首相官邸 首相官邸 トップページ
首相官邸 追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会
 トップ会議等一覧追悼・平和懇談会開催状況 [印刷用(PDF)]

追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(第9回)
議事要旨(速報版)





1 日 時 平成14年12月13日(金) 15:00〜17:00

2 場 所 総理大臣官邸南会議室

3 出席者 

(政府側)
福田 康夫内閣官房長官
上野 公成内閣官房副長官(政務・参)
古川 貞二郎内閣官房副長官(事務)
(委 員)
今井 敬日本経済団体連合会名誉会長、新日本製鐵株式会社代表取締役会長
上坂 冬子ノンフィクション作家、評論家
田中 明彦東京大学東洋文化研究所長
西原 春夫学校法人国士舘理事長、元早稲田大学総長
御厨 貴政策研究大学院大学教授

4 議事概要

(1) 討議

○本日は、前回の懇談会での意見を踏まえて、報告書のたたき台を修正したものについて議論いただく。まず、事務局から読み上げてもらい、その後、起草委員から、前回のたたき台から変わった部分を中心に説明してもらいたい。

○(事務局)「第1 はじめに 本懇談会は、昨年12月14日、内閣官房長官から、何人もわだかまりなく戦没者等に追悼の誠を捧げ平和を祈念することのできる記念碑等国の施設の在り方について、国の施設の必要性、種類、名称、設置場所等につき幅広く議論するよう要請を受け、今日までおよそ1年をかけて検討を重ねてきた。本報告書は、その検討結果をまとめたものである。もとより、本懇談会で検討した事項は、いずれも、国民的な議論を踏まえ、最終的には政府の責任において判断されるべき重要な事柄である。本懇談会としては、21世紀を迎えた今日、国を挙げて追悼・平和祈念を行うための国立の無宗教の恒久的施設が必要であると考えるに至ったが、施設の種類、名称、設置場所等の検討項目については、実際に施設をつくる場合にその詳細を検討すべき事柄であることから意見を取りまとめるのは時期尚早であると考え、将来、施設をつくることとなった場合の議論の参考に資するため、施設の概要を指摘するにとどめることとした。
 第2 追悼・平和祈念施設の必要性 なぜ、今、国立の追悼・平和祈念施設を必要とする時期が来たと考えるのであろうか。日本の戦後に即して言えば、先の大戦の終結を意味する講和・独立から約半世紀、そしていわゆる冷戦終結から約10年がたち、グローバル化の進む中、新たな国際社会形成の動きが見られるようになっている。また、いわゆる9・11テロに見られるような世界平和への新たな挑戦が生まれている現在、平和についての国民の関心も高まってきている。さらに、近隣諸国等も、国際社会における日本の今後の在り方に注目している。このように、日本をめぐる内外の環境は大きな変革期の真只中にある。こうして迎えた21世紀の初頭であるからこそ、「戦争と平和」にこれまで以上に思いを致し、日本が平和を積極的に求め行動する主体であることを、世界に示す好機と考える。国内においても、とりわけ戦争も戦後の混乱等も知らない世代が国民の大半になることが予想される今こそ、この若い世代へ向けて、「戦争と平和」に思いを巡らし、「平和国家」日本の担い手としての自覚を改めて促す節目のときに違いない。要するに、国際社会の中で自ら一人のみで生きる国家という在り方がもはや困難になっている今日、日本は、他国との共生を当然の前提としつつ、追憶と希望のメッセージを国家として内外に示す必要がある。
 ではなぜ国家がそのようなメッセージを示すのに施設をつくる必要があるのであろうか。そもそも国家は多様な機能を持っており、時と場合によって国民に様々な作用を及ぼす。中でも、戦後の日本国家は、国民の生命、財産等に関し基本的人権を戦前の日本国家よりもはるかに明確に保障し、日本国憲法の下で「平和国家」として再生した。したがって、平和こそが日本の追求すべき国益であることが自明の理となった。にもかかわらず、「戦争と平和」に関する戦前の日本の来し方について、また、戦後の国際的な平和のための諸活動の行く末について、戦後の日本はこれまで国内外に対して必ずしも十分なメッセージを発してこなかった。しかしながら、日本が、国際的な平和のための諸活動はもとより、国際平和の構築へと積極的な一歩を踏み出そうとしている今日、21世紀の日本は国家として平和への誓いを内外へ発信すべきときに来ている。
 この未来への平和構築への活動を精神的に保障するものとして、当然のことながら、過去の戦争への深い思いが厳然として存在する。戦争は、人類にとって極めて悲惨な結果をもたらす最たるものである。言うまでもなく、明治維新以降日本の係わった対外紛争(戦争・事変)における死没者は極めて多数に上る。特に、苛烈を極めた先の大戦では、幾多の尊い生命が失われただけでなく、一命をとりとめた者にも、生涯癒すことのできない深い傷跡と後遺症を残し、今なお数多くの人々に深い苦しみと悲しみを与えている。また、戦後、日本は、日本国憲法に基づき、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、日本と世界の恒久平和を希求するようになったが、その後も日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や日本の係わる国際平和のための活動における死没者が少数ながら出ている。私たちは、このような事実を決して忘れてはならず、日本の平和の陰には数多くの尊い命があることを常に心し、日本と世界の平和の実現のためにこれを後世に継承していかなければならない。先の大戦による悲惨な体験を経て今日に至った日本として、積極的に平和を求めるために行わなければならないことは、まずもって、過去の歴史から学んだ教訓を礎として、これらすべての死没者を追悼し、戦争の惨禍に深く思いを致し、不戦の誓いを新たにした上で平和を祈念することである。これゆえ、追悼と平和祈念を両者不可分一体のものと考え、そのための象徴的施設を国家として正式につくる意味があるのである。
 未来への希望を語るための背景として、過去についての深い思いがなければその希望は薄弱なものとならざるを得ない。したがって、平和の誓いを立てる前提として、過去の戦争の歴史を振り返り、民族・国籍の別を問わず、前述のような死没者に思いを致す必要があろう。
 同時に注意すべきは、日本は、民主主義国家として当然ではあるが、国家として歴史や過去についての解釈を一義的に定めることはしない。むしろ国民による多様な解釈の可能性を保障する責務を持つ。したがって、国民は、一人一人の心の中にある個性豊かな「戦争と平和」の思いを、国が提供する追悼・平和祈念の象徴的施設に赴くことによって、改めて認識し直す契機を持つこととなる。
 総じて言えば、その場において、国民は一人一人、死没者を悼み、戦争の悲惨を思い、平和構築への思いを新たにすることになる。かくて、何人もわだかまりなくこの施設に赴いて追悼・平和祈念を行うことが、ごく自然の国民感情として可能となると思われる。
 第3 追悼・平和祈念施設の基本的性格 この施設は、日本に近代国家が成立した明治維新以降に日本の係わった戦争における死没者、及び戦後は、日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や日本の係わる国際平和のための活動における死没者を追悼し、戦争の惨禍に思いを致して不戦の誓いを新たにし、日本及び世界の平和を祈念するための国立の無宗教の施設である。
 日本と世界の平和を実現したいという日本国民の希望を今こそ国の名において内外に明らかにすべきであると考えた理由は、前述のとおりであるが、ただ平和を祈念するだけでは単なる願望にとどまってしまう。平和祈念は、当然、将来に向かって平和の実現のために努力するという意志を内容とするものでなければならない。そのためには、バランスの取れた安全保障政策並びに様々な国際的な平和構築の活動を行うことによって、武力行使の原因となる諸要因を除去することに、国としても全力を挙げるという決意を明らかにしなければならない。このような平和祈念は、日本人としては当然過去に日本が係わった戦争の惨禍に思いを致すところから出発することになろう。その残酷さ、悲惨さは、直接体験した者でなくとも、よく考えれば容易に推察できるところであろう。しかし、その中で最も重要なのは、戦争により掛け替えのない命を失った非常に多くの人のことである。その死の持つ意味の深刻さは、単に本人のみにとどまるものではない。大事な人を失った家族の悲しさ、生活上の困窮などにまで思いを致さなければ、その本当の意味は分からない。残されて今平和の真只中にある我々にとっては、そのような事実を直視し、その死を思って胸を痛めること、すなわち追悼することなしには本当の平和の意味も分かってこない。そうして初めて、不戦の誓いや平和祈念に深さが出てくるのである。
 追悼の対象は、国のために戦死した将兵に限られない。空襲はもちろん、戦争に起因する様々な困難によって沢山の民間人が命を失った。これらの中には既存の慰霊施設による慰霊の対象になっていない人も数多い。さらに、戦争の惨禍に思いを致すという点では、理由のいかんを問わず過去に日本の起こした戦争のために命を失った外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない。戦後について言えば、日本は日本国憲法により不戦の誓いを行っており、日本が戦争することは理論的にはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない。
 この施設における追悼は、それ自体非常に重いものであるが、平和祈念と不可分一体のものであり、それのみが独立した目的ではないから、宗教施設のように対象者を「祀る」という性格のものではない。したがって、前述のような死没者一般がその対象になり得るというにとどまり、それ以上に具体的な個々の人間が追悼の対象に含まれているか否かを問う性格のものではない。祈る人が、例えば亡くなった親族や友人を悼むことを通じて戦争の惨禍に思いを馳せ、不戦の誓いを新たにし、平和を祈る場としての施設を考えているのである。
 この施設は、国が設立する施設とすべきであるから、日本国憲法第20条第3項及び第89条のいわゆる政教分離原則に関する規定の趣旨に反することのないよう、宗教性を排除した性質のものでなければならない。これは、何人もわだかまりなく追悼・平和祈念を行うことができるようにする観点からも要請されることである。しかしながら、施設自体の宗教性を排除することがこの施設を訪れる個々人の宗教感情等まで国として否定するものでないことは言うまでもなく、各自がこの施設で自由な立場から、それぞれ望む形式で追悼・平和祈念を行うことが保障されていなければならない。
 第4 追悼・平和祈念施設と既存施設との関係 我が国にはいわゆる戦没者追悼の重要な施設として、靖国神社、千鳥ヶ淵戦没者墓苑がある。本懇談会は、新たな国立の施設はこれら既存の施設と両立でき、決してこれらの施設の存在意義を損なわずに必要な別個な目的を達成し得るものであると考えた。その理由は、以下のとおりである。靖国神社の社憲前文によれば、靖国神社は、「國事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため」「創立せられた神社」とされている。これに対し、新たな国立の施設は、前述のような死没者全体を範疇とし、この追悼と戦争の惨禍への思いを基礎として日本や世界の平和を祈るものであり、個々の死没者を奉慰(慰霊)・顕彰するための施設ではなく、両者の趣旨、目的は全く異なる。また、靖国神社は宗教法人の宗教施設であるのに対し、新たな施設は国立の無宗教の施設である。この性格の違いは、異なった社会的意義を保障するものである。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるために国が設けたものであり、ここに提案する新たな国立の施設とは、前同様に趣旨、目的は全く異なる。
 第5 追悼・平和祈念施設をつくるとした場合の施設の種類等 施設は大型の建造物ではなく、むしろ住民が気楽に散策できるような明るい公園風のスペースで、かなり大規模な集会ないし式典ができるような広場が有り、その一角に追悼・平和祈念にふさわしい何らかの施設があることが望ましい。できれば都心あるいはその近くにあることが望ましい。従来戦争や宗教に係わりのあった場所でないことが望ましい。名称については、趣旨を明らかにした上で公募したらどうか。この施設において政府主催の式典を行うかどうか、行うとして、どのような式典をいつ行うのかについては、政府で決定することが望ましい。
 参考意見 懇談会の委員であった坂本多加雄氏は、審議途中の本年10月29日に逝去され、懇談会の意見取りまとめに参加することができなかった。しかしながら、坂本委員の意見については、懇談会において各委員ともこれを十分踏まえ議論を行ったことを付記したい。以下、生前、坂本委員が懇談会において表明された意見を掲げる。
 まず、坂本委員は、終始一貫、新たな国の施設の必要性について反対する意見を表明されていた。この点を明確にした坂本委員御自身の手になる理念(案)は、次のとおりである。
 理念(案) 国の危機に殉じた人々を追悼し、顕彰することは、世界各国の国民に共通する普遍的な徳であり意志である。それ故、各国の政府は、そうした国民的な徳と意志を代表して、その国の伝統的・歴史的な形式に即して、しかるべき追悼の施設において追悼の行事を主催している。日本の場合、靖国神社は宗教法人法上は一民間宗教団体であるが、国民の大多数の意識の上では、まさしくそうした追悼のための公的施設であったし、現にそうである。政府は同神社への首相参拝その他の形で公的な追悼の義務を果たすべきである。したがって、官房長官の「国内向け」という観点からして、新しい施設建設の必要性・必然性はないと考える。
 国際化の中での新施設の在り方、追悼と平和祈念の関係について、坂本委員が懇談会において表明した発言要旨は、次のとおりである。
 平成14年2月26日第3回懇談会 今のお話はよく分かる。19世紀のナショナリズムが現在相対化されているのは事実で、EUの問題とか、ナショナリズムだけでこの国際社会を乗り切る時代ではないことは明らかだが、一般に先進国を含めて戦没者の追悼施設、記念碑について、従来のいわゆる敬意を表する形態自体をこの国際化の時代であるから見直そうという動きが各国で出ていれば、それはついに国際化もここに及んだかということだが、そういうことはないと思う。特に近隣諸国もそうで、韓国、中国でナショナリズムを超えた国際的な観点から戦没者を慰霊するような動きがあるわけではない。確かに一般論としてはナショナリズムの時代からインターナショナリズムの時代などというのはよく分かるが、戦没者追悼の形態というのは個々の国家の固有のものが多い。そういうときに、戦没者の追悼形式あるいは施設に関して現に新しいすう勢が起きているのかを考えなければならない。日本だけが仮にそういう新しいものを出すということの理由は何か。その場合は、まさに理念の問題を考えなければならない。だから、私は国際化の一般論とこの追悼施設の在り方がというのは必ずしもダイレクトではないと思う。
 平成14年4月11日第4回懇談会 いかに平和をつくるかというのにはいろいろな道があって、国民全部が高い国防関心を持っているために、相手方も攻めてこられないで平和になったこともあるので、一方的に受動的に平和を祈念して、戦争の犠牲者は気の毒だということだけ思っていれば平和になるというものでもない。だから、平和と追悼と並ぶのはいいが、往々にして今の文脈だと、一方的に「戦争の犠牲者である気の毒な人たちだ、こういう犠牲者を出さないために平和を祈念しましょう」という話になる。そのように受け取られる可能性は高いので、あまりその点では賛成しない。」

○第1については、言葉使いとか理論の表現の仕方で問題だと思われる点を何か所か修文した。第2については、前回は、なぜ今、国立の追悼・平和祈念施設を必要とするのであろうかという施設の必要性を述べたいとしたわけだが、今、平和祈念施設を必要とする時期がきたということを正面から出した方がいいということで、「なぜ今、国立の追悼・平和祈念施設を必要とする時期が来たと考えるのであろうか」と訂正し、それに応じて内容を多少修正した。それから、前回では、なぜ国家がそのような施設を提供する必要性を有するのであろうかということであったわけだが、これはその前に、日本は平和国家としていくんだという意思を明らかにする必要性があったし、またそれを明らかにすべき時期がきたということを書いているので、ではなぜ国家がそのようなメッセージを示す方法として施設をつくる必要があるのか、つまり、メッセージを示す方法はいろいろなものがあろうけれども、特に施設をつくる必要性は何かという点に重点を置きたいということである。いろいろな方法があるけれども、そういった平和国家として生きるという意思を表すためには平和の祈念ということが必要であり、そのためには戦争の惨禍へ思いを致して、戦争のために死んだ人のことを追悼して、そして不戦の誓いを立てて平和祈念をするという作業が必要である。こういうふうにするためには施設が必要なんだということをはっきりさせようとするわけである。
 第3について変わった大きな点は、この懇談会の基本的な考え方は、戦争の惨禍に思いを致して、特に戦争のために死んだ人を追悼して不戦の誓いを新たにし、平和を祈念するという一連の流れの中にあるわけだが、それにしても追悼するということの意味が少し没却されているのではないかという御意見があり、今、申したような一連の流れ、つまり施設の究極目標は平和祈念にあるけれども、追悼というのはそれと一体的なものと考えなければいけないほど重要なことであるということを明らかにするため、かなり大きく修正した。
 その第1点が、「特に、苛烈を極めた先の大戦では、幾多の尊い生命が失われただけでなく、一命をとりとめた者にも、生涯癒すことのできない深い傷跡と後遺症を残し、今なお数多くの人に深い苦しみと悲しみを与えている」という表現。そして「私たちは、このような事実を決して忘れてはならず、日本の平和の陰には数多くの尊い命があることを常に心し、日本と世界の平和の実現のためにこれを後世に継承していかなければならない。先の大戦による悲惨な体験を経て今日に至った日本として、積極的に平和を求めるために行わなければならないことは、まずもって、過去の歴史から学んだ教訓を礎として、これらすべての死没者を追悼し、戦争の惨禍に深い思いを致し、不戦の誓いを新たにした上で平和を祈念することである。」ということである。今述べたこととの関係で重複するものは削りたい。
 そして、もう一か所、追悼の部分を強調するということで、「このような平和祈念は、日本人としては当然過去に日本が係わった戦争の惨禍に思いを致すところから出発することになろう。その残酷さ、悲惨さは、直接体験した者でなくとも、よく考えれば容易に推察できるところであろう。しかし、その中で最も重要なのは、戦争により掛け替えのない命を失った非常に多くの人のことである。その死の意味の持つ深刻さは、単に本人のみにとどまるものではない。大事な人を失った家族の悲しさ、生活上の困窮などにまで思いを致さなければ、その本当の意味はわからない。残されて今平和の真只中にある我々にとっては、そのような事実を直視し、その死を思って胸を痛めること、すなわち追悼することなしには本当の平和の意味も分かってこない。そうして初めて、不戦の誓いや平和祈念に深さが出てくるのである。」と付け加えた。
 なお、前回、追悼という言葉の意味内容を明らかにしておいた方がいいということで、「その死を悼むこと、すなわち追悼することである」というふうにしたが、悼むことと追悼することでは同義語反復的になるので、その点を少し変えたいと考えて、「その死を思って胸を痛めること、すなわち追悼することなしには本当の平和の意味も分かってこない」と直した。この点については御異論もあるかと思うので、御見解を承りたい。
 それから、「この施設における追悼は、論理的には平和祈念の前段階のものであり」としたことについて、やはり追悼と平和祈念との意味合いが両者不可分ということをはっきりさせた方がよかろうということで、「この施設における追悼はそれ自体非常に重いものであるが、平和祈念と不可分一体ものであり、それのみが独立した目的ではないから、宗教施設のように対象者を「祀る」という性格のものではない」としたいと考える。追悼の部分がそれ以上に強くなると、今度はなぜ今この施設をつくらなければいけないかということの理論がつきにくくなる。追悼は平和祈念と不可分一体ということであるが、独立したものではないので、宗教施設のように慰霊とか、祀るとか、顕彰するというふうな目的はないんだと言い切れるのではないか。そして、初めて靖国神社との間の両立ということも言えてくるのではないかと、このように考えた次第である。
 その他、若干の修正があるが、これについては御質問があれば説明させていただくということにしたい。

○それでは、まず全体の構成から御意見をいただきたい。前回から変わった部分としては、目次のところの「終わりに」というのと「新たな国立の施設についての意見とこれに対する考え方」の部分が前回の意見で削除ということになったわけである。この全体の構成について、欠席委員からの意見を事務局から発表願いたい。

○(事務局)ほとんどの欠席委員は、意見は特にないということであるが、最後の坂本委員の発言について形式的な修正を提案された方がいた。同委員の発言のところで改めて紹介させていただきたい。

○構成についてはこれで反対はないと考える。それでは、順を追って御議論いただきたいと思う。「第1 はじめに」についてお願いしたい。

○これは前回とほぼ同じであり、変えたところは本質的な点ではないので、特に説明は必要ないと思う。

○第2の施設の必要性は、今お話があったように非常に分かりやすく直したとされているわけだが、何か更に意見はあるか。

○「追悼」という言葉の意味は、「死者に思いを巡らせる」ということで議論してこなかったか。

○「悼むこと、すなわち追悼すること」と、こういうことである。

○「悼むこと」ではなくて「思いを巡らせる」ではないか。

○それは別のところで使おうと思っている。どちらかというと、戦争の惨禍については「思いを致す」という言葉を使おうと思っている。

○では、この「追悼」というのは胸を痛めるということか。

○これは御意見を承りたいと思う。

○審議の過程では、追悼というのは「思いを巡らせる」ということだと議論した。ただ、この報告書の中には「追悼」という言葉だとか「思いを巡らせる」というのは出てくることになろうけれども、「追悼」という言葉を定義している場所がどうもなさそうなので、それでここで定義したらいいんじゃないか。前は、その死を悼むことなしにはとか書こうとしていた。だから、そこの表現を使って、その死を思って胸を痛めること、それが追悼だ、すなわち追悼するというふうに入れて、追悼というのはこういう意味でこの報告書の中では使っているんですよという形にここではしたんだけれども、果たしてその死を思って胸を痛めるということで先ほど言った「思いを巡らせる」ということと同じかどうか、いいかどうかという議論があり得るということを今、議論したいということであろう。

○「祈る人が、例えば亡くなった親族や友人を悼むことを通じて戦争の惨禍に思いを馳せ」という表現、これも追悼だと思う。だから、いろいろなところで追悼のことを書こうとしている。だから、追悼の解釈としては今おっしゃったところに書き込むことになろうが、いろいろなところに出てくることになる。

○なぜ今か、というのは、とにかくメッセージを内外に示す時期にきているということだと思うが、ではなぜメッセージを示すのに施設が必要か、メッセージを示すのに施設をつくる必要があるのかということを言っている。そして平和国家として平和を追求していき、内外に発信すべき時がきているが、そのためにその活動を精神的に保障するものとして過去の戦争への深い思いが厳然として存在する、ということをずっと書こうというわけである。  それで、戦前の戦争、戦後の死没者の意味合いのようなことを書いていき、こういう数多くの尊い命の上に今日の平和があるということである。だから、過去を振り返ることによって平和を祈念するということで、施設がなぜ必要かということの論理構成は「追悼と平和祈念を両者不可分一体のものと考え、そのための象徴的施設を国家として正式につくる意味があるのである」という表現にした。平和国家としてメッセージを出す、そのメッセージを出すことは過去の戦争への思いから始まって、追悼と平和と一体的なものの象徴的施設として国家がつくる、という論理構成になっているわけだが、この辺のことについて御意見を伺いたい。

○「未来への希望を語るための背景として、過去についての深い思いがなければその希望は薄弱なものとならざるを得ない。したがって、平和の誓いを立てる前提として、過去の戦争の歴史を振り返り、民族・国籍の別を問わず、前述のような死没者に思いを致す必要があろう。」という部分が本当に要るのかという感じがする。

○前の方で触れられていることの総括的な意味を持っているので、重複はあるけれども、これは大事なところだから残しておこうかというのが起草委員会の結論だったが、重複は確かにある。

○今回は追悼の必要性ということをかなり書き込もうとしているので、その部分は、直前に言ったことをやや繰り返している感じになっている。今のこの表現だとちょっとくどいかなという感じはする。直前で言おうとすることと全く同じになってしまっている。

○「民族・国籍の別を問わず」というのは、同じ内容が後に出てくるから要るのかなという気はちょっとした。  その後の「歴史の解釈を一義的に定めない、だから、一人ひとりがそれぞ思いを持って施設に施設に赴く」ということはあった方がいいように思う。

○今回は前の方に大分追悼の意味を書き込もうとしているから、先ほどの部分は省いてしまった方がかえってすっきりするのではないか。

○「民族・国籍の別を問わず」というのとダブるのはどこか。

○これは、後の「基本的性格」の方に出てくる。具体的には、外国の将兵や民間人という言葉を使っているところである。

○民間人で命を失った、というのがある。それから、「外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない」というのもある。外国人という範疇をつくったわけではないが、戦争で亡くなった死没者の中には外国人を区別するいわれはないということで、一般の民間人も外国人も全部入っているので、このところで「民族・国籍の別を問わず」ということを言う必要はないのではないか。
 それから、「過去についての深い思い」ということは、その前に、「来し方」とか「行く末」とかということで出てきている。

○「過去に日本の起こした戦争のために命を失った外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない」という表現の、外国の将兵、民間というのはちょっとあいまいではないか。

○考え方としては、例えば日本の国土防衛のために日本が武力行使した場合にそれに協力して死んだ外国将兵があり得る。それは恐らく追悼の対象になるだろう。ところが、日本に戦争を仕掛けた、あるいは違法行為を仕掛けてきたので日本がやむなくこれに応戦をしたためにその外国人が死んだというのは、違法行為者であるから追悼の対象には入ってこない。そもそもそういう者を追悼しようという気持ちには日本人はならないから自然に外れるとかというふうな考え方である。

○「戦後について言えば」と書くということだが、実際には「将来について言えば」ということである。だから、戦後と言っても1945年から今日に至るまで日本は武力行使をやった結果で犠牲になった外国の人というのはいないわけだから、ここで考え得るのは、今後の可能性について付言しているということだけだろうと思う。そういうことに関して、仮に不審船が日本の領海内で何かしたときに、日本側がそういう行動をしてそれで沈んで亡くなった外国人がいたからと言って、その人たちのことを思うというのは今の日本の国民感情からしてちょっと考えられないのではないかというようなことがここに書こうとしていることである。

○そうすると、論議の途中でいろいろ話題になった南京大虐殺の人はここに入るわけだろうか。

○そうであろう。

○大虐殺かどうかは分からないが、要するに日本の戦争行為によって亡くなった外国の民間人という意味であって、大虐殺があったかどうかというようなことは先ほど申し上げた「国家として歴史や過去についての解釈を一義的に定めることはしない」という表現を入れることで、そういう議論を排しているつもりである。

○この表現ぶりは「日本人と区別するいわれはない」というふうに、とにかく徹底してカコデリーを排除し、戦争に関与した死没者について胸を痛めるなり、思いを巡らすことが必要だというフィロソフィーである。だから、ここのところでいろいろと書こうとしているのは、やや丁寧に説明してみれば、戦争で死没した人たちの中で、外国籍とか民間人ということを区別するいわれはないだろう、と言おうとしているわけである。

○死没者という非常に広い範疇があって、それは軍人であるとか、軍属であるとか、一般人であるとか、外国人であるとか、そういうことは言わない。戦争に起因して死没された方は皆、含まれる。ただし、戦後、今言われた北朝鮮の不審船とか、そういうものは向こうの不法行為だから、不法行為を我々が悼むということは犯罪者を悼むということになっておかしい。

○国際平和の理念に違背する行為をした者というのは、つまりはテロリストである。だから、テロリストで自爆をしかけて大爆発する者が日本人の生命を奪ったときに、その人たちまで悼みますかというのは、今の日本の国民感情ではそこまではなかなかいかないということではなかろうか。

○戦後については民間人も入るのか。

○入り得る。今後、そういう自衛行為があった場合である。

○それから、国際平和の構築のために日本を代表して活動しているという人であれば、当然民間人でもこの中で心を痛め、思いを巡らす対象になるということである。実際には少数いるとここに書いてある人は民間人である。

○自衛隊の人も1人か2人いたようである。

○警察の方もいらっしゃった。

○文体上のことを言えば、第2の「しかしながら、日本が、」というので始まるところだが、私にはこの前と後ろが「しかしながら」で逆説につながるというのは文体上ちょっと違和感がある。どちらかと言えば、この「しかしながら」を取ってしまえばそれで済むのではないかと思う。

○「しかしながら」というのは、これまでやってこなかったけれどもやらなければいかぬという意味である。

○そういう意味であろうが、ただ「しかしながら」と言うと、私などの語感で予想される次のセンテンスは、十分なメッセージは発してこなかったけれども、別のところでこういうことをやってきましたよと言っているような感じになる。前のパラグラフの意味を減じるような接続詞に聞こえる。だから、これは取ってしまった方がいいと思う。

○メッセージを発してこなかったけれども今は要るよ、という文脈が何か要るような気がする。

○だから、もし「発してこなかった」で受けるんだったら、私の語感だと「したがって」になるのではないかと思う。「しかながら」というふうに逆説になるよりは、「発してこなかった」と言っているということは、それがよくないと言っているわけで、だから正しいことをせよ、と次になるときに、「しかしながら」という逆説は私の語感からするとちょっと変である。

○確かにここは何か一言接続詞がないと逆に唐突な感じがする。「しかしながら」が適当かどうかは分からないが、そのままつなげると逆に違和感がある。どういう修文がいいだろうか。

○「そこで」というのはどうか。そうすると「発信すべきときにきていると考える」とかに文末を変えなければいけない。

○例えば、「メッセージを発してこなかった。」の次に「今や日本は国際的な平和のための諸活動はもとより、国際平和の構築へと積極的な一歩を踏み出そうとしている。21世紀の日本は国家として平和への誓いを内外へ発信すべきときに来ている」、という文章を入れたらどうか。

○私の気持ちでも、何かメッセージを発してこなかったのを否定する気持ちを出したい感じがある。「しかしながら」というのは、その意味を入れることができると思う。

○平和こそが日本の追求すべき国益であることが自明の理となった、にもかかわらず、戦後メッセージを発してこなかった、とするのであれば、「しかしながら」というのはやはり引っ掛かるような気がする。

○「そこで」も合うかもしれない。「そこで」にしてはどうか。

○その最後は「内外に発信すべきである」となるのではないか。

○それでいきたい。

○もう一つ文体上の話だが、「戦争は、人類にとって極めて悲惨な結果をもたらす最たるものである」との表現については、これは大変強いメッセージでいいとも思えるが、前後とどう関係するのか。特にこのパラグラフがなくても続くのではないかと思う。

○要らないと思う。

○確かに取っても通じる。

○「残されて」という表現の部分は、私のような年代の感想かもしれない。つまり、ほかにいっぱい死んでしまって、残されて自分たちだけが平和を享受しているという意識が私などにはある。けれども、もっと若い年代の方にそういう意識があるかどうか。だから、これは取ってしまってもよく、今、平和の真っ只中にあるとかの表現でいい。

○特にこの追悼・平和祈念施設の場合で日本人として見ると、20代とか30代の人たちは「残されて」と言ってもお父さんやお母さんは皆いるだろう。

○「よく考えれば容易に推察できる」の「容易」は、実は容易ではないのではないかと思う。その後ろでは、そんなに容易じゃないですよと、その本当の意味は分からないと書こうというわけだから。

○「よく考えれば容易に」は、取ればいいのではないか。

○経験したことがなくてもよく考えれば推察できる。「容易に」を取ればいい。「その残酷さ、悲惨さは直接体験した者でなくとも、よく考えれば推察できるところであろう。」。

○それは取ろう。

○それから、「すなわち追悼することなしには本当の平和の意味も分かってこない」という表現だが、平和の意味も分からないとか、この「分かってこない」というのは文章とした場合はどうだろうか。「分からない」でいいのではないかという気がする。

○「分からない」でいい。このごろ「よく分かっていません」とか、「分かる」が随分変な使われ方をしている。

○その前に「分からない」とするものだから、それを避けた面はある。

○それはどちらかを「分からない」にして、どちらかを「理解できない」とかにすればいいのではないか。

○前を「思いを致さなければ、本当の意味は理解できないであろう」とし、その後は「分からない」でどうか。

○「分からないのではないか」くらいはどうか。

○そうすると、その次が「そうして初めて」のままでいいか。

○「これを踏まえて」とかになろうか。

○追悼の意味を強調したかったので、こういう意味での追悼があって初めて、という意味で「そうして」と表現しようと思った。

○全部「これら」でまとめてしまって、「これらを踏まえてこそ不戦の誓いや平和祈念に深さが出てくるのである。」としてはどうか。

○この全体の構成は、第2の「なぜ今」でものすごく平和を強調しているわけである。その中で「追憶」が出てくる。これは、平和の行動を起こすことが大事だと言って、若い世代に「戦争と平和」の両方に思いを巡らせと、ここで言っているからいいのだろう。

○とにかく、平和だけではなくて「「戦争と平和」に思いを巡らし」と言っている。

○ここに二つとも「戦争と平和」というのを使っているのは実はそういう意味がある。

○そこで「追憶と希望」になるわけか。

○そうである。そこへつながっていくという論理構成にしようと考えている。

○施設は平和へのメッセージであるが、それは追悼と不可分の性質ということでずっと追悼のことを書こうというのである。追悼と平和祈念は不可分一体で、その象徴的施設として国が正式につくる意義がある。そして、ここに行かれる方は全部自分の思いで行く。そこで初めて「何人もわだかまりなく」ということになるわけであろう。「何人もわだかまりなく」というのは、この部分と、宗教施設ではないというところにもう一回出てくる。宗教性を排除しているから「何人もわだかまりなく」と。ここの「何人もわだかまりなく」というのは、国民一人ひとりの心の問題だからということである。

○最初の「わだかまりなく」が、民主主義国家だからというのでかなり広く、後のほうはどちらかと言うと政教分離と関連する。

○後者は宗教から見て「何人もわだかまりなく」ということであり、前の方は一人ひとりの心の問題ということである。

○だから、そこを強制しないということによってわだかまりなくということである。

○なぜ国かという部分とこの施設の性格というところとは、かなり戦争の問題がダブって出てくることになるが、ここはやはり強調した方がいいであろう。

○「戦争の惨禍に思いを馳せ」の部分か。

○そうである。例えば、第2のところでは、平和活動への精神的な保障として過去の戦争への深い思いが厳然として存在するとしてずっと出てくる。そして、第3のところでも、平和祈念は戦争の惨禍に思いを致すところから出発するというところがずっと出てくる。これは民間人も含むし、外国人も区別しないとずっと出てくる。この辺は意識的に両方を強調している。

○これは多少重複であっても繰り返す意味もあるだろう。

○追悼ということに力を入れているわけだな。

○そうである。

○全体の論理構成は、平和祈念、平和の行動のために日本が何かしなければいけない、その前提として追悼ということが出てくるけれども、その追悼というのは、前提と言っても、とてつもなく重くて大事な追悼なんだということを言いたい、というのが文章の行間に表れているということじゃないかと思う。

○必要性というところは、平和祈念に重きがあって、基本的性格のところは、追悼に重きがある。そのように考えれば、繰り返しがあっても重点は違う。必要性の方は、もちろんまず平和祈念があって、しかし追悼もあるということだが、基本的性格の方は、今言ったように、その追悼の意味が余りにも大きいということを強調する、そういう構成である。

○追悼だけだと、広い対象者についてなぜ今やるんだということになるが、平和祈念は今やらなければいけない、その際追悼は平和祈念と不可分一体のものであり、両方大変大事だということである。

○なぜ追悼が大事かということで、死没者の多さ、惨禍、戦争というものの怖さというようなことを強調しているが、国家としてそのために命を投げ打って国を守った人たちに対してその顕彰をするとか、敬意を払うというような観点での追悼については書いていない。

○靖国神社でやっていることとは性格が違う、社会的使命も違うということである。

○靖国神社に代わるものをつくると思っている立場の人からすれば、これでは変わっていないじゃないですかということになるけれども、本懇談会でずっと議論をしてきたのは、靖国神社に代わるものをつくろうとしているわけではない。そうすると代わるものではないという理論をここに書こうとすることになると思う。

○理解されるかどうか問題は残ると思う。

○例のアメリカのテロへの報復などとの関係で、国民の間に一方においてはただ平和、平和と言うだけではだめで、やはりテロの殲滅のために武力が要るということを感じながら、では日本が全面的にアメリカと一緒になって徹底的にやるのがいいかというと、かなり違っているという気がする。そういう点からすると、平和活動をして生きようという気持ちというのは時間が経っていけば国民のかなりのところに受け入れられるのではないかと思っている。

○平和の方はもちろんそうだが、追悼の方はどうだろうか。前回も言ったが、私は追悼・平和祈念ではなくて平和祈念の碑でいいと思う。でも、もうここは話がまとまっているので結構である。

○なぜ国がつくらなければいけないかということは、平和のメッセージを内外に示すべきであると。しかし、その活動を精神的に保障するものとして過去への深い思いが要るというということで戦争に触れて、そしてそれを後世に継承していかなければいけないということで、惨禍に深く思いを致して不戦の誓いを新たにし、平和を祈念する。その不可分の追悼と平和の象徴的な施設として国家としてこういうものをつくるということであろう。しかし、その施設は国民一人ひとりの心の問題だから、そこには何人もわだかまりなく行ける。次の第3の基本的性格のところは、平和というのはただ祈念するだけではなくて行動しなければいけないということも言い、しかし、平和祈念というのは当然戦争の惨禍に思いを致すというところから出発するということで、また戦争の悲惨さと、戦争の死没者というのは民間人、外国人等、要するに戦争に係わった死没者が全部入るんだということを言って、それで、施設における追悼の意味は非常に重いけれども、平和祈念と一体であるから、死没者一般が対象になるのであって、個々の人を祀るのではないと、そういうことでいわゆる靖国神社とか千鳥ヶ淵との違いを明らかにしている。非常に重いので、戦争の死没者そのもの全体に対処しているのであって、死没者全体を範疇としている。そこに行く人は個々の気持ちで、近親者とかは思いを巡らせながら惨禍に思いを致して不戦の誓いをしてという考え方である。

○第2のところと第3のところが繰り返しになるのはやむを得ないというか、必然的なことであって、第2と第3は同じことを違う角度から言っている。だから、なぜそういうものが要るのかというのが第2であるけれども、その中身はどういうものだということを言わないでなぜ要るんだと言えないわけだから、中身は当然出てくる。第3は、そうやってでき上がったものはどういう性格を持っているのかということから言えば、その必要性のところで出てくる議論はここに出てこないはずはない。だから、その辺で繰り返しになるのは当然と言えば当然である。そういうふうに読んでいただくとそれなりによく分かるだろうと思う。

○「何人もわだかまりなく」というところは2か所書くことになるが、1つは、この施設は、歴史認識とかいうものは民主主義国家として一義的に定めない。国民一人ひとりの多様な解釈を国が保障している。国民一人ひとりが戦争と平和のそれぞれの思いでもってこの施設に行って、そして全体の死没者を悼んで戦争の惨禍に思いを致して平和構築へ思いを致す。だから何人もわだかまりなくできる。特定の人をどうのこうのではない。それが初めの「何人もわだかまりなく」である。
 それから、次は、これは宗教性を排除した性質の施設だから何人もわだかまりなくできるんだと。しかし、宗教性は排除しているが、宗教感情まで国が指定しているのではないから、ここで例えば神道で二礼二拍手でも、あるいは数珠を持っていっても、あるいはキリスト教でも、それは自由ということであろう。無宗教な施設であるが、宗教感情まで指定していないから各人が自由におやりくださいという考え方である。

○そういうことであるから、第5のような形で施設については、こういうようなものがいいと我々は考えているということになるのだと思う。

○必要最小限の言葉で、靖国と千鳥ヶ淵との差異はこれで極めて明らかだと思う。靖国は慰霊顕彰だけれども、こちらは全体の死没者を追憶する。そして、平和を祈念する。それから、靖国は宗教法人の宗教施設だけれども、こちらは国立の無宗教の施設である。千鳥ヶ淵はお墓だけれども、こちらはお墓ではない。必要最小限のそういうようなものをおつくりいただきたいというのが第5である。

○(事務局)欠席された委員お一人から、坂本委員の発言について、発言冒頭の「今のお話はよく分かる」から引用するのでは分かりにくいのではないかとの意見が出ている。

○あった方が本当はいいと思うが。

○これはなくても十分通じるし、唐突だから、やはり取った方がいいと思う。

(異議なし)

○こういう報告書が出されたら、またいろいろな反応、反響があるだろう。私の立場を明らかにしておきたいが、私は国立の無宗教の平和祈念というので、その点には全く異論がない。ただ、個々の問題になると皆そうだと思うけれども、やはり気持ちの上でのずれとか、いろいろあったということは御承知いただけると思う。皆が一致しなくてもいいわけか。基本的なところでは私はずれていないが、やはり私にとっては非常に高邁過ぎて、高邁と低俗で低俗の方が譲ったという気持ちがある。

○それは参考意見を付けるようなことになるか。

○それほどの思いはないし、参考意見にすると長々となるし、坂本委員の意見が付いているから、こういうものは短ければ短い方がいいと思う。ただ、いろいろなことを聞かれたときに、そういうことを口走るかもしれない。

○私どもはこれが終わってしまえば、それについて意見を言われれば、これと全く同じセンテンスで同じことを繰り返すことはあり得ないわけで、やはりそれなりに意見を言うと思う。それで、坂本委員と私どもが違うのは、私たちにはそういう意見を言う自由があるにもかかわらず、彼はもうないという事情でこの参考意見があると思う。私どもは場合によったら、あのセンテンスは私は実は気に入らなかったんだと言おうと思えば言えないわけではないと思う。

○それはいいのではないだろうか。確認だが、追悼は要らないということになるのか。

○要らなくはないけれども、表に出して物議をかもすよりもすっきりしてタイトルとしては要らないという考えである。ただ、基本的に国立の無宗教の平和祈念の碑をつくるということについては反対していない。

○それで、その施設は第5に書くようなものであると。明るい公園風でというふうな、ここはよろしいか。

○もちろんである。だから、基本的なところでは意見は同じであるが、私の方がもっと近視眼的に、今日的な意味で、もっとはっきり言ってしまえば頭の中にいつでも近隣諸国を鎮めたいという思いがあった。だから、追悼哲学よりも、どうしたら黙らせられるかみたいなことがいつもあった。

(2)閉会

○本日修文した内容については、本日欠席の方があるので、改めて皆の意見をうかがい、最終報告に向け作業を進めていきたい。