シンポジウム「アジアの価値観と民主主義」

平成30年7月5日
挨拶する安倍総理 挨拶する安倍総理
挨拶する安倍総理

 平成30年7月5日、安倍総理は、都内で開催されたシンポジウム「アジアの価値観と民主主義」に出席しました。

 安倍総理は、挨拶で次のように述べました。

「アジアの価値観と民主主義セミナーの閉会に当たり、一言、御挨拶を申し上げます。
 本セミナーも、今年で4回目です。皆さんと共に継続をお祝いしたいと思います。極めてユニークな議論の場です。世界的に、いや歴史的にも、本セミナーには類例が見当たりません。インドのナレンドラ・モディ首相が、4年前の秋、訪日された際、私との共同提案で始まったセミナーです。モディ首相は今回もメッセージを寄せてくださいました。セミナーの継続を喜ぶ気持ちは、モディ首相も私も同じであります。
 本セミナーを始めた動機を振り返ってみます。人類史上、最大規模の民主的選挙を定期的に実施する。結果を毎回着実に定着させる。そうやって今日に及ぶ国、それがインドです。
 私はそのことに、常々畏敬(いけい)の思いを抱いてまいりました。それでいてモディ首相は民主主義とはおいそれとは育たないことをわきまえておいでです。その点の認識も私は同じでありました。
 民主主義とは、成長するのに何十年というよりも、何世代もかかるわけであります。
 日本にとって本年は、明治維新150周年であります。150年前、新しい国をつくるに当たって、時の天皇陛下がなされた五箇条にわたる誓いの第一項が、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」でありました。以来今日まで、私どもは、私どもの民主主義を、つくり、育て、様々な試練と直面しながら、思えば果てしのない歩みを続けてまいりました。
 民主主義とはまるで、成長するのに長い時間がかかる樹木のようなものではありませんか。伸びるには、地下深く根を張らないといけません。また、ファスト・ファッションのTシャツではありませんから、民主主義を棚から持ってくることもできません。サイズからデザインまで、誰が着てもそこそこ似合うという民主主義は、この世で手に入らないわけであります。全ての民主主義は、国柄に合ったテイラー・メイドでないと根付きません。また根付くには、大変長い時間がかかります。それでも、究極において民主主義に代わる制度は存在しない。
 それならば、アジアの各方面から少なくとも年に一度、それぞれが考え、あるいは悩む、民主主義の育て方について、知見と経験を持ち寄る場があるといいのではないか。本セミナーの着想は、そこから生まれました。西洋渡来の外来種でない民主主義。翻訳ではなく、土着の言葉と思想で語られる民主主義。それはどんなものか。議論を続けていきましょうというわけでありました。
 私たち自身の民主主義をどう育てるか。そのための課題は、国によって時代によっていろいろです。
 一つ、いつ、いかなる場合にも確かなことは、民主主義の土台は、人の心に育つことです。
 今、民主化を進めるミャンマーで、小学校教科書の全面改訂が進んでいます。子供たちの心に、早いうちから自分で問いを立て解決を探る力、つまり、考える力を養いたいと、ミャンマー政府の方々はお考えになった。これを私は、民主主義を育て、良いものにする努力を担う、未来の人材づくりに等しい事業だと受け止めました。そのように考えて、厳粛な思いになりました。教科書全面改訂の仕事に、日本のJICA(ジャイカ)を通じて、日本の専門家が何人もヤンゴンへ行っているからです。何年もかけてミャンマーの教育者たちと一緒に働いているからであります。
 明治150年、日本は、アジアの国づくり、民主主義の土台づくりのお手伝いができている。これを知ったなら、明治の世を開いた泉下の先人たちも、さぞ、報われる思いを抱くことでしょう。日本がこれからもそんな信頼を得られる国であるように、努力を続けていきたいと思います。
 本日ここには、前田専學(せんがく)教授を始め、東方研究所から、専門家の方々が参加されています。私は、故・中村元(はじめ)先生のお仕事が、先生自ら始められた東方研究所、東方学院を通じ、新たな世代に伝えられておりますことを、誠に心強く存じます。
 なんでも中村教授は、サンスクリット語、パーリ語、チベット語、英語、ドイツ語、ギリシャ語、フランス語の全てに、通暁しておられた。お書きになった著書・論文の数は、日本語で1186点、そして英語など欧文では、300点ほどだと伺いました。判明した限りで、なのだと承知しております。驚嘆すべき業績であります。私は、このような偉大な、巨星というべき碩学(せきがく)と、せめて同時代の空気を吸うことができたことを誇りに思います。そのお仕事の中には、仏教や、インドの思想が説く慈悲について、深くお考えになったものがあります。
 慈悲には、サンスクリット語の語源として、カルナのほか、いくつもあるそうです。コンパッションなどを英語の訳として当てている。先生の説かれるところ、慈悲を尊ぶ思想の根っこには、自分と他人は違わない、同じなんだという考えがある。上下の差、優劣などは元よりない。絶対者が一人突出し、その前にあっての平等というものでもない。元々、皆が同一、平等である。そういう人間観があっての慈悲なんだと、それが、私などの理解しますところ、中村先生のお考えのようであります。
 明治維新を推し進めたのは、当時の若者です。ほとんどが侍でしたが、武士としては恵まれない、下層の出でした。あなたも私も、皆同じ、という発想を彼らなら、自然に持つことができたでしょう。それが、一人一票を原則とする議会の開設へと改革のうねりを向かわせていったと、そう思えます。貧しきを憂えず、等しからずを憂うという、近代の日本に脈々と流れてきた私どもの感情も、ここに一つの源を見出すことができるのでありましょう。
 ことほどさように、民主主義を育てる滋養も、ミネラルも、アジアの土地にいろいろと含まれていそうに思います。そこに光を当て、私たち自身の自覚を促していく本セミナーの本年の成功にお祝いを申し上げ、次回以降、議論が更に深まりますことを祈念して、私の御挨拶とさせていただきます。御清聴ありがとうございました。」

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