「21世紀日本の構想」懇談会

第4章 美しい国土と安全な社会(第4分科会報告書)

T.開かれた社会の環境と安全の確保に向けて

 日本の国土は、地震・噴火・山崩れ・水害・津波など自然災害におそわれる固有の弱さをもっている。こうした自然災害に対しては、安全確保のために科学技術を駆使した不断の努力がはらわれてきた。しかし、天災から完全にのがれることは不可能である。加えて、人災がある。科学技術の日進月歩の発達は、新しい危険を生み、危険の性質を変えていく。未知なるものに対する不安感はむしろ高まっている。日本に限らず現代社会は、医療の進歩、航空機などの交通の利便の向上、コミュニケーション技術の発達などに代表される科学技術の輝かしい成果を享受する反面、その発達に随伴した陰の部分、たとえば地球環境問題、内分泌撹乱物質など、安全をおびやかす要素は枚挙にいとまがない。また、急激な進展を見せているインターネットなどの情報技術は、国の内外の人々をネットワークでむすぶ新しい道を開いたが、プライバシーの侵害からサイバー・テロにいたるまで従来にない脅威を生んでいる。自然のもたらす天災に加え、これまでにも増して、人間活動がもたらす人災に直面する時代において、暮らしの「豊かさ」が改めて問い直されなければならないだろう。

 自然界が多様であるように、人間の社会も多様であり、各地に住まう人間の価値観も多様である。グローバル化と情報化と交通の発達によって、移動する人口(交流人口)も急激に増えており、今後、日本に住む外国人も一段と増えてくるであろう。21世紀の日本は異なる価値観が共在し、多様性を尊重する開かれた社会になりつつある。それは社会の活力を高めるにちがいない。

 その一方で、美しい国土や安全を守っていくために、日本人以外の人々との協力をふくむ、これまでにない努力がもとめられるだろう。まして、人間の活動が環境の破壊などの新しい危険を生み出しているとしたら、そうした人間の多様性を尊重しながら、環境や安全を守るためには、政府・企業・個人などのさまざまな社会の主体が、それぞれの役割を問い直し、新しい関係をつくりあげていかねば対処できない。それは従来の日本特有の縦割り的な社会の仕組みを改めることになろう。

 ここでは、美しい国土と安全な社会を実現する構想として、@暮らしの豊かさとは何かを問い直す必要があること、A環境の保全と安全の確保のためには個人と社会との新しい関わり合いが必要であること、Bその新しい関係の実践の場としての「地域」の自決が必要であること、そして、C新しい時代の危機管理の戦略が必要であること、の四点を提言したい。

 多くの人にとって「自分の住む地域社会が美しく安全である」とごく自然に誇ることのできる暮らしが理想である。美しい自然環境・生活環境をもち、安全な社会をきずくことは、地球上に住まう人々の望みでもあろう。交通・通信のさまざまなネットワークをとおして、世界各地が結びつき、相互依存を深めている。地球はますますせまくなっている。日本は、先進国の一員であり、地球社会に貢献する責務がある。美しい環境や安全のための日本の国づくりは、自らが住まう地域社会のためのみならず、様々なネットワークをとおして地球社会への貢献になりうるであろう。

U.物心ともに豊かな暮らし

1.魅力ある文化の創造

 国民が日本について誇りに思うことのなかで、「美しい自然」「治安のよさ」「長い歴史と伝統」はつねに上位にある。しかし、経済成長を重視した画一的な開発がすすむにつれて、それらが失われてきたようにも思われる。そこで、環境と安全の問題を検討するにあたって、まず、日本のアイデンティティの基礎をなす「文化」について、経済とのかかわりの側面から考え直してみよう。

 すでに20年前、経済成長一辺倒の「キャッチアップの時代」が一段落し、これからは「文化の時代」であるという認識のもとに、大平内閣は文化重視に舵を切りかえようとしたことがある。その後、企業はメセナの一環として文化をさかんに支援し、国民もそれを歓迎した。それは企業社会において文化への理解がすすんだことを示すものであったが、バブルが崩壊すると、引きつづき高い使命感をもって文化活動を支援し続けている企業もあるが、全体の規模は縮小している。「文化の時代」の定着をはかるには、いまいちど原点にたって、知恵を絞らねばならない。

 われわれが日常つかう「文化」という言葉は、茶・能・歌舞伎・博物館・美術館・コンサート・講演会・祭といった芸術や芸能、学問、文化財などに対して用いられることが多い。もちろん、それらも文化の一部である。ただ、それらは、文化を植物にたとえていうならば、花の部分であり、花をささえる葉、茎、根、土も、おなじように、文化であることが忘れられている。日本の文化とは、日常生活に花を添える営みのみならず、日本人がこの風土のなかで生まれ育って身につけていく立ち居振る舞い、衣食住の暮らし、価値観、生活様式などの総体である。

 文化は、学問的には、「生活様式」と定義されている。文化の定義である生活様式とはひらたくいえば「暮らし方」であり「生き方」である。日本の文化とはまさにひとりひとりの生き方の総体にほかならないのである。すなわち、文化の時代は、ひとりひとりの「暮らし」と「生き方」を大切にし、各人の一度きりの「人生の質」をあげる時代だということである。ひとりひとりが、その生き方において、人生の質を高めること、それが文化を高めることにほかならない。

 もうひとつ忘れてならないことがある。文化は経済活動と不可分の関係にあるということだ。これまでは文化と経済とは切りはなして考えられがちであった。それは経済活動が生産活動に偏して理解されてきたからだと思われる。経済活動は生産と消費からなる。もちろん日本にはすばらしい「ものづくり」の文化があるが、消費のありかたも生き方、暮らし方、生活様式を決めている。消費は経済行為であるとともに、文化行為である。国、そして、ひとりひとりが、消費の質に意を用いることも、文化を見直す上で重要である。

 21世紀を前に、文化の大交流時代が幕をあけている。世界の総人口60億の一割にあたる6億もの人々が、仕事・観光・留学などさまざまな目的をもって動いている。交流人口が生む経済規模は各国のGDPの世界合計の十分の一にも達している。2010年にその規模は10億人に達するとみこまれている。地球大の大交流が加速しているのである。交流の反面には、当然ながら、摩擦や衝突、場合によっては対立抗争さえある。

 しかし、対立よりも交流のほうが、はるかに大規模にすすんでいる地球社会の現状をふまえるならば、世界の人々の異なる生き方の多様性を尊重するにとどまらず、それを楽しむすべを身につけるのが大切であろう。ある国の人々が、みずからの文化を別の文化をもつ人々に押しつけることは道義にもとるであろう。異なる文化をもつ者同士の交流の基礎は、排除したり押しつけることではなく、互いに惹きつけあうことが望ましい。排除や押しつけをつつしみ、異なる文化的背景をもつさまざまな人々をも惹きつける魅力ある文化をもつこと、それは、社会がますます外に開かれたものになる時代をむかえての基本的な姿勢でなければならない。

 そのためにはなによりも国民各層がみずからの生き方に誇りを感じ、日本人の暮らしのたたずまい(生活景観と自然景観)が、国籍や文化のちがいをこえておとずれる人々に魅力ある美しいものという印象をあたえ、尊敬されることが大切であろう。それは交流を促進し、信頼の輪をひろげるだろう。それは文化交流を通じた安全保障である。

 文化とは、繰り返しいうならば、各個人の「生き方」にほかならない。その総体としての暮らしのたたずまいが、美しく、治安がよいものになることは、求心力を獲得することである。惹きつける力をもつ魅力ある文化は、他の地域社会にひろまっていく。広まれば「文明」といえるだろう。21世紀の日本の課題は、日本人の暮らしをひときわ魅力あるものにすることではあるまいか。それは「文化の時代」というよりも、すぐれて新しい「文明の時代」を切り開くことであろう。

2.「もの」の価値の再発見

 経済が文化と不可分の関係にあり、経済成長が各人の人生の質、すなわち文化を高めていく手段であるとすれば、経済成長を自己目的にする姿勢は反省をくわえなければならない。それは「豊かさとは何か」「富とは何か」について、一から考えなおすことであろう。

 富を貨幣価値でみれば、日本のGDP(国内総生産)は世界第二位である。それは20世紀の日本が達成した素晴らしい実績である。しかし、物が豊かでも、心が豊かであるとは限らない。実際、高度成長期以後、日本社会には物の豊かさよりも、心の豊かさを渇望する人が多くなっている。心が貧しくなれば、悪事と結び付きやすくなり、社会に不安をもたらすであろう。一方、物が本当に不足すれば、心も鬼のようにすさみかねない。貧困は悪の温床になりやすい。だが、日本はその努力によって物はあふれるほどに富み、世界の多くの地域のおかれている貧困の苦しみからはまぬがれている。物の豊かさと心の豊かさを両立させることこそ、現代日本人に問われている努力目標ではあるまいか。

 「もの」は「心」とわけられがちである。物と心の二項対立は近代西洋に特有の思想であるが、日本には「ものごころ」という言葉があったり、土地にも魂があるといわれたり、「もの」と「心」をわけない思想がある。そこであらためて、経済指標にひきつけてとらえられがちな「豊かさ」ないし「富」について、生き方や暮らしという文化の観点から見直してみよう。

 「もの」の豊かさが、生産・消費された物の貨幣価値のみで測れないことは明らかである。街並み、里山、水辺の景観などは、貨幣に換算できない。だが、まちがいなく価値がある。一般的にいえば、いかなる「もの」にも固有の価値がある。ゴミには貨幣価値はないが、再利用できる潜在的な価値がある。

 貨幣価値では測れない「ひと」や「もの」の潜在的価値をみつけ、それをとりいれて暮らしに厚みをつけることは、環境と調和した循環型経済へと社会を改革していく推進力になる。大量生産・大量消費・大量廃棄型経済社会システムのもと、これまで暮らしの豊かさよりもむしろ、国家レベルでのマクロな経済量を追求してきた。だが、それが暮らしをおびやかす廃棄物による環境負荷、有害人工化学物質による環境汚染など未解決の環境問題を山積させることになった。しかも、廃棄物のリサイクルをしたくとも、現状は楽観を許さない。リサイクルにかかわる制度、産業構造、科学や技術などの基盤が未整備である。現行では、廃棄物の発生抑制や発生した廃棄物をリサイクルすることは高コストをもたらす。そのコストを下げ、さらには廃棄物の少ない社会にするには格段の工夫がいる。

 科学や芸術は、「もの」の固有の価値を発見し、暮らしにとりいれるために重要な役割をもつ。地域がもつ博物館、美術館、コンサートホールなどをその地域に住むあらゆる世代の人々がフルに活用し、互いに出会ってコミュニケーションを深め、生涯学習に役立てる工夫がいる。また、野外活動、自然観察(フィールドワーク)など、子供たち、若者たちが、日本のさまざまな地域の自然やそこでの暮らしをより深く理解できるような、教育と結びついた仕組みが考えられてよいだろう。科学や芸術は「ひと」が自己の能力をのばし、「もの」の固有の価値を発見するために重要な役割をもつ。科学的探求心や芸術を愛することは、心を豊かにするにちがいない。

V.「活かし合う社会」づくり ― 個と公の新しい関係

1.関わり合う「たくましくて、しなやかな人」

 環境の保全と安全の確保は、日々の暮らしにおいて人々が求める最も基本的なことがらである。同時に、人々の協力がなければ得られないものでもある。個人はいかに環境の保全と安全の確保といった公共的な要請に対して関わり、社会はどのようにして人々の協力をまとめ上げればよいのだろうか。

 もとより、いかに国家が周到に環境や安全の確保につとめても、国土のもっている脆弱性や社会の安全性への不安をすべてとりのぞくことはできない。災害や事故はかならずおこる。災害や事故や環境の悪化の影響は地域に集中する。そこでは、国や地域の政府のみならず、地域社会全体の対応力が試されるのである。阪神・淡路大震災のときにしめされたように、緊急時における地域コミュニティの役割はきわめておおきい。環境の保全や安全の確保はもはや政府のみのよくするところではない。それを政府のみにゆだねれば、対応能力を引き下げるであろう。政府のみならず、NPO・ボランタリー組織や地域社会の住民が協力して主体的にとりくむべきことがらである。

 しかし、政府主導で近代化をとげた日本は、公共性にかかわる国土の保全や安全の確保を政府にゆだねてきた。公共性は政府がになうという無関心な態度が広がり、政府は利益誘導、縦割り行政となり、政府への依存体質を深めた。それがシステム全体にモラルハザードを生み出している。われわれはいま一度、失われつつある個の自立と自己責任の原点にたちかえり、人のもつ公共性について思いをめぐらさなくてはならない。

 戦後、日本経済は高度成長する一方で、社会における人間関係には大きな変化がもたらされた。家族や地域社会の旧来のむすびつきがくずれ、人が自由をもとめ、自己主張を強くした反面、孤独にもなった。そして、自己中心・利己主義の傾向が強まっている。個人主義の思想のもとに自我の確立をもとめた近代日本社会では、旧来の人間関係を「しがらみ」としてマイナスにとらえ、一人になって「強い人」になろうとしてきた。家庭や地域社会などにおける人と人との関係の断絶は、慣習や伝統の軽視、人の心の痛みを理解する心の欠如をうみ、旧来の社会的関係が果たしていた安全機能を弱めている。他人や社会への無関心は、「公共性をになうのは政府の役割」という依存体質を強め、「事故が起きたのは政府の責任」という責任回避となってあらわれているのである。

 人は生まれたとき「子宝」といわれるが、そのことをあえて言うまでもなく、公共的な性格をもって生まれてくる。人がもつ本来的な公共性を回復していくためには、「目交(まなかい)」という乳児と親とが見つめ合って心を通わせる活かし合いが根本にあるだろう。家族から社会全体にいたるまで、古い日本社会に見られがちであった異なる意見をもつ人を排除するのではなく、むしろたがいを活かしあう関係が大切である。

 もとより、人は、一人の個人として尊厳をもつ存在である。しかし、天災や人災に対し安全は一人では確保できない。協力は不可欠である。そこに人のもつ社会性があり、公共心を発揮すべき根拠がある。各人が個として自立するのみならず、他人の自立を助ける「たくましくて、しなやかな人」になることが求められているのではないか。それは孤立して他との関係を絶とうとしがちになるのではなく、人やものに進んで関わりを持つ(コミットする)人間のことである。たくましい人こそ、危機にさいして、頼りになる。自己責任の意識も、人と社会にコミットする生活のなかでおのずから生まれてくるものであろう。自立し、かつ社会にコミットする人こそ、しなやかなたくましさをもつ人といえるだろう。人は生命、自由、幸福を追求する権利をもつが、それは公共の福祉を共に実現していくかぎりにおいてである。国民主権の基礎が各人の自己責任にあることを自覚するならば、各人が自然環境・生活環境の改善に積極的に関わりを持つ用意があること、いいかえれば公共的役割をになうことが、国土の保全と社会の安全とを確保してくうえで最大の鍵である。

2.活かし合う透明な制度

 人が個として自立しつつ、環境保全や安全確保のためにコミットしやすい社会の仕組みはどのようなものであろうか。

 個人の多様性を尊重する社会では、上から管理する垂直型の規制は不適切であろう。政府が上から方針を示し、それに人々を従わせる方法は、もはやとれないだろう。政府も国民も、もともと完璧な安全は保証されていないこと、また、政府だけでは環境や安全を維持しえないことを肝に命じ、両者がパートナーシップを組むことがもっとものぞましい。互いの長所と短所を認め、相補いあうのが成熟した社会である。異なる利害にかかわる政策の意思決定過程を透明にし、国民各層が理解を深め、応分の負担をしていくことが必要である。

 まず、個人は、多様性を尊重され、自由を享受するとともに、今まで以上に自己決定と自己責任がもとめられる。個人の自己責任の前提として情報の提供が不可欠である。インフォームドコンセントいう考え方は、医療における医師の説明と患者の同意だけでなく、もっと広い範囲で応用されるべきであろう。建築物の安全性なども、安全度の評価を情報開示し、市場で価格に反映させる仕組みが必要となろう。

 自発性が重んじられ自己責任の原則が共有されれば、政府の役割は、自らの決定をおしつけることから、様々な価値観や利害の中から一つの政策を生み出していくための調整機能をになうものに変わっていくであろう。自己責任の原則に立つ社会をつくりあげるには、各人が主体的に環境保全や安全確保のための力を発揮できるような仕組みが望ましい。自発的な参加が個人が自己責任をまっとうする前提といえよう。

 その上で、社会は、そうした個人の多様な意見を前提にして公共心を築き上げていく以外にない。国土や環境の保全、社会の安全といった公共善のためには、個人の自由や私権を制限しなければならないことが起こりうる。それを実施するには透明な制度を持つことが不可欠である。様々な異なる意見をひとつの意思にまとめあげ、そうして築き上げられた志をもって実行する公徳心の高い社会を築いていくためには、情報を公開し、安全や環境に対する様々な期待度や許容度の中からコンセンサスをつくりやすい仕組みづくりがもとめられる。政府は情報開示をためらったり、政策決定過程を不透明にしてはならない。政策担当者には説明責任(アカウンタビィリティ)があり、政策の透明性を保証する義務があるだろう。さもなければ、利益誘導やフリーライドの弊害がうまれ、人々の信頼がうしなわれる。それが、国土の保全、環境保護といった一個人が自発性だけでは解決できず、政府の役割が不可欠の問題について、政府の政策をいざ現実に実行するときの効力をそこない、実施能力を低下させる原因にもなる。また、事前に規制する手法から、ルールを明確にし、ルール違反があった場合には、罰則などの事後的な規制措置を発動できる仕組みにかえていくことも必要である。 

W.「地域」の自決−住民主体の地域づくり

1.暮らしの場としての「地域」

 暮らしの場は「地域」である。美しい環境や安全な国土をととのえていくためには、まず、地域づくりにおいて、新しい個と公の関係が築かれていかなければならない。「地域」とは、政治、経済、風土、生活などさまざまな基準で切り取られた地球社会の構成単位である。それは生活のひろがりをしめす指標でもある。つきつめれば、地域の総体が地球社会をかたちづくっているともいえる。21世紀には、これまでのようにマクロな国家レベルで経済量を考えることにもまして、ミクロな暮らしのレベルの豊かさに視点をうつし、それに応じて地域社会にとってのぞましい仕組みを生活の場から新しくつくり上げていく必要があるだろう。

 地域は多様であり、どの地域にも固有の「もの」があるだろう。それは地域の魅力を形づくり、人をひきつける宝である。地域の宝は価値を生む「地域固有財」といえる。地域固有財を発見し活用できる力をもつのは地域住民である。地域の富が、科学によって発見され、芸術によって心のかよった地域固有財の集積になれば、それは厚みをもつ「富」になるにちがいない。

 美しい環境と貴重な資源を次世代に引き継ぐとともに、持続的な経済成長を実現するのは現世代の義務である。それを実現するには、暮らしの場である「地域」に立脚することが大切であろう。生活空間としての地域は生産者、消費者、行政などの各主体が自覚的、効率的に義務を果たそうというインセンティブを働かせやすい場である。「地域」という暮らしの場において、芸術を楽しみ、科学技術の成果をとりいれることができれば、それは確実に地域の力を強め、地域の魅力を高めていくであろう。暮らしの場としての「地域」をよくしていく共同作業をとおして、「ものの豊かさ」と「こころの豊かさ」との乖離も解消されていくであろう。それはまた、地域社会を構成する行政・企業・個人など、各主体の地域づくりへの参加が可能になるように、制度面での構造改革を要請することになろう。

2.住民主体の地域ガバナンスに向けて

 地域が地域固有財を暮らしに取り入れ、地域を活性化するためには、政策決定過程の透明性の確保はもとより、政策決定過程に人々が関心をもって、みずからの暮らしの場である地域づくりに参加し、自治能力を高めることが大切である。

 戦後、経済が重視され、政府が富を国民に分配する分配型の経済国家となった。富を公平に分配するには、中央集権型システムが合理的であった。国土の開発や社会資本整備は地域に対する所得保障の機能を果たした。だが、地域の個性をうばい、都市も画一的になっている。しかし、そのことへの反省のなかで、全体の流れは、中央主導の垂直型の支配や規制から、地域住民が大小さまざまな地域を基礎に水平型のネットワーク社会をつくりあげていく方向へと変わりつつある。それは、これまでの中央と地方との上下的な関係を清算し、対等の地域間関係に一変させる動きである。

 すでに集権から分権へといわれてひさしい。透明性の高い、水平型・ネットワーク時代における分権の単位として、人々の暮らしに密着した場が地域である。分権の単位ともいうべき地域社会におけるガバナンスが課題である。地域は暮らしの場であり、その主体は住民である。住民は署名運動、住民投票などを通じて自決する力をもつ。地域のガバナンスを実効あらしめるには、その実態に即して、国家集権型より地域分権型がふさわしい。地域のガバナンスは地域住民のより直接的な参加を可能にするからである。

 前述のように、地域固有財を見出して、それをたとえば街づくりに取り入れていくことは、政府だけがなしうるものではない。住民の協力が不可欠である。むしろ、住民が、地域の特性をふまえて、良好な街並みなどへの判断をくだすべきものである。それが住んでいる地域への誇りを生む。政府の役割は、そうしたなかでおこるであろう地域内の利害を調整する役割をになうものとなり、関係者の合意形成のために積極的に情報を公開して、政府、地域住民、街づくりNPO、企業などが参加する水平型、開放型のシステムをととのえることに重点をうつしていくべきであろう。

 住民の主体性を重んじ、多様性を生かした地域づくりは、国と地域の関係を大きく変える。これまでの国土計画が上から推進してきた「国土の均衡ある発展」というよりも、歴史と風土に根ざした地域社会の特性を地域社会が自分の判断と力で開花させる方向へと舵を切りかえることを意味する。

 そのためには、なによりも、地域社会が自治能力を高めることが肝要である。国からの補助金への依存体質から脱却し、財源について大幅な権限をもつことが枢要な条件になる。地域は補助金に依存する体質からの脱却が、中央は補助金で縛りつける体質の改善がもとめられる。

 地域住民の参加のもとに、透明性のある意思決定システムをつくりあげれば、政策の実効性が高まる。住民が自主的に地域社会の目標をさだめ、目標を実現するのにかかる負担について認識をもち、目標達成のための志と、実施過程における義務と、そして事後的な責任をになうことが地域のガバナンスの基礎である。そうした条件を地域社会がととのえるには、専門家の意見をもとめ、幅広い知識をもとに透明で公正な利害調整・意思決定の制度をつくっていくことがもとめられる。

 地域の住みよい居住空間への開発においては、美しい景観や自然の多面的な役割を理解しなければならない。地域の暮らしの基礎となる建築や土地利用にかかわる政策策定については、専門家の参加をあおぎ、地域住民の意思が事業に反映されるシステムに変えていかねばならない。実行段階においては、決定事項の実施が、一部の反対者や行政の裁量によって妨げられることのないよう、迅速な執行を可能にする規制が必要になるであろう。規制は、その根拠・合理性をオープンにしておくことが不可欠である。とくに、土地利用、建築制限、道路建設など地域づくりにかかわる事柄については、専門のコンサルタントが様々な選択肢を提供し、住民がみずから規制を選択する方法もとりうる。その際、できるだけ市場メカニズムを活用することも重要である。

 また、21世紀に向けての都市の再生は、喫緊の課題である。木造住宅の密集市街地は防災上重大な問題をかかえている。住民自身がみずからの街と暮らしを改善するという自発的意思をもつことが大切である。都市計画、土木、建築といった分野のノウハウをいかして、公園緑地や歩道の整備など、住居と一体的な基盤整備を行って快適で安全な街に再生することが必要である。そのためには、施策を企画・立案して行くにあたって、横断的な推進体制が必要である。横断的推進を効果たらしめるには、強力な指導力が不可欠である。

 なお、地域づくりにあたっては、都市と多自然地域など地域間の連携をも考慮に入れなければならない。21世紀には、地域間の交流ネットワークは、国内にとどまらず、海外にも及んでいくだろう。今後一層、地域交流が深化していく趨勢に照らせば、国内にとどまらず、世界の諸地域についての理解を格段に深めることが重要であろう。内外の諸地域の連携のために必要となる情報交換をめぐって総合的・学際的な専門知識を提供するシンクタンクの設立も視野に入れておくべきである。世界の諸地域についてのしっかりとした情報をふまえ、グローバルな視野に入れて、地域間の連携体制の整備も念頭におくべきであろう。

X.危機に強い国づくり

1.戦略的に思考する

 戦後の日本人は、官民ともにややもすれば安全を他人まかせにして、戦略的思考を無意識的、意識的に避けてきたように思われる。日本が平和や安全でいられたのは幸運であった。しかし、それが神話であったことは、阪神・淡路大震災に照らせば明らかである。災害、事故、意図的な危害などに対する危機に対する感覚が鈍っており、実際に事故や事件に直面した場合に、対応能力の欠如をさらけだすことが多くなっている。安全かどうかの点検は、危機を想定して、戦略的におこなわねばならない。

 たとえば、発電所や医療などの領域では、安全性の問題について議論すること自体が「安全でない」ことを認めることになるのをおそれるあまり、事故対策の突っ込んだ議論が避けられる傾向があった。それは事故が起こった場合の対策をきわめて不十分なものにする。国民の側も、情報開示が常識になっていなかったことや、専門的・技術的な知識を理解できないこともあって、責任のある立場の人々に絶対安全と言明させて事たれりとする姿勢に傾きがちであった。

 いくら強調しても足りないことは、完全な安全はありえない、ということである。科学は事故が発生する確率をできる限り小さくするにすぎず、ゼロにはできない。いくら気をつけても人は間違いをおかし、事故はおこるものである。それに備えるには、できるかぎり災害・事故がおきないように万全の安全対策を講じることはもちろんであるが、災害・事故がおきた時を想定した被害を最小限に食いとめるための対策、災害・事故が起きた後に速やかに復旧させるためのバックアップ体制をととのえておくことが、もっと重視されるべきである。

 安全確保のシステムは、社会環境の変化に応じて変わる。これまで有効であったシステムがいつまでも有効であるとはかぎらない。危険について、想像力たくましく考えることが必要である。それをもとに危険の事前防止策を組み立て、危険が発生した後の被害を最小限にくいとめ、速やかに復旧できるように方策をあらかじめ具体的に想定した戦略的思考をたてるときである。

2.科学と情報を使いこなす

 21世紀の安全を考えるうえで、科学と情報の影響を無視するわけにはいかない。

 科学技術の発展によって利便性は飛躍的に向上した。だが、科学技術の利用は、ときに大きな危険を招くことがある。情報技術の進展にともなう危険としては、ハッカーや不正アクセス、プライバシーの侵害、ネットワークを利用した恐喝、サイバーテロリズム、さらには情報戦争のリスクさえある。情報技術の進展により、社会の治安の維持と国家の安全保障を区別して考えることのできない時代を迎えている。

 しかし、科学技術や情報技術を利用しないという選択はとれない。廃棄物や原子力などの安全問題は、自分自身がその危険とひきかえに便益を得ており、その意味でひとりひとりが危険の原因をつくりだしているともいえる。大切なことは、科学・技術・情報を万能とするような過剰な期待をすて、一方、いたずらにマイナスの側面を強調しないことである。科学技術が危険を招くこともあるが、その危険を防止するのも科学技術に期待される役割である。

 科学技術は暮らしの不可欠な要素である。各人がその光と影の両面に目を向ける態度がいる。科学技術への基礎的な理解がなければ、安全への過剰な期待になったり、逆に危険への不安がいたずらに大きくなったりするであろう。

 地球環境問題、生命倫理の問題などは、科学的な根拠を知り、その意味するところを冷静に理解し、その情報を共有していく仕組みづくりがいるだろう。科学的根拠は確率論的にしか語れないといわれる。そのような最先端の科学の専門的知識をわかりやすく語りうる人間の養成がいるだろう。教育についても、文化系と理科系とを機械的にわけるのではなく、たとえば、医療の進歩が人間の尊厳と深くかかわることに照らせば、文理融合の学問の確立をうながすことも重要である。さまざまな専門分野をこえたネットワークを形成し、科学者には、専門的知識をわかりやすく伝え、科学が社会に与える波及効果、倫理的問題、他の学問分野との連携の可能性を指摘するなどひろい役割が期待されるとともに、各人がそれを理解しようという姿勢をもちやすい仕組みをつくりあげねばならない。

 また、情報化の進展にともなう危険は、変化のスピードが極めて速いので、対応が間に合わないことが多い。情報ネットワーク化がすすむ中で、国の問題であった安全保障が一般国民の身近な問題になっている。こうした状況に対処するためには、完全な安全はないという大前提のもとで、様々な情報にさらされても、それをコントロールできる力がいる。個人は自立しつつも、情報にふりまわされないよう国家や地域と協力関係をきずいていくことが求められている。また、サイバーテロについては、国家間の連携による対応が要請されるだろう。

3.連携して危機を管理する

 阪神・淡路大震災のような緊急事態では、縦割り型・ボトムアップ型の意思決定システムはうまく機能しない。意思決定に時間を要し、下から上への情報伝達ルートの一個所でも途絶した場合には、意思決定そのものがなされない事態も発生する。ボトムアップ型の意思決定システムを、現場での判断、水平方向の調整、トップダウン型の指揮命令を可能とするシステムで補完することも不可欠である。

 被災地のニーズが爆発的に発生して、ニーズの優先づけが即座にできないような場合や、政府機能が低下することもありうる。必要なサービスをすべて政府に期待することはできない。危機管理は、たとえば、行政が情報を把握できない場合、意思決定が遅れる場合、必要なサービスを提供できない場合などを想定し、企業、地域コミュニティ、NPOなどの連携を構築しなければならない。行政(警察、消防、自衛隊などを含む)、ライフラインや物資供給などに関する企業、地域コミュニティ、ボランティア、NPOなど横断的な危機管理機構の設置がいるだろう。それは平時には危機管理のためのプランの作成、訓練の実施などを行うとともに、緊急時にはこれらの関係者が一堂に会して対策に当たれるようにするためである。

 緊急時には各主体の危機管理能力がためされる。行政のサービスが期待できない状況では被害の拡大を防ぐためにはひとりひとりが自己を防御する力がきわめて重要である。そのため、生活や教育にも危機管理システムを組み込み、啓発に努めることはもちろんであるが、実際の危機に備えて、休日を設けるなどして大規模な防災訓練を実施することが大切である。災害の処理には膨大な費用がかかる。大規模な災害の財源をあらかじめ確保しておくことも必要である。民間の集合住宅の地震などの被害による修復費用に関する当事者間の負担のルール整備も必要である。これらは一例にすぎない。大切なことは地域の実情をよく知り、さまざまな危機を想定した上で、政府、企業、個人、NPOなどの各主体の連携を強化することである。

Y.おわりに ― 新しいソフトパワーの創造

 時代は、覇権をきそった近代から、文化力をきそう方向に動いている。それは大量生産・大量消費・大量破壊からリサイクル・資源循環型への転換でもある。いいかえれば、富国強兵の暴力と威嚇を誇示するハードパワーをきそう時代から、魅力と感動をきそうソフトパワーへの移行である。そうした時代には、なによりも文化、すなわち生き方と暮らしに誇りをもち、暮らしやすく安全で美しいと自然に感じられるたたずまいを実現することがもとめられる。「人」と「もの」をともに大切にすることが、物心ともに豊かな富国有徳の国づくりであろう。

 幕末・維新期の「第一の開国」で、日本が鎖国をといて世界史に登場したとき、「美しい国土と安全な社会」は、訪れた外国人の目に映じた日本の姿であった。江戸をはじめ各地の城下町は緑したたるガーデン・タウン(庭園都市)の名をほしいままにし、農村の景観は「エデンの園」「東洋のアルカディア(桃源郷)」にたとえられ、山岳は西洋人の賛嘆するアルプスを想起させて「日本アルプス」とよばれた。日本のたたずまいは絵に描いたように美しいという印象をあたえた。地理的フロンティアのない鎖国下での経済運営は、稀少な資源の効率的・循環的利用を促進して単位当たり土地生産性を世界一の高さに押しあげ、もののリサイクルとリユースを徹底させて資源の無駄使いのない循環型の社会をつくりあげており、それは簡素の美をもち清潔であるという印象をあたえた。農業は、西洋人のもつ粗放農業のイメージを超えて、手入れのゆきとどいた庭のごとくにみなされて「園芸」とよばれた。日本人は規律を重んじ礼儀正しい文明人(civilized people)と評価された。当時の西洋人は自らを「文明」、他の世界を「野蛮」とみなしていたから、「文明」とは日本に一目をおいた表現である。惜しむらくは、当の日本人が、長い鎖国のために、外国との比較がかなわず、国土のたたずまいの美しさ、日本人の居ずまいのただしさ、社会の安全に自覚がなかったことである。

 しかし、もはや江戸時代のように閉じた世界にはもどれない。世界と深く関わり合い、開かれた日本として環境や安全の問題を考えていくことが必要である。暮らしをとりまく「もの」に内在する固有の価値を見つける努力は、地球社会全体に求められている。美しい自然景観・生活景観を「美しい地球」という共通感覚にたかめ、自然との調和と社会の安全を世界に向けて自覚的に提示することが課題である。

 地域社会はそれ自体で閉じていない。ミクロのレベルでは家族、マクロのレベルでは地球にまでひろがっている。「もの」の循環や、「人」のネットワークは地球的なひろがりをもっている。海に囲まれた島国としての風土性は、島国根性として、マイナスのイメージがある一方、歴史は海洋に開かれて展開してきた。「地球」という大きなシステムと「地域」という小さなシステムの関係性を自覚し、地域の暮らしを安全で美しいものにすることが、地球社会の厚生に貢献するという認識をもつことが大切である。


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