教育改革国民会議

浅 見   匡
(浦和市教育委員会教育長)

@ 教育という営みにとって大切な視点(基本理念)は何か。

 『教育という営み』とは、中央教育審議会の言葉を借りれば、「自分探しの旅を扶ける営み」であるといえる。
 それは、ただ単に、あてもなく旅をするのではない。人はそれぞれ夢や希望をもち、自分の欲する世界を求め、自己実現を求めて努力する。人は人生という旅の途中で多くのことを体験し、多くの他人や物と関わり学ぶことができる。そして、学ぶことで、もっともよい道が教育を受けるということである。親に学び、教師に学び、地域の人々に学び、社会に学ぶなど、教育を受ける場は、数多く存在する。
 しかし、教育の基本は、あくまでも自分探しをする「自分」である。「自分」の無いところに他からの一方的な教えの注入では「生きる力」は育たない。今回の新学習指導要領の根幹にあるテーマが「生きる力」の育成を図ることであり、「自ら生きる力」「自ら共に生きる力」「自ら豊かに生きる力」の獲得こそが、真の「自分探しの旅」であろう。そして、こうした『主体的な行為を扶ける営み』に教師をはじめ家庭や地域社会の人々がかかわること、それ自体が教育であるといえる。そのかかわりで重要なのが「触れあい」「磨きあい」「響きあい」であると考える。「あい」はいうまでもなく、合い通じあうこと、向かい合うこと、そして、「愛」そのものである。

A 学校・家族・地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮すべきか、生涯学習をどのように進めるか。

 社会がどう変化しようともいつの時代でも大切なものは、人としての心である。人は、人としての心をもって生まれるのではなく、親や家族との触れ合いを通して、愛し愛されることの喜びや思いやり・忍耐・責任感など人間としての基礎を身につける。その基礎の上に教育は成り立つ。家庭教育の最も大きな役割は、人としての基礎を身につけさせることである。しかしながら、核家族化が進む中で、家庭は閉ざされた世界となり、それらを身につけさせるための方法と経験の機会を失いつつある。したがって、まず、家庭教育のあるべき姿については社会全体で考え、バックアップ体制を整備する必要がある。
 学校教育の役割は、大きく分けて二つがある。一つは学校という集団の中で社会生活を営む上でのルールを学ばせ、集団の中で自分が認められ存在することの意義を理解させること。二つ目は、将来自分の能力を発揮するための学力を身につけさせることである。これらの効果をよりあげるためには、学校内の活動だけでなく地域社会を巻き込んだ様々な活動を展開し、生きた経験をさせる必要がある。
 地域社会は、子どもに最も近い実社会であり、子どもに多様な経験をさせ、家庭や学校の教育をより確かなものとできる世界である。したがってそこでは、子どもに様々な経験を与えられる場所でなければならない。
 より効果的な教育のためには、三者が一体とならなければならない。例えば地域と学校・保護者が一体となって進めるボランティア活動や文化的行事の展開、地域の施設や人材の学校教育や家庭教育への積極的活用、また三者が交流するための公民館や学校図書館等の施設と人材充実が必要である。
 それは地域に住むもの全員の活動を促すものであり、生涯学習社会へと通じるものでもある。

B 「個」と「公」について、どのように考えるべきか。

 国家が国民を統治する時代から、国民自身が国家を形づくる時代になったことを示唆した「21世紀日本の構想」懇談会の打ち出した「統治」から「協治」へは、この「個」と「公」についての考え方を探る上で根底に置くべきことだと考える。教育に求められている「個性重視の教育」と「共生の教育」は、一見対立する概念のように思われるが決してそうではない。「個」が「私」を主張したり強調したりすることを育てるのでなく、集団の一員としての多様な「個」を育て、互いに生かし合い、共に生きていくことにより、よりよい「公(集団)」を創っていくと捉えたい。したがって、教育の課題として、「個」と「公」のどちらを優先させるかという対立する概念として捉えるのでなく、「公共」に対してしっかりとした責任をもつ「個」を育成すると捉えるべきと考える。
 日本では、国家や社会(集団や共同体)がしっかりとした目標を持ち、そのモチベーションがゆるぎない時代では、それにうまく従うように教育されてきた。そのため、子供の頃から物事を自分で決定する習慣が少なかったと思う。だから、自己決定に伴う個人のリスクと責任が発生することが十分に教えられていなかったという側面があるのではないか。そういった「個」(私)が集まっての「集団決定」(公共)は、成立しないのではないか。
 これからの学校においては、望ましい学校生活を児童生徒自身の力によって創り出す活動を重視する必要があると思う。そして、この活動を通して自発(自らのリスクと責任を負う自己決定)と自治(公共のために実践する集団決定)についてしっかり教えることのできる体験を積み重ねることこそが、「公」と「個」を学ばせる基盤となると考える。

C 教育改革を今後どのように進めていくべきか。

 「子どもは国の宝」と昔からいわれているように、未来の日本を担うのは今、私たちの眼前にいる子ども達である。その子ども達に明るい未来を保障してあげることが、大人の責任である。
 しかし、今の子ども達(特に、小学校高学年〜中・高校生)が大きな夢をもち、「明るい未来」へ希望をもって毎日生活しているかどうかについては、いささか疑問が残るところである。
 そこで、今後の教育改革では、特に「子ども達に夢をもたせる教育」の充実を期待したい。
 具体的には、
 @ 学校をはじめ、家庭や地域社会で、大人が子どもの願い、夢を前向きに積極的に受け止めてあげられるようにする。
   教師や親、地域の人々が、「夢の実現に向けての」よきアドバイザーにな る。
 A 積極的に学校へ講師を招き、職業についての体験談を聞いたり、地域へ出かけていって体験をしたりという機会を増やしていく。このような体験を生かし「何のために勉強するのか」という原点をしっかり見つめさせる。
   また、多くの親、世間の人々がもっている「中学校や高校、大学へ進学するために勉強している。」という考えも是正するため、今後の教育改革の中で啓発を今まで以上に積極的に行う。
 B 総合的な学習の時間等の導入で、今後さらに子ども達の主体的な活動が多くなってくる。そのため、学校は子ども達が活動しやすい環境でなければならない。 
   「子どもの教育センター・情報センター」として学校が、子ども達にとってさらに使いやすくなるよう、コンピュータや学校図書館、特別教室等を中心に整備を進められるような予算措置を行い、学習環境を整える。

 このように、学校・家庭・地域社会の人的環境や物的環境を整えながら、「夢のある・豊かな子ども」の育成を図っていくことが大切であると考える。


阿 部 謹 也
(共立女子大学学長)

教育に関する提案

 現在わが国は未曾有の困難な状況のもとに置かれている。それは経済や財政等の問題だけでなく、教育、福祉その他の重要な分野にも及んでいる。何よりも憂慮されるのは子どもたちが将来に期待をもてなくなっていることである。最近報道されている青少年の世代による残虐な犯罪行為はそのような青少年の不安な状態の反映であり、国全体に責任がある。何故なら、最近の政治家たちや財界人たちの言動を見ると経済面で将来への展望を欠いているだけでなく、教育についての発言もそれが著しいといわねばならないからである。
 中教審においてはかつて個性の尊重が唱われていた。しかし小中学校や高等学校では教師は生徒のスカートの丈を計るために生徒を追いかけ回している状態である。個性はまず服装に現れるものであるのにその自由さえ与えられていない現状の中で個性を尊重するという提言はそらぞらしく響く。また個性は自ら戦いとるものであるのに、政府が与えるという態度は傲慢の謗りを免れないだろう。
 高等教育に関して政府は国立大学の独立行政法人化を進めようとしている。通則法を見る限りで研究と教育の自由は認められず、高等教育は壊滅の危機にさらされいるという観を否めない。文部省の目指している特例法も何処まで実現するのか定かでない面が多い。独立行政法人化を目指す政府の目的は財政にあり、国民にとって必要な将来の学術のあり方が考慮されているとは思えない。もし独立行政法人が公務員削減のための手段でしかないという点を否定するのであれば、そして高等教育にふさわしい新たな提案であるとするならば、何故私立大学に独立行政法人化が提案されていないのかが問われるであろう。
 このように現在政府が行おうとしている教育に関する提案には理想の欠如、教育の将来構想の欠如といった致命的な欠陥がある。そのような政府に新たな教育改革の提案をするのは気が重いことではあるが、以下に私の改革案を示しておきたい。
 大学院重点化していない各国立大学を生涯学習を中心とした組織に編成替えすることである。現在の学部の定員はそのままにして教養教育と専門科目を中高年の人々に開いてゆく構想である。21世紀に必要なのは国民のための学問である。教養のある国民が次の時代をリードすることになるだろう。現在の学問の先端部分は世界にあり、グローバルスタンダードとも言われるその部分は大学院重点化大学で行われ、国民教育の場としてそれ以外の大学を組織替えしてゆく方策である。現在各県に国立大学が置かれている。それらは皆東大を範としてこれまで研究・教育を行ってきた。その結果各県にミニチュアの東大が生まれただけで、その実状は必ずしも思いどおりとは行かない。21世紀は地方の時代としてとらえなければならない。各地域における地場産業と教育、各地域に置いて必要な生活向上の運動等の諸問題を各国立大学が中心となって行わなければならないであろう。地方政治の改革もその中で行われることになるだろう。
 これまですべての国立大学で欧米の諸学問を範として研究・教育が行われてきた。現在膨大な資金が投入されている自然科学部門でもその成果は必ずしも国民に還元され得るものとは限らない。国民には全く知られない状態の中で膨大な資金が自然科学の名において投じられているのである。それらのプロジェクトのすべてについて国民に知らしめ、それが果たして国民のための研究であるか否かを問うべきである。その評価は新たに編成替えした各地域の生涯教育を担う国立大学が行うべきである。その関連において生涯学習を行う各国立大学においてはすべての学問を国民のための学問として編成替えを進めてゆく必要がある。たとえば「民主主義とは何か」という講義があるとして、教師は学生と共にフィリピンに行き、何故投票の開票に時間がかかるのかを調べ、次いでタイに行き、文字が読めない人が多いここでどのようにして民主主義が守られているのかを調べる。そして出来れば西欧やアメリカの現地をも調べてわが国の選挙の実態を調査するのである。その際にトックビルの「統治政論」を購読することは当然である。
 このように各学問の内容を画期的な形で変えながら国民教育を行うことが大切である。政府は国民教育の場としてのこれらの大学に予算を惜しんではならない。大学院大学も含めて国民教育には金がかかるものである。それは未来への投資であり、国民形成の実際の場でもある。
 現在わが国に必要なのは金ではなく、将来への夢であり、期待である。それはまず教育の場で語られなければならない。抽象的な形で夢をかたることは政治家には許されない。政治家に求められているのは常に現実の確定と変更なのである。日本の将来について真摯に熟考されることを期待している。

荒 木 なぎさ
(ユースボウル・インターナショナル代表)

教育ビッグバン−「教育」が変われば全てが変わる

▲教育=学校だけという時代は終わった
 教育というのは人の感性を磨くことです。知識や技術を伝授するだけではなく、感激、感動といった刺激を与えていく中で、いかに感性に触れ、個人の適性や能力をひきのばしていくか、ということです。
 そしてそれは、6歳から22歳まで何かを学び体験すればそれで良い、ということではなく、社会人として生きていく長い期間をどのように過ごしていくか、自分はどのようなことに生きがいを見つけ、なおかつ社会に貢献していくか、ということです。

▲人は感動、感激、喜び、怒りで目覚める
 教育とは、本来、青少年が成長していく過程において人格の形成や能力の開発、または適性の発見を行っていくものです。しかし凶悪犯罪の増加、いじめ、不登校生徒の増加、受験競争等、青少年を取り巻く様々な問題を見ると、教育そのものが問題の根元となっていることがわかります。
 一つのところに集まって、全員が同じ時間割で行動する「学校」システム、そして過去から現在までに蓄積された知識の記憶を中心としたカリキュラム。これは決まった時間で決まった内容をこなす、画一的な人間を育てるには適しているのでしょうが、創造的な発想や行動力は育ちにくいのです。人が集中して物事に取り組める時、というのは、「楽しい」とか「おもしろい」とか物事を見、聞き、体験して得た刺激が感性に触れる時なのです。

▲「教育」といえば文部省−?
 総合的な学習の時間、生涯学習の推進等、より社会に即した能力を育成するため文部省は試行錯誤しながら大変革中です。
 しかし長い年月をかけて築かれてきたこのシステムに一朝一夕の変革は困難です。「教育=学校」という考えに捕われ、無理に古いシステムを保ち続けたために、そこに生じた大きな歪みから一気に問題が吹き出している、というのが現状なのです。
 教育は実社会と遊離してはいけないにもかかわらず「教育は、純粋な子供たちが育ちゆく過程であるから、神聖な場である。よって、実社会ましてやビジネスなどとの接点はない方がよい、むしろあってはいけない」このような風潮が今まで強くありました。しかし急激な社会変化の中で教育だけが伝統的な流れの意義のみにとどまるのでは社会そのものが歪んでしまいます。
 旧国鉄、旧日本電信電話公社が分化、民営化し、競合することで成功を遂げたように、教育もビッグバンを起こし、現行の教育システムを尊重しつつ、もう一つの大きな流れ『内閣が主導し、地方自治体や中央官庁、民間企業等と連携した新しい教育システム』を今すぐにつくりあげていかなければなりません。
 今後の財政を考えると教育費といえども削減の対象となります。新しい流れには有料化といった考えも入れるべきだと思います。
 従来からの学校教育が「人格を練り、知識を得る荘厳な場」として重要な役割を果たすとしたら、新しい教育は「創造性をもとに実社会におけるケーススタディに対応する力を身につける場」となります。これらが並行して存在することにより、21世紀社会で活躍する力が備わります。
 学校教育がすべてなのではなく教育という大きな枠の中に学校教育があるのだ、と考えられるべきなのです。

カリキュラム体系の違うもう一つの大きな流れを

▲実社会をテーマとした時代適合型カリキュラム
 教育をまず二分化することから始めます。今まで勉強といえば、「国語・算数・理科・社会・英語…等」と決まっていました。しかしこの分類は実社会にはそのまま適合しません。社会に生きていく上で必要な、そして自分に合ったテーマを自由に選択し、様々な手法により学べるようにします。そして一人ひとりが自分の資質を伸ばしていくのです。

カリキュラムの内容は次の5ブロックに大別します。

T 地球人そして日本国民の未来
−どのような仕組の社会になるのが望ましいのだろうか−
これからの社会は「資源」「エネルギー」「食糧」「環境」等現在そして将来社会において問題となり解決努力しなければならない事柄が山積しています。それらの課題、話題をテーマに現状の把握、将来分析を行い、創造性を引き出し伸ばすことを目的とします。

U 生活技術
−自分の特性(天分)はどのような職業に向いているだろうか−
新たに作り出される業種、職業、そして社会的需要が減少していく業種、職業に焦点をあてて、実社会での役割とその特性を理解し、自らの職業、目標、生きがいを見いだすきっかけをつくります。

V 社会マナー
−良いコミュニケーションを持つには「場」にふさわしい言葉・行動を身につけること−
国、地域、その他いろいろな組織、機構を学び、さらに挨拶、ルール等人々が共存するために、必要かつ大切な事柄を取り上げ、自らの経験や感覚をふまえ、自分たちが気持ちよく、さわやかに生活できる環境を考えます。

W 健康の管理と増進、スポーツ、遊び
−心と身体の健康を維持するには−
心身の健康を維持していく上で必要な、スポーツ、遊び、レジャー等多種多様な要素を通じ、五感に響く刺激をうける経験の場をつくります。

X 世界の国々と日本
−ワールドワイドな視野を持つこと
グローバルな社会に対応する能力、思考力、創造力、行動力、決断力を身につけると共に日本人のアイデンティティ、世界における日本の役割、あり方について、考えます。

 これらの5ブロックをそれぞれ立体化、細分化し、単元とします。(字数の関係で詳細は省きます)

▲教育の常識を覆す実社会とのタイアップ
 常に変化する社会の各事象がテーマなわけですから、その最先端に一番精通しているのはその事象を扱う企業や官庁です。実社会に即して学ぶという場合、実際現場でそのテーマに関わる方々のお話を伺ったり、またその現場を体験するというのがリアルな刺激をうむのです。
 教育と産業界との融合により、実社会に即した情報を身につけ、社会へと目の開いた若者を育成することができます。

▲情報通信産業とのドッキングにより広がる可能性
 パソコンだけでなく、通信機能をもったゲーム機やウェブTVなどの普及により、数年後には一家に1台、接続機器を持つ時代になります。カリキュラムは実体験のみではなく、インターネットや衛星通信放送等、膨大なデータをやりとりできるデジタル通信網を活用し展開していきます。
 これは、受ける側にとっては、「いつでも好きな時間に体験できる」「新しい情報をいち早くキャッチできる」という、自発性と即時性を生み出すことにつながります。それはもちろん、個人個人の興味・関心を突き詰めてくことになり、各人の適性において成果が上がることが予測されます。

▲各都道府県の拠点づくりと波及効果
 各都道府県において展開する際にも、情報通信産業をはじめとする、あらゆる組織機構と関連を持ちます。これは人材育成という面のほかに、地場産業の振興や地元への経済効果という面でも大きな影響力を持ちます。
 「教育」というものは、地域に根ざした形でその特徴に応じて行われるものがベストだと考えますが、いかに地元企業や産業が潤うか、という大きな流れをつくる拠点でもあるのです。

▲もう一つの流れをつくるしかけづくり
 しかけづくりのため、テレビ局や広告代理店とのタイアップも積極的に行っていきます。イベント等について、ニュースリリースを行い、若い世代が自分の特性・個性を十分に発揮し、生き生きと活躍する姿を世の中にアピールしていきます。また、キャラクターやイメージカラーをつくっていくことはブームを起こすきっかけとなります。さらに芸能界やスポーツ界との連携も積極的に図っていきます。
 教育とは神聖な場だからという考えのもと、これらはどちらかというと避けられてきた分野ですが、青少年に対するPRを効果的に進める大きな手段となると共に、「教育」そのものに対する意識や価値観を根底から覆すことになります。
 教育のビッグバン−これは諸官庁、産業界、各種研究団体はもちろんのこと、芸能界、スポーツ界、マスコミ界などあらゆる分野とのタイアップによってはじめて展開されていくのです。


生 駒 俊 明
(日本テキサス・インスツルメンツ(株)代表取締役社長)

教育改革に関する提言

1.対症療法の排除

 教育改革は対症療法的に行わない事を第一とする。過去の多くの教育改革は対症療法であった。たとえば大学の受験地獄がよくないといって入試を易しくする、あるいは受験生が減るからといって人気取りのために受験科目を減らす。その結果、大学生の学力が低下した。文部省は学力低下はないというが、数年前と同じ試験で比較して学力低下を調査する事自体が、時代錯誤である。世界は急速に変化している。教育がその変化についていけない。日本の産業競争力が弱体化している事のかなりの部分は、大学卒業生の実力が低下したことによると思われる。小中学校の教科科目を減らしゆとりある教育をするというのも対症療法の一つである。以下に述べる教育の本質を考慮し、はっきりとしたビジョンを示し、国民に支持された改革を行わなければ、百年の計を過つ。

2.教育に関する基本的な考え方について

 教育には3つのフェーズがある。第一はその人の持つ才能がいずこにあるかを知るフェーズ、すなわち興味を持たせるためのプログラムである。これをレゾナンス(共鳴)と呼ぼう。なぜなら本人の遺伝子に組み込まれた持って生まれた性質や能力が、外界の諸現象と共鳴するところに興味が生まれ、その才能が発揮されるからである。これにより、生徒は自分の将来の進路を知る。第二は訓練のフェーズである。これは日本語や英語の読解力、数学の計算力、自己表現力、物事を論理的に考える能力、さらには専門的な知識を習得しそれを応用する能力を養成するフェーズである。これはティーチングとトレーニングからなる。いわゆる狭義の教育とはこのフェーズを指している事が多いが、これだけでは、教育は完成しない。このフェーズをラーニングと呼ぼう。このフェーズは過酷な訓練期間であって、現在の日本の教育の中ではそれぞれの受験準備期間がこれに置き換わっている。第三のフェーズは本当の意味でのEducation(Educateとは元来「能力を引き出す」という意味である)であり、本人の得意な分野において、その持って生まれた才能を十分に引き出し、他の人と差別化できる知恵と能力とを養成するフェーズである。

 この3つのフェーズを最適に組み合わせて教育課程を形成することが、教育改革の基本となるべきである。若年においてはレゾナンスのフェーズがもっとも重要であるが、ある程度のラーニング期間を経た後に、またレゾナンスのフェーズを持ってくる必要がある。またラーニングの期間は、(日本人としての)基本的な能力の訓練期間と職業に就くための技能・知識の訓練期間を分けて教育課程を設定する必要がある。現在はこの期間が受験のためにのみ使われているのが、大きな問題である。これは受験が悪いのではなく、受験のために使われる知識や技能がその後の訓練や教育と隔絶されている事がよくないのである。もし今後予想されるように、全員が大学へ進学できる状況になれば、この訓練をする期間が教育課程から欠落してしまう事を恐れる。その意味でも今第一に改革しなければならないのは、教育におけるラーニングフェーズである。特に大学では既存の学問の伝授ではなく、社会に出てから役に立つ技能と知識、そして考える力を訓練する場とする必要がある。それが可能となるように、高校以下の教育を一貫して改革すべきである。このような改善はアメリカにおいて20年ほど前から実施され、今日の能力の高い世代を輩出するにいたった。

 Educationの期間は教育の最終課程に置く事で良いと思われる。すなわち、大学の4年の最後とか、大学院で徹底的な真の意味の教育(Education)をおこなう。この期間は自主的な研鑚の期間であり、自ら問題をみつけそれを解くための能力の養成期間と位置づける。修士課程もこの期間であるし、博士課程も高度な問題を発掘し解決する期間と位置づける。これはそれ自体が社会へ貢献できるわけであるから、給与を支給するのが良い。この期間では研究と教育が一体化されるべきである。

 理工系における創造性というのは基本的な学力の上に発揮されるものである。人文社会系においても同じであろう。そこが芸術的な創造性とは異なる。したがって基礎的な学力の訓練を経なければ、現在社会が必要とする創造的な人材を育成する事は出来ない。

3.心の教育について

 心の教育は極めて大事であるが、学校のみでこれを効果的に行うのは事実上不可能である。国全体として何らかの強いメッセージを出し、社会全体の活動とすべきである。その際昔の道徳的で精神的教訓的な活動に終始すること無く、人権・民主主義の理念、国際社会における日本人のアイデンティティといった観点から、やさしい言葉で国民に呼びかけて欲しい。例えば、他人を尊重し、他人に迷惑をかけない、弱者をいたわり、人間としての自由・平等を尊重する、といった類である。これを国是として、日本社会全体に拡大する事が肝要である。

4.受験について

 受験戦争は現在の教育のひずみをもたらした一つの原因であるが、受験を無くする事は教育の改革として望ましいものではない。前述したように教育の多くの期間はラーニングに当てるべきであり、現在の日本の社会でつらい訓練を強いる事が出来るのは、受験競争であるからである。悪いのは入学試験の中身である。入学試験は何を習ってきたかを問うのではなく、これから入学して学ぶために必要な知識と能力を問うべきである。すなわち中学の入試では高校で学ぶであろう教科が理解できるための基盤的な知識と能力を要求すべきであり、高校、大学でも同様である。さすれば、知識を蓄積する事によって、大学卒業までにかなりの高度な知識と能力が与えられる。そのためには学習指導要綱なるものから逸脱した出題も許すべきであり、各学校が独自の受験問題をもってのぞむべきである。一時の混乱はあるであろうが、結局はその出題は一般からの評価を受け、競争原理によって最適化されることになる。このようにして高校や大学の個性化が図られる。そして社会には多様性に富んだ人材が送り出される。画一的な教育課程はキャッチアップの時代には強みであったが、現在では逆に弊害となっている。またこうする事により学習塾のもつ弊害も軽減される。

5.高等教育の公的負担について

 高等教育に対する国の支出をGDP比において先進国並みに現在の2倍にすべきである。そして私立大学にも十分な財政援助をし、全体の大学教育のレベルアップを図るべきである。その上で私立と国立の役割を明確にする必要がある。究極的にはイギリスのように、研究財政に関する限りすべてが国立のレベルになるよう援助すべきであろう。教育財政に関しても私立に対する十分な援助が必要であるが、その一方で、授業料を受益者負担とし、授業の中身において大きな差別化が可能となるような選択肢があってよい。そのような状況を実現させるには大学の評価を行い、その結果を公表する事によって大学間の競争を喚起すべきである。

6.日本全体の高等教育行政のグランドデザインについて

 日本全体をにらんだ大学の有り様に関するグランドデザインをする機構が現在存在しない。その結果、日本の産業社会に必要なスキル分布と大学生のスキル分布が、数の上で著しくミスマッチを起こしている。どの分野にどれだけの学生数が必要かを議論し決定し、大学の改廃を行うなど、施策に移す機関を創設すべきである。すなわち日本全体の高等教育行政をグランドデザインする機関を創設し、高等教育のビジョンを国民に明示するべきである。


石 原 慎太郎
(東京都知事)

教育問題への所信回答

1.教育は社会的事業である限り複数の人間を対象とせざるを得ず、その限りで程度の濃淡は別にして、画一化を免れ得ません。
 一方人間の尊厳はそれぞれの個性にあります。しかし教育という方法のもたらす画一化は結果としてその個性を相殺せざるを得ません。
 自我が確立された近代以後の人間の内面的ドラマとは、多くの文学作品に見られるように、個性的現実と社会的現実の相克であって、そこでは往々個性的現実が敗北の憂き目を見ます。
 全く同じことが近代教育の中でも派生していて、教育が社会的方法として確立すればするほど、教育における能率の向上は教育を受ける子弟の個性を相殺せざるを得ません。教育におけるカリキュラムそのものが、すでにして生徒の個性を教育の施行者の権威によって一方的に無視したものでしかなく、その子供の人生にとって何が不可欠の教養であるかなど教育の端緒においては、当人も含めて、誰にもわかるものではありません。
 故にも、社会的方法である教育の基本理念は、矛盾しているようですが、生徒の個性を育む、少なくとも疎外しないことをもってとすべきであります。

2.アメリカの小学校が新入生を迎える時、校長なり担任の教師が必ず生徒に諭すことの一つは、もし先生と親のいうことが違っていたら、あくまで親のいうことに従えということです。教育の主体者はあくまで親です。家庭は学校にまさる教育の場であるという認識があくまで正しい。
 地域社会もまた、子供たちにとって、地域における連帯を踏まえての教育の場です。賀川豊彦の文章に、「子供には叱られる権利がある」、とあります。裏返せば、大人たちには社会人として未熟な子供たちを叱って社会の規範について教える責任があるのです。

3.「個」と「公」の関わりはあくまで相対的なものであるべきです。滅私奉公の時代はすでに終わり、個と公の関わりはあくまで相対的に、互いに均等な責任と義務の上に在るべきです。
 例えば教育における結果の平等志向など、個の逸脱でしかありません。世の中は教育を含めてすべて競争原理で運営されるべきです。教育の本願もまた、それぞれの個性能力に応じて、結果として、生徒たちが人生という競争の場でいかにその個性能力を発揮出来るかを問うべきです。

4.いかなる段階の教育にせよ、この時代の要求に応えていかなる人材を育てるかを常に念頭におくべきです。西欧に追いつき追い越せで出発した明治の時代においては、それは、近代国家のスキームたる官僚制度のための人材、即ち官僚でしたろうが、この現代では明らかに違います。もっと多様な、それぞれに発想力のある人材がこの国際的な競争の熾烈な時代に、国家のため世界のために新しい試みを行い新しい成果を獲得していかなければなりません。
 これからの教育は決して画一ではなしに、才能の濃淡があろうと、何であれ一芸に秀でた人材を多様に輩出させるものでなくてはなりません。

 日本には間もなく少子時代が到来しますが、子供の数が減るということは、教育の面からすれば決して悲観しなくていいことです。子供の数が減っても教育の総量は決して減らずに、相対的に教育の質、教育の濃度は向上します。それを想定して今から次の時代の教育の在り方、いかにして多岐にわたる個性的な人材を育てるかを考えていくべきです。
 東京は今から4年がかりで、教育の終点である大学を都立4大学に関しては全く新しいシステムによってドラスティックに変え、そこから朔行して高校から小学校までの在り方を変えるつもりでいます。機会あればその詳細をお話します。
 政府が国家的事業である教育に、多角的に、思い切った改革に着手されんことを期待しています。


出 井 伸 之
(ソニー(株)社長)

教育改革に関する意見書

 私は、現在の時代を明治維新、第2次世界大戦を超える「第3の変革」の時代と捉えています。明治維新、第2次世界大戦の変革を乗り越え現在の日本を築いたのは、自分たちの力でこの危機を乗り越えようとする強い自己責任の精神をもった先人たちです。しかし、今社会を見渡してみると、私は逆の危機感をおぼえます。組織やブランドに依存していて、自分がやらなくてもまわりがなんとかしてくれると考えている人のいかに多いことか。

 我々は現在、価値観・経済・社会・政治・教育、あらゆるシステムの概念が変わる分岐点にいます。私は現在の環境変化においてなお、自ら主体的に行動できない人々をみるにつけ、現在の日本人には個性、クリエイティビティ、主体的思考能力といった要素が欠けていると強く感じています。また、昨今、情報化が経済格差を生む「デジタル・デバイド」の問題が指摘されています。我々は情報化を進めている国々との間にデジタル格差が生じないよう、情報化装備を充実して、「デジタル・オポチュニティ」をつかむことが必要です。

 教育改革を議論するにあたっては、このような幅広い視野で問題を捉え、解決策を探っていただきたいと思います。

 第一に、日本だけでなく世界にも目を向けた教育の在り方を検討する必要があると感じています。イギリスでは大英帝国の素晴らしさ、フランスではナポレオンの功績を教えています。幼いうちからのこうした教育によって、子供たちは自国と世界との関わりを知り、世界という大きな視点から自己を捉え、国際性や多様なモノの見方を会得できるのです。

 今、世界がどのような時代に直面しているのか。世界第2位の経済大国である日本は、世界に対して何が出来るのか。現在の教育にはこういった視点、世界観が欠けているように思います。もちろん、日本特有の歴史・文化を教えることは大変重要ですが、「日本」という枠に閉じこもった視野の狭い日本人を育てるのではなく、幅広い視野をもった「地球人」を輩出する教育システムを構築していただきたいと思います。
 第二に、教育システムは、初等教育・中等教育・高等教育といったようにステージを区切って議論するのではなく、一貫した時間軸の中でとらえる必要があるでしょう。
 世界的レベルでみて日本の初等教育が知識習得の面で大変優れたものであることは、誇りにすべきことです。ところが、中等教育、高等教育と進むに従って、知識詰め込み方式からくる主体的思考能力の欠如やクリエイティビティの欠如といった問題が弊害となってでてきているという印象を受けます。
 主体的思考能力や、クリエイティビティの発揮には、基礎知識や基礎学力をきちんと身につけていることが絶対に必要です。知識詰め込み型の一方通行の教育システムへの批判が高まると、ともすると知識否定の方向に議論が進みがちですが、過去の事例や数学的論理思考は、問題解決のためのオプションをたくさん見つけ出すことを可能にします。生徒が「その知識は何に役立つのか」を認識できるようにすれば、知識の消化不良を起こす心配もなくなるのではないでしょうか。体験学習やディベートなどを通して、受け取った知識を消化し、次の問題発見・解決のために活用できるような教育プログラムを今後増やしていく必要があると思います。

 第三に、専門性にとらわれない柔軟な思考力を育む仕組みを作る必要があると思います。
 大学教育における「文系」「理系」といった学科の分け方は、そこで学んでいる学生自身にとっても自分の能力や可能性に対する思いこみをつくる原因となり、将来の幅を狭める結果につながってはいないでしょうか。私は、技術屋の集団であるオーディオの事業部長に文科系出身者として就任しました。その後も必要に迫られてビデオ、コンピュータ等の技術の勉強を一通りしてきました。すると知識だけではなく、今後の進化パターンのようなものが結構わかるようになってくるのです。これからは、知識ではなく知恵の時代です。個人でも社会でも、多様な専門性がぶつかりあう中から時代を切り開く知恵が生まれてくるのだと感じています。
 高等教育においては、文系・理系の枠を超えて複数の専門領域を極めるダブルメジャー制度を導入していただきたいと思います。欧米の大学ではこうした制度が機能しエンジニアリングの知識をもったデザイナーや法律を学んだ技術開発者を輩出しています。

 第四に、既存の教育ツールにとらわれることなく、インターネットなどの新しい技術も積極的に活用していただきたいと思います。学校へのインターネットの導入により、生徒は世界中の情報に自由にアクセスし、自分の興味や関心ある分野の知識を深めることが可能になります。興味の度合いによって、例えば小学生が学術論文を閲覧することすら可能です。授業内容をネットで一般公開している大学教授もいます。インターネットは、子供たちの自発的・能動的な資質を伸ばし、創造性・向上心を刺激するツールになるでしょう。また、教師にとっても、教育に使える教材の限界がなくなり、子供たちの興味や関心をこれまで以上に引き出す手助けになると思います。

 最後になりましたが、21世紀の教育システムは、子供たちが将来どんな世界を創りたいのか、その中で自分は何がしたいのかを真剣に考えるきっかけになるものであって欲しいと思います。また、夢をあきらめず追求していけば必ず実現できることを是非子供たちに伝えていただきたいと思います。
 変化のスピードは、我々が体感しているよりもずっと速いのが現実です。教育改革についても、その危機感をもって一刻も早く取り組んでいただきたいと思います。21世紀が活力溢れる豊かな社会であり続けるかどうか、子供たちの未来・日本の将来の発展は、これからの取組みにかかっています。新しい教育システムのもとで育った子供たちが活躍できる社会を作り出すために、産業界の視点からも協力していきたいと考えています。


犬 養 智 子
(社会評論家)

個性と勇気


 日本の学校は、人工栽培のドームの中の水溶液で子供という素材を育てているのではないか。ドームの外の社会には、多様な人間が暮らしているのに、子供は学校というドームから、塾というドームへ、それがすむと家庭という閉ざされた空間へと、3点を独楽のように回転している。多様な世界に触れることもなく、そこにある多様な価値観に触発されることもない。
 そこでの子供の目標は、与えられた問題を解くこと、その結果得る点数、そしていい上級の学校に入ることだ。生きることの美しさやスリル、自然の面白さや厳しさ、人や生き物を愛すること、美しいものに感動すること−それらはドームの回路を廻る子供には、縁ないものだ。
 多くの子供にとって、家庭は家族が愛しあい、精神的に交流し、メンバーすべてが成長する場ではなく、寝て食べる餌場でしかない。その食にしても、家族そろって会話しながら美しく食べるのではなく、バラバラの時間に餌としてかき込む孤食である。
 培養器の内部の圧力は高いから、圧迫に耐えかねて切れる子供も出てくる。その結果、残虐な犯罪に走る。いじめは陰湿になる。その兆候はいくらもあって、子供の部屋に親が入れないなど典型で、これは最早、家庭とはいえないが、そんな状態を異常と思わない親も増えている。(子供に)「人生の蜜を与えられる母親は少ない」(フロム)のである。
 日本で忘れてならないのは、たった50年前まで、全体主義国家だったこと、戦前は天皇の国家と臣民で成り立ち(市民も人権もなく)、家庭はその端末だったことである。家庭は個性をはぐくむ場どころか、国家と同じ論理で動くことを期待された。これから外れたら、日本では生きていけなかった。
 敗戦と新憲法によって、日本は民主国家になり、男女平等と基本的人権を保証されたが、それはたった50年の歴史しかなく、まだ多くの日本人は、古い体質を引きずっている。残念ながら地方ほどその傾向がつよい。
 民主主義の社会は、自由な個人、権利と義務を備えた市民男女からなる。そこでは百人いれば百通りの個性があり、個性のある人間は意見を主張し、議論するのが当然である。身分の上下がないから、店の店員とお客、上司と若い社員が意見を対等に主張しあえるのも、民主社会の特徴だ。だがこうした民主社会の常識は、まだ日本では一般的でない。
 戦後の日本で、国家に代わる権威と力を持ったのが、企業と官庁だった。寄らば大樹の陰と、人々は、企業と官庁に養ってもらう。生涯賃金とフリンジ・ベネフィットは、大樹ほど大きい。昇る太陽と一緒に行くなら、家族など構っていられない。夫は企業戦士、妻は兵站部という男女の分業と、子供の教育漬けが、このカイシャ社会の構造だった。
 そこには個性を育てる環境はない。企業や官庁は個性を求めないし、学校は管理のために規制を好む。島国という同質社会では、異をとなえる個性的な人間より、兵隊として効率的に働く、一定の水準の人材が欲しい。個性はデコボコを生み、統率がむずかしいが、均質化した人間は戦力として即役立つからだ。
 民主社会では個性は楽しさの元、主張や議論は進歩を生む元と考えられるが、島国社会では、わがまま、生意気、対立、反抗ととられる。そういう社会で、自己主張するには勇気がいるが、勇気もここでは育たない。権力になびくこと、長い者に巻かれろが、大人だけでなく、子供にとっても処世術になるからだ。勇気は、市民社会を健全に動かす原動力だから、この欠如は重大に考えていい。
 しかし、こうした“日本的運営”に破綻が生じた。先進国と驕っている間に、中国も東南アジアも、市民の質を向上し、国際語である英語力をつけ、国際性では日本より上をいく。国際社会での日本の評価は、残念ながら低くなっている。プリンシプルのない国、改革の決断が出来ない国、モラル・センシティヴィティの低い国、フェアでない国……。魅力度でも、日本の国の魅力は低い。これでは、国際協力が欠かせない21世紀に非常に不利だ。国としての信頼を回復しなければならない。
 この10年ほど、日本社会のマイナスを修正しようと「個性を育てる」、そして「企業社会から個人優先社会へ」(経企庁、国民生活審議会)など、掛け声は盛んだったが、結局実現していない。
 日本の陥っている状況からの脱出、ことに子供に未来がないような状況を変えるには、教育を根底から変えることだ。それなしに、子供に活気を与え、個性を育て、知的・精神的・肉体的にしっかりした、自由で勇気ある個人をつくることは出来ない。
 教育を変える根本は、文部省を変えることだ。楽しくない学校をつくるな。中央集権的な文部省の締めつけがなければ、学校教育はずっとイキイキする。子供も教師も枠を離れ、実験的な自由学校も、国際的な教育の障壁を外すことも可能になる。だがこれが困難なのだ。行政に詳しい人によれば、最も堅固な官僚組織、したがって最も改革がむずかしいのは、警察と文部省だという。
 私が委員をつとめた国民生活審議会でも、個性ある個人を育てるには、教育の改革、つまり文部省の改革が必要だという意見が当然出た。しかし役人からは「とても無理。文部省問題には触れないでほしい」と、官庁同士の抑止力が働いた。
 思うに文部省を変えるには、大きな問題は二つある。第一は、文部省の統制がつよいために、末端に行くほど臆病になっていることだ。トップに文部省、その下に都道府県など自治体の教育委員会があり、さらにその末端に、現場の学校の校長がある。下部に行くほど視野が狭くなり、発想も行動も固くなる、自由な教育など、とても出来ない。
 第二は、教師の質、殊に公立学校の教師の質だ。これも大きく分けて問題は二つあり、一つは、文部省が支援する、さまざまな教育研究事業をやめること。これが教師の時間とエネルギーを食い、重荷になって本来の授業に注ぐ力を削ぎ、また効果も薄いからだ。
 二つには、教師には、子供にとってよい教師とわるい教師があり、悪い教師を排除していかなければならないのに、いまのシステムでは、公立校では教師の罷免は、刑事事件でも起こさない限りまず出来ないこと。暴力を振るう、セクシュアルハラスメントをする、学識や指導力がない、人としての優しさやマナーに欠けるといった、教師として重大な欠陥がある人を雇用しつづけるのは、子供も不幸、親も不安で不満足。教師によるセクハラなど新聞に載るのは氷山の一角、しかも罷免されないとは、常識の通らない世界だ。
 アメリカの大学には、教授の質を学生が採点するシステムがあるが、こういうことを見習って、外部の採点(子供の評価や父母の採点)が、教師の質を問うことが出来るシステムを作ったらどうか。
 官庁の監査制度は、内部監査から外部監査に変わりつつあるが、まだ実効が不充分だ。学校の教師の質についても、外部監査が必要だろう。オンブズマン制度を設けるぐらいの覚悟がないと、先生の質は上げられまい。
 日本人の長所は、やさしさ、繊細さ、正直、勇敢、美意識、勤勉などのはずだった。いま日本人に目立つのは、日和見主義、効率偏重、官僚主義、強いものになびき、弱いものを虐待−私たちの周りに高潔さや勇気を見ることは、稀になっている。
 いま日本の家庭の躾けと、学校教育で最も必要なものは、1に個性を育てること、2に勇気を教えること、3にモラル・センシティヴィティを持つことである。
 個性は、その人の持つ才能、特徴を伸ばして育つ。その開花と集積が、文化や科学の成果となる。個性や議論を抑える社会に、発展的で魅力的な未来は来ないだろう。
 勇気を、躾けと教育の中に掲げたいのは、日本にいま最も欠けている、人間の大事な資質だからだ。自分の意見を持ち、それを主張すること、人と違うこと、人と違う意見を主張すること、失敗を怖れず、正しいと思うことを行い、不正や邪悪に異議をとなえること、それらすべてに勇気がいる。
 勇気があれば、過ちを認めることも、上司に進言することも、誘惑にノーと言うこともできる。人は弱いゆえに一層、人間としての勇気は、民主国家の市民の必須条件である。
 モラル・センシティヴィティは、人間として何が間違っているか判断し、その判断に沿って行動することだ。道徳的敏感さ、あるいは正邪への感度である。道徳という言葉は、便宜的に使われやすいので注意も必要だ。道徳は狭義には、既存社会の行動規範の押しつけになりやすい。広義では、人としての生きる基準、神の前で恥じない判断と行動で、道義という方がいい。市民として正しいと思うこと、それを行うことがモラル・センシティヴィティで、これも風前の灯びだ。
 日本では青臭いとしてバカにされやすいモラルは、実はあらゆる人に欠かせない資質である。それを子供に与えるには、まず大人が行動で示すこと。教育を正すことは大事だが、その前に、大人の実行が最初にある。だから、日本の教育の建て直しは難事中の難事なのだ。

猪 口 邦 子
(上智大学教授)

教育改革国民会議への意見

1.[小学校1年の学級から男女別更衣室ないしカーテンで完全に仕切れるコーナーを設置するべきです] 
 更衣室のある学校もあると思いますが、実際には教室で身を低くして着替えるなど男子生徒や男性教諭のいるところで女子生徒は着替えをしている場合がほとんどで、これでは女子が女性としての人権意識や羞恥心を自ら育てにくいことになってしまいます。公的空間と私的空間の区別がつかない女子が育ちかねず、電車の中で平気で髪を梳かしたり化粧をしたりする女性が多いことがよく新聞などでも話題になりますが、そのような女性の起源は家庭内のこともあるでしょうが、公教育の面では更衣室のない初等教育の現場にあるのではないかと存じます。なお、羞恥心の育成は5、6歳児から十分に可能ですので、小学校1年からそのような空間が必要であります。セクハラ禁止が市民社会で重視される時代にふさわしい小学校の教室構造の改革をお願いいたします。

2.[中学校1年次のすべての学級にタイピング実務授業を半年ほど導入すべきです] 
 これは実はコンピュータ識字の問題の根本にかかわることです。コンピュータで日本を入力するとき、かつては私も日本語専用のキーボードが便利で愛用していましたが、ここ数年の世界競争にそのようなキーボードは生き残ることができず、今日では官庁の皆様も含めほとんどの職業人がローマ字入力で邦文をコンピュータで作成しています。Eメール交信などで気づいたことは、海外からのメールは書いてある文章が国内からの場合より圧倒的に長く、その他の条件を一定としても統計的に有意な差があると思えるほどです。その理由を考えて思いついたことは、日本人の多くは、タイピングの指使いが出来ていなく、数本の指を自己流に使って打っているので、入力速度が遅く、また面倒な作業になるため、長くは作成しにくいのではないかということです。私信などは文章が短くてもかまわないのですが、これからの国際社会でさまざまな発信機能を考えますと、国民的に入力速度が遅いのでは大きな損失であると思います。我思う、ゆえに我あり、とデカルトは言いましたが、21世紀の社会は、我書く、ゆえに我あり、の時代となる予兆があり、Eコマースの進展とともに人は大量に書くようになっています。外国語で書く問題はまた別のことで、ここでは日本人が日本語で書く場合のコンピュータ入力がローマ字方式になっていることの重大な結果をよく理解する必要があります。日本語筆記力が、コンピュータ時代にアメリカ人が英語を、フランス人がフランス語を筆記する速度より劣ることがあってはいけないと思い、ローマ字入力を早く行うに必要な基本のタイピングの指使いを中学校入学と同時に習得させることを提案したいと思います。

3.[すべての小学校の構内に学童保育の施設と高学年の生徒が夕方6時すぎまで利用できる学童自習室を併設するべきです]
 社会変容やグローバリゼイションの影響で日本社会の治安は必ずしもよいものではなくなっており、また家庭に大人が帰宅する時間が6時すぎの場合が多くなっていることの現実を理解し、学童が一人ぼっちにならないような受け皿を地域で形成していく必要があります。一般に学童施設は福祉系として児童館に併設されていることが多く、小学校が終わってから一人で通うのは子供に負担を課すことになりかねず、子供の交通事故などの可能性も増えるのではないでしょうか。学校が終わったら、学校で親の帰りを待ち、できれば、親が学校に迎えに行って親子で帰路につくのが理想ではないかと思います。学童自習室は、学校の図書館兼用というのではなく、隣の人との間に仕切りのあるカレル方式の設備が好ましく、そうすれば放課後も落ち着いて学習に取り組めることになると思います。また、福祉系の職員と並んで元教員や早期退職教員を募ってこのような放課後施設の指導員になってもらい、大人の目のある空間で子供が安心して自由に親の帰りを待つことが可能になるようお願いします。是非、文部大臣も欧州大陸諸国などのこのような学校空間運営を視察され、参考にして下さればと存じます。私は一昨年ポーランドの小学校を見学し、このような仕組みに触れて考えさせられました。またお稽古をさせたい家庭の学童については、希望により、英会話、ピアノ、バレーなど何でも地域の専門家を教師として学童施設がコーディネイトしてあげ、空き教室などを予約して放課後のお稽古も小学校のなかで受けられるようにすれば、親は実質的に納得し、夕方まで仕事に取り組めます。こうして小学校空間の利用の時間的高密度化をすすめることにより、少年少女が管理と保護なく長時間を過ごすことがなくなり、また男女共同参画社会を母親が正社員として働きやすくなることから推進できることにもなり、さらに、第一子をそのように地域で受け止めてもらえれば、第二子以降の出産もやりやすくなって少子化対策にもなるのではないかと思います。少子化の問題については、以上のようにすでに生まれた子供を地域で大事に扱っていく実績を作っていくことが基本ではないかと思います。

4.[幼稚園システムの改善をお願いします]
 日本の幼稚園は始まるのが遅く、終わるのが早く、三年保育のみならず学齢が上がってもあれこれの理由で午前保育のことが多いのです。一般にスクールバスのサービスはなく、母親が毎朝子供を送り届け、またすぐ迎えに行かなければならないので、結局母親同士でおしゃべりをしながら時間を費やすことになることも現実には多く、都内の私立幼稚園での幼児殺害事件でも問題となった母親同士の息の詰まるような関係性なども発生しやすのではないでしょうか。またさまざまな理由でショートノーティスで(十分に前もってではなく)母親に召集がかかることが多いのでなんとなく待機している感じの母親も多く、母親が子供を送り届けたあと責任ある仕事や地域活動にコミットできない体制になっています。このように生きる母親たちは、つい数年前までは、卒論に取り組む学生であったり繁忙な職業人であり、よい教育を受けた女性が社会的に責任ある活動に従事することと子供の幼稚園生活を両立させることを前提とはしない幼稚園システムが一般には多いのではないでしょうか。それは子持ちで能力のある日本女性の時間を大事にしないどこか悲しいシステムであり、諸外国の幼稚園システムを参考に改善してはいかがでしょう。欧米諸国のうち出生率の高めの大半の諸国では、幼稚園は朝の8時半から午後の3時ぐらいまで保育を行い、日本でいう幼稚園機能と保育園機能を合体させています。途上国の幼稚園では、午後には各家庭の好みのお稽古を、専門家を園で手配して園で習わせるという高機能保育を行う場合も多いようで、上記の小学校のことについて書いたことが幼稚園にも当てはまります。もちろんどこもスクールバスは当然でしょう。昼間の仕事時間の真っ只中に保護者会などを行うこともあまりないことです。こうして子供が幼稚園に上がれば、母親は元の職業にもどったり、ボランティア活動の責任を果たしたり、第二子以下の無理のない養育の余裕を得たりするのが普通です。日本でも男女共同参画社会基本法が制定されたことを契機に、女性の自己実現を支援する工夫が社会の各方面で求められることになりますが、まずは母親の自己実現と両立する幼稚園の運営を実現してはいかがでしょう。

5. [教科書に人の活動や生き方についての感動のある記述を増やすべきです]
 生き方の危機のようなものが現代日本社会に見られますが、日本の学校では人間として苦難を乗り越えて目標に到達したり、自己実現したり、愛に生きたりする人間像があまり教材としては用いられていなのではないかと思います。歴史の教科書などでも歴史的人物の名前やその功績は記載されていますが、生き方と危機や苦難を乗り越えたことの知識は生徒にあまり伝達されません。生徒が感動するのは、その功績の大きさより、苦難の乗り越え方においてではないかと思います。人物像のさまざまな部分のなかでも生徒たちに最大の感動をもたらすことができるのは逆境を乗り越えて、あるいは社会通念を越えて活路を開くといったことではないでしょうか。野口英世の幼少時の火傷の話が語り継がれるのもそのような理由であろうと思いますが、そのような著名な人の苦境のみでなく、大戦での夫の戦死にもめげずに幼子を育てあげる、べトナム難民として異国で医師となる、対人地雷の犠牲者が無知から戦争は起こると思い教師となって祖国の識字率向上に生きる、、等々、内外の無名の人々のなかに人間としての真の偉大さを発見することはできるはずです。授業において、もっとそのような人間としての感動のある教材が用いられるべきではないかと思います。人間が苦難を乗り越える勇気を持っていることを知る感動を生徒に与えることは、いじめや学級崩壊などの近年の学校での問題への最も深い解決へと結びつく可能性があります。

6. [紳士教育をすすめるべきです]
 日本の青少年は紳士淑女として育ってもらいたいと思います。生徒を紳士に育てるというのは英国のパブリックスクールなどの理念ですが、いじめっ子に「紳士である君らしくない」と言ってみる教育、すなわち自分の尊厳に気づかせる教育が必要です。電車でも席を譲るのは相手への親切というより、自分の尊厳のためという教え方も効果的です。自らの尊厳を意識できない人は、他人の尊厳も守れないでしょうし、他人への優しさは自らの尊厳に気づいてからしか本当は生まれないのかもしれません。紳士教育には手本が必要です。立派な背広を着込んだ若い日本青年が高齢者に席を譲れないのは、たとえば妊婦さんに席を譲るような父親の姿を目撃したことがないからかもしれません。その場合、教師や地域の大人がみなで紳士の手本になることで問題は解決します。


今 井   敬
(新日本製鐵(株)会長、(社)経済団体連合会会長)

「教育百年の計」に関する意見

1.教育という営みにとって大切な視点(基本理念)

 明治維新以来わが国にとって、産業革命をいち早く成し遂げ、様々の分野で世界標準を握りつつあった西欧文明に追いつき、これを凌駕することは至上の国家目標であった。このような国家経営のフレームのなかで構築されたわが国教育システムは、今日わが国が物質的には先進国の一員となったことをもって、一定の成功を収めたものと評価できる。
 教育改革国民会議においては、今後日本が目指すべき新たな目標、社会の姿について充分議論し、その実現に資する教育システムの構築という視点で、検討が進められる必要がある。また少子・高齢化社会の到来も勘案するとき、単に学校教育に止まることなく、生涯を通しての教育のあり方について、基本的なフレームの再構築が求められる。
 足下では、平等、公平、自由といった価値に過度なまでに重点を据えてきた戦後教育のなかで、学級崩壊に象徴される教育現場の荒廃や、日本人の強みとされた理数系の能力低下といった歪みや矛盾が噴出している。同会議においては聖域やタブーを設けず課題の摘出にあたり、決して問題を先送りすることのないよう強く望みたい。
 21世紀においてわが国が引き続き活力に溢れ、魅力に満ちた国として繁栄を持続するため、私たち(経団連)は自己責任の原則のもと、個人や企業が自由そして機会の平等を保障され、各々の努力が正当に評価される「真に豊かで、活力ある市民社会」を構築することが何よりも重要であることを主張してきた。
 このような社会にあっては、国民一人ひとりが多様な個性、能力を生かして、主体的に経済社会の運営に参画する能動性を有するとともに、自己責任原則をわきまえ、自助・自治意識に基づいて行動する自律性、倫理規範の遵守、権利と表裏一体の関係にある義務の履行を図るとともに、社会と個人的利益とのバランスをとる社会性を備えることが基盤になるものと考える。
 同会議の議論を踏まえて、国民一人ひとりが新たな日本にとって望まれる基本的資質を身に付けるとともに、才能ある人材はそれを存分に伸ばすことができるなど、多様性に富み、かつ世界に通用する人材を育成できるような、新たな日本型教育システムが構築されることを期待したい。

2.学校、家族、地域社会のそれぞれが果たすべき役割について

 教育の実施や、そのあり方に関する議論について、これまで学校任せとなりがちであったことは反省すべきであり、家庭が教育の基本を担うべきであることを、あらためて国民に啓蒙する必要がある。特に躾を通じた倫理観の育成や、自己責任意識の涵養など、自立した個人として内面を充実させる役割は本来家庭が担うべき役割である。
 一方、集団行動を通じた社会と個の関係を認識させ、規律を守る意識や、助け合いの意識を醸成することは学識面での教育とともに、学校に期待される役割であり、地域社会もそれを助ける必要がある。
 また、少子・高齢化社会の到来という状況を踏まえ、地域社会の共有財産である学校施設を、社会人や老人も対象とした、エージフリーの教育・出会いの場として活用されることがますます必要になるのではないか。

3.「個」と「公」についてどのように考えるべきか

 民主主義社会において自立した個人が自由に行動し、発言することは最も尊重されるべき権利であることは言うまでもない。しかしながら、権利の行使は他者の権利の尊重があって初めて成り立つものであり、また負うべき義務もあることは厳然たる事実である。
 今日、ややもすると民主主義の名のもと、利己主義に走る傾向が日本人に見られることは憂うべきことであり、異なる意見や立場を受け入れ、咀嚼する能力を身に付けさせる教育を、家庭、学校ともに実践する必要がある。
 付言すれば、資本や情報がますます国教を超えて飛び交うグローバル社会を迎える来世紀においても、民族の大規模な移動は困難であり、国家というフレームは存続する。メガコンペティションのなかで、私たちは日本という国家の視点で自らの持続的発展と安寧を考えることが求められる。このため「公」の問題に建設的に関与できる人材の必要性は今後一層高まるものと考えられる。

4.今後の教育改革の進め方

 先述したように、今後のわが国に求められる人材は主体性を有し、自己責任の観念に富み、創造力あふれる人材である。こうした人材を育成する観点から、複眼的で、複線的な人材育成システムの構築が必要と考える。
 このため教育界、行政にあっては、各教育機関にカリキュラム編成の自由度を高めるなど規制緩和の推進や、従来のピラミッド型の序列を改め、多くの峰を持つ教育体系構築、入試選抜における知識量重視から思考力重視への転換、討論やフィールドワークの導入による思考力と経験を重視した学校教育の推進などの改革が求められる。またグローバル社会において必須となる英語とコンピュータ関連の実践的能力取得は喫緊の課題であり、学校教育のなかで重点的に取り組まれることを望む。
 また人格と基礎学力の育成を主眼に置く初等教育と、高度な専門性を教授する場としての高等教育の役割分担をより明確に区分すべきである。
 近年は大学への飛び級入学などの試みが始まっているが、わが国では早期から特定分野における優れた才能を引き出すシステムが事実上存在しない。資源を持たないわが国では人材こそが生命線となるなかで、医学、科学などの分野で技術的優越性を獲得できるための人材育成システムを、特に高等教育の分野において確立すべきである。併せてハードルの高い入試を通過した後、比較的安易に卒業が可能となっている高等教育(とくに大学)の現状は、入試の突破のみが目的化されやすく弊害が大きい。入学後のアチーブメントに基づき卒業資格付与を厳正に行う姿に改めるべきである。
 また教育の担い手である教師の質的向上も重要な課題である。教師の能力向上の一環として人材交流をはじめ、企業としても協力できる分野はあるように考えられる。一方で多様な社会体験を有する人材を学校教育において活用する意義もまた大きいと考えられる。
 企業においても採用面における改革が求められる。学歴・学校歴を問わないオープンエントリー制(公募制)の拡大や、帰国子女など多様な人材確保の観点から通念採用の実施、流動化する雇用情勢への対応も視野に入れ経験者採用の拡大を図ることが求められる。


ウィリアム・カリー
(上智大学学長)

教育改革の実現に向けて

 新しい千年紀の幕開けとともに、小渕首相が国会の開会における施政方針演説で、「教育改革」を目標の一つにうたわれたことを、心から歓迎いたします。首相は、「輝ける未来を築くために最も重要なことは、いかにして人材を育てるかである」と、また「創造性の高い人材を育成すること、それがこれからの教育の大きな目標でなければならない・・・単に教育制度を見直すだけでなく、社会の在り方まで含めた抜本的な教育改革が求められている」と述べられましたが、未来の日本のために教育の改革は最重要課題であり、この施政方針がぜひ具体的な方策へと結びつくよう願っています。
 そこで求められることは、まず教育の原点に立ち返って、教育とはどうあるべきかを考えなおすことではないでしょうか。首相が自らご指摘のように、明治以降の日本は、先進諸国に「追いつき追いこせ」をモットーに、ひたすら物質的な豊かさを求めつづけてきました。その際の教育とは、いわば働きバチの育成、社会の経済的発展のために効果的に機能するマンパワーの製造になりがちでした。すでに幼少の頃から競いあって、人よりもよい成績を収めることが求められ、能率よく働き業績をあげる者が讚えられ、弱者は切り捨てられがちであったと思います。そこでは一人ひとりのかけがえのない人格が十分に顧みられず、独創力も批判力も抑圧されがちだったのが実情と言わなければなりません。
 私どもの上智大学が建学の理念に置いているキリスト教的な人間理解では、教育とは神によって創造された一人ひとりの人間がその召された背丈にまで成長することを助けることであると考えております。もちろん国公立大学において、キリスト教を始め特定の宗教の教理を教えることは政教分離の原則にもとることでしょうが、人間が一人ひとりかけがえのない人格であるという理解は、およそ教育の原点であると考えております。そして、人間を真に人間らしく成長させるための「人間教育」こそが、あらゆる専門教育の基礎でなければならないと思います。
 この人間教育は、一人ひとりの人間を大切にし、個別的にかかわることを通してのみなされます。しかも、ただ単に個人の個性や独自の創造性を生かすというだけではなく、弱い立場に置かれた人々をも切り捨てずに、それぞれの背丈にあった成長を促すことでなければなりません。したがって、首相が施政演説で述べられた「創造性の高い人材を育成すること」は、これまで画一的になりがちであった教育の在り方を見直し、個人の創造力を生かすという意味で、ぜひ促進していただきたいことではありますが、それと同時に、これがただ富国を目指す業績至上主義につながらないように希望しております。私どもは、たとえ身体的、精神的に劣っているかのように見えても、一人ひとりの人間がその人にしか遂行しえない貴重な使命を有しており、その一人ひとりの生きかたを大切にする人間教育こそが教育の基礎でなければならないと考えております。それなくしては、科学技術の進歩のための独創的な人材の育成も、決して輝ける未来を築くことにはならないのではないでしょうか。人間らしさを見失った物質的な繁栄は、決して社会に幸福をもたらしはしないと思います。
 このことを如実に物語っている一つの現象は、現代の日本社会に蔓延している精神的不安とカルト宗教の横行です。これまでの公立学校における教育は、政教分離の名のもとに、実質的には世俗主義イデオロギーに偏りがちであり、宗教的なものを非科学的もしくは迷信とみなし、信仰を個人の領域に押しやってきたきらいがあったと思います。そこから生じてきたのは日本人のいわゆる「宗教音痴」であり、識別能力の欠如であります。もちろん公立学校において一つの宗教を教えることは憲法の許すところではありませんが、人間教育には、どの人間にも生来備わっている宗教的情操を磨き、多様な宗教における本質的なものを客観的に評価する能力を養うことがなくてはならないと思います。首相が施政方針で述べられた「科学をしっかりとコントロールできるような確かな心」、また年頭記者会見で述べられた「他人の気持ちを尊重し、生き物や自然を大切にする心」は、ひとえに人間を超える存在への畏敬の念からのみ生じてくるものではないでしょうか。
 その意味で、日本の今後の教育において私立学校の果たすべき役割は大きいと思います。近年打ち出された学校教育の多様化、設置基準の大綱化、それぞれの教育機関の独自性の強調などは、これからより一層促進されることを願っています。その際に、ただ個々の私立学校に自由競争をさせ、その存亡を自然淘汰の原理に委ねるというのではなく、それぞれの教育理念と方針に関して適切な評価をくだし、それを支援していただきたいと思います。私学の経営は、現代社会の少子化と不況のあおりで、ますます困窮しています。どのような高尚な教育理念も、経営が成り立たなければ実現はできません。私学に奉職する教員は経済的困難のゆえに、真の人間教育の実現のために十分な時間的・精神的な余裕を持ちえないでいるのが現状です。その点では、日本国政府は国公立学校への偏重を是正し、より一層、私学の教育理念の遂行を支えるべきではないでしょうか。規制緩和を自由化だけでなく、適切かつ公正な評価を前提にして、国公立学校と私立学校との補助金の格差を是正していただきたいと願っております。
 教育改革は、決して一時的な掛け声で終わることなく、今後も長期的に、さまざまな試みと検討を経て、地道に続けることを通して実りをもたらすものであると思い、こころからこれを祈念するものであります。

上 廣 榮 治
((社)実践倫理宏正会会長)

 先日ご下問のありました教育のあり方につきまして、以下、私ども実践倫理宏正会の長年の活動から導かれました所感を簡略に述べさせて戴きます。
(なお回答は、例として挙げられた4つの問題点に沿って行わせて戴きます。)

@ 教育という営みにとって大切な視点(基本理念)は何か。

 教育とは、「子どもたちが本来持っている善なるものを引き出し、生きる希望と力を獲得させること」であると考えます。
 一方、今日の日本社会の歪みと混乱を招いたものは、社会を挙げての理想・理念の不在と価値観の混乱にあると思います。
 社会全体がさまざまな価値観や我欲に惑わされ、共通の目標、共通して目指し守るべき倫理的指針を喪失しているがために、誰もが「為すべきことと、為してはならぬこと」の区別を失っているのです。そうした状況下にあって、どうして子どもたちだけが、正しい「夢」や「希望」をもつことができるでしょうか。
 このように考えれば、教育の基本はまず、社会全体が仰ぎ遵守すべき基準や方向性を確立することにあるのは明らかであります。そしてそれを、私たちは「倫理的な善」であると考えます。
 また、かかる「倫理的な善」は、人間誰しもが生まれながらに持っているものであり、それを引き出し育て、応援するのが「教育」であると考えます。

A 学校、家族、地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮すべきか、生涯学習をどのように進めるか。

 私どもは、「学校にも家庭にも地域社会にも、倫理的な善が行き渡り、尊重されてはじめて、子どもたちの善なるものもおのずと引き出され、生きる希望と力が身についてくる」と考えます。
 今日の社会の混乱の大本は、学校教育にあることは論を待たぬところであります。倫理の軽視によって社会総体の向かうべき方向を失わせ、家庭にも地域社会にも、我欲だけを肥大化させた非倫理的で身勝手で無責任な大人たちを蔓延させてしまったのは、戦後学校教育の敗北に他ならないと考えます。
 ちなみに、我が会発足以来の標語の一つに「子どもの善導は親の倫理実践から」とあります。つまり、親が倫理を践んで夢を持って前向きに生きる。すると子どもも、親の生き方に倣いつつ自分なりのよき目標を育むものです。この原理は我が会の長年の活動の中で確実に実証されてきております。
 教師も地域の人々もまた、この例における「親」の役目を果たすべきだと考えます。
 しかしそのためには、まず、社会全体が仰ぎ目指すべき理想・理念を持つことこそが肝要だと思われます。
 生涯学習も、「正しい希望」を持って生きることが行き渡った社会であってはじめて開花発達するものです。つまり、倫理的善を実践していれば社会的に顕彰され、無責任で背徳的な行為は社会的に弾劾される、そうした社会であることが前提であります。
 すなわち、教育の質はその社会の質によって決定され、子どもの質はその社会の大人の質が決定するという意味で、教育の問題は社会総体の問題として捉え、改善されていかねばならぬと思います。

B 「個」と「公」についてどのように考えるべきか。

 私どもは、個と集団の関係について、「個人的な仕合わせは、彼が属する集団の仕合わせを抜きにしては成立し難く、集団の仕合わせは、個人を仕合わせにすることを抜きにしては実現し難い」と考えます。
 家族を例にとれば、分かりやすいと思いますが、家族みんなの仕合わせを抜きにして、家族の一員の仕合わせはあり得ません。また、家族の一員が倫理に外れた生活をしている場合には、家族の仕合わせもあり得ません。
 私どもは、「公」についても家族の延長上のことと考えています。すなわち、自分一身の行いを矯し、みんなの仕合わせを実現しようとする努力が、そのまま公を齊えることになり、結果として個人の仕合わせにも繋がると信じます。「個」と「公」を統一的に捉えることが要点だと考えております。

C 教育改革を今後具体的にどのように進めていくべきか。

 教育改革として、政府が行うべきことは、@社会の進むべき理念・理想を高く掲げ、社会正義と社会的公正を確保することで、社会総体の倫理性を高揚させること、A広い意味での教育的環境を整えること、の2点によって推進されるべきであり、それ以上でも以下でもあるべきではないと考えます。具体的な教育内容に関しては、政治が介入すべきでないことは、過去の、あるいは世界の多くの事例が示しております。

 なお、総理の年頭記者会見の中に「夢を実現する力をつける教育」というお言葉がありましたが、「夢の実現」の前に、正しい「夢を持たせる」ことこそが求められるのではないかと考えます。
 「夢」とは、夢であれば何でもよいわけではありません。人として践むべき道、「我も人もの仕合わせ」を前提とした「倫理に添った夢」でなければなりません。もしこの点をおろそかにすれば、これまで同様に「多様な価値観」という美名に隠れた、背徳的な夢や個人的な利得の追求が行われることになり、人類の未来ははなはだ儚いことになってしまうでありましょう。
 私どもの経験からいたしますに、倫理に添った「善き夢」を結び得る者は、優れた倫理の実践者の影響下にある環境において輩出します。口に倫理を言いつつ、実生活が乱脈である者の下には、ほとんど成果がありません。
 しかし、そうした人格的な影響力を持ちうる指導者、教師の少ないことこそが問題です。そこで、教育改革のために即効的な次の2点の提案をさせて戴きます。

1.学校教育において、もっともっと良書を読ませるべきであります。アメリカにおける課題図書の如く、立派な生き方や考え方に、より幅広く触れる機会を増やすべきです。人生に夢と感動があることを自ら発見させるべきであります。今日の日本の子どもも大人たちも、立派な正しい人生について、あまりにも知らなすぎると思います。
2.地域の生活者が学校へ出掛けて「押しかけ授業」をしている事例があるそうです。一芸に秀でた卒業生が母校で授業をするというテレビ番組もありました。
 このように、野に隠れてある優れた生活者の力を借りて、子どもたちにその影響を及ぼすべきです。子どもにも大人にも、優れた生活者に触れる機会をでき得る限り増やすべきであります。
 優れた生活者の発見と活用は、地域共同体の活性化や地域振興の一策としても、ご検討あるべきではないでしょうか。

 教育改革というと、まず教育内容や教師の技能が取り沙汰されますが、問題の根は教師や親の人格の問題から、社会全体の風潮にまで及んでいると認識すべきだと思います。
 これは一朝には改革され難いことであり、ただひたすらに、社会の目指すべき理想・理念や方向性の確立、優れた生活者の顕彰や背徳者の弾劾などによって、長い日時をかけて実現していくほかに道はないと考えます。
 しかし一方、今日の社会にも、脈々として日本人固有の「善さ」がまだ息づいてもいると思います。正直、勤勉、親切、向上心といった美徳は、未だ社会の随所に見られるところであります。その尊ぶべきを顕彰し、その影響を教育に活かしてゆけば、おのずと社会全体に倫理の践むべきことが徹底されるに至るであろうと、確信しております。
 かつて日本が「礼節の国」として高く評価されたように、再び精神の高さ、倫理性をもって大国とされる日が来たらんことを祈りつつ、総理の教育改革に期待致しております。


鵜 川   昇
(桐蔭横浜大学学長)

教育百年の計に関する提言

1.教育という営みにとって大切な視点(基本理念)とは何か

 日本という運命共同体の一員としての自覚を教え、体得させること。
 「国を愛し、民族を愛する国民たれ」というのが、私の制定した建学の精神にあり、入学式・卒業式はもちろん、あらゆる儀式には、幼稚部から大学まで、掲揚塔には国旗と校旗を掲揚し、式場には国旗と校旗を正面に掲げ、国家の斉唱から式典をはじめます。ドイツ桐蔭では、日本の国旗を中央に、左右にドイツの国旗と校旗を掲げ、日本国歌に続きドイツ国歌の斉唱から式典をはじめます。ドイツ桐蔭の在校生は、ドイツを中心とするヨーロッパ各国に勤務する駐在員の子弟と横浜本校からの留学生で、ドイツ人は一人もいません。しかし、式典には、州政府(バーデン・ヴュルテンベルク州)の教育担当責任者、地元のザウルガウ市長をはじめ市民が参加します。
 現在の日本の教育は、公私立とも、日本国憲法、教育基本法に基づいて教育をしていますが、日本人としての教育をするよう示す部分は一つもありません。今、憲法改正論が国会でも取り上げられていますが、教育基本法も改正しなくてはなりません。
 私は戦前の教育を受け、学徒動員1年前、昭和17年9月繰上げ卒業により10月応召、昭和20年まで軍務に服し、敗戦後、昭和24年から12年間、公立高校の教師を勤め、私学に転じ、昭和39年桐蔭学園を開校、現在に到っています。公教育はもちろん、私学の教育でも、日本に生まれ、日本に育ち、日本人として社会に出る人々に、日本人としての教育をする理念がないことを極めて遺憾に感じています。日本人としての運命共同体としての視点、基本理念を教育基本法に確立、敗戦により失われた日本人としての自覚を教育をすることが、何より必要と考えます。

2.学校・家族・地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮すべきか、生涯学習 をどのように進めるか

 学校は知育、家族は躾教育、地域社会は実践教育をする。生涯学習は、学校と専門学校、各種セミナー、インターネットで各人が進める。そのための便宜を公的文教施設・企業はネットワークとして与えるべきです。同時に、学校教育のみが学習期間・学習機関でないということを学習者に知らせ、一生に亙って学習機会活用の意識を与えることが必要です。
 学校という集団教育力の中で、幼稚園では、協調という視点から集団生活をするための躾を教える。小学校では、知の初等基礎教育を行い、あわせて、集団の中での活動をする能力と躾を並行して教育する。中学校では、協調性・社会的ルールをクラブ活動などスポーツを通じて体得させ、中等基礎教育を徹底させる。高等学校では、その上に立って普通教育を徹底、完成させることです。

3.「個」と「公」についてどのように考えるべきか

図

 敗戦後の日本の教育では、国のために尽くすということをはじめとして、「公」に尽くす教育面を取り上げていません。
 教育基本法では、人格の完成と平和的な国家及び社会の形成者としての国民の育成を目的としていますが、国のために尽くすという面が欠けています。「公」の背景の最大なるものは国であり、国の文化・伝統の下に個人はある。一人ひとり(E)が国家(N)ならびに国の歴史、文化(K)の下にあり、それがさらに世界の文化(W)に包含されていて、それぞれの接点に個(E)がいます。この図は、戦前の西田哲学者で夭折した木村素衛氏の「国家に於ける文化と教育」に示された考え方です。個人Eの属するNの円は、家族社会・地域社会・企業などからなり、それが生み出す文化の円Kに内包されるが、両者の接点を共有して個人があると考えられます。
 戦前の一時期は、「私」は「公」の中に呑み込まれて円内の無自覚な一点になり、「公」あって「私」なしとなりました。しかし、戦後55年経った現在では、「私」あって「公」なしです。とくに日本国という意識が欠落した社会になっているのが問題です。
 「私」と「公」が分離し、裂け目が広がる中で、中間集団の役割が評価されなければなりません。しかしながら、中間集団――家族、会社はもちろん、労働組合、政党――も吸収装置、緩衝装置としての機能を失い、国としての大きな公はもちろん、中間集団そのものが弱体化し、公との裂け目が拡大しています。自律する個人を措定したハードな個は、日本の社会では絶望に追いやることとなり、自殺といわれなき他殺、傷害が多くなり、連帯の希望も見えません。
 そこで、「個」が「公」を支え、フリーライダー(ただ乗り)を許さない、合理的な思想を確立することが必要です。そのためには、国家・民族・社会・家族の生活共同体を重んじ、かつ、個人を重視するという意識を採り入れねばなりません。現在の日本では、そうした仕掛けが無策であるか陳腐であり、説得力を持っていません。かつての日本で行われた、国に殉ずる者は靖国神社に合祀され報いられるというのとは別の栄誉などについて新たな対応を考えねばならないと思います。

4.教育改革を今後具体的にどのように進めていくべきか

 (1) 2002年から実施される教育課程で幼・小・中・高の教育内容は、30%少なくなり、世界に冠たる初等中等教育の教育内容はダウンします。対応としては、この教育課程を最低とし、多様性から多層性に進める必要があります。
 競争原理を導入した一連の中教審、大学審議会の答申に不十分な多層性―能力差、個人差を差別とし、平等公平を唱えた過去の教育改革を多層化による個性化を恐れない改革をすることにより、学校教育は6・3・3・4制を4・4・4・4制に改めるほか、単線教育を複線化、複々線化するなど弾力的なあり方を採り入れなくてはならないと考えます。

 (2) 初等中等教育の教員免許状については、社会人に門戸を開いた点は画期的良策と考えますが、教室破壊、学校破壊の原因の70%が教師にあるという現状から考えて、これからの新しい教員免許状授与に当たっては、ロー・スクール構想などに並ぶティーチャー・スクール構想を樹てるほか、従来のような必要専門科目と教育科目の履修だけでなく、今までの教員免許状取得条件は仮免許状とし、教育実習訓練を1年に亙って行うなど、教師養成を厳にする必要があります。
 既に免許状を交付されている者についても、研修を義務化し、再研修をしない場合には失効する制度を確立する必要があると思います。
 荒廃した学校教育を救うためには、教師養成を根本的に改めなくてはなりません。


宇 治 敏 彦
(中日新聞社取締役論説担当兼東京本社(東京新聞)論説主幹)

教育改革に関する私見

@ 教育の基本理念
 教育の基本理念には普遍的妥当性と客観的妥当性が求められるが、その両面とも原点の部分は昔から変わっていない。
 すなわち「立派な人間を育てる」「素晴らしい人間を育てる」ことであり、知育・徳育・体育のバランスがとれた人間をつくりあげることにある。
 もとより時代の要請に応じて、明治期には「少年よ大志を抱け」的励ましも必要だったし、21世紀を前に、今日ではIT(情報技術)に関する知識やリテラシー教育の必要性といった違いはあろう。
 だが、幼児が親の背中を見て育ち、小・中学生が先生の言動に左右され、大学期の若者たちが先人の研究や芸術作品に触発されることは、夏目漱石の時代から変わっていない。
 むしろ、漱石の時代における教育のような情熱やロマンや学問欲が、今日なぜ失われているのかの検証こそ必要である。
 また、環境整備、予算、専門家の招聘など教育を取り巻く諸条件の充実については国や地方自治体が積極的に取り組むべきだが、個人の個性を縛ったり、国家要請を前面に出すことで個人の希望を拘束するといった教育指針は厳に慎しまなければならない。
 池田・佐藤内閣当時の「期待される人間像」、田中内閣の「5つの大切、10の反省」もお題目としては結構だが、そこに政治の影や国家要請が見え過ぎると、国民の側はかえってしらけてしまう。

A 学校・家庭・地域の役割。生涯教育
 学校教育の基本は教育者、先生にある。これまでの日本における教育者や先生で、どのような人が優れた教育者・先生であったのかに関する幅広い世論調査を実施することがよい。(設問例=「内外を問わず、あなたが立派な教育者あるいは素晴らしい先生と思っているひとは、どんな人ですか」「あなたの人生に大きな影響を与えた先生は(小・中・高校・大学の)どの先生ですか」など)
 家庭教育は、親の権威が失墜している今日、非常に難しくなっている。核家族、高齢化と少子化、モノあまり時代、若者たちの経済力の増強などで、親より「友達」と打ち解ける社会環境ができあがってしまった。「家族」が生活の原風景であることをどうやって親と子に伝えるか。そのメッセージは重要である。政府は家庭健全化のためのサポート策を練るべきかもしれない。同時に、子や孫の世代のお金を先食いして現在の生活を維持しようとする今日の大人たちの姿が子供たちに間接的に不信感を与えていることにも思いをいたすべきだ。
 地域社会のあり方としては、地方自治体が「知らしむべからず由らすむべし」から「知らしむべし由らしむべからず」の姿勢に転換すべきだ。自治体の情報公開と住民の自己責任原則があいまって本物の民主主義が育つ。地域社会教育も同様の視点で進めるのがよい。
 生涯学習のあり方としては、伊能忠敬のような「人生二毛作」を奨励するのがよい。特に、高齢化社会においては年配者の「精神的自立」が経済的自立と同程度に重要になっている。

B 「個」と「公」について
 同封の東京新聞社説で論じたように「パブリック型社会」を目指すべきだ。「公」というと、「官」と同意語にとられがちだが、「民間」の中にも「公」があることをもっと認識してもらわなくてはならない。言葉を換えれば「民の中の公」こそ、今後の社会のキーワードである。
 もう1つの視点は、「共助社会」の育成であろう。ゴミ焼却場建設でのNOTIN MY BACK YARD(うちの裏以外なら)といった住民エゴを取り除くための共助システムを構築することが大切である。

C 教育改革の今後の進め方
 複線化路線の教育制度(英才教育と従来型の平均教育の共存)は重要度を増していくであろう。ノーベル賞の素質をもった天才を育てながら、他方で従来型の平準教育をミックスさせていくにはどうしたらいいか、を専門家の意見を聞いて、複線化教育の具体的プランを提示すべきだ。
 英語教育については、学校教育だけでなく、家庭、地域での取り組みも必要になる。国語と同時に、英語が家庭、地域、社会などでもっと多く使われるようになる環境づくりを考える必要があろう。

「パブリック型社会へ−週のはじめに考える−」

 新井将敬代議士の自殺は、政治家と株の関係について問題を提起しただけでなく、公的市場の在り方にも教訓を残しました。「官・民」「公・私」について考えます。

「皆やっているやないか。あの子だけやり玉に挙げて」。新井代議士の母親は、取材に詰め掛けた報道陣に向かって、こう叫びました。
 政治家と株の関係では、リクルート事件を筆頭に、これまでも「VIP口座」「一任勘定」「借名口座」など、国会議員という肩書のゆえに証券会社側が特別の便宜を払うケースが目立ちました。「選挙銘柄」「政治銘柄」と取りざたされる株もあります。
 その意味では確かに「(政治家は)皆やっているやないか」、それなのになぜ息子だけが、と嘆く母親の気持ちも分からないではありません。

『民』の中の『公』に認識を

 しかし、それは論理の倒錯です。本来は、だれであれ、そういう便宜供与をしてはいけないのです。議員という特権をかさに着て特別扱いを要求したり、証券会社が何かの見返りを期待して議員に特別な便宜をはかることは、利用者に一律・公平であるべき証券市場の基本を崩すことになります。
 「官・民」「公・私」という場合、別図のように、私たちは国家、行政、役所など「お上」型の領域(図のa)と、「利益追求」型(図のd)の民間企業、自営業者など「民・私」を対比して考えがちです。
 「“お上”がやることじゃ仕方ないか」と、何となく納得してしまうのは「官・公」がパブリックな大義名分を持ち、他方、「民・私」は「どうせもうけが目的だから」と片付けられてきた風潮からです。
 まず、この認識を改めなければなりません。「公」=「官」、「私」=「民」の考えから脱却することです。「民」の中にも存在する「公」への意識を強めるべきです。(図のb)。
 証券市場は、株の売買を通じて利益を生む(あるいは損を出す)舞台ですが、その運営は、あくまでもパブリックでなければなりません。

戦前は『私』が『公』に埋没

 経済学者のケインズは、為替市場をはじめ綿花、銅、亜鉛、ゴム、小麦、砂糖などさまざまな商品取引に手を出し、大もうけと失敗を繰り返したことで知られています。「大蔵省にいたときに内部情報を使って財産をつくったという噂(うわさ)が時々流布された」(R・F・ハロッド著「ケインズ伝」)ほどでした。
 だが、ケインズは内部情報を使うことを忌避し、「ウォール街の取引人たちが、もし内部情報を持っていなかったなら巨大な富をつくることができたろう」とさえ言い切りました。
 経済学者として、公的性格の強いマーケットの規範、平等性を壊してはならないという気持ちが強かったに違いありません。
 「民」における「公」は、証券市場だけでなく、鉄道・航空など運輸関係、テレビ・ラジオ・新聞・インターネットといった情報通信の分野など、さまざまなところにみられます。
 旧国鉄が分割・民営化されてJRになり労使の意識は変わったかもしれませんが、利用者側の意識は国営だから使い、私鉄になったから使わないというものではありません。国鉄であれ、私鉄であれ公共性の強いパブリックな事業と受け止めています。
 電車の中もパブリックな場所と言えます。携帯電話の使用や、ゴミのポイ捨ても、「公」「私」をはき違えているところから起きる現象です。
 最近、「官」を「私」と混同する役人(図のc)が目立つのは困りものですが・・・。
 戦前・戦中の日本では「私」が「公」の中に埋没することを余儀なくされました。政治学者の故丸山真男氏が論文「超国家主義の論理と心理」で指摘したように、多くの日本人は「私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いもの」との“うしろめたさ”を認識し、国家的意義を結びつけることで、うしろめたさから逃れようとしました。
 この認識から脱却することが戦後民主主義の出発点であったはずです。日本人は、天皇の「臣民」から日本国憲法による「公民」となりました。
 しかし、「私」の浸透が進んだわりには、「民」の中の「公」への認識が遅れているのです。
 四月から改正外為法が施行され、日本版ビッグバン(金融制度改革)が本格スタートします。金融・証券市場は大競争時代を迎えるでしょう。このパブリックな市場は、限りなく透明、公平、平等でなければなりません。
 規制緩和が進めば、「官主導」から「民優位」の競争が展開されますが、ここでも公的な規範が堅持されるべきです。マーケットや自由競争を政治家の特権によって曲げてはなりません。新井代議士の自殺が残した教訓は、ここにあります。

『大部屋』の視点を大事に
 「公(おおやけ)の「やけ」は家、屋敷のことで、もともとは「大きな家」という意味だったようです。そこから宮殿、皇居、朝廷、政府を指すようになったとみられています。
 金融ビッグバンやさまざまな規制緩和に伴い不可欠な視点は、「官」主導のお上型でなく、「民」の市場を大きな家ととらえ、その中の大部屋では秩序ある「公」のルールを大事にすることです。大部屋なら皆の監視の目も行き届くはずです。
〈1998年3月1日(日) 東京新聞 社説 論説主幹 宇治敏彦〉

図


馬 居 政 幸
(静岡大学教授)

はじめに
 日本の教育は、戦前は近代国家として欧米列強に対抗するため、戦後は豊かな産業国家として欧米に追いつくため、いわゆるキャッチアップ型のシステムとして制度化されてきた。その中核が画一的な知識と教授方法を重視する学校教育である。その結果、学校が現在の豊かな日本社会を築く上で大きく貢献したことは認めたい。
 だが、フロントランナーとして、グローバルな情報化を前提にした大競争時代を勝ち抜くには、ローカルなパッケージに包まれた知識・技能では対処できず、一人一人が自分にしかない能力を積極的に表現する能力と意欲が重視される。さらに、高齢化の進行は、人を支え介護する意欲と技能と心が要請される。他方、異年齢どころか同年齢の仲間すら失った少子世代にとって人とコミュニケートすること自体が学習の課題である。いずれも、人生の一時期に教師が教科書を教室で教えるのみでは実現不可能な課題である。
 このような問題意識から、4つの問いへの私見を提示したい。

(1) 教育という営みにとって大切な視点(基本理念)は何か
 今後の教育の目的は、個々人が個性豊かに、自己の人生の価値を創造することができるための能力や人格を育むことでなければならない。そのため、学校教育を始めとして、さまざまな教育機関は、誰もがかけがえのない人間として、生涯にわたり価値創造の主体者として自立することを支え助ける仕組みとして再構築される必要がある。
 また、その具体化のキーワードは多様性である。
 国家が近代化や工業化の過程にある段階では、学校中心に教育システムを統合することが可能であった。だが、自己の責任において人生を創造しなければならない段階では、学習する側(学習主体)も教育する側(教育主体)も多様にならざるをえない。また、幼児期から高齢期にいたるまで、教育と学習の機会が公私双方において多彩に準備される段階では、教育の在り方を一元的に規定することは、実態にそぐわない。何よりも、今と未来を生きる人たちの人間形成の主要ファクターとなるのが、瞬時にワールドワイドに広がるサイバースペースに象徴される情報空間になることは避けえないはず。この時空を自在に生きるためには、多元性に積極的に対応するパーソナリティの育成が不可欠である。
 他方、国家や大企業も一定の歴史的社会的条件のもとに形成された集団がもつ制約を免れない。過度の同調は、自由な才能の開花とフレキシブルな変化への対応を妨げる。同時に、所属集団ではなく自己の責任で判断する領域の拡大が避けえない以上、個々人の能力の多様な開花を可能する教育システムが機能する条件の整備に向かうしかない。
 ただし、その基盤は情報機器ではなく、次の課題に関係する身近な人間関係である。

(2) 学校・家族・地域社会のそれぞれがどのような役割を発揮すべきか、生涯学習をどのように進めるか。
 この問題を解くキーワードは自立である。先に、学校を始めとする教育機関のあるべき方向として、「自立を支え助ける仕組みへの再構築」を強調した。問題はいかにすれば自立できるかだが、重要なのは自立は孤立ではないということ。また、個性は他者を介して初めて顕現され、価値は社会との関係においてその重要度が位置づけられる。自立を支える個性や創造性の育成は、家族を代表に身近な人たちとの生活の過程において、さらにはより広くさまざまな人と共に生きることによってこそ可能である。自分らしさは、自分とは異なる世界に生きる多様な人や文化と交わり貢献する過程で、より豊かに培われる。そして、その多様な人々が共に生きる世界こそ地域社会である。その意味で、学校と家族と地域社会は役割分担を論ずる前に、まず、目指すべき教育の方向を相互に理解しあうことから始めるべきである。
 ただし、学校は法と予算で運営され、専門家によって担われる全国共通の組織である。それゆえ、公的な強制力により改編可能である。だが、現代家族は、工業化と都市化に伴う職住分離や核家族化に加えて、高度情報化による就業構造の変化から、多様性・流動性を避けえない。加えて、私的な世界である以上、公的な要請を一律に強制することは困難である。逆に、大都市の私学指向や塾を始めとする教育産業の繁栄は家族の選択によるものである。さらに、地域社会にいたっては、その範囲を明確に規定すること自体が困難。仮に子どもの身近な世界という意味で地域社会を位置づけたとしても、現状のままでは、そこでの生活を共有するのは専業主婦の女性もしくは退職した高齢者のみである。
 したがって、学校・家族・地域社会という三者の役割分担は、内容以前に、それを担う身近な人と人のつながりをつくること自体が課題となる。たとえば、家族の場合、基本的生活習慣の社会化(しつけ)を代表に、役割を規定することはそれほど困難ではない。だが、その実践条件を整えない限り問題は解決しない。しつけは家族と外の社会との関係によって成立するもの。他方、少子化は親の減少とセット。孤立した家族、それも未経験な母親のみで子どもの社会性を育むことは不可能に近い。そのために、まず必要なのは親への支援である。そして、この親と親を結ぶ人間関係の再構築こそ子どもの社会性を育む過程といえる。地域社会の教育力は、既にあるものではなく、身近な世界で出会う子どもとその親を支え助ける過程で形成されるものである。
 さらに、このような人と人の関係の再構築こそ、生涯学習の課題と考える。すなわち、生涯学習は、直接的には個々人の生涯にわたる自己実現を支える学びの機会の拡充として位置づけうるが、より重要なのは、その成果をいかに未来を託する人の学びと育ちを支え助ける心と営みへと結実させるかであると考える。
 その意味で、次の課題と結び付くが、親や教師のみでなく、大人全体が未来を担う子どもを教え育てる責任を共有するため、子どもを私的世界ではなく公的世界の中に位置づけ直すことから、新たな「公」の再構築を始めるべきではないか。

(3) 「個」と「公」についてどのように考えるべきか。
 まず、「公」は「私」に、「個」は「集団」に対置する概念であり、「個」=「個人」として、問題を個人の公的世界の形成過程に限定したい。
 理由は2つある。その1つは、日本では「公」の概念は「官」と重なる一方で、家族との対比では私企業もまた「公」として位置づけられることを代表に、必ずしも一元的に規定できないからである。すなわち、「個人」の所属集団内における行動基準として、集団の要請を「公」として上位におくとともに、集団相互の位置づけにおいては、国(官)との距離により、上位集団を「公」、下位集団を「私」とする傾向が強いからである。
 その2つは、「公」と「個」が問題視される背景として、規範意識の低下に象徴される現代の若者や子どもたちの集団内での行動様式への危惧があると考えるからである。
 したがって、問題の中心は現代の子どもたちの成長過程における集団の構造にある。
 ここでは詳細に論じる余裕はないが、問題視される若者や子どもたちにも独自の公的世界があることは指摘しておきたい。ただし、それは非常に限定された仲間内のルールとしてである。そのことを一方的に責めることはできない。学校を中心に育つ限り、彼ら彼女らの生活が家族と学校と塾の往復に閉ざされていることを反映した意識だからである。
 そのため、集団への所属や集団間の関係を経験する機会を豊かにし、他者や集団との関係を幾重にも形成する過程を迂回しない限り、新たな「公」の再構築は実質化しえないことを強調しておきたい。逆に、育ちと学びの過程を改編しないままに、国家主導で学校を通じ新たな「公」概念を教授したとしても(このこと自体が可能とは思えないが)、それはテストの模範解答の世界にしか表現されないであろう。さらに、過度の強制は、閉ざされた世界ならともかく、現状の日本社会では、新たな才能の芽をつぶし、無責任な集団依存の若者を再生産する結果になることを恐れる。

(4) 教育改革を具体的にどのように進めるべきか。
 ここでは2点指摘しておきたい。その1つは、新たな改革案を提示する前に、既に進行しているさまざまな改革を整理統合するとともに、その結果についての実証的な検討を早急に実施することである。臨教審にまで逆上らなくとも、文部省の各審議会の答申のみでなく、他省庁の施策も含めて、さまざまな改革が試みられていることは事実である。しかし、地方教育行政の立場からではあるが、近年の教育改革にかかわってきた者として、個々の内容の正当性は認めるものの、それらがどこまで相互に連携された答申であるかに疑問をもたざるをえない。加えて、その内容が県、市町村と各自治体を経由して国民のもとでの実際の改革へと展開されたときに、どのような屈折が生じているか。このことにも危惧を抱かざるをえない。さらに、文部省のみが教育を担う時代は終わり、産業構造の変動や情報化、グルーバル化などの新たな時代の要請は、他省庁との連携が不可欠である。だが、国と地方双方の縦割り行政は相互の利点を相殺する可能性を否定できない。そして何よりも、子どもとその親の変化は、旧来の常識では判断できないレベルにまで達し、改革案と現実のズレとともに、問題の複雑化を増幅する結果になることを危惧する。
 もう1つは改革を具体化するための課題である。静岡県の教育計画を策定する作業にかかわって最も苦心したのは、主体となる教育委員会の事務局の人たちに一種の自己否定的な計画を強いることになったことである。改革が未来からの要請である以上、従来の規範や価値を否定することを避けえないにもかかわらず、その担い手は改革すべき規範や価値のもとに選ばれてきた人たちにならざるを得ないからである。この構造は実施レベルでより深刻な問題となる。教育改革は学校と教師を担い手とせざるをえない。だが、学校現場では、少子化の影響により、このままでは新規採用が極端に制限され、10年以内に平均年齢は40代後半、50歳を前後する教員が多数派を占めることになる。教員の人事や評価の在り方も含めて、教育改革はその実践化への戦略と戦術を、それを担う人と組織の在り方とセットで詳細に検討することなく、実質化しえないことを強調しておきたい。
 この2つの観点から、教育改革国民会議においては、全省庁や地方行政あるいは民間の教育産業や情報産業をも含む立場からの教育改革の理念や方向、そして改革過程自体に対する実証的な論議を期待する。


梅 原   猛
(前・国際日本文化研究センター所長)


 お手紙拝見しました。現代の日本が直面しているもっとも火急な問題が教育の問題であることは、私も首相及び文相と見解をともにするところであります。
 かつて中曽根康弘元首相のもとに「臨時教育審議会」なる会議が設けられました。これは中曽根元首相の先見の明を示すものでありますが、残念ながら会議は、大山鳴動して鼠一匹という感があったことは否定できません。これは一つには、委員に、現代世界の文明のあり方を見据え、教育に関する高邁な理想をもつ教育学者あるいは哲学者を欠いていたせいでもありますが、一つには、まだこの問題の切実さが日本の国民に広く理解されていなかったからではないかと思います。
 あれから15年、今や上にはエリート官僚の信じられないような腐敗と怠慢があり、下には少年少女の驚くべき犯罪があり、日本人のほとんどすべてが教育の問題の切実さを感じています。このようなときにあたって、かつての臨時教育審議会にまさる国民会議を興し、広く識者の意見を求め、国家百年の教育の大計を決定しようとする首相の意思に深く敬意を表するものであります。
 この会議が実り豊かな会議になるためには、二つのことが必要であると思います。それははっきり国家百年の教育の理念を確立することです。その理念は、遠く人類文明の行方を見つめ、そのなかで国家として日本がどのように生きていき、そのためにはどのような教育が必要であるかを明確に見定めたものでなければなりません。
 第二は、会議はそのような理念にもとづいて具体的な施策を決定しなければなりません。そしてその施策を、日程を決めて一歩一歩確実に実現していくことが肝心です。
 新しい日本の教育のあり方を考えるには、やはり明治以後の日本の教育がどのようであったかをはっきり認識しなければなりません。明治以後の日本の教育は、日本を欧米先進国並みの強く豊かな国家にしようとする方針のもとに立てられていたと思います。そのためには、一方で科学技術とデモクラシーをとり入れ、日本を近代国家にすることとともに、他方では国の中心を確立し、そこに国民のエネルギーを集中する必要がありますが、その集中点が天皇でありました。
 このようにして日本の教育の方針が立てられましたが、初等教育においては主として天皇の崇拝を中心とする道徳が修身教育として教えられ、中等教育以上においては、科学技術文明を移入することのできる人材を育成しようとするわけであります。中等教育においてもっとも重要な科目は英語と数学でありますが、英語は西洋文明をとり入れるのに必要欠くべからざるものであり、数学もまた科学を学ぶために欠くことのできないものであります。
 私は、この明治以来の教育はほぼ成功し、日本は欧米に負けない近代国家になったと思います。しかし今やこの教育は両面において重大な欠陥が生じていると言わざるを得ません。
 科学技術教育についていえば、日本は一応西欧並みに追いついたといえ、西欧を
 追い越したとはとてもいえません。それははっきりいえば独創性の欠如であります。もちろん日本で科学や芸術において独創的な仕事を成した人はないとはいえませんが、欧米先進国に比べて大変乏しいのです。私は、その原因は教育にあると思います。日本の教育は、すでにでき上がったものを手っ取り早く学ぶことに長じる人間を養成することができたとしても、自分の頭で考える人間を育成するのに十分ではありません。故中村元先生は80才を超えて、「奴隷の学問をやめろ」と言われましたが、それは、今までの教育が奴隷の学問であるという自己告白であります。創造的人間を養成しないかぎり、日本のこれ以上の発展は難しいと思います。
 この点が日本の教育の大きな欠点であると思いますが、もっと深刻なことがあります。それは戦後、修身教育が国家主義的思想を鼓吹するものとして、マッカーサー指令によって廃止され、学校においてまったく道徳そのものが教えられていないことであります。現代では、一応小学校や中学校において「道徳」の時間は設けられていますが、実際それを行っている学校は少なく、教科書もありません。家庭においてそのような教育が行われているならよろしいが、今の日本で道徳がしっかり教えられている家庭は大変少ないと思われます。こういう現状において、まったく道徳的な品性をもたない子供が育ち、それが日本の未来を脅かすのであります。道徳教育が必要ですが、道徳教育というとあまりに狭く窮屈なので、「心の教育」と名づけたほうが適当と思います。
 このように考えると、日本の教育の二つの長所が今、ともに病んでいるのです。その病を治さなければなりませんが、それとともにもう一つ、現代世界の文明の方向に沿った新しい教育が必要です。明治以来の日本教育は近代西洋に追いつこうとしたわけですが、今や近代西洋を導いてきた思想が大きな壁にぶつかっています。その一つは人間と自然の関係です。
 近代思想において、人間は世界の中心であり、自然を征服することは善と考えられてきました。しかしその結果、環境破壊が起こり、人間が一方的に自然を征服すべきではなく、自然と共存すべきであるということが誰の目にもはっきり見えてきました。もちろん自然との共生ばかりではなく、人間同士の共存も核戦争を避けるためにも必要欠くべからざることです。ここにおいて、環境教育、あるいは人間同士の共存を図る教育が重大な教育の問題として出現するのであります。
 また近代人はややもすれば宗教を否定してきました。しかしドストエフスキーがいみじくも洞察したように、宗教の否定は道徳の否定になり、人間はもはや何らの道徳心も、いささかの廉恥心もない欲望人に帰ろうとしています。
 ここにおいて宗教教育の意味を考え直さなければならないと思います。もちろん公の学校で特定の宗教を教えることはできませんが、各宗教に共通する宗教的心情の大切さについて教えられるべきです。
 私は、何よりもまず「心の教育」の教科書を作ることが必要と思います。嘘をつくことがどんなに悪いか、社会の中で自分の義務を果たすことがどんなに大切か、あるいは人間はなぜ自然と共存しなければならないかを、大変分かりやすい文学などの例によって懇切丁寧に子供たちに教える必要があります。今、日本の叡知を総動員して、そういう「心の教育」の教科書を作ることが必要です。その心の教育に創造教育も環境教育もある程度含ませることができるのです。

岡 崎 久 彦
(外交評論家)

教育改革について

 小生、教育は専門外なので、論文を書くことは御遠慮させて頂きます。
 ただ、平成11年11月22日付の読売新聞に、小生の限られた知識と経験の範囲内で感じた事を、次の通り書かせて頂きましたので、何ら御参考となれば誠に光栄に存じます。

「高校大学一貫制で 受験より才能伸ばす時期に−エリート教育−」

中露に抜かれる日
 教育問題は私の専門外であるが、一つの点だけについては私ははっきりした問題意識を持っている。
 それは、このままで行くと、日本のインテリは、知的水準でも、独創性でも中国のインテリに負けてしまうという事である。
 それはすでに始まっている。客観的な比較は第三者が一番よく知っている。米国の大学に留学しているポスト・グラデュエイト・レベル(大学院学生)では、日本人の学生は中国人の学生に較べて、学力だけでなく、人間としての魅力や独創性で見劣りがするという。
 もちろん人口の違いはあろう。中国人は日本の十倍の人口の中から選び抜かれて来たのだから、それだけ素質の良い人が多いという事はあろう。しかし、現在の中国人の知的意欲はそれ以上にすさまじいものがあるという。
 文化革命が終わって、大学入試が正式に再開されたのは一九七八年である。その時十八歳の人は今三十九歳である。それでも三十代の人は、初等、中等教育は文革時代だというハンデを負っているが、二十代となると、もう全く新しい時代である。
 日本との違いは、中国の教育は文革時代を全否定しているが、日本では、敗戦、占領、日教組教育の残滓がまだ整理されず尻尾を引きずっている所にあると言える。
 このままで行くと、現在二十代の中国人が、三十、四十代になる頃には、日中間の較差は了然たるものになってしまうであろう。まして科学技術の独創性で日本が後れを取れば、それは直接日本の衰亡につながる。
 ロシアからも、七十年間の共産主義時代を全否定した新しい優秀な世代が、中国より十年遅れて入って来る。
 現在まだ、日本のインテリが中、露にまさる知的水準を持っているのは、長い空白時代のあった中露に較べて、過去の蓄積があるからであるが、その利点もだんだん薄れて行くのであろう。
 それではどうしたら良いのであろう。もう一度、戦後教育が始まる前、幕末明治以来一世紀間、日本人がどうやって近代教育を自分の手で育てて来たかに溯って考えて見たい。
 ただし、ここでの問題意識は、一般教育ではない。国際場裡で国を代表する知識層のレベルで、いかにして、中国人、ロシア人に負けない人材を育てて日本の利益を守るかであり、それは不可避的に、いかにエリート教育を改善するかの問題意識となる。
 日本の近代教育は、明治維新以来自らの手で自らの制度を工夫改革して来たが、その進展は敗戦で中断された。占領下の諸改革は、言論の自由、農地改革、労働法、婦人参政権など、戦前から日本の中に改革の芽があり、敗戦後占領軍の指示を待たずに日本側から着手したものは、その後立派に結実しているが、憲法九条や教育改革など天から降って来たようなものは、それが正しい改革かどうか誰も確信のないまま半世紀が経過したのが実状と言えよう。ここで、もう一度溯って戦前の制度が中断された所から考えて見たいと思う。

「旧制高校」の利点
 戦前の日本のエリート教育と言えば、旧制高校制度である。その制度上の最大の特徴は帝国大学進学がほぼ保証されていた事である。
 もともと帝国大学への準備としての三年教育から始まったのであるが、その後帝国大学が増設されるにつれて旧制高校も増え、その定員はほぼ見合っていた。したがって旧制高校にさえ入れば、どこかの帝大へは行けた。当時東大を諦めて京大に行くことさえ、京都には悪いが、「都落ち」と言った。
 明治、大正時代、若者の夢は旧制高校に入る事だった。私の父が一生で一番嬉しかった事は、旧制高校に入った時に、校長が「君達はもう紳士なのだ」と言ってくれた時だったと常々言っていた。
 旧制高校の利点はここにある。十六、七歳で高校に入った途端に人生の将来が約束され社会のエリートの一員となるのである。
 それでも社会に出るまであと六年ある。一年や二年、ドイツ哲学に熱中しても、シェークスピアの史劇の読破に専念しても、剣道に打ち込んでも良い。つまり、現在の制度では受験のため、暗記、ツメ込み、ガリ勉に費やさねばならない青春の二、三年間を、教養を深め、人生を考え、自分の人間を形成するために、まわり道する事が許されるのである。
 戦前の教育はまだまだ進化した。明治、大正時代に全国津々浦々から笈を負って集まった秀才達が、やがて官界、財界の高級サラリーマンとなるにつれて、東京に住むその子弟の教育に適した制度も生まれた。

世界に通じる独創性

 7年制高校の成果
 それが七年制高校である。官公立では東京高校、東京府立高校、大阪府立浪速高校、李登輝、邱永漢を生んだ台湾総督府立台北高校、私立では、今に残る武蔵、成蹊、成城などがあった。
 中学に入った途端に、もうどこかの帝国大学まで保証されるシステムである。更に、旧制では中学教育は五年であり、ただし、四年で旧制高校に受かれば飛び級を認めるシステムであったが、七年制高校では、始めから中学四年で高校に行く特権が与えられた。
 教師は、英語や数学などの基礎をしっかり教えるために中等教育専門の教師も居たが、旧制高校の教授達も中学生を教えた。彼らは単に教師というよりも、同じエリート・クラスの先輩であり、兄であった。
 私は、中学二年の時松田智雄教授から世界史を習ったが、一学期はギリシャ史、二学期はルネサンスで、あとははしょった。戦災でノートは焼失してしまったが、ダンテの生涯と神曲の講義が一日以上も続いたと記憶する。西欧文明の基礎的教養はこの時教わった。物理、生物の先生達は今で言えば東大の助手ぐらいの若い教授で、自然の法則を説明した上で、「ここから先は、将来のわれわれの課題です!!」と叫んで、少年達の胸に夢を吹き込んだ。何時原子爆弾が出来るか、光合成に成功するかという時代だった。
 七年制高校の教育が始まるのはおおむね昭和に入ってからであり、まだ、日本、社会全体の一部として定着する前に、敗戦で中断されたが、あのまま続けばどうなっただろうと思う。平和が続いて、欧米留学も楽に出来る時代まで続いていれば、大正、昭和前期まで、まだまだ世界の田舎者だった日本のインテリも世界水準の仲間入りをしていたかもしれない。それは、明治以来、営々として続けて来た日本の近代化の最後の仕上げに貢献したかもしれないと夢想する事も許されよう。
 それは敗戦で途切れてしまった。しかし、敗戦までにそこまで来ていたという経緯を活かさないのはいかにももったいない。
 たとえばこうしてはどうであろうか。現在東大志望者が次善の策として選ぶ学校が幾つかある。京大、東北大、東工大、一橋大などである。もし、どれか一つが大学予科を設けて、出来れば中学から、取り敢えずは高校からでも良いが、一貫教育制を採用したらどうなるであろうか。
 全国の中学生の最高の俊秀はこぞって受験するであろう。そして一度受かればもう東大受験などしないと思う。戦前戦中、陸士、海兵は日本のエリート・コースであり、各中学の俊秀が争って受験した。しかし、私の居た七年制高校からは誰一人受けなかった。まして途中から一高など受ける者は居なかった。それほどに、ガリ勉から解放された自由な勉学の雰囲気というものは貴重なものなのである。
 むしろ、東大生よりも、予科を持った大学の学生の方が尊敬されるという現象が生じる事も予想される。
 私の居た府立高校は、旧制の府立一中(今の日比谷高校)が、上に接続する旧制高校を作ろうとしたのに対して、他の府立中学から反対されて、独立して出来たものという。それが出来た時から、私の居た小学校では、各クラスの一番が府立高校、二番、三番が府立一中受験と決まってしまった。伝統的な一中、一高コースより、七年制コースの方が上になってしまったのである。これが続けば、少なくとも東京では一高受験は、敗者復活戦となってしまっただろう。同じ様に大学予科は、東大受験をガリ勉による敗者復活戦にしてしまうかもしれない。
 こうして大学予科に入った学生は、ガリ勉から解放される。旧制教育よりも更に一年長い七年間である。学問のほかに、スポーツ、音楽、何をしても良い。休学して外国に留学して来ても良い。ビル・ゲイツのようにコンピューターに専念しても良い。あるいは高校の時から、大学並みの物理、数学を次々にマスターして、ノーベル賞クラスの科学者を志しても良い。
 中には、過剰期待の圧力で挫折する人もあろう。それを含めてドロップアウトはせいぜい一、二%である。九割はすぐれた良き社会人になろう。そして残り一割の中から、自由闊達に自らの才能を伸ばす、真にオリジナルな人が生まれる。こうして一割の珠玉を創り出すのがエリート教育である。このような珠玉のような人々が出て来れば、日本は二十一世紀を生き延びて行く活力を得られよう。

 日本社会の原点に
 考えて見れば簡単な事である。一貫教育、それも中、高だけでは、大学受験で中断されるので、高校、大学の一貫教育をすれば良いのである。来年からの大学制度の民営化が良いチャンスである。そうなると伝統が生きて来る。京大、東北大の予科はおのずから旧制三高、二高の復活となろう。
 もう一つ大事な事があるとすればそれはエリート意識、つまり旧制高校生と同じ自負と矜持を持たせる事である。
 最近は、教育問題というと、青少年の犯罪や、髪を染めて原宿あたりで無為に過ごす若者の事が論じられる。しかしそういう若者はどの時代でもどの社会でも必ずいる。今に限ったことではない。要は、そんな連中に対して昂然と胸を張って、一高の寮歌「ああ玉杯に」の通り「治安の夢に耽りたる、栄華の巷を低く見る」気概を持つ若者が一方に伝われば日本は大丈夫なのである。
 もう最近はエリートと聞くだけで反発する風潮も薄らいでいるが、付言すれば、高校受験までは機会は全く平等である。戦前の日本もそうだった。小学校に秀才が居れば、いかに貧窮の子でも、高等教育を受けられるよう周囲がはげまし、援助した。そして将来の日本の社会をになう人間となるよう育てたのである。もう一度、昔からの日本の社会の原点に戻れば良いだけの話である。

プロフィール
岡崎久彦氏=1930年、中国大連生まれ。東大法学部中退、外務省入省。駐米公使、駐サウジアラビア、駐タイ大使などを歴任。岡崎研究所所長。

〈1999年11月22日(月)読売新聞「地球を読む」
元駐タイ大使 岡崎久彦〉