の考え方である。
まず、追悼の意味が非常に重要であるので議論いただきたい。先ほど私が説明した中では、「死没者を悼むこと」、「死没者に思いを巡らせること」、「死没者を追憶すること」という意味に捉えた。ドイツのノイエ・ヴァッヘも大体このような趣旨である。「死没者の死の意味を考えること」、「死没者に対し敬意と感謝の意を表すること」、「死没者を顕彰すること」、「死没者を慰霊すること」、「死没者を鎮魂すること」、「死没者に対し贖罪・謝罪すること」という意味はこの中には含まれていないという解釈で理念を考えたが、この点について意見をいただきたい。

○「遺族を慰謝すること」、「死没者に対し贖罪・謝罪すること」というのはいらない。

○「死没者を悼むこと」、「死没者に思いを巡らせること」、「死没者を追憶すること」だけで良いのではないか。これらは宗教色がない。意味を聞かれたら、追悼というのはこの三つの意味であり、慰霊とか、そういうことではない。仮に新たな国の施設をつくった場合には、この施設に魂があるとか、お墓あるということではない。

○「顕彰」という文字が入ると、何か死者の死を評価するようなニュアンスになるので、これは入れない方が良い。

○先ほどの三つの意味ということで良いか。

(異議なし)

○ところで、理念のうち、「このため、我が国は、過去の歴史から学んだ教訓を礎とし、国として、国籍・民族の別などを問わず、これらすべての死没者を追悼し、不戦の誓いを新たにした上で、我が国と世界の恒久平和を祈念する必要がある。」という内容があったが、この部分は、その前の部分の論理的帰結としてつながるはずである。「このため」というのは、「このゆえに」という意味だろう。ところが、「このため」の前後に何ら論理のつながりがない。したがって、国が追憶する必要があるという、その必要の論理を、是非「このため」より前の部分に入れていただきたい。理念の戦前の部分と戦後の部分は単なる現実が書いてあり、それは現実なのでそのままでも良いが、国が追悼する、あるいは追悼の場所をつくるという場合には、国が追悼する必要の論理を明らかにし、そのつながりをつける内容が必要である。

○逆に、戦後の話の後にこのまま「このため」以降の内容が続くと、今後死没者が出るのでこのような施設をつくらなければいけないということになる。今の理念の流れでいくと、戦後もどんどん平和活動をして死没者が出てしまう。その死没者がどんどん出てしまうために新しい国の施設をつくるみたいに聞こえてしまうのではないか。したがって、今後の日本が目指す平和祈念の内容が戦後の部分に入らないとおかしくなると思う。また、「このため」以下の部分に、我が国では今までなかったのであるから、初めて追悼し平和を祈念していくということを明確に打ち出さないと文章は続かないのではないか。

○その点は、今後報告書の文章を書いていくときに十分踏まえ、理念も修正することになるだろう。

○やはり国立のものをつくるということは非常に大きなポイントである。「国の」というのは「国立の」と書いたらおかしいか。国立と書いた方が強い意味合いが出るのではないか。

○「国立」という言葉の意味をすぐにはつかめないので少し迷った。例えば東京大学は国立大学だが、国会は国立施設なのか。そうなると少し分からないところがある。

○分かりやすくするために、「我が国」というのを「日本」と言ってはだめか。

○政府は国立かというと、何か変な感じがする。

○それと、ですます調では具合が悪いか。これはやはり多くの者の目に付くと思うので、分かりやすい方がいい。

○それは一つのスタイルの問題なので、今後検討する。

○一般的な感覚からすると、国立の施設というハード面にすぐ目がいってしまう。日本で初めて国を挙げて追悼・平和祈念を行うことをしっかりと理念でうたっていないと、世論は国立の施設の方にばかり目がいってしまうのではないか。したがって、国を挙げて追悼・平和祈念を行うというところが膨らまないと、理念の中ではおかしくなる。

○そのような点に注意して考えていきたい。追悼対象については、先ほど申し上げたようなことを頭に入れ、範疇としてとらえるということでよろしいか。

○先ほど説明があった追悼対象については、我々がその範囲内で心に止めておけばいいことであり、理念以上に文章化する必要はないのではないか。

○それでは、戦争犯罪人と敵国軍人の問題について議論いただきたい。まず、戦争犯罪人についてだが、追悼対象とする、追悼対象としない、戦争犯罪人という範疇は考えないという考え方があると思うが、いかがか。

○戦争犯罪人という範疇を考えないと言っても、質問のトップはこれだと思う。考えていませんと答えるのか。また、一般の人がここに入っているか、入っていないかということも聞かれると思うが、報告書の文章の中には書いておかないとすると、何と答えるのかということを考えなければならない。

○それは何度も同じことを議論したと思うが、その施設の中にそもそもだれが入る入らないということがあり得ないのである。したがって、一般の戦没者も入ってはいない。我々が検討している施設は死没者を悼む、思いを巡らせる、追憶する場所であるのだから。

○それはそうだが、聞く側は必ず聞くだろう。

○だから、そのように答えたらいいのではないか。それしか答えはないと思う。だれも入っていない。

○そういう答えが通じるだろうか。そうすると、また空っぽだということになる。

○死没者を追憶するのだから。

○その議論はやはり「なぜ今国に施設をつくるのか」ということとの関係もある。この施設は平和祈念というところに重点を置くべきであるが、ただ平和祈念を平和であってほしいと祈るだけではいけない。やはり平和の反対である戦争の惨禍を思わなければいけない。そして、そういう戦争を再び繰り返さないためには、やはり戦争の惨禍を思い、その中で戦争のために命を失った人のことを悼まなければいけない。
 したがって、そこにだれが入っているかということは問題にならない。つまり、大きな範疇として、戦争のために、あるいは平和活動のために死んだ人と考えればいいのであって、そこにだれが入るかということはこの施設では問題にならない。名簿を挙げてこれが入っているか入っていないかということがおよそ問題にならない施設だということで通用すると考える。したがって、戦争犯罪人が入っているのか入っていないかというようなことはおよそ問題にならないということで良いと考える。

○例えば東條英機が追悼対象に含まれているのかどうかということを一般の者は聞きたがるだろう。そこへだれが入っているか入っていないかは問わないという意見が通るだろうか。新たな紛争をかもし出すようなことになってしまってもつまらないと思う。

○我々としては、およそこの施設にだれも入っていないという考えであるから、これは明確に靖国神社とは区別がつくのではないか。

○その考え方だと、敵国の軍人が入っているかどうかということも問題にならないということか。

○そうである。つまり、理念の内容そのとおりで良いのではないか。細部はもちろん問題はあるが、理念には細かい範疇は書いていないのでこれで良いのではないか。しかも、追悼の意味について先ほどの三つ内容に限るということで異議がなかったと思うが、そうなれば、死没者を悼み、思いを巡らせ、追憶していれば良いのだから、それはそれぞれ個人の問題で追悼対象側の問題ではない。

○敵国の軍人については、戦前、戦後とも対象として考えないという考え方、戦前、戦後とも対象にするという考え方、戦前は対象にするが、戦後については、我が国が仕掛ける戦争はなく、すべて我が国が侵略される戦争であるので追悼対象としない、あるいは、追悼対象として検討する必要はないという考え方があると思われるがいかがか。

○なぜそこで敵国の軍人だけが問題になるのか。理念の中の「国として、国籍・民族の別などを問わず、これらすべての死没者を追悼し」という部分からすれば、死没者の中には当然民間人も含まれているわけで、味方が入るとすれば当然敵国の者も入る。ここで特に敵国軍人というふうに定義する必要があるのか。そうすると非常に議論が厳密になってきて、軍人とは何だということになる。例えば、張学良の部隊は軍人なのか、それとも匪賊なのか、あるいはしばしばあった八路軍は一体正規軍なのかという議論になるので、単に死没者で良いのではないか。

○これは一切そういうことは言わないということか。

○せっかく理念をそのようにしているのだから。

○敵国の軍人が入っているのかと聞かれた場合には、戦争犯罪人と同様に、この施設はだれが入っている、入っていないとか、そういう問題ではないということか。

○追悼対象については、理念の内容のとおりで良いのではないか。

○戦争の惨禍に思いを致し、平和を祈念するための施設だということで、敵国の軍人が入っているとか、侵略者が入っているとか、そういうことは頭の中にないということか。

○ワンセットにして説明すると非常にわかりやすいのではないか。戦争犯罪人を問題にしないとともに敵国の軍人も問題にせず、とにかくだれが入っているか入っていないかは問わない。

○ドイツのノイエ・ヴァッヘは、なぜ原爆の死没者だけが追悼対象となっているのか。東京空襲で亡くなった方も随分多い。

○(事務局)補足すると、原爆の死没者だけではなく、空襲で亡くなった方や中国の軍人、民間人すべて対象となっている。

○ドイツが直接関わらなかった戦争も含んでいるのか。

○(事務局)そうである。

○ドイツのノイエ・ヴァッヘは守りの砦のようなものであるので、平和祈念は全く除外はされていないだろうが、そこに焦点はないと見て良いのではないか。したがって我々が考えているものとは性格をかなり異にする。やはりノイエ・ヴァッヘは、犠牲者は何かということを明らかにしなければならないので、そこに記載したということだと思う。したがって、ある意味で国籍を問わないという点は共通しているが、理念は必ずしも同じではないと考えて良いのではないか。

○私もそう思う。これは反ナチの施設だろう。

○追悼対象を議論してきたが、これについては氏名は特定しない。そして細かい範疇を示すのではなくて、理念で示している程度の範疇、要するに国の関与で亡くなった死没者ということですべてをとらえるという考え方でよろしいのではないか。結局、戦争犯罪人と敵国の軍人という範疇は考えず、要するにそれらの者を死没者ということで特定はしない。したがって、仮に施設をつくってもそこにだれか特定の人の魂が入っているとか、そういうことではない。

○いろいろな人から手紙をもらったり、会いたいと言われている状況を考えると、今なぜ国の施設をつくるのかということが、また一つの議論の対象になるのではないかと思う。したがって、靖国神社とは根本的に違うということを理念の中に入れれば、だれが見てもこれは靖国神社と違うなと思えるだろう。理念の中に入れるのが無理であれば、別枠でもいいので何かただし書きが必要であると思う。
 はっきり靖国神社とはこういう点が違っていると、つまり、この施設は国立で宗教性はないということと、それからもう一つ、東京裁判についていろいろな論議があるが、日本としてはあの不公正な裁判は認めないということ、この二つを同時に出せば余分な議論を防げるのではないか。
 一つの意見として、靖国神社は宗教団体ではあるが、国民の大多数の意識の上では追悼の公的施設であるという意見がある。やはりそのように思っている人は非常に多いと思うので、靖国神社との違いはくどいほどはっきりしておいた方が良いのではないか。

○靖国神社とは違うということは、中身を見たら明らかである。こちらは国の施設である。

○それをはっきり明示していただきたい。

○国の施設と言えば、はっきり明示しているのではないか。

○それだけで靖国神社とは全く違うということが一目で分かるだろうか。説明しなくとも、印象として、この施設は靖国神社とは違うということが分かればいいが。

○追悼対象についてだが、だれが入っているかは問題にならないという点はよろしいか。

○良い。

○それでは、なぜこの新たな国の施設が必要かという議論に移らせていただく。
 なぜ新たな国の施設が必要か。議論の参考にしていただくために、これまで新聞や雑誌などで公表されている主要な意見の要旨と、坂本委員がこの懇談会で述べていた施設の必要性についての御意見を事務局に紹介してもらい、それを踏まえた上で議論をする。

○(事務局)それでは、新聞・雑誌等で既に公表されている主要な意見要旨を事務局において整理したものを紹介する。

(資料2のとおり)

 次に、坂本委員御自身が懇談会で述べていた新たな国の施設に対する考え方をもう一度ここで紹介する。「国の危機に殉じた人々を追悼し、顕彰することは、世界各国の国民に共通する普遍的な徳であり意志である。それ故、各国の政府は、そうした国民的な徳と意志を代表して、その国の伝統的・歴史的な形式に即して、しかるべき追悼の施設において追悼の行事を主催している。日本の場合、靖国神社は宗教法人上は一民間宗教団体であるが、国民の大多数の意識の上では、まさしくそうした追悼のための公的施設であったし、現にそうである。政府は同神社への首相参拝その他の形で公的な追悼の義務を果たすべきである。従って、官房長官の『国内向け』という観点からして、新しい施設建設の必要性・必然性はないと考える」。

○以上のようないろいろな意見を踏まえた上で、新たな国の施設をつくる必要性についての意見を承りたい。

○資料2にあるように、両方の見方によればごもっともという内容が多くあるが、墓地のようなものは既に国立のものが千鳥ヶ淵にあるし、御霊を慰霊するのは靖国神社があるわけで、ここで検討しているのは死没者を追悼する平和祈念施設であり、我が国で初めての国立、国の施設である。したがって、その部分がきれいに整理ができれば良いと思う。それぞれの施設に対しての思いとか、遺族に対しての思いとか、様々な考え方があり、この国をつくってこられた方々の思いというのは相当それぞれ違う。
 逆にもっと未来を見ていくのであれば、近代国家以降、日本がどういう国を目指してきたのかということの新しい一つの議論の転機になるのではないかと感じており、戦前の富国強兵で欧米を追い越せといったところから、戦後の、または21世紀の日本の世界に対する新たな平和の一つのメッセージが、国としてようやく、戦後の呪縛から逃れて初めて出せるのではないかと思う。そういう意味では、この懇談会で議論していることは良い議論であり、国民に喚起を促すことになる。また戦争を知らないこれからの21世紀をつくる世代が近代国家以降、21世紀の日本はどういう国を目指していくのかを考えていく上でも、平和ということに対しての議論を喚起させるという意味で、大変良いことだと思う。
 私は、平和の定義を戦争のない状態というようにするので議論がややこしくなってきているのではないかと思っている。日本型の平和は、人の命の尊さを大事にしていくということをもっと前面に出したものにすべきで、戦争のない状態が平和であるという定義をどうしてもしてしまうからこそ少し違和感があるのではないか。人の命の尊さということを日本の平和の新たな理念として世界に向けて打ち出せる、違った意味での良い機会だと思っている。
 日本人は、有形のものがあってそこで議論するのは上手だろうが、全くゼロから生み出したり無形のものに対して議論を整理するのが下手なので少し戸惑っていると思うが、いずれきれいに整理されてくるのではないか。

○私は本質的には特別に新たな国の施設は必要とはしていなかったが、靖国神社があり、このまま収まっていれば何も議論は必要ないし、そのままで良かったが、周囲がいろいろと言うので仕方なく、また、毎年いろいろと言われるのは嫌なので必要と考えるようになった。
 この懇談会は国内向けの論議をするためであるという話があったが、周囲からいろいろなことを言われないためにはどうすれば良いかということを考えると、一本、棒を立てるのが良いのではないかと思う。余り凝った理念にしなくても、例えば日比谷公園の真ん中に柱を一本立てて、こちらが平和祈念の施設だよというような格好で、からっとしたものをつくってしまう方が良いのではないかという気がする。

○戦没者、それから国の安全のため、世界平和のために亡くなった方々を国として追悼し、同時に平和の世に誓いを立てるということは、必要な国の責務であるということは皆が共通して認識していると思う。そのためにはやはり、憲法に抵触しないために特定の宗教、宗派によらないということが原則として必要であると私は考えるので、こうした国立の施設というものがあれば、日本の国民はもとより、海外から訪れた方々だとか、日本の代表的な立場の方、外国の元首もだれもがいつでも追悼に訪れることが可能になると思う。靖国神社の存在意義を損なうという見方もあるが、私は逆にこうした国立の無宗教の施設との対比によって靖国神社の独自性とか歴史的な意義とか、そういう特徴が際立ってきて存在意義がはっきりとしてくるのではないかと考えている。

○私は、今、世界の中における日本の平和国家としての位置付けというものをはっきりさせる時期にきたというふうに考えている。それにはいろいろ根拠があって細かいことは申し上げないが、それが単に原爆は持たないとか戦力は持たないといった消極的なものだけではなく、積極的に世界の平和に貢献することが、例えばアジア、特に宗教という点で見ると一神教でない多神教的な北東アジアの国々と一緒になって平和貢献をし得る国なんだということが非常にはっきりしてきた今、やはり日本はこれから平和国家として消極的、積極的の両方でもって貢献するということを明らかにする時期がきていると思う。それをどのぐらい表面に出すかはともかくとして、そうである場合にやはり日本は一定の核を持っているので、その辺についての国民の心の整理が要るのではないだろうか。将来に向けて平和を祈念するということがどうしても必要であるが、その平和祈念というのは当然表裏の関係として、そういった無益な戦争はしないという誓いが背後にあることになる。その不戦の誓いの前段階として、戦争の惨禍は再び繰り返さないというような考え方を明らかにすべきであろう。
 それは同時に、例えば、今、平和を享受している我々としては、平和の基礎になった戦争犠牲者について思いを致す、そして、彼らの死を無駄にしないためには、このようなことを再び繰り返さないというような誓いがどうしても必要だろう。そういうものを内容とした平和祈念というものが正面に出てしかるべきではないだろうかと考えてみると、先ほどから出ているような、特定の人の名前を挙げずに戦争の犠牲者を追悼するということを形で表す必要があるだろう。
 そのように考えてみると、靖国神社にはやはり一定の限界があると考える。靖国神社はやはり軍人軍属を慰霊する、感謝するということが中心になっていて、軍人軍属以外の一般の戦没者、死没者が対象に含まれていないというようなことや、あるいは日本が始めた戦争のために死んだ外国の軍人のみならず、外国の一般戦災死没者もその中に入っていないというようなことがあるので、新たな国の施設がどうしても必要だろうと考えている。

○私もこの懇談会が始まるときは一種中立的な立場でいたわけだが、議論をしていくにしたがって、やはり若い人たちへの国のメッセージとしてこうした施設が必要であろうというのが今の私の基本的な考え方になった。
 今日のいろいろな議論を聞いても、マスコミの世論調査というものをちらっと見ても、この新たな国の施設について賛成が大体48で、しかし総理が靖国神社に8月15日に行くのも賛成49というような数値が出ており、恐らくどちらも成り立つのだろうと思う。つまり、どちらもそれぞれに実際にやってみれば成り立つという気がするし、私は靖国神社をそういう意味では全く否定するものでもない。
 ただし、追悼対象を大きな範疇でとらえるので、だれが入っているか入っていないかという問題は生じないというように言い切ったときに、何かすごくやられたなという感じが残る可能性がある。もともとそこを言いたいわけなのだから。したがって、そこをきちんと議論できるようにしておかないと、「ここにはだれも入っていない」と言うだけでは話は終わらないだろうという気が少ししている。
 しかし、表現の仕方にはいろいろあろうが、全体としてこうした国立のものをつくるということには賛成である。日本の近代の歴史に思いを致して、亡くなった人を悼んで、そして更に今後の平和を考えるというような場所を、歴史的なゆえんのある場所にではなくつくり、そこでそういう思いを皆が考える。その人その人によってそれは全く異なって構わないというのは、むしろ押しつけがましくなく良いと思う。ただ、多分これを議論して分かっていただくには大分時間も必要であるという気はするが、ともかく基本的には私は賛成である。

○国家は行動の主体であるとともに表現の主体でもある。21世紀の世界において、日本という国家は、適切な行動とともに適切な表現を行う必要がある。日本という国家は、今何を表現することが求められているのだろうか。
 国家がさまざまな機能を持つことは明らかであり、国家にとっての唯一の機能というものを特定することは困難である。しかし、その中で、国民の生命、財産、名誉を確保することは、国家が果たすべき機能の最も根源的なものと言ってよい。平和な国際環境こそが、国民の生命、財産を守る基礎であり、そのような環境を作り上げる努力に貢献することこそが、日本人の名誉を高める重要な方途である。平和国家という日本人の理想と、平和こそが日本の国益であるとの現実に、的確な表現が与えられなくてはならない。
 もちろん、平和な環境を作り上げる努力の大きな部分は、当然のことながら国家の行動にかかわる努力である。安全保障政策さらには国際平和協力のための積極的政策が展開されなくてはならない。しかし、国家が行動の主体であるとともに表現の主体でもあるとすれば、このような行動を裏打ちする表現もまた示されなければならない。平和な世界を作り上げたいという日本人の希望を、日本という国家は、適切に表現しなければならない。このような表現を伴ってこそ、世界平和を希求し、東アジアの安定を実現し、日本の安全保障を確保するとするための政策が、更に効果的なものになる。
 いったい、どのような表現が今求められているといえるのだろうか。総理はじめ国家指導者たちの日々の表現が十分適切であるべきことは言うまでもない。しかし、それに加えて、国家として、象徴的な施設をつくることも、多くの国家に見られるように、その一つの重要な表現形態である。近代国家成立以降の戦争に起因する死没者、更には国際平和活動に関する死没者への追悼を行い、平和を祈念する象徴的施設を、国家として正式につくることこそ、そのような表現形態である。21世紀のはじめという現時点こそ、このような表現を行うのにふさわしい時期であろう。
 平和の希求にとって、それでは、なぜ、追悼と平和祈念の両者を含む象徴的表現が必要なのか。それは、国家が、個人や他の社会組織と同様に、過去の歴史に大きな影響を受けつつ、未来への希望をもって、現在を生きる主体だからである。過去を振り返ることなくして、現在を正確に把握することはできないし、現在の決意を表明することもできない。未来への希望を語るその背景に過去についての深い思いがなければ、その希望は浅薄なものとならざるを得ない。
 言うまでもなく、近代日本の過去のすべてが戦争に彩られたものだなどということはできない。しかし、対外戦争や事変がその重要な一部であったことは間違いない。しかも、近代日本の対外行動における戦争や事変は、多大な犠牲を伴った。軍人・軍属のみならず民間人にも多くの犠牲があった。外国人の犠牲者もまた極めて多数にのぼった。これらすべての死没者に思いを致し、追悼の意を表することなくして、過去の教訓を未来に生かすことはできない。
 言うまでもなく国家は、国家のために働く国民があってこそ機能する主体である。戦争の犠牲者の重要な部分は、国家のために自らの命を捧げた人々である。彼らに対し、国家が感謝し敬意を払うのは当然の義務である。戦後日本には、これまでこのような施設を国家として保持していなかった。そのことのみをもってしても、このような施設の必要性は明らかである。
 しかし、戦争の犠牲者は、軍人・軍属に止まらない。多くの国民もまた、戦火の犠牲となった。本来国民の生命を守るべき存在こそが国家である。そうだとすれば、国家の対外行動に起因して国民の多くが犠牲となったとすれば、このような犠牲に国家が深い追悼の意を表することもまた当然の責任である。
 さらにまた、日本が関連した近代の戦争においては、日本国民以外の犠牲者も極めて多数にのぼった。そもそも、近代の戦争が戦闘員並びに非戦闘員問わず多大の犠牲を伴ったことは、全人類が等しく教訓とすべき19世紀から20世紀の重大な歴史である。この教訓の上に立ってこそ、未来の世界平和構築の基盤が築かれる。国際社会の中で、自らのみ一人生きる国家という在り方が不可能となった今日、平和を希求する日本という国家が振り返るべき過去の犠牲とは、民族・国籍の別を問わない多数の方々の犠牲である。すべて等しく追悼の対象となるべきであろう。
 戦争に関する世界の観念や現実は、20世紀の歴史を通して大きく変化した。武器の高度化に伴って起きた戦争被害の大規模化は、国策遂行の手段としての戦争を不合理なものとした。この動きを背景に国際法的にも戦争違法化の流れは、国際連盟から不戦条約、国際連合憲章へと着実に進んだ。日本国憲法もまさにそのような戦争違法化の流れの中にある。さらに主要国間で進んだ経済相互依存の深化や民主化の動きは、主要国の間での戦争の可能性を著しく低めることになった。しかし、世界から戦争がなくなったわけではない。今でも世界主要国が戦争を行えば、その被害は想像を絶するであろう。その意味からも、国籍・民族の別を問わず、過去の戦争の犠牲に思いを致す必要性は減じていない。
 しかし、これに加え、我々が重視しなければならないのは、主要国の間の戦争が仮に考えられなくなったとしても、それで世界が平和になるというわけでもないという現実である。冷戦後、ますます明らかになりつつある現象は、内戦やテロなど、従来国家間戦争の枠組みでは捉えにくいような大規模暴力が世界の平和を脅かしているということである。そして、これらの大規模暴力は、日本人自身の安全を直接脅かしている。従来からの安全保障政策を超える国際的平和活動が、必要となっている。
 これまでも、国連平和維持活動などのさまざまな平和活動に日本は関与してきた。しかし、今後は、ますますこのような活動の重要性は増すであろう。しかも、国際平和活動は、戦争ではないが、犠牲が出ないと想定することはできない活動であり、既に日本人の犠牲者は少数ではあるが存在する。これらの人々もまた、日本国民の多くに代わって、国家としての活動に従事した人々である。このような犠牲に対して、感謝と敬意を払い、追悼の念を明らかにするのは、やはり国家としての義務であると言わざるをえない。
 国家は、行動の主体でもあり表現の主体でもある。国家は過去を背負い、未来を見据え、現在を生きる主体である。現在の国家は、近代の世界史を他国とも共有する主体でもある。そして、世界平和への努力こそ日本の国益の最大のものである。とすれば、国家として、平和の実現に向けての日本国民の強い思いを、他国とともその理念を共有し得るかたちで、鮮明に表現する施設をつくることは、まさにその国益にかなったことと言わなければならない。

○次に、新たな施設をつくる必要性があるという前提に立った場合の施設の性質について議論いただきたい。これは、宗教性のあるものか、無宗教なものか、あるいは先ほど国立という話があったが、国家としての追悼施設である必要があるか。また、現在、8月15日に全国戦没者追悼式等が行われているが、そういうものではなくてもっと恒久的な追悼と平和の祈念施設があってもいいのではないか。それから、そういう施設はなるべく広々とした場所で、種類から言うと先ほど日比谷公園との意見があったが、そのような皆が手軽に行けるところで、場合によれば式典もできるような施設を考えてはどうか。名称については、様々な愛称などがあると思うが、「戦没者等を追悼し平和を祈念する施設」というようなものが考えられるであろう。
 場所はどこが良いかという点については、首都などのように余りシンボル性がない場所の方が良いのではないかと思う。
それから、式典をどうするかについては、現在も全国戦没者追悼式等の様々な式典があり、難しい問題であるので、これは私どもの方で議論できる問題ではないのではないかと思われる。8月15日の全国戦没者追悼式の代わりというようなことは言えないだろう。 これらの点について意見があれば伺いたい。

○恐らく懇談会の取りまとめとしては、割合抽象的なことしか言えないのではないか思う。

○私は先ほど説明のあったドイツのノイエ・ヴァッヘに行ったことがあるが、それはわざわざ地図を見て行ったのではなくて、たまたまベルリンの一番大きい通りを歩いていたら遭遇したというように、普段日常的に歩いているところにあるものだった。したがって、やはりわざわざそこに行くということではなくて、日常皆が仕事をしたり、通学をしたりというとても身近なところにあって、わざわざ行かなくても人がそこで追悼している姿を普段から目にするとか、ここにこういうものがあったということを探さなくても行けるような、そういう身近なところにあるということが大事なのではないか。
 日比谷公園というイメージが出たが、例えばそのように私たちの日常的な空間の中にある方が施設としての意味合いが非常に深くなるのではないかという気がする。

○ドイツの施設と同じように、イスラエルにある記念館も真ん中に光があって、皆が光に飢えていたというようなものであった。そういったものにはしないで、もう少しからっとしたもので、できれば鳩を一匹付けてもらいたい。というのは、九段会館の横にある昭和館をつくるとき、鳩を付けるという話が出たら、この施設は戦争も平和も議論の対象にしていないという理由から、鳩一匹が取られてしまったらしい。今度、この施設をつくるとしたら、それは堂々たる平和祈念施設であるのだから、平和の鳩を一匹付けるというのは必要不可欠なものだと思う。凝った建物や厳かなものではなく、平和の象徴ならば明るいシンプルなものが良いのではないかと思う。

○参考までに申し上げると、B、C級戦犯の遺書を一冊の本にした「世紀の遺書」という本がある。その売上げが昭和28年の段階で200万あったが、それで、アガペの像というのをつくった。アガペというのはギリシャ語で愛という意味で、男性がすっと手を挙げている像が東京駅の真ん前に今もある。なぜそこに設置したのかというと、出征兵士が皆、東京駅から出て行ったためであるようだ。

○新たな国の施設をつくった場合の施設の性質等については、今後も随時、委員の皆様から事務局にアイディアを出していただきたい。


(3)閉会

○本懇談会は大体1年を目途ということで、報告書を取りまとめることとなるが、本日の懇談会で何名かの委員を起草委員に指名する。起草委員にはこれまでの議論を踏まえて報告書案を作成してもらい、今後はその報告書案に基づいて御議論いただきたい。